第七節 剣道と姉の背中 第一項 夕暮れの道場と、黒電話の約束
第七節 剣道と姉の背中
第一項 夕暮れの道場と、黒電話の約束
昼ご飯を食べ終わって、俺が自分の部屋の畳の上にごろりと寝転がり、少し体を休めていた時のことだ。
ピンポーン!
自宅のチャイムが鳴り響いた。壁の時計に目をやると、白百合が帰宅してからまだ三十分も経っていない。
(まさか白百合?)
慌てて階段を駆け降りて玄関に向かい、ドアを開けると、そこにはやっぱり白百合が立っていた。
(……早っ! 飯食ってソッコウで戻ってきたんか)
夏の強い午後の光が背後から差し込んで、白百合のサラサラした髪がふわっと揺れる。
「慶ちゃん、来たよ!」
午前中に別れた時よりも、その声は一段と明るかった。なんだか、胸の内の嬉しさを全く隠しきれていないような、そんな弾んだトーンだ。
「は、早いな……。まだちょっとしか経ってへんで?」
「えへへ……。だって、早く来たかったんやもん」
(……素直すぎるやろ。いや、中身おっさんの俺からしたら、そんな風に真っ直ぐ来られたらめちゃくちゃ嬉しいけど……色んな意味で困るって、ほんまに)
白百合は嬉しそうにスニーカーを脱ぎながら、キッチンの奥に向かってペコリと頭を下げた。
「慶ちゃんのお母さん、また来ました! お邪魔します!」
慶次の母「あら、さゆちゃんいらっしゃい! ほんまに二人は仲が良いなぁ。ゆっくりしていってねぇ」
「はい!」
靴を揃えて上がるその一連の仕草が、午前中の緊張感よりも、どこか我が家に帰ってきたかのように自然で丁寧になっている気がする。
「じゃあ……二階、行こか」
「うん!」
二人は並んで階段を上がる。その途中で、白百合がふと足を止め、二段下の俺の方に振り返った。
「……慶ちゃん、午後もよろしくね?」
その少し甘えるような言い方が、なんだか二人だけの“特別な約束”のように聞こえてしまう。
(……ほんまに、とてつもなく困ったことになったぞ)
そうやって頭を抱えつつも、胸の奥がじんわりと温かくなっていくのを、俺はもう止めることができなかった。
階段を上がっていく白百合の足音は、午前中よりも明らかに軽やかだった。
ーー
俺の部屋に入ると、白百合はカバンを机の横にそっと置き、学習机の前にちょこんと腰掛けた。
「慶ちゃん、午後は算数からやる? それとも国語にする?」
「いや、どっちでもええけど……。さっきから、そんなに“慶ちゃん慶ちゃん”連呼せんでええって」
「えへへ、だって自分で言ってええって言うてくれたやん」
(いや、確かに言うた。言うたけど……。こうも毎秒のように自然に、しかも可愛い声で言われると、照れくさいわ)
白百合はプリントを広げながら、上目遣いでこちらの顔を覗き込んできた。
「ねえ慶ちゃん、ここ分かる? 午前中にやったところ、ちょっとだけ忘れちゃって……」
「ええよ、どこや? ここはな、まずな――」
俺がノートを指さして説明しようとすると、白百合は机に肘をついたまま、ぐっとこちらに身を乗り出してきた。
お互いの距離が、午前中よりもさらに一段と近い。彼女の甘い匂いが鼻先をかすめる。
(ちょ、近い近い近い……! いや、別に嫌なわけじゃないけど。いや、嫌どころか最高なんやけど……そういう問題ちゃうし! 集中しろ、俺!)
