第七項 僕たちのグルメブック
第七項 僕たちのグルメブック
夏休み九日目。いよいよ取材当日。
朝の桜橋駅前商店街は、焼き立てパンの香ばしい匂いと行き交う人々の活気ある声で、早くから賑わっていた。
「……アカン、めっちゃ緊張してきた」
隣を歩く宮下は、手に持った小さなメモ帳の端をぎゅっと握りしめていた。
「大丈夫やって。俺がずっと横におるからや」
そう声をかけると、宮下はすがるように俺を見つめ、小さく頷いた。
「うん……お願いね」
その声は、いつもより少しだけ細くて弱い。
(——よし、任せとけ。大人の立ち回りを見せてやる)
事前に教頭先生経由で商店街組合に裏工作は済ませてある。断られる心配はよほど忙しくない限りゼロだ。
俺たちの担当は、商店街の奥にある“たまごサンド”が有名なパン屋『サクラ・ベーカリー』。店の前に立つと、ほんのり甘い小麦の香りが漂ってきた。
「……よし、行こか」
「うん」
宮下が意を決して木製のドアを開ける。
店員「いらっしゃいませー!」
宮下「え、えっと……あの……」
いざとなると、宮下の声が急に小さくなってしまった。
(あ、これ……ほんまにガチで緊張してるやつや)
俺はすかさず一歩前に出た。
慶次「こんにちは! 桜橋小学校の自由研究で来ました。少しだけ、お店のお話を聞かせてもらってもいいですか?」
店員「ああ、ええよええよ! 小学校の子たち、毎年来てくれるもんね。どうぞ中入って!」
店員さんの優しい笑顔に、宮下の肩からふっと力が抜けた。
宮下「よ、よかった……」
慶次「ほら、言うたやろ?」
宮下は恥ずかしそうに頬を緩め、隣の俺にだけ聞こえる声で小さく「ありがとう」とつぶやいた。
そこからは、まるでさっきまでの緊張が嘘だったかのように、宮下はどんどん生き生きと質問を投げかけていった。
宮下「このたまごサンド、どうしてこんなにふわふわなんですか?」
店員「それはね、うちだけの特製マヨネーズと、あとは卵の火加減がポイントやねんで」
宮下「へえー! すごいですねぇ……!」
店員さんも子ども相手に嬉しそうに笑いながら、パン作りのこだわりをたくさん教えてくれた。
俺は横でしっかりメモを取りながら、宮下の楽しそうな横顔をちらっと盗み見る。本当にいい笑顔をする。
取材が終わると、店員さんが小さな紙袋をコトッと手渡してくれた。
店員「これ、試食用ね。みんなで食べて感想を書いてくれたら嬉しいな」
宮下「えっ、いいんですか!? ありがとうございます!」
店を出た瞬間、宮下は紙袋を大事そうに胸に抱えて、パァッと満面の笑みを浮かべた。
「松野くん! 取材、すっごい楽しかった!」
「そらよかったな」
「うん……松野くんが横にいてくれたからだよ」
不意打ちのその言葉に、俺の心臓がまた一拍、ドクンと強く跳ねた。
その後、もう一つの候補だった喫茶店『ウイング』の取材も驚くほど順調にこなすことができた。
(……この夏、絶対に忘れへん気がするな)
ーー
ちなみに、他のグループの状況もかなり充実していたらしい。
斉藤班長と、あのすっぽかし犯の班員Aペアは、レトロな喫茶店『カフェ・サクラ』へ突撃した。
ドアを開けるとコーヒーの芳醇な香りが広がる中、斉藤班長が「自由研究で来ました」と丁寧に挨拶。緊張でガチガチに固まる班員Aを横目に、斉藤班長が「おすすめメニューは何ですか?」と訊ねると、マスターは「うちは昔ながらのナポリタンやな」と渋く答えてくれたそうだ。
斉藤班長が「Aくん、しっかりメモして!」と引っ張り、終わった後も「ちゃんと書けた?」と優しく確認してあげる姿は、まるでしっかり者の小さな編集長のようだった。
