18 そして誰もいなくなればよかった
『ねぇ、あなた』
『……なん、でしょうか』
僅かな月光がカーテン越しに届く、母の自室で。女児が横たわっているベッドの余白に母が座ったことにより、糊のきいた掛け布団が歪む。
『今あなたは、私の子なのよね』
『? はい』
『だから、今日一日中、あなたのお名前を考えていたのだけど。気に入ってもらえれば、使ってくれないかしら?』
『……一日中、考えていたのですか?』
『ええ、一日中』
女児は母の宣言に、戦々恐々としながら耳を傾ける。
母が今日一日中、隙あらば考え込んでいるようなそぶりを見せていたことは、同じ空間に居た女児は気がついていた。
しかし、てっきり疲労しているのか、気を許しているが故に上の空になっているのかと考えていた。
それが自身の名前を考え続けていた結果であると知ると、見え方が大きく変わり、恐ろしき執念だと認識を改めることになる。
『長きにわたる脳内審議の結果。マコトちゃんが一番しっくりくるな、と思ったの。どう思う?』
『そうお呼びしたいのであれば、おまかせ、いたします。私、名前なんて……必要、ありませんから』
『おかしなことを言うのね。人には、特定の個を識別するための呼び名が必要よ。この世でたった一人の個を、衆とは異なるのだと誇示し、愛と信を抱くためにね』
『……アイと、シン、ですか』
『胡散臭いわよね。でも、核心的な真実こそ、一番単純で胡散臭いものなのよ』
母は笑い声を押し殺した微笑を交えて、女児──マコトの眼と眼を合わせる。
母は暗い表情をするマコトとの距離を縮め、頭を撫でた。マコトがベッドに横たわっているから髪がはねているのか、母が撫でたから髪がはねているのか。傍から見てもわからないほどに、マコトの髪の毛は母に弄られた。
『施設に入る日が、いつかは訪れるのでしょうけど。今はただ、たった一人のあなたによろしくを言いたいの。──よろしくね、マコトちゃん』
『…………』
マコトは眼を逸らす。
返事は、しなかった。
*****
『ん……ぁ?』
■■■は眠気で瞼が重い中、意識を浮上させる。
鉛が体内に潜んでいる感覚を、眠気による倦怠感で擬似体験しながら、■■■は時計を確認した。その後、カーテンを開けて、差し込む光が日に直接由来するものなのか、月を経由したものなのかを確かめた。
『俺にしては、珍しい時間帯に起きてしまったものだ』
■■■がカーテンを開けて確かめた結果、差し込んだのは月を経由した淡い光だった。
何故、こんな時間帯に眼を覚ましてしまったのか。■■■自身にもわからず、欠伸を片手間に鈍い頭の働きを停止させる。
『もう一度、寝てみるか』
■■■はカーテンを閉めて、ベッドへと向かう。纏わりつく倦怠感に従って、倒れ込もうとした。
すると、■■■の足音とは異なる、鈍い物音が聞こえた。■■■の記憶の中にあるありとあらゆる音を頼りに、最も近しい音を考えると、壁に身体をぶつけた音だった。
『……? こんな時間に、誰が? 何故?』
もしかしたら、誰かが突然意識を失って、廊下で倒れたのかもしれない。
不吉な想定が頭によぎり、■■■は廊下へ出て物音の正体を確かめることにした。重たい足取りで、廊下に繋がる扉へ手をかける。
妙に早い心拍音と、手に馴染む不快な冷や汗をかいていることに気がついたが、見て見ぬふりをした。
『……大丈夫、か?』
■■■は扉を開けると同時に、いるであろう誰かに向けて話しかけた。が、廊下に人の気配がなく、咄嗟に周囲を見渡しても人の影すら見当たらなかった。
■■■は肩の荷を下ろし、自室に戻るために振り返ろうとして──、
『ぁ?』
血痕が見えた。
廊下が薄暗い所為で、眼を凝らさないと気づけないほどの、小さな血痕だった。
でもなによりも重大な問題で、■■■の意識を引き付けていた事実は、その血痕がソラの自室の扉前にあることだった。
『──ッソラ!』
■■■は真夜中であることも気にせず、大声を出してソラの自室に飛び込んだ。扉が大きな音を立てて、開け放たれる。
血生臭い匂いが、真っ先に鼻を突いた。
『は、ぁ? ……は?』
ベッドの上で血に染まりきったソラと、血に染まりきったソラを茫然として見つめる、包丁を手に持った女児がいた。包丁からは静かに、一滴ずつ、一滴ずつ、血が垂れ落ちている。
やがて、虚ろな眼の女児が■■■の声がした方向を見て、お互いの目が合った。