「……なるほどね! 慶ちゃん、やっぱり教えるのムチャクチャ上手いやん」
「そ、そうか?」
「うん。なんかね、教え方がすっごい分かりやすいし、優しい」
(優しいって……そんな風にストレートに言うか? この子、本当に無自覚な距離の詰め方が天性すぎるわ)
しばらく静かに勉強を続けていると、白百合がふと鉛筆を置いた。
「なあ、慶ちゃん」
「ん?」
「今日、慶ちゃんのお家に来て本当に良かった。なんか……すっごい楽しい」
その言い方は、ただ勉強が捗って楽しい、というだけの意味じゃないことが俺にもはっきりと分かった。
「そ、そうなんや。それなら良かったわ」
「うん。午前中も楽しかったし、一緒にアルバムも見れたし……。なにより、慶ちゃんのお家、なんかすごい落ち着くんよね」
(……あかん。そんなこと言われたら、ますますこの時間が終わってほしくなくなるやんか)
心の中でそう贅沢な悲鳴を上げながらも、胸の奥から湧き上がる幸福感を、俺はもうどうしようもなく自覚していた。
ーー
勉強がひと段落したところで時計を見ると、針はもうすぐ午後二時半を指そうとしていた。(夏休みの稽古は午後三時半から五時半だ)
「そろそろ、道場に行く準備せなあかんな」
「うん。慶ちゃん、お着替えするんやろ?」
「おぅ。道着に着替えてくるから、ちょっと部屋で待っててや」
「じゃあ、ここで待ってるね」
白百合は机の上のプリントを綺麗に揃えながら、ちらっと俺の方を見てくる。その目がなんだか、一瞬だけ離れるのを惜しんでいるかのように見えて、俺は慌てて道着を抱えて部屋を出た。階段を降りる途中、背中に彼女の視線がずっと刺さっているような気がして仕方がなかった。
(……なんか、今日の宮下……いや、白百合、距離が近すぎる。おっさん、完全に翻弄されてるやん。“慶ちゃん”呼びもあまりに自然すぎるし、午後もずっと楽しそうやったし。いや、別に嫌じゃない……嫌どころか、むしろ……)
そこまで考えて、俺はぶんぶんと首を振って自分の思考を強引に止めた。
(あかんあかん、変なこと考えるな! 相手は小学生やぞ、落ち着け俺!)
ーー
俺が紺色の剣道着と袴に身を包んで部屋に戻ると、白百合は座布団の上にちょこんと正座して待っていた。
俺の姿を見た瞬間、彼女の目がパッと輝いた。
「おお……っ! 慶ちゃん、すごくかっこいい……!」
「おい、やめろって……。恥ずかしいわ」
「だって、ほんまにそう思うんやもん」
(ストレートすぎるやろ……。本当に俺の心臓に悪いわ、この子)
白百合は立ち上がると、俺のすぐ目の前まで来て、道着の袖の生地を指先でちょんと小さくつまんだ。
「なんか……すっごい似合ってる。いつもの“松野くん”じゃなくて、ちゃんと『剣道をしてる人』って感じがするわ」
「そ、そうか?」
「うん。だから、今日ちゃんと見たいの。慶ちゃんの稽古」
その言い方が、またしても俺には特別な約束のように聞こえてしまう。
白百合は玄関でサンダルを履きながら、ちらっと俺を見上げて微笑んだ。
「慶ちゃん、行こ?」
「おう、行こか」
「……なんか、すっごい楽しみやなぁ」
「え? 俺の稽古見るのがそんなに楽しみなんか?」
「うん! 稽古を見るのもそうやけど……慶ちゃんと一緒に並んで歩いて行くのも」
(……ほんまに、今日の白百合はどうしたんや。こんなに楽しそうにされたら、こっちまで嬉しくなってまうやんか)
ーー
道場に近づくにつれて、竹刀袋を担いだ多くの門下生たちが足早に建物の方へと流れていく。
白百合は道場の入り口でぴたりと立ち止まり、中を覗き込むようにして、その大きな目をさらにまん丸にしていた。
「……うわぁ、なんか、すっごい緊張してきたわ」
(いや、緊張してるのは見られてる俺の方やし……)
俺が靴を脱いで上がると、すでに着替えを終えていた道場の子たちが、一斉にこちらに視線を向けてきた。
「え、誰あの子?」「めっちゃ可愛い子来てるで」「おい、松野の知り合いか?」
あちこちからヒソヒソ声が飛び交うのが聞こえる。(頼むからやめてくれ……!)と心の中で祈る。
白百合は少しだけ背筋を伸ばし、俺の後ろに隠れるようにしながらも、興味津々で道場内を見渡していた。
そこへ、恰幅の良い、道場の正木先生が歩み寄ってきた。
正木「お、松野。今日は珍しい友達を連れてきたんか?」
松野「え、あ、はい。同じクラスの宮下さんです。今日の稽古を見学したいって言うので……」
白百合は慌ててペコリと頭を下げた。
白百合「お、お邪魔します! 今日、見学させてもらってもいいですか?」
正木「おお、もちろんや! 松野の友達なら大歓迎やでぇ」
そう言う正木先生の目が、心なしかニヤニヤしているように見えるのは気のせいだろうか。
