第四節 追悔と浄化 第一項 子どもらしく、大人らしく
第四節 追悔と浄化
第一項 子どもらしく、大人らしく
過去に戻ってきてから、約二か月がたったが、元の時代へ戻る気配はまったくない。
長い走馬灯でなければ、事故のあと病室で目を覚まさないまま、延々と夢を見続けているのではないか――そんなことも考えた。
だが、剣道で叩かれれば痛いし、美味しいものはちゃんと美味しい。匂いも音も肌に触れる感覚も、すべて現実そのものだ。
どうしても信じることはできなかったが、もう認めざるを得ない。
おそらく、アニメで見たりSF小説で読んだりした、あの「タイムリープ」というやつなのだろう……。
ーー
実は、過去の時代に戻ってから、俺は密かにダイエットを始めている。
前世の小学生時代は、肥満児だったことで相当からかわれたり、変なあだ名をつけられたり、いじめられたりもした。だが、予備校時代に一念発起してダイエットに成功して以降は、「スマート」が売りの人生だったのだ。痩せるノウハウなら頭に入っている。今さら苦でもなんでもない。
ただ、我が家の親父が「子どものダイエットは体に良くないから絶対にまかりならん!」と訳の分からない理論を打ち立てて邪魔をしてくるのには参った。
まあ、成長期の身体を考えれば、無理なことはできない。だが、太りすぎているよりは健康的なのは間違いないはずだ。
学生時代はさっぱりモテなかった俺だが、このままいけば、今度こそモテモテの小学生になれるかもしれない。セミの鳴き声が日増しに激しくなる中、そんな淡い期待が胸の奥でふっと灯っていた。
そういえば、今になって思い返すと、剣道の道場で宮下の姿を何度か見かけた記憶がある。当時は完全にスルーしていたのだろう。俺が道場に通い始めた頃、宮下という中学一年生のお姉さんが練習に来ていた。無敵の天才剣士と噂される、あの宮下茜だ。面影からして、おそらく宮下の姉に違いない。そんな繋がりにも、今さら気づかされる。
ーー
席替えを機に、気分も新たな小学校生活が始まった。
すぐ横に宮下が座っているという事実にはいまだに心臓が慣れないが、それ以上に辛いのは日々の授業だった。
そりゃそうだ。前世で一度クリアした内容だし、一応大学まで出ているのだ。時折、教頭先生が黒板の計算や漢字を間違えたりすると、指摘すべきか否か、なかなかに胃が痛くなる。
そのせいか、最近では同級生たちが俺の席に勉強を聞きに来るようになった。前の人生では天地がひっくり返ってもなかったシチュエーションに、少し戸惑っている。
ーー
七月十八日、水曜日。
ムッとする熱気がこもる六時間目の終わりを告げるチャイムが鳴り、終わりの挨拶のあと、教頭先生が俺の席の横にきて声をかけてきた。
「松野くん、放課後、ちょっと職員室に来なさい」
(——あれ? 俺、何かやらかしたか?)
大人の精神を持っていても、小学生の肉体で言われる「職員室呼び出し」の破壊力は凄まじかった。
ーー
放課後の静まり返った職員室の前に立つと、悪いことをしていなくてもなぜか縮こまってしまう。
コンコン、とドアを叩き、ガチャリと開けた。
「失礼します。五年三組の松野です。教頭先生から来るように言われました」
「おお、松野くん。こっちや」
教頭先生に促され、隣の児童指導室に通された瞬間、(——これはいよいよ、親が呼び出されるヘビーなパターンか?)と身構えた。
教頭先生が、白髪交じりの眉をひそめて覗き込むように俺を見る。
「松野くん、五年生になってから、学校はどうや?」
「はい、楽しくやってます」
「それはええな」
教頭先生は一度頷き、腕を組んだ。
「松野くんはな、私の目から見ても、とても大人びててな。成績もほぼ満点。授業で質問しても満点回答や。雨宮先生がお休みやから私が担当してるけどな、四年生の時の担任に聞いたら、『元々ちょっと大人びてるけど、異常ってほどじゃなかった』って言うてたわ。……なんか、心境に変化でもあったんかな?」
心臓がドクリと跳ねた。鋭い。さすがは戦中を生き抜いてきたベテラン教師だ。
俺は慎重に言葉を選んだ。
「そうですね。心境の変化というより、考え方を変えたというか……。時と場合によりますが、あまり物事に拘りすぎないようにしよう、と」
前の人生でも、くだらないプライドや拘りのせいで失敗したことが山ほどある。それが本音だった。
「そうか。なるほどなぁ。本人が前向きなら、ほならええんや」
