第二項 カレーの匂いと柔らかい沈黙
第二項 カレーの匂いと柔らかい沈黙
夏休み三日目。
今回の自由研究検討会の集合場所は、桜橋公民館だった。
当日、こういうときに限って、決まって遅れてくる常習犯がいる。
男子班員Aが来ないのだ。十分が過ぎ、十五分が過ぎても一向に現れる気配がない。
みんなは痺れを切らし、遅れてきたAを案内するため、斉藤班長の家を知っている女子班員Bを公民館に残し、一足先に斉藤班長宅へ移動することにした。
斉藤班長はカンカンに怒っていた。
すぐに班員Aの家に電話を入れると、彼の母親が出て、「他の友達とサイクルセンターへ遊びに行って、夕方まで帰らない」とのことだった。電話口で母親は大層謝っていたらしいが、斉藤班長の怒りは収まらない。
(——まあ、そら怒るわな。今日は遅刻どころかすっぽかしやからな)
“お気の毒に”と思いつつも、仕方なく残りのメンバーで検討会を開始した。
しかし、十二時まで熱心に話し合っても結局、アイデアはまとまらず、「三日後、各自二案以上を持ち寄って再検討」ということになってしまった。
次回は最初から斉藤班長の家に集合することになった。時間は午後一時。
こういう宿題の集まりは色々と大変だが、今回の最大の被害者は、間違いなく斉藤班長の家の親御さんである。
ただ子供が集まればいいというものではなく、招き入れる側の親は、ジュースにお菓子にと“接待”を強いられるのだ。本当に頭が下がる。
ーー
斉藤班長の家での検討会が解散となり、俺は帰り道をトボトボと歩いていた。
十二時まで話し合ってもまとまらずに明後日へ持ち越し。まあ、子どもの世界ではよくあることだ。
帰路につきながら、そんなことを考えていると、後ろから控えめな声がした。
「松野くん」
振り返ると、宮下が立っていた。
昨日、市民公園で少し気まずい別れ方をしたはずなのに、俺を見る彼女の表情はどこか柔らかかった。
「今から……うちに来ない?」
一瞬、胸がざわついた。
(——昨日のこと、怒ってないんやろか)
でも、宮下の顔は「昨日のことはもうええよ」と言っているように見えた。
子どもの一日は長い。その分、気持ちの切り替えも早い。
「うん、行くわ」
そう答えると、宮下はホッとしたように小さく微笑んだ。
そして、その“長い一日”の続きを、俺は宮下と過ごそうとしていた。
ーー
二人で歩く道は、昨日よりもずっと穏やかだった。
「のんちゃん、めっちゃ怒ってたね」
「そら怒るやろ。Aのやつ、サイクルセンター行ってたって言うし」
「ほんとに、あの子は自由やなあ」
そんな他愛のない会話が続く。昨日のあの息が詰まるような沈黙は、もうどこにもなかった。
宮下は時々、ちらちらと俺の顔を見ては、何か言いたげに口を開きかけては閉じる。その仕草が、なんだか昨日よりも心理的に近く感じられた。
ーー
「ただいまー」
宮下が玄関の扉を開けると、三日前と同じ、柔軟剤と夕飯の下ごしらえの匂いが漂ってきた。
奥から宮下の母親が顔を出す。
白百合の母「あら、慶ちゃん。また来てくれたん?」
松野「おじゃまします」
白百合の母「ゆっくりしていってや〜」
その飾らない言葉に、なぜか胸の奥がじんわりと温かくなった。
宮下は俺をリビングに案内し、俺たちはテーブルを挟んで向かい合って座った。
ーー
「あのね、松野くん」
宮下がぽつりと言った。
「昨日のこと……ごめんね」
「え?」
「なんか、変なこと聞いてしまって」
「いや、俺こそ……変な答え方してしもて、悪かった」
二人の間に、昨日とは違う、とても柔らかい沈黙が落ちた。
宮下は、そっと視線をテーブルに落としながら言った。
「万博公園のチケット……ほんとに、一緒に行ってくれる?」
「もちろん」
今度は、何一つ誤魔化さずにまっすぐ言えた。
すると宮下は、ぱっと花が咲いたように嬉しそうに笑った。
子どもの一日は長い。そして、この夏はもっと長くなりそうだった。
ーー
白百合の母「お昼まだやろ、食べて行って! 慶ちゃん家には、こっち来たよって電話しといたからね」
(あっ……やっぱり母親同士、裏で繋がってるんや。怖っ!)
「あっ、はい。ありがとうございます」
白百合の母「はいどうぞ、昨日の残りやけどな」
テーブルに出されたのは、大きな皿に盛られたカレーだった。
「「いただきます」」
(カレーか……家によって全然味が違うもんやね)
二人で黙々とスプーンを動かす。けれど、その沈黙は決して気まずいものではなく、どこか“家族の食卓”みたいな不思議な温かさがあった。
「「ごちそうさまでした」」
「ねえ、松野くん……私の部屋に来ない?」
「あっ、うん。ええよ」
(宮下のお母さんの顔をちらっと見ると、お母さんはニコッと微笑んでいた。……なんか、正式に許可をもらった気分や)
ーー
宮下の部屋は、とても整頓が行き届いた、清潔感のある空間だった。
もっとフリルやぬいぐるみだらけの“女の子っぽい部屋”を想像していたが、意外なほどシンプルで落ち着いた雰囲気だった。
「あんまりジロジロ見んといてね、恥ずかしいから。あっ、適当に座って」
ベッドの横に長机があったので、とりあえず俺はその前に腰を下ろした。
「あのね、夏休みの宿題、分からないところがあるから……教えてくれる?」
「うん、ええよ」
(えっ……俺、まだ自分の宿題に全く手ぇつけてないのに。すごいな、宮下はもうやってるんか)
そこから約一時間。宿題の夏の友やドリルなどだけでなく、一学期の授業でよく分からなかったところまで、宮下はいろいろと質問してきた。
その質問の仕方が、なんというか——「松野くんを頼りにしてる」というオーラがひしひしと伝わってきて、大人の俺の胸は少しだけくすぐったかった。
宿題を一通り見終わったころ、白百合は鉛筆を指先でくるくる回しながら、ちらっと俺の顔を覗き込んできた。
「ねえ、松野くん」
「ん?」
「なんでそんなに分かるん?」
その言い方は、疑うでも責めるでもなく、ただ純粋な「知りたい」という気持ちがにじんでいた。
「え?」
「だって……私、今日、いろいろ聞いたけど、松野くん全部すぐ答えてくれるやん。なんでそんなに分かるん?」
俺は一瞬、言葉に詰まった。
(そら……大人の人生を、一回やり直してるからや)
そんなこと、口が裂けても言えるわけがない。
「えーと……なんとなく、やな」
自分でも、めちゃくちゃ苦しい答えやなと思った。
宮下は、少しだけ首をかしげた。
「ふーん……なんとなく、かあ」
でも、それ以上は深く追及してこなかった。代わりに、机の上のノートを指さして言った。
「じゃあさ、ここも“なんとなく”で教えて?」
その言い方がなんだか可笑しくて、俺たちは思わず顔を見合わせて笑ってしまった。
「はいはい、なんとなくな」
その笑顔を見た瞬間、昨日のすれ違いの棘なんて、もう俺たちのどこにも残っていなかった。