さらに、上級生の女子の門下生たちまで近づいてきて、白百合を見て目を輝かせた。
上級生女子「えっ、可愛い! 松野くんの妹ちゃん? それともお友達?」
白百合「と、友達です!」
(危ねぇ……。ここでうっかり『慶ちゃんの友達です』って言わんかっただけ、本当にマシやわ。心臓止まるところやった)
同級生の男子が、ニヤニヤしながら俺の肩を小突いてくる。
男子「おい松野、お前ええやんけ。めっちゃ可愛い子連れてきてからに!」
慶次「アホ、やめろって!」
白百合はその男子と俺のやり取りを見て、くすっと楽しそうに笑った。
白百合「慶ちゃん、道場でも人気者なんやねぇ」
慶次「いや、絶対に違うから……!」
白百合は道場の端の方へと移動し、板の間の上にちょこんと正座して静かに見学を始めた。
その背筋がピンと伸びた美しい正座の姿勢のせいで、周りの男の子たちもついチラチラと彼女の方を見てしまっている。
正木「ほな、松野! 今日は気合い入れていけよ? 特等席でしっかり見てる子がおるからな!」
慶次「せ、先生まで……!」
道場の端から、白百合が俺に向かって小さく手を振り、声を出さずに口の動きだけでこう言った。
『がんばって、慶ちゃん』
(……あかん。あんな顔で応援されたら、今日は絶対に手抜かれへんやん)
けれど胸の奥に湧いてきたのは、困惑よりも、むしろ妙な誇らしさだった。
ーー
しかし、そんなのんびりした空気は長くは続かなかった。
道場の奥から、防具を担いだひときわ大きな上級生の男子の声が響き渡った。
上級生男子「おい! ……あの子、もしかして宮下さんの妹ちゃうんか!?」
一瞬、その場の空気がピタッと止まった。
白百合「えっ……」
(あ……終わった。完全にバレたわ)
上級生女子「あっ! ほんまや! 言われてみれば、宮下さんの妹さんやん!」
別の男子「え、あの宮下さんの!? むちゃくちゃ強い、あの宮下さんの妹さん!?」
ざわざわざわ……と、道場内が一気に蜂の巣をつついたような騒ぎになる。
白百合は一瞬にして顔を真っ赤に染めた。
白百合「え、えっと……。は、はい……妹です……」
上級生女子「うわー、やっぱり! 雰囲気がすっごい似てるもん! お姉ちゃん、ここでもすっごい強くて優しくて、みんなの憧れなんやで!」
白百合「そ、そうなんですか……」
(いや、お姉ちゃんが強いのなんて白百合自身が一番知ってるはずやけど、周りの熱量に完全に圧倒されて照れてるのが丸わかりやな)
先生まで再び近づいてきて、にこにこしながら言った。
正木「はははは、バレてもうたな。宮下の妹さんやな。お姉ちゃんの練習の時にたまに来てたな。そら挨拶もしっかりしとるはずやわ。お姉ちゃんはホンマここで評判がいいんやで!」
(正木先生、気づいてたんや…)
白百合「……ありがとうございます」
白百合は膝の上で小さな手をぎゅっと握りしめていたが、その表情はどこか嬉しそうでもあった。
彼女は俺の方をチラッと見ると、小さな声で助けを求めるように呟いた。
白百合「……慶ちゃん、どうしよ」
(『どうしよ』って言われても、俺にもどうしようもないしな……。でも、なぜか俺がこの子を守ってやらなあかん、という強い気持ちが湧き上がってくる)
同級生の男子がすかさず囃し立ててくる。
男子「おい、松野ー! お前、あの宮下さんの妹さんとそんなに仲良かったんかー、ええなあワレ!」
慶次「ち、違うし! 普通にクラスの班が一緒なだけやって!」
その必死な俺の弁明を見て、白百合はまた、くすっと笑い、
白百合「慶ちゃん、やっぱり人気者やね」
(いや、だから絶対に違うって……。でも、不思議と悪い気はせんな)
道場の空気が心地よいざわめきに包まれたまま、ついに先生の鋭い号令が響き、本格的な稽古が開始された。
ーー
正木「——はい、始めるぞ! 準備体操から!」
パシンッ! 乾いた竹刀の音が道場中に響き渡る。
白百合は道場の端で正座したまま、背筋をぴんと伸ばして、食い入るように俺の姿を見つめていた。
(なんやろ……。さっきまで俺の部屋で『慶ちゃん』って甘えてた時の顔と、全然違うな)
始めの礼のあと、俺は面をつけ、前世の経験も総動員して、真剣そのものの表情で相手と対峙する。白百合の視線は、俺の動きの一挙手一投足を追いかけるように激しく動いていた。
上級生男子「宮下の妹さん、めっちゃ真剣に松野のこと見てるな」
上級生女子「そらそうやろ。松野くん、今日いつも以上に気合い入りまくってるもん」
(おい、やめてくれ……。面をつけてても全部聞こえてるんやからな)
白百合は、俺が激しく踏み込んで打ち合うたびに、小さく息をのんでいるようだった。
「面ーーー!」パシンッ!