八百屋『青果・たかはし』に向かった班員B・C・Dの三人組は、とにかく元気いっぱいに突撃したらしい。
山積みの野菜の前で「自由研究で来ました!」と大声を出すと、豪快な店主が「おう、何でも聞き!」と大歓迎。今が旬のトマトのこだわりを聞き出すと、店主は「味見してみ」と熟れたトマトを渡してくれた。子どもたちが口を揃えて「あまっ!」と目を丸くすると、店主は我が事のように満足そうに笑ったという。
さらに、駄菓子屋『みどりや』に回った班員たちも大はしゃぎだった。
壁一面のカラフルなお菓子に、班員Bが「わー、これ懐かしい!」と声を上げると、すかさず班員Cが「いや、懐かしいって言うほど俺ら歳いってへんやろ」とツッコミを入れる。店のおばあちゃんは終始ニコニコと「ええよええよ」と応じてくれ、昔から人気の“梅ジャムせんべい”を「特別やで」と三人に一つずつプレゼントしてくれた。子どもたちは大喜びで、夢中でメモを取ったそうだ。
ーー
そして、夏休み十日目の午後。
斉藤班長の家のリビングに、班のメンバー七人全員が集結した。
テーブルの上には、各自が取材で集めてきたメモや写真、試食の袋、そして俺たちがパン屋でもらった小さな紙袋までがズラリと並んでいた。
いよいよ、グルメブックの編集と、休み明けの発表に使う模造紙資料の作成が始まった。
写真は昨日、斉藤班長がみんなのフィルムをまとめ、知り合いのカメラ屋さんに無理を言って、急いで仕上げてもらったものだった。
斉藤「じゃあ、みんなの取材結果をまとめていこっか!」
斉藤班長は本物の編集長みたいにペンを構え、まずは八百屋と駄菓子屋のページから整理を始めた。
班員B「トマト、めっちゃ甘かったで!」
班員C「じゃあ“夏のおすすめ”って大きく書こ!」
班員D「駄菓子屋は“梅ジャムせんべい”がずっと人気やって!」
斉藤「うん、いいね! “店主さんのひとこと”も枠を作って入れよ」
斉藤班長がみんなの話をテンポよくまとめてくれたおかげで、白紙だったページの形がみるみる整っていく。
斉藤「次は、喫茶店『カフェ・サクラ』のナポリタンのページね。……あ、Aくんが撮ったこの写真、めっちゃいいやん!」
班員A「え、ほんまに……?」
斉藤「うん! “昔ながらの味”って感じがすごく出てる!」
班員A「店主さん、『変わらない味を続けるのがうちの仕事』って熱く語ってくれたもんな」
斉藤「それ、キャッチコピーの見出しにしよ! 『変わらない味のナポリタン』って」
班員Aは耳を赤くして照れながらも、どこか誇らしげに自分のノートへメモを追加していた。最初はあんなにやる気のなかった奴が、完全に前のめりになっている。
ーー
斉藤「よし、ここからは松野くんとさゆちゃんの担当ページね!」
宮下「松野くん、私らのもバチッと書こ!」
宮下は、取材でびっしり埋まったメモ帳を開きながら、ちょっと誇らしげに胸を張った。
宮下「まず、パン屋さんの“ふわふわたまごサンド”だね」
松野「うん。特製マヨネーズと、卵の絶妙な火加減がポイントって言うてたな」
宮下「あとさ、お店の人が『毎朝六時に卵をゆで始める』って言うてた話、絶対書きたい!」
松野「それええな。職人さんのこだわりが一番伝わるわ」
斉藤「じゃあ、そのページのタイトルは……『ふわふわの秘密は朝六時』とかどう?」
宮下「それ! めっちゃいい!」
宮下は目を輝かせ、嬉しそうにノートへペンを走らせた。
松野「喫茶店『ウイング』のほうは、やっぱり“昔ながらのクリームソーダ”が人気って話やな」
宮下「うん。あと、店内の写真も絶対載せたい。あの壁にかかってた古い時計、めちゃ可愛かったなぁ」
