第四項 朝の光と、早すぎる君の背中
第四項 朝の光と、早すぎる君の背中
夏休み四日目。
いつもより少し早く目が覚めた。
Tシャツとランニングパンツに着替え、家族がまだ寝静まっている薄暗い家の中を、足音を立てないようにそっと歩き、玄関の扉を開けた。
外へ出ると、朝の空気はひんやりと冷たくて、どこか“新しい一日”の匂いがした。大きく背伸びをして、軽い準備体操を終えてから街へと走り出す。
不思議なほど、体がずいぶん軽くなっていた。
肥満を解消するためにダイエットを始めて二か月余り。まだクラスの誰にも気づかれてはいないけれど、毎日自分の体を鏡で見ている自分にはハッキリと変化が分かる。
(——ヨシヨシ。このまま順調に痩せて、ちゃんと筋肉もつけていけば、剣道ももっと強くなれるはずや)
朝一番に走ると、いつも見慣れているはずの通学路や街並みが、全く違って見えるから不思議だ。じわりと噴き出す汗と、足の筋肉への心地よい刺激を楽しみながら、二キロほど走ったところで神社に到着した。
「ハア、ハア……」
さすがに息が上がる。
(——大人の中身があっても、子どもの心肺機能はまだまだこれから、やな)
境内の隅で、前世の知識を活かした体幹運動、腕立て、腹筋、背筋をこなす。最後に軽いジョギングをしながら家へと戻った。
(そういえば、この時代って“体幹トレーニング”なんてお洒落な言葉、まだ誰も使ってへんよな……)
そんなことを考えながら、(今日の宮下との勉強も楽しみやなあ)と思いつつ、玄関の戸を開けた。
家に入ると、お袋がすでに起きて台所で朝食の準備をしていた。
前世ならここでシャワーを浴びて汗を流すところだが、残念ながら、そんな近代的な設備はこの時代の我が家にはない。そもそも、まだ家風呂がない家庭だって珍しくない時代なのだ。
「慶ちゃん、どこ行ってたん。ちゃんと言っとかんと心配するやろ」
「あっ、ごめん。言うの忘れてた。これからも早朝ランニングするからさ」
お袋は一瞬、きょとんとした顔をしたが、すぐに柔らかく笑った。
「ええことやけど……あんまり無理せんときや」
その温かい言葉に、なんだか胸の奥がじんわりと温かくなった。
ーー
その数時間後。
宮下の家に来たのは三回目。宮下の部屋で一緒に宿題をするのは、まだたしか二回目のはずなのに、なぜかもう何度もこの部屋に来ているような、不思議な錯覚がしていた。
「松野くん、松野くんってば」
気づくと、宮下が俺の目の前で、手をひらひらと振っていた。
「どうしたん? さっきから話しかけてるのに、全然聞いてないし」
「あっ、ごめん。何やった?」
最近、どうもすぐに物思いに耽ってしまう。前世の記憶と、今生きている現実の生活が頭の中で交差して、ふっと意識が遠くなる瞬間があるのだ。
「……ねえ、松野くん。最近、少し痩せた?」
「おっ、分かる? 実は二か月ほど前から密かにダイエット始めたんよ。今朝も街を走ってきたんやけど、むちゃくちゃ気持ちよかったで」
「そうなんや。ええなあ……。んー、じゃあさ、私も明日から一緒に走ってもいい?」
「ええけど、……俺のペース、結構速いで。ついて来れる?」
「ふふん、頑張ってついていくよ」
その言い方がなんだか本当に嬉しそうで、こっちまで照れくさくなってしまう。
「でね、私の班の自由研究の案、ちょっと聞いてくれる?」
「うん。もちろん」
こうして、自然に“二人で何かを一緒にする”流れが、どんどん出来上がっていく。
(どんどん、勝手に良いことばかりが決まっていくなあ……。なんか、いいことばかりが続きすぎて、逆にこれから何か良くないことが起きそうで、少し怖いな)
そんな贅沢な怯えを、俺は胸の隅にそっと隠した。
ーー
夏休み五日目。
朝五時半、宮下と近くの公園で待ち合わせをした。
「おはよう、松野くん」
「おはよう」
(おー……)
並んでみて改めて思ったが、宮下は、今日も相変わらずかわいい。いつもと違うTシャツにランニングパンツ姿が、妙に新鮮で眩しかった。
二人で並んで軽く柔軟体操をしてから、いざ街へと走り出す。
「最初はゆっくり行くから、ちゃんとついておいでや!」
男らしくそう声をかけて先行したのだが——すぐに、俺は己の勘違いを思い知ることになる。
(あれ? 何か俺が考えてた展開と違う……)
完全に忘れていた。前世の宮下は俺と違って、元から体力もあり、運動能力がめちゃくちゃ高かったのだ。
気がつけば、明らかに俺のほうが息を切らして遅れがちになっていた。宮下はといえば、涼しい顔で“微妙に速度を落として”俺のペースに合わせて並走してくれている。
(……昨日の俺のセリフ、めちゃくちゃ恥ずかしいやつやん!)
目的地の神社に着くころには、俺は「ハア、ハア」と激しく肩を揺らし、這う這うの体で境内の隅までたどり着き、体幹運動や腹筋、背筋をこなした。
そのすぐ横で、宮下は呼吸ひとつ乱さず、ケロリとした涼しい顔で柔軟運動をしている。
(何や、この圧倒的な体力の差は……!?)
ひと通り運動を終え、手水舎の冷たい水で手を清めてから、二人で本殿の前に立って手を合わせた。
お賽銭の持ち合わせはなかったけれど、小学生の早朝ランニングのついでだ。神様はそんな些細なことで怒りやしないだろう。
宮下は一体、何をお祈りしてるんやろ……。
そう思ってふと横を盗み見ると、ちょうど同じタイミングで目を開けた宮下と、バチッと視線が合ってしまった。
宮下が、すべてをお見通しといった風に、ふっと悪戯っぽく微笑む。
(あっ……神様へのお祈りじゃなくて、俺のこと見てたんや。見透かされたかな)
帰りは行きよりもさらに軽いジョギングで、出発点の公園まで戻ってきた。
「松野くん、ありがとう! また明日も走ろうね。じゃ、また十時に私の家ね。バイバイ!」
「うん。また後でな、バイバイ」
朝日に照らされ、軽やかな足取りで走り去っていく宮下の後ろ姿を見送りながら、俺は心の中で静かに誓った。
(んー……そのうち絶対、体力でも俺が勝つ! 宮下に勝ち負けを挑んでも意味はあらへんけど、……とりあえずの目標や!)
そう心の中でギュッと拳を握り、俺は一度家に引き返した。




