第二項 卒園アルバムと、秘密の領域
第二項 卒園アルバムと、秘密の領域
「お母ちゃん、宮下連れてきたで」
自宅の玄関を開けて声をかけると、リビングから母が笑顔で迎えてくれた。
慶次の母「あら、こんにちは! さゆちゃん、よく来てくれたねぇ。狭い家やけど、ゆっくりしていってなぁ」
(ん……? なんか、妙にお袋の“準備できてた感”がすごいな)
いつもより綺麗に片付いたリビングと、すでに色々と用意されている気配から察するに、宮下のお母さんから「今からうちの娘がそっちに行きます」と事前に連絡が入っていたのだろう。
お母様のネットワークは恐ろしい。
俺の部屋に入ると、宮下は珍しそうにキョロキョロと室内を見回した。
「わあ、ここが松野くんの部屋? 意外と綺麗に片付いてるんやぁ。へー。男の子の部屋ってもっと、こう……おもちゃとかで散らかり放題のイメージがあったんやけど」
「そうか? 普通やろ。特に面白みもない部屋やし」
実際、中身がおっさんの俺の部屋なので、無駄なものは一切置いていない。
宮下はなおも興味深そうに部屋を観察していたが、ふと本棚の上の段に置いてある冊子に目を留めた。
「あ、それって卒園アルバム? 松野くんって、桜橋カトリック幼稚園やったんでしょ? 確か、恭ちゃんと同じよね」
(えっ、何で知ってんの? 母親に聞いたんかな?)
「ん? 恭ちゃん? ……ああ、浅野さんか。そういえば、浅野さんも同じ幼稚園やったっけかな」
おっさんの記憶を必死に手繰り寄せていると、宮下が目を輝かせてこちらを振り返った。
「ねえ、その卒園アルバム、私に見せて!」
「え、別にええけど……。えーと、これやったかな……あ、これや。はい、どうぞ」
棚から取り出した少し埃をかぶったアルバムを、二人で床に座り込んで開く。
ページをめくると、そこには当時の幼い子どもたちの写真が一気に広がった。
「わあ、みんなちっちゃくて可愛い! ……あっ、見て松野くん、これ恭ちゃんや! 面影あるなぁ。恭ちゃんの小さい頃、初めて見た。……あ、じゃあ、こっちの丸っこいのが松野くん?」
宮下がアルバムの写真を指差しながら、ぐっと身を乗り出してきた。
「うん、そう……」
答えようとして顔を向けた瞬間、お互いのおでこが、コツン、と軽く当たった。
ほんの一瞬のことだったけれど、至近距離で見つめ合ってしまい、胸がドクンと大きく跳ねた。
宮下は恥ずかしさを隠すためか、それとも本当に気にしていない風を装っているのか、少し耳を赤くしながら、そのまま次のページをめくっていく。
部屋の中に、夏の午後の静かな空気が流れていた。
「私、桜橋幼稚園やったから、なんか不思議。同じ小学校に通ってるのに、それより前に別の世界があるみたい」
(そんな風に考えたことなかったな。感じ方って、人それぞれなんやな)
「今度、宮下の桜橋幼稚園の卒園アルバムも見せてよ」
「うん。私のほうも、結構面白いよ」
(どんな風に面白いんやろう。ちょっと気になってまうな)
「……そういえば、松野くんって剣道やってるんやもんね」
「そうや。先週、宮下さん家で、宮下のお姉さんと話してるところ見てたから知ってるやろうけど、一緒の道場でやってるんやで。宮下さんは興味ないの?」
「うん、そうなんだけどね……」
宮下は、アルバムの端を指先でいじりながら、少しだけ視線を落とした。
「なんか問題あるん? あっ、ごめん。答えたくなかったら、無理に答えんでええよ」
「ううん、違うの。……なんか、お姉ちゃんがずっとやってるから、私が始めると比べられるっていうか……。“お姉ちゃんの領域”って感じがして、お姉ちゃんも、妹にそこを荒らされたくないんじゃないかなぁって思って」
(……そういう考え方もあるんやな。
普通、弟や妹は兄や姉の真似をしたくなるもんやと思ってたし、前世で宮下が剣道をやらなかった理由も、別にあるんかと思ってた。けれど――そういうことやったんか)
「お姉ちゃん、昔から何でもできるの。勉強も運動も、ピアノも。剣道も、すっごい強いし。家でもな、お姉ちゃんから『さゆはのんびりしてるから』ってよく言われてて。悪気はないんだろうけど、なんか、ずっと『妹のまま』って感じで……」
いつもの弾けるような明るさはなく、その声には、どこか弱さが滲んでいた。俺は黙って彼女の言葉に耳を傾ける。
「剣道、本当は私も興味あったんだ。松野くんが道場でやってるのを見て、『かっこいいな』って思ったし」
「え、そうなん?」
「うん。でも、お姉ちゃん無茶苦茶上手いでしょ? 道場でも有名やったし、私が始めたら絶対に比べられるかなって。それに……お姉ちゃん、ああ見えて繊細やから、『妹に真似されたくない』って思ってるのかなって、勝手にやけどそう思ってしまうの」
俺は少し考えてから、まっすぐに伝えた。