「小手ーーー!」パシッ!
その鋭い打突のたびに、白百合の肩がわずかに“びく”っと揺れる。
(なんや、こんなに可愛い子に真剣に見つめられたら、逆にやりにくいって……)
そう思いつつも、モチベーションは最高潮だった。むしろ、ちょっとだけ誇らしい。
俺が上級生との激しい打ち込みを始めると、白百合の目がさらに大きく見開かれた。
白百合が声には出さず、口の動きだけで『……すごい』と呟いたのが、面の隙間からでもはっきりと見えた。
そして、俺が見事な相面から完璧な一本を決めると、白百合は道場の端で思わず小さく「よしっ」とガッツポーズをしてみせた。
(おい、見えてるぞ……。めっちゃ可愛いことしてくれるやんけ。いやいや、集中しろ俺、稽古中や!)
正木「松野! 今日は素晴らしい動きやな! やっぱり可愛い子に見られてるからか?」
どっと道場がクスクスとした笑いに包まれる。
白百合は顔を真っ赤にしながら、俺の方を見て、「てへへ」と小さく首をすくめていた。
(先生……ほんまにそれだけは勘弁してください……)
ーー
激しい稽古がすべて終わり、道場中に「礼!」の声が響き渡る。
解散となり、俺が面に付いた汗をタオルで拭いながら息を整えていると、白百合がトコトコと近づいてきた。
「……慶ちゃん」
その声は、いつもの弾むようなトーンよりも、少しだけ小さく震えていた。
「ん? どうした?」
白百合はしばらく次の言葉を探すように、胸の前で自分の指先をぎゅっと握りしめていたが、意を決したように顔を上げた。
「……すごかった」
「え?」
「ほんまに、すごかったよ。なんか……びっくりしちゃった。いつもの慶ちゃんと全然違ってて……。むちゃくちゃ、かっこよかった」
(うわ……。なんちゅうストレートな褒め方するねん)
白百合は俺の竹刀袋を見つめながら、言葉を紡いでいく。
「打つときの大きな声も、動きの速さも、全部が本物の『剣道をしてる人』って感じで……。なんか、見てて胸がすっごいドキドキした」
(ドキドキって……。いや、そんなん言われたら、俺の心臓の方が今すさまじい勢いでドキドキしとるわ!)
白百合は少し照れたように視線を落として笑う。
「お姉ちゃんの練習は何回も見に来たことあるけど……。慶ちゃんの練習を見るのは、なんか全然違う。距離が近いっていうか……。自分のよく知ってる人があんなに必死に頑張ってるのを見るのって、こんなに胸に響くんやなって思った」
「……そ、そっか。まぁ、そう言ってもらえると頑張った甲斐があったわ」
「うん! 途中で慶ちゃんが一本決めたとき、私、嬉しくて思わずガッツポーズしちゃったもん」
(あぁ、やっぱり見えてたよ。それが最高に可愛かったなんて、恥ずかしくて口が裂けても言えんけどな)
白百合はふっと目をそらすと、消え入りそうな小さな声でぽつりと言った。
「……慶ちゃんのこと、もっと、色々知りたくなった」
(……え? ちょ、待て。それって、どういう意味や? おっさんをこれ以上勘違いさせるようなセリフはアカンって……!)
