第二章 小学生時代 五年生編 第一節 過去へ
第二章 小学生時代 五年生編
第一節 過去へ
ガヤガヤ、ザワザワ、「そんなんちゃうやろ」「なんでや」「こっちや」……妙に騒がしい。
そういえば、さっき俺はスーパーカー(チャリコ)を飛ばして会社に向かっていたはずだ。
(ああ、事故ったんだっけ)
(ここは病院か?)
恐る恐る目を開くと——
……そこは、昔よく見た“あの光景”だった。
教室。窓の外から吹き込む五月の風は、まだ初夏の匂いを孕んでいる。
目の前の教壇には、あの子と旧友の男子が立ち、何かの票決を取っていた。
(夢か?)
(それとも、これが走馬灯というやつか)
「おい、松野ぉ。お前ぇ、居眠りなんかしとらへんで。どっちがええんか、ちゃんと手ぇ上げれや。どっちがええねん!」
どきつい泉州弁。懐かしい。
黒板を指さして「こっち」と言うと、
「決まりやな」
と旧友が言った。
どうやら文化祭の出し物を決めていたらしい。
この小学校では、毎年六月下旬に“文化祭”と称して、全学年が講堂で劇や合唱を披露するのが恒例だった。
新学年時のクラス結束を図るための行事だったのだろう。
そして、俺の一票で合唱に決まったらしい。
合唱は無難だ。
ピアノはボンボンかお嬢さまが弾き、あとはソプラノとアルトに分かれて歌うだけ。
準備も少なくて済む。
「先生ぇ、合唱で決まりましたぁ」
旧友の、あの独特の関西訛りが教室に響く。
担任の雨宮先生が、黒板の前で腕を組んでうなずいた。
「おお、決まったかあ。ほな、次は曲目と、それから伴奏とパートやな。進めてくれ」
雨宮先生は珍しい“男の先生”だった。
この時代の小学校は女の先生が多かったので、余計に目立っていた。
人気があって、陰口を聞いたことがない。
どこか、安心感のある人だった。
予想通り、伴奏は“お嬢さま”に決まった。
府のピアノコンクールにも出るほどの腕前で、誰も異論はない。
俺はというと、体が大きかったせいか声変わりも早く、アルトに回された。
(——まあ、俺にとってはどうでもいい)
ただ、教室のざわめき、窓から差し込む初夏の光、
あの子が友達と笑いながらパート分けの紙を配っている姿。
その全部が、妙に懐かしくて、胸の奥がじんわりと熱くなる。
後から誰かから聞いた話では、学級委員が司会を務めるのが定例だが、女子の学級委員は休んだらしく、あの子が急遽、代行したらしい。
あの子はソプラノに決まった。
小学校は下校時刻。まだ午後三時。
“こんなに早かったっけ”と思いながら、教科書をカバンに詰める。
俺は体が大きく、小学五年生で身長はすでに百六十センチを超えていた。
体は軽く……いや、重かった。
太っていたのだ。
遠足では決まって先生に間違われ、駅の改札では駅員に止められるほどの貫禄。
(競馬で例えるなら、ビワハヤヒデみたいな感じか?)
だからランドセルなんて、小四の半ばで卒業していたし、服ももっぱら大人用で、キャラクターものの服もなく服を親父とシェアできたほどだ。
帰り道はいつもと同じ。
石を蹴りながら歩き、友達にぶつけては、なんとなく鬼ごっこが始まり、なんとなく解散する。
そして、約束もしていないのに広場に集まり、町の防災放送で”七つの子”が流れるまで野球をする——それが日課だった。
家に帰ると、懐かしいお袋が夕飯の支度をしていた。
お袋は、俺が二十九のときに亡くなった。
実に十六年ぶりの再会だ。
何故か急に涙がこぼれた。
「慶ちゃん、どうしたん? なんかあったん?」
心配そうに振り向くお袋。
お袋は鹿児島出身で、中学を出てすぐ大阪の紡績工場に就職した。
いわゆる昭和二十年代後半の“集団就職”というやつだ。
親父も鹿児島出身で、家の中はいつも鹿児島弁と大阪弁が入り混じっていた。
「ううん、なんもない」
そう言って、バットとグローブを持ち、広場へ向かう。
「はよ帰っといでや」
お袋の声が、夕暮れの台所に溶けていった。
野球から帰ると、夕飯ができていた。
手を洗い、そそくさと食事を終えると、もう六時。
——町の道場で剣道の稽古だ。
速やかに道着と袴に着替え、竹刀袋と面・小手・胴の入った防具袋を肩に掛けて、道場へ走る。
剣道は小学三年春から始め、小学五年時は三級。
体が大きかったこともあり、市民大会ではいつも上位に入っていた。
けれど本当は、オリンピックにつながる柔道か、プロ野球選手を目指すリトルリーグに入りたかった。
柔道は、お袋の弟が腰を痛めて背が伸びなくなったらしく「ダメ」。
リトルリーグは、バット、グローブ、ユニフォーム、遠征費……とにかく金がかかるから「ダメ」。
そうして、剣道になった。
稽古から帰ると風呂に入り、宿題を済ませて寝る。
これが一日のルーティンだった。
家に帰ると、疎遠になっていた兄貴と、六年前に亡くなった父親がいた。
(——おお、兄貴が若い)
兄貴は五つ上で高校生。
部活を終えて帰ってくるのはだいたい七時頃だから、俺が道場から帰る八時過ぎに顔を合わせるのが常だった。
父は平日は帰りが遅く、休日も、だいたいパチンコか競輪、競馬、夕方からは飲みに行っていたので、会うことも話すことも少なかった。
ーー
翌朝。
「慶ちゃん、朝やで、起きや」
お袋の声で目が覚める。
味噌汁の匂い。
——お袋が作った朝食だ。
あれ?
えらい長い走馬灯だな。
(……いや、これは現実か?)
学校に着くと、着いた者から順にグラウンドへ向かう。
——ドッチボールだ。
強制ではないが、参加しないと仲間はずれになる……多分。
昼休みも同じだ。
給食をさっさと済ませ、グラウンドへ走る。
場所取りは早い者勝ち。
花見のように荷物で先取りするのは御法度だった。
余談だが、ドッチボールのほかにも“横断”“桜島”“探偵”など、色々な遊びがあった。
どんな遊びだったかは……ここでは割愛する。
しかし、文化祭の前だけは勝手が違う。
出し物の練習をしなければならない。
我々のクラスは合唱だから、パート別に分かれて練習する。
(はあ……。あの子がいれば、少しは楽しいかもしれないが、仕方ない)