『──なんで』
■■■が空虚な一言を告げてから、女児相手に肉薄するために一歩足を運んだ、刹那。
■■■は後頭部に重苦しい痛みを感じて、意識を朦朧とさせる。瞼を閉じた■■■の耳に、女児の自嘲的な笑い声が届いた。
『あは……笑っちゃいますよね。私が、マコトちゃんだなんて』
──私は、真にも誠にもなれないのに。
そんな呟きを聞き届けてから、■■■の意識は失われた。
*****
『ぅ……あ、』
次に■■■が目を開けた時には、口を塞ぐ布切れと手足を縛る縄、馬車によって揺らされる感覚によって意識を刺激された。
■■■が漠然とした意識の中、状況確認のために辺りを見渡すと、ソラの身体と、母の身体が投げ出されているのが見えた。
■■■には拘束を施して、ソラと母には拘束が施されていない。その意味は理解したくなくとも、理解できてしまった。
『ぅ、づァ、アあああぁー!』
物のように扱われるソラと母に、駆け寄りたくて駆け寄りたくて、たまらなかった。
■■■が駆け寄りたいが故に縄を解こうと暴れていると、脇腹を蹴り飛ばされる。■■■は手足が拘束されていて受け身もまともに取れず、勢いよく身体を床板にぶつけた。衝撃の余韻を全身に味わいながら横たわる。
横たわった■■■の身体に、人の影が差した。
床に転がった■■■を見下ろしている、一人の男がいた。黒色のマフラーと、腕にある四葉のクローバーの焼印痕が印象的な男だった。
『騒がないでくれよ。死に急いでるんなら、話は別だが』
『ぁ、がァあああああ! ゔ、だぁあアああァ!!』
『まぁ、騒がない方が不自然な話ではあるか。さぞかし、俺達のことが憎いんだろうからな』
男はため息を吐きつつ、男を一瞥しただけで済ませた■■■の視線の先を見遣る。■■■の目に映るのは、母とソラの姿だけだった。
淡々と、なんの感慨もなく、男は眼前にある事実だけを伝えた。
『双方死亡済みだ。できることなら、母親の方は生かして捕らえておきたかったんだが。無理だったからな』
『……ず、ァ』
『それで気が晴れるとは到底思えないが、存分に恨めばいい。あんさんには、それだけの権利がある。──あぁ、その代わりと言っちゃあなんだが。恨む時は俺達『マールム』だけじゃなく、『この世』も一緒に恨んでくれや』
男は一切悪びれずにそう言い放ち、放心状態で動きを止めた■■■の隣に座る。
■■■の憎悪を受け止めながらも、超然とした態度を崩そうとしない男に、■■■は悪寒を覚えた。
『こんな風に何かへ縋らないと、生きることすらままならない。いやなんなら、安らかに死ぬことすらままならない。そんな世界に成った、この世をな』
『…………』
■■■は抵抗を諦めて、ただひたすらに母とソラの死体を見ていた。
いっそ盛大に騒いで、相手に頭突きの一つでもしてやって、死んだ方がマシだとも思った。が、死を望み『この世』を恨むことと同義の行為を働くのは、この男の言う通りに動くことになる。それは嫌だった。
『マコトちゃん。何か言い残しておきたいことはあるか?』
自身が乗っている馬車に続いて歩く、後方の馬車に男は大声で呼びかけた。
男の似非演説に興味など露ほども持っていなかったが、『マコトちゃん』という名前で、■■■の意識は男の声へと集中する。
『──ああ、そう。ならいい』
手足を縛られた状態で横たわっている■■■には、後方が見えない。
マコトと呼ばれる人間が、どのような反応をして男に応じたかは知らないが、男の反応を鑑みるに言葉を残すことを拒否したのだろう。何らかの言葉が届けられることはなかった。
男は首を振りながら、肩をすくめる。
『やれやれ。あんさん、嫌われてたのか? 最期くらい送別の言葉の一つや二つ、贈られても悪くないと思ったが』
『…………』
『だんまりか。反応してやるほどの価値もないって? まったく悲しいもんだな』
男は軽口を一度叩いた後、前方を確認する。少しの間、視線を緩慢な動作で左右に動かしつつ、観察。観察、観察、観察。視線が止まって、観察が凝視へと切り替わった。
すると、即座に御者へ『止まれ』と、静かな圧迫感を伴う一言を浴びせた。馬車は急停止する。
急停止に、後方の馬車が戸惑いながら、必死に足を止めさせる騒音が鳴り響く。
『これはまた、想定外だな。『白夜』の隊員が、こんな真夜中に、獣人族の領土内で彷徨ってるとは。そう簡単に輸入品を届けさせてはくれなさそうで、なによりだ』