俺が完全にフリーズして動揺しているのを見て、白百合はいたずらっぽく、くすっと笑った。
「ほら、早くお片付けして帰ろ? 慶ちゃん、汗すっごいことになってるし!」
「お、おう。そうやな」
白百合は先に道場の出口へと歩き出しながら、もう一度だけ振り返って言った。
「今日、本当に見に来てよかった。ほんとに」
その笑顔は、午前中にアルバムを見ていた時とも、午後に勉強をしていた時とも違う、明確な“尊敬”と、二人だけの“特別”が混ざり合った、今まで見たことのない表情だった。
ーー
道場を出ると、夕方の涼しい風が、汗ばんだ肌に最高に心地よかった。
「ふぅ……。外、すっごい涼しいなぁ」
「まあな。道場の中が熱気で暑すぎるだけやけどな」
白百合は楽しそうに笑って、自然と俺のすぐ横にピタリと並んで歩き出す。
「なぁ、慶ちゃん。いつも一緒に宿題をしてる慶ちゃんが、あんなに真剣に頑張ってる姿を見たらね……。なんか、上手く言えんけど、本当に胸がぎゅってなったんよ」
(ぎゅって……。そんな言葉、普通の小学生が男の子に日常会話で言うか? 本当に心臓に悪いわ)
白百合は俺の顔を見ずに、前を向いたまま話を続ける。
「慶ちゃん、今日のこと……私、一生忘れへんと思う」
(……それは、俺もや。俺も絶対に、今日のこの光景を忘れへんわ)
「……そやな。俺も良い刺激になったわ」
白百合は照れたように笑うと、また一歩、歩調を速めた。
「明日も宿題、絶対に一緒にやろうね!」
(……ほんま、どこまで嬉しくさせたら気が済むんや、この子は)
「おう、いつも通りな」
「じゃ、お家に帰ってご飯食べたら、また夜に電話するね!」
「え? 電、話……?」
「うん! 今日の話、まだまだいっぱいしたいし!」
(……また長電話になりそうやな)
ーー
夕方、白百合が自宅に帰ると、リビングのソファで四つ上の姉の「茜」がのんびりとストレッチをしていた。
茜「おかえり。……って、なんかあんた、顔すっごい赤いで?」
白百合「えっ!? そ、そう? 普通やよ」
茜「嘘つけ。なんか『良いことありました』って顔に書いてある。……で? 今日は松野くんと道場に行ったんやろ?」
白百合「……うん」
茜「どうやったん?」
白百合は一瞬、言葉に詰まった。けれど、胸の奥の興奮をどうしても抑えきれないみたいに、勝手に口が動いてしまう。
白百合「……すごかった。ほんまに、すっごかったんよ! 声も動きの速さも、なんか全然違ってて……ちゃんと『剣道をしてる人』って感じで」
茜「そら、あいつも剣道してる人やしな」
白百合「もう、そういう意味ちゃうし!」
茜は楽しそうに笑いながら、白百合の頭を軽くポンと叩いた。
茜「で? かっこよかったん?」
白百合「……うん。……あ」
白百合は慌ててクッションを抱え込み、顔を半分ほど隠した。どうやら、思わず本音を口にしてしまったらしい。
茜「ふーん、素直でよろしい」
白百合「お姉ちゃん、なんかね……慶ちゃんが一本決めたとき、胸がぎゅってなってん。知ってる人があんなに頑張ってるのって、こんなに響くんやって初めて知ったわ」
姉はその言葉を聞くと、少しだけからかうような表情を引っ込め、優しく目を細めた。
茜「……あんた、なんか少し変わったな」
白百合「え? 私が?」
茜「そう。前はそんな顔、絶対にせえへんかったで。誰かのことで胸がぎゅってなるなんてや」
白百合「そ、そんなことないし!」
茜「あるよ。だって今のあんた、ムチャクチャ分かりやすいもん」
白百合は真っ赤になってクッションに完全に顔を埋めた。
白百合「……もう、お姉ちゃん、いじわる言わんといて!」
茜「はいはい。でも、ええやん。それが好きとかそういう次元の話じゃなかったとしても、誰かのことを心から『すごい』って尊敬できるのは、すっごい大事なことやで」
