第十話 奇跡
それから――どれだけの時が流れたのか。
蒼には、知る術はなかった。
その間にも、何度か見舞いがあった。
友人と思われる声が、遠くで聞こえることもあった。
そして――
ある日。
ゆっくりと、目が開かれる。
差し込む光が強すぎて、細くしか開けられない。
(……視界も……ぼやけるな……)
たまに、こうして目を開けることが出来るようになっていた。
だが――
その瞬間に誰かがいることは、これまで一度もなかった。
決まって、視線は窓の方へ向くだけ。
(まだ……長くは……保てないな……)
意識が、また沈みかける。
ゆっくりと、瞼を閉じようとした――その時。
コツッコツッコツッ
カラカラカラ
コツッコツッコツッ
「蒼。来たわよ。……蒼?……あなた、目を……?」
(……母さん……?)
閉じかけた瞼を、必死にこらえる。
視界は、まだぼやけている。
それでも――
(輪郭が……分かる……)
すぐ近くに、誰かの顔がある。
「蒼!? 分かる? お母さんよ!」
(母さん……分かるよ……)
(毎日……来てくれてたろ……)
声を出そうとする。
だが――出ない。
伝えたい。
その一言が、届かない。
「蒼!」
母親が、手を握る。
その温もりは、いつもと同じ。
優しくて、確かな温かさ。
(毎日……温もりをくれてただろ……?)
握り返したい。
その想いに、力を込める。
だが――
指は、動かない。
「蒼……!」
母親の目から、涙がこぼれる。
(泣くなよ……)
(俺は……ここにいるだろ……?)
(でも……ありがとう……)
想いは、胸の中に溢れていく。
けれど――
届かない。
どれだけ願っても、届かない。
そして――
蒼の瞼は、ゆっくりと閉じられていった。
暗闇の中。
蒼は、意識だけがゆっくりと覚醒していくのを感じていた。
その闇の中に――
いくつもの光が、浮かび上がる。
(……何だ……?)
一つの光が、ゆっくりと近づいてくる。
そして――
蒼の意識へと、溶け込むように入り込んだ。
(……これは……)
そこに映し出されたのは――幼い頃の自分。
隣には、もう一人の子ども。
泣いている。
「泣くなよ。俺も探してやるから」
小さな蒼は、必死に何かを探していた。
広い公園。
遊具が並び、子どもたちの声が響いている。
二人は走り回る。
そして――
「あったー! これだろ?」
小さな手に握られた、落とし物。
「これだよ! 良かった〜。ありがとう、蒼!」
笑顔。
その瞬間――
光が一つ、静かに消えた。
(あったな……あんな事……)
次の光が、近づいてくる。
そして、また意識の中へ。
「ばあちゃん、どうしたの?」
少し成長した蒼が、荷物を抱えて困っている老婆に声をかけていた。
「この辺りに孫の家があるはずなんだけどねぇ……」
「住所は?」
「これなんじゃが……」
紙に書かれた住所を見る。
スマホで確認し、すぐに答える。
「ばあちゃん。ここ似てる町名だけど、駅の反対側だよ」
「あらあら、そうかい……仕方ないね〜」
「ばあちゃん。荷物持ってやるよ。ほら、こっちだよ」
「坊や、ありがとね〜」
「いいってことよ」
そのやり取りと共に――
また一つ、光が消える。
(……懐かしいなぁ……)
次々と、光が近づいてくる。
そして、蒼の中へと流れ込む。
迷子の子どもを助けた記憶。
不良に絡まれているクラスメイトを助けた記憶。
怪我をした人を助けた記憶。
迷い猫を探した記憶。
……
……
……
そして――
最後に浮かび上がった光。
(……これは……)
紗羅を――
事故から助けようとした、あの瞬間。
(……今、生きている俺が諦めたら……)
(また紗羅に怒られそうだな……)
紗羅を助けようとして、事故に巻き込まれたあの日。
そして――
二人で魂楽界へと辿り着いた。
紗羅は、その出来事をずっと気にしていた。
だからこそ――
蒼が生きていたと知った時、本当に嬉しそうに笑っていた。
(まだ……出来ること……あるじゃねーか)
蒼の意識は、迷いなく前を向く。