『何処にいるんですか? 隊員なんて、見当たりませんが』
『俺は目が良いからな。あんさんらには見えないだろうね』
御者に疑念をぶつけられても、『白夜』の隊員が見えても、男は動じなかった。男は馬車から一度降り、周囲を軽く見回る。
御者は男の動きを見届けて、帰ってきた所を見計らってから指示を仰ぐ。
『どういたしますか。リーダー』
『あっちだ、遠回りする。行け』
男は『あっち』と言いながら、極相林の中の道と言うべき道がない、粗朶道を指差す。
御者は極相林特有の、腐植土に足を踏み入れることへ躊躇いを見せた。が、男が『行け』ともう一度指示を下せば、躊躇いを一寸も残さずに馬車を進ませた。
『追ってきてませんか』
『問題ない』
男と御者は僅かな会話を交わした後、沈黙を貫いた。
森の中は静かで薄暗く、動の気配を感じさせない。馬車が木の枝を踏み潰す音だけが残り、■■■にとっては無意味な時間だけが募り続けた。
*****
馬車が森を抜け出し、とある家の前で止まった。■■■や死体を置いて、馬車から次々と人が降りていく。
家の前で人々が留まり、待機をしていると、馬車の元へ近づくナニカの足音が明瞭に聞こえて、空気が張り詰める。
『ソイツらか?』
空気が張り詰める感覚を極限まで進行させた後、狼の耳が生やした獣人族が一人、家の陰から姿を現した。
男は震えるマコトの背中を押して、獣人族の前に立たせる。
『は、はい。こち、らが、契約どおり、の……イケニエ、です』
マコトは■■■が乗っている馬車に、片手で案内する。
■■■は目を見開いた。
『ぁ、ゥ』
マコトのこの一言で、■■■は事の顛末を漸く理解した。マコトは、自身が生き延びるために最初から■■■や母、ソラ達を生贄として差し出す算段を持っていたのだと。
よくよく考えて、狩りを理解していれば、容易にわかる話だった。
痩せ細ったたった一つの肉を食い荒らすより、それを餌に栄養価の高い肉を引き寄せて食い荒らした方が、効率が良い。たった一つの痩せ細った肉も、生かしてもらうために目を皿にして、栄養価の高い肉を探すに違いないのだから。
マコトが■■■やソラに急接近して、好感度を稼ぐようにしたのも。マコトがそもそも、母についていったのも。
最初から全ては計算だった。全ては、虚無だった。
『……ぶ、ぁえ』
──ふざけやがって。
ふざけやがって、ふざけやがって、ふざけやがって、ふざけやがって。
■■■の中で、ありとあらゆる負の感情が渦巻いて、もはやどの衝動がどんな風に■■■の中で噴出しているのか。自分自身でも全てを計り知ることはできなかった。
『寄越せ』
獣人族が顎で指示を出す。人間三人が、母とソラの死体、拘束状態の■■■を馬車の中から引き摺り出し、獣人族の前に陳列した。
二つの死肉を眼前に並べられた時の匂いに、獣人族が眉を顰める。
『鮮度が悪くならないように、なるべく生きた状態で食わせろ。特に、栄養価の高い肉は。……そう、わざわざ口にして、言ってやったよな?』
『申し訳ありません。わたくし共は最善を尽くしたのですが、』
説明を施した一人の女が、獣人族に首を食い破られる。血が吹き出して、地面と獣人族を血で染め上げた。獣人族は一人の女の肉を何度か咀嚼した後、血溜まりに向かって唾混じりに吐き出す。
小さな悲鳴と息を呑む僅かな動揺が、獣人族を前にした人間達の中で広がる。リーダー、ただ一人を除いて。
『言い訳は聞いてないだろ、白痴共が。逐一口を開くな。──次はこの程度じゃ済まさない、いいな?』
恐怖に陥った人間達が一斉に頭を下げ、震える喉を酷使して、口々に『申し訳ございません』と謝罪の呪文を吐いた。
獣人族は、血に塗れた口元を手で乱雑に拭う。口元を拭い、目で一つ二つ肉を品定めした結果、■■■よりも先にソラと母の死体に目をつけた。
『ゃ、えお、』
■■■が縄をつけられた状態で抵抗するも、みっともなく足掻くだけの微かな動作は、獣人族の眼中にすら収まっていない。
その事実は、この場にいる人間の形をしたナニカ共にとっては安堵の事実のようで。多くが目を細めて、安堵の一息を吐く。ついには、拍手まで始めるものまで居た。
『……ぃ、あ』
ぐしゃり、ぐしゃり、ぐしゃり。
形がなくなっていく。ソラが、母が、冒涜されていく。信頼も、愛も、何もかもが無意味に地へ還されていく。
