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交差 ―あの夏の日の誓い―  作者: 結城 輝


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第一章 プロローグ

挿絵(By みてみん)


『交差』のイメージイラストです。


第一部 小学生編

第一章 プロローグ


※本作品はフィクションです。登場する人物・学校・団体等は架空のものであり、実在する人物・学校・団体等とは関係ありません。また、実在する地域・大会等を舞台や設定の参考としている部分があります。



私は都内に本社を置く大手電機メーカーに勤める、ごく平凡なサラリーマンだった。


名は松野慶次。戦国武将好きの父が付けた大層な名だが、中身はただの冴えないオッサンだ。


四十五歳。役職は課長補佐。春の昇進内示を心待ちにして蓋を開けてみれば、待っていたのは九州の〇〇県〇〇工場への異動内示だった。

地方工場では「課長」という肩書になる。もっとも、本社に戻れば、相変わらず課長補佐だ。


――要するに、左遷である。


おそらく、私は今回失脚した副社長派閥の人間と見なされたのだろう。


独身。趣味らしい趣味もない。


本社にいた頃の私は、今なら一発でアウトな、いわゆるブラックな働き方を、むしろ美徳だと信じ込んでいた。


会社に寝泊まりするのが当たり前で、液晶画面の前でコンビニ弁当をかき込み、シャワーも社内で済ませる。終電を逃した夜は、デスクの下に毛布を敷き、泥のように眠った。


金曜に持ち帰った五日分のシャツと下着を週末に洗い、月曜の朝にまたそれを抱えて出社する。


そんな生活を、私は十年近く続けてきた。


それが、私の世界のすべてだった。


ーー


平成二十六年四月。


左遷先の地方工場で、私の「第二の人生」が始まった。


部下たちは、お世辞にも優秀とは言えなかった。

とはいえ、総務・庶務・人事の三人の係長たちが、実によく動いてくれた。本社で言えば主任クラスといったところか。


本社時代とは一変し、毎日自分の布団で眠れる生活になった。

夕飯を食べたら、あとは寝るだけ。

土日は恐ろしいほど暇だった。

昼まで泥のように眠り、洗濯と掃除を済ませ、健康のために近所をあてもなく歩いていた。


趣味のない中年男が暇を持て余すのは目に見えていた。やることといえば、ネット動画を垂れ流し、スマホの無料ゲームに興じ、週末の重賞競馬をネットでチマチマ買うくらいだ。


田んぼのあぜ道を歩いていると、不意に遠い記憶がよみがえった。


「……あの子は今、どうしているだろう」


小学五年生の頃、淡い恋心を抱いていた女の子だ。


五年前、実家に届いた同窓会の集合写真に彼女の姿があった。すっかり落ち着いた大人の女性になっていたが、面影は確かに残っていた。けれど、今どこで、どんな暮らしをしているのかを知る術はない。


ーー


そんな地方の暮らしにも、身体が馴染んできた初秋のこと。


平成二十六年八月八日、金曜日。



部下に誘われ、河川敷の草むらに座って、夜空に弾ける花火を見ながら缶ビールを飲んだ。


独身中年の、ささやかで、少しだけ寂しい幸せだった。


花火が終わり、一人静かな借家へ帰った。冷蔵庫から缶チューハイを取り出し、「明日は休みだ」と小さく呟いて、そのまま深い眠りに落ちた。


◇


ピリリリリ、ピリリリリ。


枕元で激しく鳴り響くスマホの着信音で、無理やり意識を引き戻された。

時計の針は、朝の五時前を指している。


画面に表示された文字は「庶務係長・隅田」。私と同じ四十代半ばの独身で、地元採用の気のいい男だ。


「……こんな時間に、どうした」

掠れた声で電話に出る。


「松野課長! 大変です! すぐに来てください!」


電話の向こうの隅田の声は、明らかにパニックに陥っていた。


「工場長が……愛人の家で、亡くなりました!」


「なにぃ!?」


一気に眠気が吹き飛んだ。あの色ボケジジイ……あれほど「ほどほどにしておけ」と釘を刺しておいたというのに。


工場長は昨年、本社の販売促進部長から左遷され、支社長兼工場長として単身赴任してきた男だ。パワハラ・セクハラは日常茶飯事。赴任早々、街のスナックの三十代半ばのチーママに入れ込んでいた。


私はすぐに“スーパーカー”にまたがった。

スーパーカーといっても、電動アシストすらついていない、サビの浮いた普通のママチャリだ。どうせ二〜三年の地方勤務だと踏んで、車は買っていなかった。


早朝の冷たい空気を切り裂きながら、必死にペダルを漕ぐ。

愛人宅のアパートに滑り込むと、チーママと隅田が、魂の抜けたような顔で立ち尽くしていた。


奥の寝室を覗くと、工場長が、一糸も纏わぬ姿で大の字に倒れている。心臓麻痺――そんなところだろう。


「課長、どうしましょう……」


チーママはガウンの下に下着姿のまま、ガタガタと震えて声も満足に出ない。


ここでスキャンダルになれば、工場の存続に関わる。本社の耳に入る前に、とにかく体裁だけは整えなければならない。ブラック企業で培った不謹慎な危機管理能力が、最悪の形で冴え渡った。


「よし、落ち着け。……夕べの花火のあと、俺たち四人でここで飲んでいたことにする。隅田、工場長に服を着せろ。ネクタイはいい、普段着だ。それから救急車を呼べ」


「は、はい!」


「俺は一度会社に戻って、工場長の奥さんに連絡を入れる。動きがあったらすぐにショートメールをくれ」


指示を飛ばし、私は再びママチャリに飛び乗った。


会社へ向かうペダルを踏み込む足に、じっとりと嫌な汗がにじむ。

(厄介なことになった。明日の役員会議への報告はどうする。奥さんへの説明は——)


頭の中で役員会への報告を組み立てていた、その時だった。


ガンッ。


鈍い衝撃音と同時に、私の視界は真っ白に弾けた。


(そういえば……この県は、交通マナーの悪さが全国ワースト三だったっけな)


(普段からあれほど気をつけていたつもりだったのに、なぁ——)


私の意識は、そこでぷつりと途切れた。




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