第六話 水面
蒼は、紗羅とミチルに見送られながら家を出た。
「行ってくるよ」
「気をつけてね」
「そーちゃん! いってらっしゃ~い」
蒼は軽く手を挙げ、それに応える。
そして城門へ向かい――クロ、シロと合流した。
「ここか?」
「あぁ。この下に何かがあるはずなんだ」
蒼の視線は、あの底の見えない深淵へと向けられている。
「行こう」
「シロは上からサポートをよろしく」
「分かった」
短く言葉を交わし、蒼はロープを握った。
そのまま壁を伝い、ゆっくりと降下していく。
ギシッ……ギシッ……
ロープが軋む音だけが、暗闇の中に響いた。
片手で身体を支えながら、もう一方の手でケーブルと照明を設置していく。
カチッ……
パッ――
光が灯る。
これまで完全な闇に包まれていた深淵が、少しずつその姿を現していった。
「よし……下まで来た」
足が地面に触れる。
だが、照明の届く範囲だけでは、この空間の全貌はまだ見えない。
「シロ! ケーブルと照明を下ろしてくれ!」
「分かった」
上から、ロープに括り付けられた箱がゆっくりと降りてくる。
シュルシュル……
それを受け取り、中身を確認する。
「これで……」
蒼は手際よくケーブルを繋ぎ、照明を設置していく。
カチッ……パッ。
また一つ、光が増える。
さらにもう一つ――
闇は、確実に押し返されていった。
「あったのは……通路が一つ……か」
照らし出された先。
そこには、一本の通路がぽっかりと口を開けていた。
「あの先……確かに違和感があるな」
クロが低く呟く。
黒い瞳が、奥の闇を見据えていた。
「クロ。魂食はいないよな?」
「反応はない。何かがあったとしても、魂食ではないな」
「そうか……」
蒼は静かに息を吐く。
だが、その胸の奥では――
あの“呼ばれる感覚”が、確かに強まっていた。
まるで、この先に“答え”があるとでも言うように。
「行くぞ」
蒼とクロは、並んで通路へと足を踏み入れる。
光の届かない奥へ――
ゆっくりと、しかし確実に進んでいった。
作業をしながら進むため、歩みは自然と遅くなる。
(確実に……近付いている……)
胸の奥にある“何か”に引かれながらも、蒼は焦る気持ちを押し殺し、淡々と照明を設置していく。
カチッ……パッ。
また一つ、光が闇を削る。
「これは……」
不意に、クロが足を止めた。
その直後――
「あ……」
蒼も同じ違和感に気付く。
「これは……湿気?」
空気が、わずかに重い。
肌にまとわりつくような感覚。
魂楽界において、水場は極めて珍しい存在だった。
観賞用に整えられた場所以外に、自然な水など存在しないはず――
つまり。
「水があるのか?」
「そうみたいだな」
二人は顔を見合わせ、さらに奥へと進む。
やがて、少し開けた空間へと出た。
ピチャンッ…………ピチャンッ…………
「ここは……湿気が凄いな」
「水源が近いぞ」
声が壁に反響し、遅れて返ってくる。
完全に閉じられた空間のようだった。
「とりあえず、照明を付けよう」
蒼は周囲に照明を設置していく。
カチッ……パッ。
光が広がり――
その瞬間。
“……蒼……”
「呼んだか? クロ」
「呼んでいないが」
「おかしいな……」
確かに、聞こえた。
はっきりと、自分を呼ぶ声。
そして――
“蒼……目を開けて……”
「また!」
「どうした、蒼」
「今の、聞こえなかったか?」
「何のことだ?」
(聞こえて……いない?)
