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交差 ―あの夏の日の誓い―  作者: 結城 輝


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第五項 二冊のアルバムと、今日から“慶ちゃん”

  第五項 二冊のアルバムと、今日から“慶ちゃん”



お姉ちゃんへのお供え物に静かに手を合わせたあと、俺たちは二階の俺の部屋へと移動し、机に向かっていつものように勉強を始めた。


……と言っても、今日はお互い、頭の片隅に別の目的がある。


「ねえ、松野くん、昨日言ってたアルバム、ちゃんと持ってきたよ」


しばらくしてキリのいいところで筆記用具を置くと、宮下がカバンから一冊の冊子を取り出した。


――桜橋幼稚園の卒園アルバムだ。


「おお、ほんまに持ってきてくれたんや」


「うん。見たいって言ってたでしょ」


机の上に二冊のアルバムが並ぶ。桜橋カトリック幼稚園と、桜橋幼稚園。


同じ小学校に通っているのに、それぞれの“出発点”が全く違っていた二つの世界が、今こうして隣り合っている。


「ほら、見て。これが私。なんか、今より全然髪短いよね」


宮下がページを開いて指をさす。そこには、ショートカットで今よりも少し丸っこい、幼い彼女が写っていた。


「おお……かわ……いや、幼いな」


「あ、今『可愛い』って言いかけたやろ」


「言うてへんし。気のせいや」


宮下はくすくすと嬉しそうに笑って、次のページをめくる。


「こっちは、のんちゃん。あっ、斉藤さんね。昔から何か今と変わらん感じで、しっかりした感じでしょ?」


「あ、ほんまや。……お、坂下と徳永さんもおるやん。あ、Aもおる。みんななんとなく面影あるなぁ」


ページをめくるたびに、俺の知らない「桜橋幼稚園」ののどかな空気がふわっと部屋の中に広がる。自分が経験していない彼女の過去の世界を覗き見しているような、不思議な高揚感があった。


「今度は松野くんの幼稚園のやつ、もう一回見せて」


「ええよ。ほら、これ」


今度は俺のアルバムを二人で覗き込む。

自然とお互いの頭が近づき、肩が触れ合いそうな距離になる。けれど、そんな緊張すら忘れるくらいに、ページをめくる手が止まらなかった。


「これ誰?」「あ、この子知ってる、別のクラスの子や」「この人、昔からこんな顔してたんやな」

そんな他愛のない会話が次から次へと溢れ出す。


「なんか、ほんまに不思議やね。同じ小学校で毎日会ってるのに、それより前は全然違う世界から来たみたい」


「ほんまやな。出会う前にも、それぞれの時間があったんやもんな」


そんな風に感傷に浸りながらアルバムを閉じた、その時だった。宮下がふと上目遣いでこちらを見上げてきた。


「なあ、松野くん。……普通の、プライベートの家族アルバムとかって見してくれへん?」


「え? 家族アルバム? うん、まあ、別に構へんけど……。よし、思い出だけに“重いで”!」


自信満々に、会心のオヤジギャグを放ってみる。


「……うん。どこにあるん?」


(あ、スルーされた。中身おっさん渾身のジョークやったのに、完全にスルーか。悲しいわ)


俺が苦笑しながらクローゼットから引っ張り出してきた分厚いアルバムを、宮下は目を輝かせながら受け取り、ページを丁寧に追っていった。


「わあ、これ松野くんの赤ちゃんの時の写真? ちっちゃい! 可愛いなぁ。……あ、こっちはお兄さん? お父さんかな。……へぇ、若い時のお母さん、ムチャクチャ綺麗やね! これ、すっぴんよね? お父さん、制服着てる。昔、警察官でもしてたの?」


(よく人の家のアルバムでそこまでテンション上げられるな……。やっぱり女子はこういうの好きなんやろか)


「親父な、昔少しだけ自衛官やってたらしいわ。俺もあんまり詳しいことは聞いてへんから知らんねんけど。……ん? 親父の若い頃の写真なんか混ざってた? ほんまお袋、適当やなあ」


「へぇ〜、でもお母さんの写真、すっごい多いね。今も美人だけど、若い時なんかアイドルみたいやん。……あれ? でも、この慶ちゃ……松野くんの服、なんか女の子みたいやない?」


(……ん? 今、一瞬『慶ちゃん』って言いかけんかったか?)


