第三節 分岐点
第三節 分岐点
窓を開け放した教室の天井で、数台の扇風機がぬるい風をかき回している。
月が変わり、七月。いよいよ本格的な夏を前にして、恒例の班替えと席替えの時期がやってきた。
これは、誰もがそわそわと心を弾ませる一大イベントだった。
班は七人×六班。
まず男女三名ずつ、計六人の班長をクラス投票で決める。
副班長は、男子班長なら女子を、女子班長なら男子を指名する。
班長がじゃんけんで順番を決め、まずは副班長、そして班員と、それぞれ男女交互に指名していく。
いわゆるプロ野球のドラフト制の真似事だ。
合理的ではあるが、人気のない者にとっては、自分の「クラス内のカースト」を突きつけられる残酷なイベントでもあった。
だが、俺は落ち着いていた。このとき——ある女子の班長から、副班長に指名されることをあらかじめ知っていたからだ。三十五年以上も前のことをよく覚えているものだと、自分でも感心する。
副班長が決まり、いよいよ班員の指名が始まった。
その瞬間、俺の脳裏にチクリとした苦い思い出が蘇った。
前の人生のこの時、班長に「誰にする?」と意見を求められた俺は、躊躇してしまい——あの子を選ばなかったのだ。
次の順番で選べばいい、そう高を括っていたら、時すでに遅し。別の班に指名されてしまった。
あの時の後悔の痛みが、今でも体を少し痺れさせる。
そして、今回。
班長に「誰にする?」と聞かれた瞬間。
俺は迷わず、あの子を指名するよう進言した。
かつて、俺があの子を選べなかった理由は、大人の今ならよく分かる。
他の男子から冷やかされそうで嫌だったのだ。自分の気持ちが露呈するのが恥ずかしく、何より、俺を副班長に選んでくれた班長に対して、どこか気まずさを感じていた。
——だから、逃げた。
前の人生でも、そしてこの世界に戻ってからの数か月。
社会科見学も、春の遠足の奈良も、写生会の時季和城跡公園も、林間学舎の高野山も、そしてあのほろ苦い文化祭も。俺はいつも、あの子を遠くから「見ているだけ」の存在だった。手を伸ばす勇気なんて、一度も持てなかった。
けれど今、俺は初めて、知っているはずの過去のレールから外れた。
この選択が何を変えるのか。それとも、何も変えられないのか。まだ分からない。
ただひとつ言えるのは——もう、俺の知る過去ではなくなるかもしれない、ということだ。
俺にとって、前の人生――四十五歳まで生きていたあの人生は、いわば前世だったと言ってもいいだろう。
ーー
無事に班員が決まった。これから三か月は、このメンツで活動することになる。
ちょっぴり照れくさく、胸の暗がりにぽっと灯りが差すような、そんな温かい気持ちになった。
しかも、この三か月は他の季節とは一線を画している。
——そう、夏休みが控えているのだ。
夏休みの宿題。各班で取り組む自由研究。
(他の男子からの冷やかし? そんなもの、四十五年も生きてきた大人の俺には一ミリも効かん)
あの子の名前は、『宮下白百合』。
クラスでは文句なしにかわいい方だと思う。いや、無論、俺の中ではダントツの一番だ。
頭もそこそこ良く、足も速い。運動会でも男子顔負けの快足で、よく目立っていた。……まあ、俺が四六時中注目していたから、余計に輝いて見えたのかもしれないが、それはそれだ。
俺が通っていた桜橋小学校は児童数一千名を超えるマンモス校で、一学年二百名強、五クラスに分かれていた。クラス替えは二年に一度。
俺は四年生の頃から、彼女のことを知っていた。
廊下ですれ違った瞬間の、一目惚れだった。
たまたま目ざとい同級生が「学年かわいこちゃんランキング」みたいなくだらない企画をしていて、各クラスの美少女をわざわざ教えてくれた時に、初めて名前を知ったのだ。
そして五年生の始業式。
教室の前に張り出されたクラス名簿の中に、彼女の名前を見つけた瞬間、心臓が爆発するかと思うほど跳ねた。あの時の高揚感は、今でもはっきり覚えている。
ーー
班替えのあとは、各班ごとに「教室のどの一角を陣取るか」という縄張りバトルが始まる。
最終的にはくじ引きで決まるのだが、教室は前後×窓側・中央・廊下側の六つのエリアに分けられていた。
一番人気は、もちろん先生から最も遠く、外の景色が見える「窓側の後ろ」。
次に後ろの廊下側、そして後ろの中央。教壇の真ん前のエリアに決まった班は、くじを引いた班長が班員から凄まじい恨みを買うことになる。
ここでも俺は余裕だった。結末を知っているからだ。
だが、いつもは強気なはずの俺たちの班長が、なぜかくじを前にして尻込みしている。
「さゆちゃん、代わりにお願い……っ」
宮下白百合は、親しい女子から“さゆちゃん”と呼ばれていた。
嫌な予感がしたが、ここで口を挟むのも男として無粋かと思い、黙って見守ることにした。
しかし、嫌な予感は見事に的中した。——教壇の真ん前。
席が決まった瞬間、宮下と班長は、お互いに「ごめんね……」「ううん、私のせいで……」と言い合い、なんとその場でシクシクと泣き始めてしまった。女の子の涙に、他の班員は気まずくて誰も何も言えない。
そして運命のいたずらか、俺と宮下は、ぴったり隣同士の席になってしまった。
……やばい。
今まで、前世も含めて一言二言の事務的な会話しかしたことがない。これは大人の俺でもさすがに緊張する。
緊張? いやいや、何を言っているんだ。前世では、ガールズバーで百戦錬磨のプロの女性スタッフを相手にトークを鍛え上げてきた男だぞ。小学生相手に緊張なんて——そう自分に言い聞かせた、その瞬間だった。
班内の簡単な自己紹介が終わり、席についた宮下が、くるりとこちらを振り向いた。
窓の外から、ジリジリと遠い蝉の声が聞こえる。
「松野くん、よろしくね」
ひまわりが咲いたような笑顔だった。
「あ、ううん……」
脳のキャパシティが一瞬で限界を迎え、情けないほど言葉にならない返事しか、俺の口からは出てこなかった。