白百合はクッションから恐る恐る顔を上げて、少し照れたように微笑んだ。
白百合「……うん。今日のこと、私、絶対に忘れへんと思う」
茜「そら、忘れられへんやろな」
白百合「なんで?」
茜「だって、あんたのその顔が、全部物語ってるもん」
白百合「もうっ!」
茜は笑いながら、白百合の頭をまた優しく撫でた。
茜「まあ、明日もあいつと宿題やるんやろ? 頑張りや、妹ちゃん」
白百合は照れながらも、どこか誇らしげに、嬉しそうに微笑んだ。
ーー
夕飯を食べ終わって、俺が自分の部屋でぼんやりと天井を見上げていると――。
一階のリビングから、黒電話のベルが、ジリリリリン……とけたたましく鳴り響いた。
(……あ、来たな)
予感していた俺は、すぐに階段を降りて受話器を取った。
「はい、もしもし松野です」
『あ、慶ちゃん? もしもし私、白百合』
受話器の向こうから聞こえる声は、昼間の賑やかさよりも少しだけ柔らかく、落ち着いていた。けれど、どこか嬉しそうに弾んでいる。
「おう。どうしたん?」
『ううん、別に用事があるわけやないんやけど……。ただ、今日のこと、どうしてもちょっと話したくて』
(『ちょっと』って言うトーンじゃないな、これは。完全に長電話になるやつや)
『今日さ、本当に道場に行ってよかったなって……。お家に帰ってからも、ずっと思い出して考えてたの』
「そ、そうなんや」
『うん。慶ちゃん、ほんまにかっこよかったし……。なんか、思い出すだけでも胸がぎゅってなるの』
(またそれ言うんか……。受話器越しでも破壊力が凄まじいわ。嬉しいけど……嬉しいって素直に喜ぶな、俺の理性を保て!)
『さっきね、お姉ちゃんにも話したん。『慶ちゃん、すごかった』って。そしたらお姉ちゃんに『あんた、ムチャクチャ分かりやすいな』って笑われちゃった』
「はは……。お姉さん、やっぱり鋭いな」
『でもね、なんか、今日の慶ちゃんを見て……もっと、慶ちゃんのこと知りたいって本当に思ったの。……慶ちゃんは、今日どうやった? 私が見に行って……迷惑じゃなかった? 嫌じゃなかった?』
不安そうに尋ねてくる彼女に、俺は嘘偽りのない本音を伝えた。
「嫌なわけないやろ。むしろ……白百合が見ててくれたから、いつも以上に頑張れたんやと思うわ。ほんまに」
『……ほんまに?』
「おう、ほんまやで」
電話の向こうで、白百合がホッとしたように小さく息を吸い込む音が聞こえた。
『……よかった』
その一言が、受話器を通じて俺の胸の奥にじんわりと深く染み渡っていった。
『明日もさ、午前中から宿題、一緒にやろうね?』
「うん、ええよ。いつも通り十時に待ってるわ」
『うん! じゃあ、また明日ね。……慶ちゃん、おやすみなさい』
「おう、おやすみ」
ツーツーという電子音に変わり、受話器をゆっくりとフックに戻した時、俺の右手は少しだけ小刻みに震えていた。
(……ほんまに、とんでもない一日やったな)
けれど、胸の奥がどうしようもないほどの温かさに満たされたまま、俺はしばらくその場から一歩も動くことができなかった。
ふと、頭をよぎる。
んー……。なんか変な感じやな。
前世のあの頃、もしも最初の班替えの時、俺がほんの少しの勇気を出して宮下を選んでいたら、あの世界でもこんな風に甘酸っぱくて眩しい未来があったのだろうか?
いや、考えても仕方のないことだ。
前世の俺があの時、宮下を選ばなかったからこそ、後悔を抱えたまま今この場所に戻ってきた。
そして今度は、あの日とは違う形で、白百合と出会い直すことができた。
それだけで、もう十分だった。
あの日の後悔の先に、こんな時間が待っていたなんて――。
人生というのは、本当に不思議なものだ。