引っかかりを覚えつつも、俺は話を合わせた。


「ああ、それな。ずいぶん昔に、お袋に聞いたことあるんやけど、やっぱり女の子が欲しかったみたいでな。二つ上の姉がああいうことになったから、その反動っていうか……。小さい頃は女の子の服とか、可愛いやつばっかり着せてた時期があったらしいわ」


「やっぱり、そうなんや……」


宮下は、さっきキッチンで手を合わせたお姉ちゃんのことを思い出したのか、優しく納得したように微笑んだ。


そして、名残惜しそうにアルバムを閉じると、少し照れたように切り出してきた。


「それでな、この前言ってた万博公園、いつ行く? 私のお母さんが『夏に行く万博はいいよ』って言ってたし、すっごい広いから、ただ歩き回るだけでも楽しそう」


「そやな。ええやん、いつでもええで」


「ほんまに? じゃあ、八月に入ったらすぐにでも行きたいな。……お弁当とか、私が作って持ってね」


「お、弁当。ええやん。それならもう今から日にち決めよ。じゃ、明後日の八月三日にする?」


その提案に、宮下はぱっと顔を明るく輝かせた。


「うん! 八月三日ね!」


その満面の笑顔は、過去のアルバムを見ていた時よりも、ずっと瑞々しく“今、ここにある未来”を見つめている顔だった。


ーー


楽しい空気のまま、俺はふと、前日からの疑問をぶつけてみることにした。


「そういえば、ちょっと気になってたんやけどな。昨日、俺が道場で剣道やってるのを見て『かっこええな』って思ったって言ってたやん。あれ、いつの時の話? 俺、宮下が道場に見学に来てたなんて、今まで一度も聞いたことなかったんやけど」


「あれ? ……そうやったっけ?」


質問した瞬間、宮下の綺麗な目が、ほんの少しだけ泳いだ。


「ほら、私、お姉ちゃんの練習のお迎えとかで結構、道場に行ってたからね……。その時に、たまたま見かけたんよ」


(んー……。なんか違和感があるな。まあ、俺も前世で確かに宮下さんを見た気はするけど)


言っている内容自体はごく自然なのだが、一瞬だけ、本当に一瞬だけ、何かを隠すような微妙な間があったのだ。


「あ、そうや! 今日も夕方から道場の練習あるんでしょ? 私も一緒に行っていい? 松野くんの練習、ちゃんと見たい!」


「え? うん、まあええよ。……お姉さんは一緒じゃなくてええの?」


「お姉ちゃん、今日は行かへんみたい。学校のほうの大きな試合が明日あるから、今日は体調を整えるために家で休むんやって」


「あ、なるほど。そういうことか」


「だから、今日は松野くんと二人で行く。松野くんの稽古、ちゃんと見たいから」


(……『ちゃんと』って、なんや? 昨日よりも、なんかグイグイ来るというか積極的やな)


宮下はそう言い切ると、少しだけ恥ずかしくなったのか、ぷいと照れたように視線をそらした。


ーー


「あっ、そうだ! 私も、自分の普通のプライベートアルバム持ってきたんだった。見る?」


「え、見る見る。見たい」


(いやいや、そこで『見ない』なんていう選択肢、あるわけないやろ。全力で見せていただきます)


俺の食いつきっぷりに、宮下はニヤッと企むような笑みを浮かべ、ゆっくりとページをめくり始めた。


(ん? なんか、妙に含みのある顔をしてるな……?)


アルバムには、彼女の七五三、ひな祭り、楽しそうな家族旅行の写真。茜とどこかの広い公園で元気に走っている写真や、おままごと、近所の子(?)たちと笑っている写真が並んでいた。


(……ん? なんやこの違和感は?)


ページをめくっていくと、宮下の家を新築した時の記念写真らしきものや、その新しい家の中で行われた誕生会の写真が出てきた。


その、誕生会の写真。


主役の宮下の隣にちょこんと座って、一緒にお菓子を食べている男の子の姿があった。


(……え? これ、俺やん!  ……いや、まさか。ただの他人の空似か……?)


「これはね、どこどこの旅行の時の写真で……」と他の写真の説明はしてくれるのだが、なぜかその男の子が写っている写真だけは完全にスルーして、次のページにいこうとする。


(いやいや、そこは触れへんの!? どう見ても俺にしか見えへんのやけど!)


「どうやった? 私のお姉ちゃん、ちっちゃい頃からムチャクチャ可愛いでしょ?」


宮下がニヤニヤしながら、探るような目でこちらを見てくる。


(これは……試されてるな。お姉さんを褒めた方がいいのか、それとも男の子にツッコむべきか。正解が分からん。もう、どうにでもなれ!)