還されて、返されて、替えされて、
『あ』
獣人族と、目が合った。
『……ぃ、え』
──死ね。
『ぃね、いえ、ィぇ、ィエ、イねェエ!』
死ね、死ね、死ね、死ね、死ね。
この場にいるニンゲン、この場にいる獣人族、何もかも、全て。死ね。
死ねよ。
『あ? なんだこい、』
『つ』と唇を動かした頃には、獣人族の腹に金属製の針が突き刺されていた。
金属製の針を生成し、手らしきもので刺したのは。乳白色の皮膚、露出した肋骨と心臓の異形。■■■の憎悪に呼応して顕現した、何かだった。
『ぁ、ぶぁ……でめぇ!』
金属製の針を腹から抜かれ、獣人族の腹からは鮮血がほとばしる。
眼前の事実を遅れて把握した獣人族が、腹を手で押さえながら、付近にいた女児──マコトを肉盾にした。
『ひっ、ぅ』
異形は獣人族を追って、金属製の針を突き出したが、マコトを認識した途端に動きを止める。マコトの首筋に血が流れたが、掠り傷程度の怪我だった。
獣人族が喉奥に笑い声を忍ばせる、奇妙な笑い声を上げながら、マコトの背後から移動してすぐ近くの男の背後に隠れた。
『人間は殺せなぃ、甘ったれだヤツだな、でめぇのことは、しら、ねえが! ずぐに殺しで、剥いで、バラバラに、しでェ、暴いて、ぐぶぁ……ッゃる!』
血が流れ続け、息切れと眩暈がやまない獣人族だが、身体から溢れ出る痛みを誤魔化すための興奮が、なんとか身体を突き動かす。
異形から離れて走り出すには、もう三回ほど肉盾を利用して動く必要がある。そう見立てて、獣人族は動き出したが──、
『ァ?』
肉盾にした男も巻き添えにして、異形は複数の金属製の針を頭上で生成し、重力に従わせて落とした。
男の脳天と獣人族の肩に金属製の針が突き刺さり、双方目を見開いたまま倒れ込む。痙攣を起こしながら地面でのたうち回り、悶えるも、異形は一瞥もせずにそのまま放置した。
痙攣して、窒息の一息を吐いて、動かなくなった。
『ま、まて、まてまてまてまて、しにたくな、しにたッ、』
命乞いを始める人々に、異形は無慈悲な死と血を与える。突き刺して、血溜まりをまた一つ、また二つ、増やしていく。
マコトは、その光景を見届けるだけの傍観者になっていた。
『なんで』
殺戮が一通り終わって、異形の動作が止まると。マコトは震えた声で、異形を──否、■■■を呼びかける。
『なんで、わたし、を。いかしたの?』
『なんで、』と小さく唱え続け、マコトは拘束されたまま動かないでいる■■■の元へと、覚束ない足取りで接近する。接近した。
接近した、が。次の瞬間には、マコトの喉は使い物にならなくなっていた。
『みち、ずれだ。ざまぁい、ろォ、かす。ぉの……ばけもご、ごぉ、がぁ』
マコトの首を食い千切った獣人族は、マコトに続いて倒れ込んだ。
そこから、■■■の記憶は暫く空白だった。
*****
『……これは。君がやったこと、なのかな』
橙色の髪と、金色の眼をした男が、■■■に問いかける。
空白の記憶の間、気づかないうちに拘束が解けていた■■■は、男を見上げた。
男は■■■と同じように、煮え湯を飲まされたかのような、苦痛の表情を覗かせていた。同情的な眼差しでありながら傲慢さは感じられず、慈愛に満ちた声色をした美しい男だった。
『────』
『こんなに私の近くで、惨状が繰り広げられていたというのに。気づけなかったとは……我ながら、非常に不甲斐ない』
虚ろで、生ける屍と化した■■■を男は抱擁し、
『もう、だいじょうぶだよ』
*****
四方八方に、ルカを囲い込む剣身が生成されていた。
「あ、」
ルカは力強く目を閉じる。
固有魔法『結界』を発動させようにも、間に合わない。アンズがルカを庇おうにも、ルカが飛び出すなどという愚行を犯したが故に、間に合わない。
死ぬ、
「…………」
──、────。──。
──あれ、
「……っ?」
貫かれる痛みと金属の冷たさに備えて、身を縮こまらせてその瞬間を待っていた。が、いつまで経っても、痛みと冷たさが身体に到来するその瞬間がやってこない。
ルカはゆっくりと、目を開ける。ひらけたルカの視界には、一人の男が映り込んでいた。橙色の髪が風に靡く、美しい男だった。
「これは、どういう状況なのかな」
「──レオン、さん」
第三部隊隊長、レオン。
レオンの登場に、この場にいた誰もが驚愕した。その衝撃を代表したかのように、メイズが名前を溢した。