(やるなら……肉体が覚醒する時……)
静かに、その瞬間を待つ。
――
――
――
「先生! 蒼が……もう長いこと反応が……」
「あの状況から今生きていること自体が奇跡であることを、ご理解願います」
「でも! 前は目を……目を開けたんですよ!」
「母さん……。蒼を信じて……待とう……」
「お母様も毎日全身を動かして頂けてますので、身体も硬くならずに済んでいます」
「ウッ……ウッ……」
「母さん……」
「ですが、脳の損傷については、いつ何が起こるか分かりません……今は良い方に進んでますが……」
「……蒼……」
――会話は、はっきりと聞こえていた。
(……聞こえる……)
(今日は……調子がいいかも……)
蒼は、意識を集中させる。
まずは――目。
(瞼が……重いな……)
それでも、諦めない。
(そう……余命力を込めるように……)
意識を一点に集める。
ゆっくりと――
ゆっくりと――
瞼が、持ち上がる。
「あっ! 蒼! 目が……!」
「蒼!」
(母さん……父さん……)
ぼやけた視界の中に、二人の姿が映る。
その光景を、焼き付けるように見つめる。
母親の手が、蒼の手を握っている。
(この温もり……いつも……ありがとう)
今度は――手へ。
意識を集中する。
力を、込める。
わずかに――
ピクッ
「あなた! 蒼が! 蒼が、握り返してきたわ!」
「蒼……分かるんだな」
「奇跡だ……」
医師ですら、息を呑む。
それは――
確かに、奇跡と呼ぶに相応しい瞬間だった。
(ふぅ……伝えないと……)
蒼は、口に意識を集中させる。
わずかに――口が開く。
しかし、
ヒュー……
(声が……出ない……か)
「蒼? 今……何か……」
「言いたいことが……?」
(喉が……乾いて……)
「蒼、話したいのね……ちょっと待って……」
母親が、そっと口の中をケアする。
乾いていた感覚が、ゆっくりと潤っていく。
(母さん……)
もう一度――
声に、意識を集める。
「……か……あ……さ……」
かすれた音。
それでも、確かに紡がれる言葉。
「……と……さ……ん……ご……め……、あ……りが……と……」
「蒼! 何謝ってるの! 感謝するのは私たちよ!」
「あぁ……生きていてくれて、ありがとう。蒼」
「蒼! ありがとう! ありがとう……」
「か……あ……さん……」
その瞬間――
プツンッ
蒼の意識の奥で、何かが切れる音がした。
ピーッ――
「バイタルチェック! 急げ!」
「蒼……? 蒼!?」
「蒼!」
「CTだ! 急げ!」
――
――
――
「お気の毒ですが……」
「いやぁぁぁぁぁぁ…………!」
暗闇の中。
ひとつ、またひとつと――光が集まってくる。
二つ、三つ……やがて数えきれないほどの光が、周囲に漂っていた。
集められた光は、ただ前へと進む。
すると――
突然、視界が開けた。
眩しいほどの光に満ちた空間。
その中心に、一人の人物が立っていた。
「今日も多いな……どれどれ……」
その人物は、集まった光を一つ一つ見つめていく。
「君はこっち。君もこっち。あ、君はあっちだ。君は…………」
まるで、何かを選別するように。
淡々と、迷いなく振り分けていく。
そして――
一つの光の前で、わずかに手が止まった。
「君……へぇ、二回目かい? 珍しいね。こっちだ」
(二回目……?)
意識が揺れる。
「行ったら分かるよ」
それだけ言うと、その人物はすぐに次の光へと向き直った。
導かれるままに進む。
――
――
――
やがて。
再び景色が変わる。
そこは――自然に囲まれた場所だった。
大きな木が一本、静かにそびえ立っている。
集まっていた光たちは、次々と人の形を成していく。
「俺は……」
自分の姿を見下ろす。
その時――
バサッ バサッ バサッ
羽ばたきの音。
空から一羽のカラスが舞い降り、大樹の枝に止まる。
「ようこそ。ここは魂楽界だ」
聞き慣れた声。
ゆっくりと顔を上げる。
「…………知っているよ」
そして――
「……久しぶりだな。クロ」




