第三項 時間の密度と、小さなすれ違い
第三項 時間の密度と、小さなすれ違い
宮下と同じ班になって、まだたったの一か月程しか経ってへんというのに、二人の距離の詰まり方がヤバすぎて、時々めまいがしそうになる。
やっぱり、子どもの時期に感じる時間というのは、大人のそれよりも圧倒的に長いんかもしれん。
確か心理学の用語で、“ジャネーの法則”って言うんやったかな。生涯のある時期における時間の心理的長さは、年齢の逆数に比例する、とかいうやつだ。
前世の母親にもよく「大人になったら一年なんて一瞬で過ぎ去るで」って言われていたけど、子どもの頃はそんなの絶対に信じられへんかった。
だって、あの頃の一日は、無茶苦茶長かったからだ。
早く自由な大人になりたいとあんなに願っていたのに、夏休みなんか、それこそ永遠に続くんちゃうかっていうくらいに長く、どこまでも眩しかった。
でも、本当におっさんになってみると——。
一日なんてあっという間だし、一か月も一年も、恐ろしいほどのハイスピードで過ぎていく。
そら、中身おっさんの感覚からすれば、わずか一か月程でここまで一気に距離が縮まったら、その凄まじい“時間の密度”に酔いそうになるのも無理はないわな。
ーー
夏休み十一日目。
早朝、まだ街の空気がひんやりと冷たい時間にいつもの公園へ行くと、もう入り口の前で宮下が待っていた。
「あ、おはよう、松野くん」
声をかけてきた宮下のトーンは、いつもより少しだけ張りがあった。
まだ眠そうに目をこするわけでもなく、だるそうにするわけでもない。なんか、心地よい“気合い”みたいなものがピシッと混じっている。
「おはよう。今日は一段と早いな」
「うん! なんかさ、今朝は早く走りたくなったの」
二人で軽く屈伸などの準備体操をしてから、いつものルートをゆっくりと走り出す。
今日の宮下は、いつもにも増して、明らかに足取りが軽かった。呼吸も乱れないし、何より走る姿勢がシャキッとしている。
(呼吸がいつも乱れてるのは、俺の方か)
「なあ、松野くん。走る時って、腕の振りってこんなんでええん?」
並んで走りながら、宮下が腕を前後に振って見せてきた。
「(ハアハア)え? ああ、もうちょい後ろまで引くように意識したほうがええで」
「こう?……こう?」
「(ハアハア)そうそう、それ。(ハアハア)だいぶ楽に足が出るようになるやろ?」
(……なんやろ。今日はめちゃくちゃやる気がすごいな)
感心しながらしばらく並走していると、宮下が前を向いたままぽつりと言った。
「昨日さ……お家帰ってからも、剣道のこと、色々考えててね」
「うん(ハアハア)」
「こうやって走ってるとさ、なんか……“強くなりたいな”って思うの。理由は自分でもよく分からんのやけどね」
その言葉に、俺の胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
「いつか、本当に剣道をやる時のために……。今のうちから、ちゃんと体力つけとこかなって、ちょっとだけ思ったの」
「(ハアハア)ええやん。その気持ち、めちゃくちゃ大事やで」
宮下は照れたように小さく笑うと、楽しそうに少しだけ走るペースを上げた。
「ほら、松野くん! 遅れんとついてきて!」
「お、おう! (ハアハア)」
昨日までの宮下とは違う。でも、決して無理をして意地を張っている感じじゃない。「前に進みたい」という前向きな気持ちが、その弾むような走り方にそのまま表れていた。
(……ほんまに、あの一日で変わったんやな)
朝の光を浴びて走る宮下の背中が、いつもより少しだけ頼もしく、眩しく見えた。
ーー
走り終えて、公園のベンチにどさりと腰を下ろした。
朝の空気はまだ涼しいけれど、じっくり走った体からは汗がじんわりと流れ出てくる。
「はあ……っ。今日、ちょっと頑張って走りすぎたかも」
「(ハアハア)うん。なんか、(ハアハア)いつもより全体的にペース速かったで」
「そう? なんか走ってたら、すっごい気持ちよくてさ」
宮下は首にかけたタオルで額の汗を拭きながら、どこか満足そうに笑った。
「昨日のこと、寝る前もずっと考えててね。剣道のこともやけど……。なんか、自分でも上手く言えないんやけど、とにかく“動きたい”って気持ちがぶわって出てきて」
「(ハアハア)ええことやん」
「うん。松野くんが言ってくれたでしょ。『やりたいことはやればええ』って」
「(ハアハア)ああ、言うたな」
「その言葉が、なんかずっと心に残っててね。走ってたら、ちょっとだけ自分に自信が出てきた。剣道を始めるのは、すぐには無理かもしれないけど……。体力つけるくらいなら、今からでも自分の力でできるやん?」
「(ハアハア)できるで。てか、もう前からランニング始まってるんやから、一歩目はとっくに踏み出してるやん」
「……そっか。なんか、松野くんにそう言われると、すごい嬉しいな」
すうっと朝の風が少し強く吹いて、宮下のサラサラした髪が揺れた。
「なあ、松野くん」
「ん?」
「また明日も走ろ。今日みたいに、ちょっとだけ頑張るやつ」
「ええで。しっかりついていくわ」
「ふふっ、置いていかんといてな?」
二人はベンチから立ち上がり、公園の出口へと並んで歩き始めた。
昨日よりも、ほんの少しだけ二人の歩幅が自然と合っているような気がした。
歩きながら、俺はふと思いついたことを口にした。
「なあ、宮下さん」
「ん? なに?」
「えとな、いつもやってる午前中の宿題のことやねんけどさ。いつも宮下さんの家でやらせてもらってるやんか。毎日やと、宮下さんのお母さんにお昼ご飯とかも作ってもらって大変やし……。たまには図書館の自習室に行くか、俺ん家でやるのもええんちゃうかなって思ってるんやけど、どう?」
「あ、うん。そうしよっか。私も毎回、部屋の整理整頓とか掃除するの大変やしね」
「えっ! 毎日、俺が来る前にわざわざ掃除してくれてたん?」
驚いて宮下の顔を見る。
(あっ……気遣わせてもうたんやな。もしかしたら、俺の提案をスムーズに受け入れるために、あえて『掃除大変やし』って言ってくれたんかもしれん)
「そらそうよ。散らかってるところ男の子に見られたら恥ずかしいやん。松野くんは、いつも部屋を綺麗にしてるみたいやけど」
「いやいや、そんなことないよ」
「だって昨日も、いきなり松野くんの部屋に行ったのに、めっちゃ綺麗やったし」
「いやいや、ほんまに、あれはたまたまやし……!」
(……本当はお母ちゃんが俺の知らん間に片付けてくれてるだけなんて、男としてのプライドが邪魔して恥ずかしくて言えん。思わず『たまたま』って言い張ってもうたわ)
「じゃあ、今日は俺ん家でやろっか。いつも通り、十時の集合でええ?」
「うん……」
「じゃ、そういうことで。また後でな。バイバイ」
「バイバイ」
二人は手を振って、それぞれの家へと別れた。
けれど、歩き出しながら俺の胸の中に小さな違和感が残った。
(あれ……? なんか、今の……微妙な反応やったな?)
最後に宮下が返した「うん」という声は、いつもの弾むような明るさよりも、少しだけ弱くて、どこか寂しげに曇っていた気がした。