「……なぁ、この隣に写ってる男の子は誰なん?」


「ん? ああ、昔の近所の子だって!」


(そう来るか! とぼけおって。じゃあ、前に俺が夢で見たあの古い記憶みたいなやつは、本当に昔の実際の記憶やったんか? それともタイムリープの影響か……? よし、こっちも大人の対応で合わせたろ)


「ふーん。宮下のお母さんも昔から綺麗だね。お姉さんはやっぱりお母さん似やなぁ」


「うん。私はお父さん似ってよく周りから言われる」


(なんか、上手いこと話をはぐらかせて勝ち誇ったような顔をしてるな。はいはい、俺の負けですよ)


降参した俺は、その写真を指さしてストレートに聞いた。


「……これ、やっぱり俺だよね?」


すると、宮下は悪戯が成功した子どものようにニコッと微笑んで、小さくコクリと頷いた。


(……マジか。なんで俺、こんな大事なこと今の今まで完全に忘れてたんやろ)


「宮下は……これ、ずっと覚えてたの?」


「んーん。私も全然記憶にはなかってん。たまたま、お母さんにアルバム見せてもらった時に聞いたの」


「あ、だから宮下のお母さん、初めて会った時からなんとなく俺のことを知ってる風な感じやったんか……。合点がいったわ。で、宮下自身はいつその事実を知ったん?」


「結構最近だよ。四年生の秋に、お母さんと一緒にお姉ちゃんを迎えに道場へ行った時、男の子たちが剣道の稽古をしてるのを見てて……。そしたらお母さんが『あ、慶ちゃん剣道始めたんやねぇ』って呟いたの。それで私が『えっ、慶ちゃんって誰?』ってなって、お家帰ってからアルバムを見せてもらったの」


「そうやったんや……」


宮下はアルバムをパタンと閉じながら、どこか嬉しそうに、でも少しだけ照れくさそうに笑った。


(……なるほどな。なんか、今までバラバラやったパズルのピースが、全部一気に繋がってきた気がするわ)


ーー


「それでね……。松野くんのこと、私もこれから“慶ちゃん”って呼んでいい?」


「えっ?」

唐突な提案に、思わず間抜けな声が出た。


「だって、松野くんのお母さんも、うちのお母さんも、みんな“慶ちゃん”って言ってるやん? 学校みたいに『松野くん』って呼ぶの、なんかややこしいし」


「いや、別に俺はかめへんけど……。学校の同級生とかに聞かれたら、絶対冷やかされるで? ええの?」


「そんなん、言いたい人には勝手に言わせておけばいいやん」


(メンタル強いな、この子……)


「だから、慶ちゃんも、私のこと『宮下さん』じゃなくて“白百合”って呼んでいいよ。うちに来た時、慶ちゃん、いつも『宮下さん』ってどこか言いづらそうに遠慮して呼んでるでしょ」


「まあ……それは、確かに。……じゃあ、二人の時だけなら、な」


「うん! じゃあ決まり。じゃ、今からね!」


「うっ……。そ、そこは徐々に、ということで……」


「……ケチ」


白百合は蚊の鳴くような小さな声で、ぷくっと頬を膨らませた。


(聞こえてるし。……でも、なんか、そう呼ばれるの地味に嬉しいし。いや、中身おっさんの俺が小学生の女の子相手に嬉しいとか言うのも変な感じやし……。なんやねん、このむずがゆい感情は)


白百合は不満そうな顔をしつつも、その目は優しく笑っていた。


ーー


勉強時間を終え、白百合はカバンの肩紐をぎゅっと持ち直して、玄関の段差にちょこんと立った。


「じゃあ、慶ちゃん。また夕方にお迎えに来るね」


「うん。待ってるわ」


「慶ちゃんのお母さん、今日はお邪魔しました!」


奥に向かって大声で挨拶すると、お袋が顔を出した。


慶次の母「あら、さゆちゃん、お昼食べていけばええのに。用意するよ?」


「ありがとうございます! でも、うちのお母さんが今日はお昼を作って待ってくれてるらしいので……。今度また、ぜひお呼ばれさせてください!」


慶次の母「そう、残念。ほな、また夕方においでね。気ぃつけて帰りや」


(あっ! お袋、白百合が剣道見に来るの聞いてたな)


「はーい!」


白百合はスニーカーを履きながら、ちらっと俺の方を盗み見るように見上げてきた。


「慶ちゃん、とりあえず、バイバイ」


「うん、バイバイ。また後で」


白百合は軽く手を振って、玄関のドアを開けて外へと出た。


夏の眩しい光が室内に一瞬差し込んで、白百合のサラサラした髪がふわっと揺れる。


ドアの向こう側へ行く直前、白百合は一度だけ振り返った。


ほんの一瞬、まるで離れるのが名残惜しい、とでも言うような切ない表情をして。


そして、小さく息を吸い込むと、トコトコと足音を響かせて家の前の道を歩き出した。


ガチャリ、と静かにドアが閉まる。


(……これは、とんでもなく困ったことになったぞ)


白百合が去ったあとの玄関に残された空気だけが、なんか妙に温かくて、俺の胸の鼓動はしばらく静まりそうになかった。

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