あれほど明瞭な声だった。
それなのに、クロには届いていない。
「そうか……これが俺を呼んでいた声か」
「お前にしか聞こえない声、か」
蒼は周囲を見渡す。
ピチャンッ…………ピチャンッ…………。
「水源は……地底湖……か」
照明の先。
そこには、静かに広がる水面があった。
光を受けて、わずかに揺れる。
地下深くに存在する――地底湖。
「それ以外は……何も見えないな……」
湖の向こう側は、闇に溶けて見えない。
ライトの届く範囲には、何も存在していなかった。
だが――
蒼の中では確信があった。
この場所に、“何か”がある。
そしてそれは――
確かに、自分を呼んでいる。
蒼とクロは、ゆっくりと地底湖へと近づいていく。
静まり返った空間。
水面は鏡のように、わずかな揺らぎすら見せていなかった。
二人はそのまま、覗き込む。
「これは……」
「なんと……」
同時に、息を呑む。
そこに映し出されていたのは――
「どこだ……?」
「魂楽界……ではないな……」
水面がわずかに波打っていて、ハッキリとは見えなかった。
次第に水面が穏やかになると、その景色が鮮明になっていく。
「下界か……?」
「これは……日本……?」
水面に広がっていたのは、日本列島の姿だった。
まるで空から見下ろしたような光景。
見慣れた地形が、はっきりとそこに映っている。
――ピチャンッ……
一滴の水が落ちる。
波紋が広がり、その景色は崩れ、ただの水面へと戻っていった。
「どういう事だ……?」
「これは……神の使者でも知らされていない事実だ」
クロの声にも、わずかな動揺が混じる。
「ここは、現世に繋がっているのか?」
「それはないだろう。だが……」
「だが……?」
「ここが下界に限りなく近い場所なのは、間違いないのだろうな」
「近い……」
蒼は、水面を見つめたまま呟く。
「目的は分からないが……下界を映す“モニター”のようなものかもしれん」
「モニター……」
その言葉に、胸の奥がざわつく。
「俺は……この地底湖に呼ばれたのか……」
「そういうことになるな」
「でも……何で俺の名前が聞こえたんだ?」
「下界がお前を呼んでいる……ということか?」
「くそっ……訳が分かんねー……」
蒼は頭をかきむしる。
だが、答えはどこにもない。
――ピチャンッ……
再び、水滴が落ちる。
波紋が広がり、もう一度、映像が浮かび上がる。
「何だ……ここは……」
「更に近付いたな」
先ほどよりも、はるかに鮮明な景色。
それは、日本列島ではない。
一つの街――
上空から見下ろした、都市の風景だった。
その瞬間。
蒼の心臓が、強く跳ねる。
「まさか……」
見覚えがあった。
忘れるはずがない。
「俺の……育った街か……?」
声が、かすれる。
――ピチャンッ……
再び、水面に波紋が広がる。
映像は揺らぎ、崩れ、消えていく。
残ったのは、静かな水面だけ。
だが――
蒼の胸の中には、消えないものが残っていた。
不安。
そして――確かな“繋がり”。
この場所は、ただの地下ではない。
現世と魂楽界を結ぶ、何かだ。
そして。
その“何か”が――
確かに、蒼を呼んでいた。
クロは、水面を見つめながら静かに目を細めた。
「……この湖、蒼の余命力に反応しているぞ」
「何!?」
思わず声を上げる蒼。
「吸い取っているわけではない。お前から漏れ出ている余命力を……“読み取っている”ようだな」
「読み取っている……?」
蒼は自分の手を見つめる。
「だから、お前の現世に繋がる場所を映し出しているのだろう」
「そうみたいだな」
クロは淡々と答えるが、その声にはわずかな満足感があった。
一つ、謎が解けたのだ。
だが――
蒼の視線は、水面に釘付けになったままだった。
「この映し出されている現世は……今なのか? それとも、俺の記憶にある過去なのか……」
「これだけでは判断できないな」
――ピチャンッ……
水滴が落ち、映像が波に崩されていく。
「俺の余命力で……何を読み取ってんだよ……」
蒼は右手に余命力を集める。
じわり、と光が掌に宿る。
「何をしている?」
「こうすれば……もっと詳しく分かるんじゃないか?」
そのまま、余命力を込めた手を水面へと伸ばす。
――触れた。
ひやりとした感触。
熱を帯びた掌を、冷たい水が包み込む。
バサッ――
クロはすぐに距離を取り、空中へと舞い上がる。
「大丈夫か?」
「今のところは……な」
水面に広がった波紋が、湖全体へと静かに広がっていく。
やがて――
すべての波が、収まった。
その瞬間。
新たな映像が、水面に浮かび上がる。
「何だ……?」
蒼は目を細める。
「……病室……?」
「知っている場所か?」
「知らねーよ。入院なんかしたことないし……」
そこに映っていたのは、白い部屋。
ベッドが一つ。
無機質な機械が並び、そこから伸びるチューブが――
一人の人物へと繋がっていた。
――ピッ……
――ピッ……
――ピッ……
「この音は……っ!!」
蒼の背筋に、電流のようなものが走る。
聞いたことがある。
連日、頭の奥で響いていた音。
――コツッ……コツッ……コツッ……
足音が近づく。
規則正しく、迷いのない音。
――カラカラカラ……
扉が開く音。
そして――
「蒼……来たわよ」
「え……?」
その声。
その姿。
扉の向こうから現れた人物に――
蒼は、言葉を失った。