「……でもな。やりたいなら、やったらええと思うで。誰かの領域とか、そんなん気にせんでええやん。周りの目ばっかり気にしてたら、本当にやりたいこと何もでけへんで」
「……うん。分かってるんだけどね」
俺は、それ以上何も言わなかった。
ーー
トントン、と部屋のドアが軽くノックされた。
慶次の母「二人とも、喉乾いてへん? 冷たい麦茶、持ってきたで」
そう言いながら、母がお盆にガラスのコップを二つ乗せて入ってきた。
宮下「あ、ありがとうございます! すみません、気を遣わせてしまって、お邪魔しました」
慶次の母「ええよ、ええよ。さゆちゃんは礼儀正しいし、うちもいつでも大歓迎やわ」
(……やっぱり、宮下のお母さんから連絡はいってるな。母の対応が完璧すぎる)
母はコップを置きながら、床に開かれたアルバムに目を留めた。
慶次の母「あら、卒園アルバム見てたん? 懐かしいなぁ。この頃の慶次、ほんまに丸々としてて可愛かったわぁ」
松野「お母ちゃん、余計なこと言わんでええって」
慶次の母「ふふっ。でも、ほんとに可愛い。ほら、この写真とか」
宮下が再び写真を指さした瞬間、また少しだけおでこが近づいて、俺は思わず照れ隠しに視線をそらした。
母はそんな俺たちを微笑ましそうに眺めていたが、ふと宮下に視線を向けた。
慶次の母「……そういえば、さゆちゃん」
宮下「はい?」
慶次の母「剣道は興味ないの?」
母の突然の質問に、宮下は一瞬、体をこわばらせた。
(……母ちゃん、なんで急に?)
宮下「えっ……あ、うん。ちょっとだけ……でも……」
慶次の母「ああ、なるほどね。お姉ちゃんがやってるから、ちょっと遠慮してるんや?」
さすがは年の功というか、母は宮下の微かな表情の変化から察したらしい。
……いや。もしかすると、宮下のお母さんから、色々と聞いているのかもしれない。
宮下「……はい。なんか、比べられそうで。お姉ちゃんも嫌かなぁって、思ってしまって」
すると、母はふっと優しく目を細めて笑った。
慶次の母「さゆちゃんはさゆちゃんやで。誰かと比べる必要なんか、どこにもあらへんよ」
宮下「……ありがとうございます」
その言葉を聞いた宮下の表情が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
慶次の母「ほな、ゆっくりしていき。あ、さゆちゃんは本当に良い子やなぁ。気ぃ遣いもできるし、話し方も丁寧やし。最近の子は『ありがとう』も言えん子がおるのに、さゆちゃんはちゃんと言えるやん。うちの慶ちゃんも見習わなあかんわ」
松野「お母ちゃん、それ以上、何も言わんでええって……」
母は楽しそうに笑いながら、どこか安心したような顔で、静かに部屋を出ていった。
ーー
扉が閉まると、部屋の中にまた二人だけの空気が戻ってきた。
宮下は麦茶を両手で包みながら、ぽつりと言った。
「……松野くんのお母さん、優しいなぁ。なんか、すごい落ち着く」
「まあ、普通やで」
「ううん、普通やないよ。なんか、“そのままの私でええんや”って言われた気がした……」
宮下は、さっきよりも少しだけ柔らかい表情で、アルバムを膝の上に置いた。
しばらく心地よい沈黙が流れたあと、宮下がコップをくるくる回しながら、はっきりとした声でつぶやいた。
「……なあ、松野くん」
「ん?」
「私な……ほんとは、剣道……ちょっとだけやってみたいの」
「えっ、そうなん?」
「うん。お姉ちゃんのこととか、比べられるのとか、色々気になるけど……。松野くんがやってるのを見て『かっこいいな』って思ったし、やってみたらどうなるんかなって、ちょっとだけ気になってて」
宮下の口から出たその本音に、俺の胸の奥がじんわりと熱くなる。
「……やったらええやん。興味があるなら、なおさらやで。その時は、俺がつきっきりで教えたるわ」
「えっ……ほんまに?」
「当たり前やん」
宮下は、嬉しそうに、でも少し恥ずかしそうにうつむいた。
その横顔を見て、俺は(……この子、ほんまは心が強い子なんやな)としみじみ思った。
ーー
夕方になり、宮下が帰る時間になった。
「そろそろ帰るね。今日は、ありがと」
「うん。気ぃつけて帰りや」
玄関まで見送ると、宮下はサンダルを履きながら、ふと振り返った。
「……なあ、松野くん」
「ん?」
宮下は少しだけ視線を落としてから、勇気を振り絞るように顔を上げた。
「剣道のこと……また、色々教えてな」
その言い方は、さっきの「いつかやってみたい」よりも、確かに一歩だけ前に進んでいた。
「ええよ。いつでも言うてや」
「……うん!」
宮下は、今日一番の自然で嬉しそうな笑顔を咲かせた。
「じゃあ、また明日な!」
「また明日」
門を出ていく宮下の後ろ姿を見送りながら、俺はしばらくその場に立っていた。




