「名前のない日々」
春。
桜が咲いていた。
駅前のカフェ。
窓際の席で、
神代レン
は参考書を開いている。
だが。
五分に一回くらい、
スマホを見る。
落ち着かない。
完全に。
待ち合わせでそわそわしてる男子だった。
店のドアベルが鳴る。
「ごめん、遅れた!」
明るい声。
レンが顔を上げる。
そこには、
少し息を切らした
白銀ユイ
がいた。
銀色の髪が、
春の光で柔らかく見える。
レンは苦笑する。
「三分な」
ユイがむっとする。
「細かっ!」
そう言いながら、
レンの向かいへ座る。
このやり取りも、
もう何度目か分からない。
あの日。
雨の踏切で出会ってから。
二人は、
少しずつ話すようになった。
最初は偶然。
次は駅。
その次は本屋。
気づけば、
連絡先を交換していた。
レンは、
ユイへジュースを渡す。
りんごジュース。
ユイが笑った。
「またそれ?」
「好きだねぇ」
レンは少し首を傾げる。
「……なんか落ち着くんだよ」
本当は。
理由なんて分からない。
でも。
その味を飲むたびに、
胸の奥が少しだけ温かくなる。
ユイがストローをくわえながら、
ふと窓の外を見る。
「ねぇ」
「レンってさ」
「時々、
すごく遠い顔するよね」
レンが目を瞬かせる。
「遠い?」
ユイは頷く。
「なんていうか」
「すごく長い夢から、
急に戻ってきた人みたいな」
レンは苦笑した。
「なにそれ」
でも。
否定はできなかった。
時々、
夢を見る。
白い世界。
巨大な本。
空の向こうの光。
知らない誰かと笑っていた記憶。
目が覚めると、
全部忘れる。
なのに。
寂しさだけ残る。
ユイが、
小さく言った。
「私もね」
レンが顔を上げる。
ユイは少し迷ってから、
続けた。
「夢見るんだ」
「誰かが消えそうで、
すごく怖い夢」
静寂。
レンの胸が、
少しだけ痛んだ。
理由は分からない。
でも。
その言葉を聞いた瞬間。
“もう大丈夫だ”
そう言いたくなった。
レンは、
静かに笑う。
「じゃあさ」
ユイが見る。
レンは照れ臭そうに、
窓の外を見ながら言った。
「消えないように、
これからいっぱい思い出作ればいいんじゃね?」
ユイが、
目を丸くする。
そして。
少しだけ笑って。
「……うん」
と答えた。
桜が風で舞う。
電車が通り過ぎる。
世界は普通だった。
魔法もない。
ログもない。
誰かに観測されることもない。
それでも。
この日々は確かに、
二人だけの“続き”だった。
遠くで、
踏切の音が鳴る。
カン、カン、カン――
でも今回は。
誰も、
消えなかった。