「あの、カンニングなんかしてませんよ」
俺があわてて付け足すと、教頭先生は破顔した。
「そやな、それは分かっとる。せやけどな……」
教頭先生はふっと表情を和らげ、静かに言った。
「子どものうちは、子どもらしゅうしとった方が得やで」
「え?」
「大人になったらな、嫌でも大人にならなあかんからな。今しかできんことを、存分にやりなさい」
「……はい。気をつけます」
胸の奥が、じんわりと温かくなるのを感じた。
「よし、それで本題に入るけどな……」
(まだ本題じゃなかったんか。結構緊張したのに。)
教頭先生は少し声を落とし、真剣な目になった。
「雨宮先生のことや。本来、児童に言うことちゃうけどな……PTAから色々言われててな。まだ休みに入って一か月半ほどしか経ってへんのにな、『九月の新学期に間に合わへんのやったら担任を代えるか、代行でも教頭やのうて専属の先生をつけてほしい』と、そういう要望が来とる。学校として、PTAの意見は無視できひん」
深く息をつき、教頭先生は続けた。
「結論から言うと、雨宮先生の復帰にはまだ時間がかかるらしい。せやから、二学期から担任を代える。いうのが市の教育委員会の判断や」
「雨宮先生は、エエ先生や。それはクラス全員が知っとる」
「学校としてはな、復帰したらまた続けてほしい。せやから私が代わりに授業して時間を稼いでたんやけどな……まあ、しゃーない」
そこで教頭先生は、俺の目をまっすぐに見据えた。
「それでな、松野くんに頼みたいことがある。クラスを代表して、雨宮先生のお見舞いに行ってほしいんや。女子児童一名と一緒にな」
「クラスの代表でしたら、学級委員の坂下くんがいいんじゃないですか? あいつ、熱い奴ですし」
「坂下くんでもええんやけどな……雨宮先生な、新学期早々に君に手を上げてしもた件を、ずっと気にしてるみたいなんや」
——ん?
そんなことあったっけ?
ああ、新学期早々にやらかしたあの件か。
「俺、全然気にしてないですよ」
「それでも、行ったってほしいんや。まあ、大人のケジメやな。雨宮先生の心残りも解消したらんと、先生も今の状況から『卒業』でけへんからな」
教頭先生の、同僚を想う優しさが伝わってきた。
「……わかりました」
「そうか、良かったわ。ほな、みんなに手紙書いてもろて、それを持って行ってくれへんか」
ーー
翌日の朝の学活。教壇に立った教頭先生が、いつもより厳粛な声で切り出した。
教頭「みんな、よく聞いてほしい。雨宮先生な、病気が治るまでまだ時間がかかるらしいんや。もうすぐ夏休みやけど、その前に、みんなで雨宮先生への手紙を書いてほしいんや。ほんま一言でもええから、明日の朝、提出してな」
ざわ……っと、教室内が不安そうに揺れた。
教頭「でな、クラスから代表して、松野くんと女子一名で病院へお見舞いに行ってもらう。夏休みに入るし、女子で誰か行きたい人おるか?」
すかさず、一人の児童が手を挙げた。
女子児童A「クラス代表やったら坂下くんやないんですか? あと女子やったら、女子の学級委員の徳永さんがいるやないですか?」
教頭「そうやねんけどな……松野くんが行くのは、雨宮先生からの強い希望なんや」
女子児童A「……」
教室が妙な沈黙に包まれた、その瞬間だった。
隣の席から、スッと綺麗な手が挙がった。
「私が女子代表で行ってもいいですか?」
宮下だった。
えっ、という驚きの空気がクラス中に広がる。すかさず、後ろの席から野次が飛んだ。
「ヒューヒュー! 宮下、松野のこと好きなんやろー!」
「コラ! 冷やかすな言うてるやろ!」
教頭先生がすかさず一喝する。
(まだ『冷やすな』とは言ってなかった気がするが、そこはご愛嬌だ)
「他におらへんか? 一応、強制で行くもんちゃうからな」
教頭先生がクラスを見回すが、誰も手を挙げない。
「ほな、宮下さん、行ってくれるか?」
「はい!」
「よし、この話はこれで終わり。もしこれ以上、松野くんと宮下さんを冷やかす奴がおったら、先生が絶対に承知せえへんからな。ほな、一時限目の国語始めるで」
教頭先生、強烈だった。現役時代のシンザン(※昭和の伝説の五冠馬)を彷彿とさせる、凄まじい威圧感と迫力だ。
それにしても……とんでもないことになった。
チラリと隣を見ると、宮下は少し顔を赤くしながらも、前を向いて教科書を開いていた。
大人の俺の心臓が、またうるさく鐘を鳴らし始めていた。