斉藤「じゃあ、そこは『昔懐かしい喫茶店』ってページにしよっか」
松野「クリームソーダの写真は、俺が宮下のカメラで撮ったやつが結構きれいに写ってるで。これ使える?」
松野が差し出した写真を見て、宮下が歓声をあげた。
「わあ、ほんまや! きれい!」
松野「『カフェ・サクラ』の店主さんの『変わらない味を続けるのがうちの仕事』って言葉、ウイングにも通じるもんがあるな。こっちのページにも小さく添えとこか」
斉藤「うん、バッチリ。まとめるね!」
斉藤班長の手によって、写真が模造紙に貼られ、コメントが書き足され、ページの順番が次々と決まっていく。テーブルの上は、さながら本物の熱い編集会議のようになっていた。
宮下「ねえ、松野くん」
松野「ん?」
宮下「こういうの……なんか、私すごい好き。みんなでワイワイ作るって、いいね」
その純粋な言葉に、俺は静かに頷いた。
(……ほんまやな。こんなに充実した夏休み、前世の俺には一度もなかったわ)
斉藤「よし! これで『桜橋商店街グルメブック』、堂々完成やーー!」
みんなが「やったーー!」と一斉に拳を突き上げた。
その瞬間、バラバラだったこの班が、ひとつの本物の“チーム”になったような気がした。
ーー
斉藤班長の家を出ると、夕方の風が少しだけひんやりと肌をかすめた。
「ほな、またなー!」「バイバイ!」と班員たちがそれぞれの家へと散っていき、気づけば、いつものように俺と宮下の二人だけが同じ方向に並んで歩き出していた。
「……なんか、本当に楽しかったなあ」
ぽつりと、宮下が寂しそうにつぶやく。
「うん。みんなで一つの目標に向かって作るって、ええもんやな」
宮下は、手に持ったカメラのケースの紐を指先でいじりながら、少し照れたように笑った。
「松野くん、写真撮るの上手よね。ウイングのクリームソーダのやつ、すっごいきれいだった」
「いや、あれは……宮下が『ここから撮って』って的確に指示してくれたからやん」
「ふふっ、そやけど。でも、あの時計の写真、私は一番好き」
そう言って、宮下は歩きながら少しだけ俺の方を見上げてきた。
西の空から差し込む夕焼けの赤い光が、宮下の白い横顔をほんのりと朱色に染めている。
(……なんなんやろ、この胸が締め付けられるような感じは)
ただ楽しいだけじゃない。胸の奥が、じりじりと熱くなっていく。
「ねえ、松野くん」
「ん?」
「夏休みって……こんなに早く過ぎていくんやなあ。……もっと、いろいろしたいな、松野くんと」
その言い方が、引き止めるような響きを含んでいて、俺の心臓はまた一拍遅れて激しく跳ねた。
(……俺のこの子どもの心臓、この夏が終わるまで持つんかな)
「……何言うてんねん。まだ七月三十一日やで? まだ三十三日も残ってるやんか」
「そやけど……なんか、あっという間に終わりそうで」
そこから、しばらく心地よい沈黙が続いた。
蝉の声だけが遠くで響くその沈黙は、少しも気まずくなくて、どこかずっと浸っていたいほどに愛おしかった。
いつもの家の角に差し掛かったところで、宮下がふっと足を止めた。
「今日さ……松野くんがずっと横におってくれて、本当にありがとう」
「そんなん、同じペアなんやから当たり前やろ」
「……うん。ありがと」
その最後の“ありがと”は、いつもの元気な声より少しだけ長くて、少しだけ優しかった。
「じゃあ、また明日な」
「うん。また明日」
宮下が玄関の戸を開けて家の中に入るのを最後まで見送ってから、俺は自分の家へとゆっくり歩き出した。
(……なんやろな。今日の帰り道の景色、一生忘れられへん気がするわ)




