第九話 惜別
湖面は、水滴によってわずかに波打っていた。
すでに景色は消え、ただの静かな水面へと戻っている。
「関わりのある人物、場所が映し出されるのか……」
クロは、地底湖の様子を観察しながら呟いた。
照明の届かない湖の奥へ飛んでみたり、水面をかすめるように滑空したりと、独自に調査を続けている。
「クロ。そろそろ帰るか?」
蒼が声をかける。
「そうだな」
クロが羽ばたき、蒼のもとへ戻ろうとした――その時だった。
「がっ!?」
蒼が突然、頭を押さえる。
「……蒼っ?」
「え?そーちゃん!!」
「ぐっ……あがっ!!」
苦しそうな声。
次の瞬間――
蒼の全身に激痛が走った。
そのまま地面へと倒れ込み、転げ回る。
「ちょっと!?どうしたのよ!」
「そーちゃん!!どうしたの!?」
紗羅とミチルの声が重なる。
クロはその様子を見つめ、静かに告げた。
「……蒼の魂が、消えかかっているな」
「消え……?」
「そーちゃん!!」
「ぐわぁぁぁっ!! うぅああああぁぁぁっ!!」
蒼の叫びが洞窟内に響き渡る。
その時――
暴れる腕が湖面に触れた。
ピチャンッ……
水面が波紋を広げる。
そして――
再び、現世の映像が映し出された。
「先生!蒼が……蒼が!」
そこには、取り乱した母親の姿。
現世でも、何かが起きていた。
「…………」
ふいに。
蒼の声が止まる。
身体の動きも、完全に止まった。
「蒼!」
「そーちゃん!!」
紗羅とミチルが駆け寄ろうとする――その瞬間。
蒼の身体が、淡い光を放ち始めた。
「な、なに……?」
「そーちゃん……」
光は次第に強くなり――
やがて。
スッ……
静かに消えていく。
そして――
そこにあったはずの蒼の姿も、
零命剣と零命銃だけを残し、消えていた。
それは、あまりにも突然だった。
頭が――割れそうなほど痛む。
全身が、焼けるように熱い。
(……この痛み……あの事故の……)
蒼は、気付いた。
これは――本来、自分が受けるはずだった痛みだ。
魂楽界へ来たとき。
蒼は、痛みを感じることなく“死”として扱われた。
だが――
実際には、生きていた。
あの時の痛みは、現世の自分が引き受けていたのだ。
(魂の俺にも……同じ痛みを味わえ……ってか)
そこまで理解したとき、確信が生まれる。
(……そうか。俺……現世に……戻るんだな……)
視界は暗い。
身体は動かない。
(紗羅……ミチル……別れも言えなかったな……)
意識が、遠のいていく。
・・・
・・・
・・・
「先生!蒼がっ……! 動いたんです!」
「奇跡的に覚醒した可能性があります。声をかけ続けて下さい」
「はいっ! 蒼? 蒼! もう大丈夫よ!」
「バイタルは異常なし。他は……」
声が――はっきりと聞こえる。
誰かに、手を握られている感覚もある。
けれど――
声が出せない。
手も、動かせない。
(身体が……だるいな……)
まるで、何年も動かしていないかのような重さ。
(……いや、実際そうか……)
動かせる場所を探る。
意識を集中させる。
すると――
(目が……開く……か?)
ゆっくりと。
ゆっくりと。
鉛のように重い瞼が、わずかに持ち上がる。
(ま、眩しい……)
「蒼!? 目が……目が開いてる! 見える?」
(視界が……定まらない……)
光が強すぎて、何も映らない。
それでも――
蒼の視線は、自然とある方向へ向いた。
窓の方へ。
(……これは……魂が揺らいだ時の感覚と……同じ……?)
そこに窓があるかどうかすら、確信はない。
だが、視線は迷わず向いていた。
(外の景色は……)
ぼんやりと、何かが見える。
(木の枝……?)
いや――
(そう……思い込んでいるだけ……か……?)
長い間、光を映してこなかった目。
そこに映るものが、
本当に現実なのか――
それとも記憶の残像なのか――
蒼には、まだ分からなかった。
「クロ! 蒼は? 蒼はどこに行ったの!?」
「そーちゃんはどこ?」
紗羅とミチルが、突然姿を消した蒼の行方を問い詰める。
クロは、変わらぬ冷静さで答えた。
「あいつの魂は、もう魂楽界にはない」
「……え?」
「どーゆうこと?」
「今、あいつの魂は下界にある」
「そんな……」
蒼が生き返る事を望んでいたはずの紗羅だったが、いざ目の前で消えた蒼に対して、かなりの喪失感を覚えた。
「……うわぁ~ん……」
ミチルは、初めて訪れた大切な人との別れに、大声で泣き叫ぶ。
あまりにも突然の別れ。
二人の感情は、それを受け止めきれなかった。
・・・
・・・
・・・
(……どれだけ時間が経ったんだ……?)
蒼は、何も出来ないまま、ただ意識だけが漂っていた。
時間の感覚すら、曖昧になっていく。
(……ずっと暗い……)
何も見えない。
何も動かせない。
(意識も……だんだん、肉体に……引っ張られていく感じが……)
魂楽界にいた時の、あの鮮明な意識。
それが、ゆっくりと溶けていくように薄れていく。
「蒼。分かる? お母さんよ!」
「蒼……」
(分かるよ……母さん。それに……父さん)
確かに、声は届いている。
だが――
(伝えられない……)
何も、返すことが出来ない。
(何か……方法は……ないかな……)
思考を巡らせようとするが――
意識は、すぐに遠のいていく。
まるで気絶するように、眠りへと落ちていった。
「蒼……声を……聞かせて……」
「母さん……」
二人の想いは、届かないまま消えていく。
・・・
・・・
・・・
(……ん?)
暗闇の中。
かすかな光が見えた。
(あそこに……何か……あるのか……?)
だが、身体は動かない。
近づくことも出来ない。
「……うわぁ~ん……」
(泣き声……? 誰の……?)
ぼんやりとした意識の中で、耳を澄ます。
(……この声は……)
聞き慣れた声。
だが、こんな風に泣くのは――
(……ミチル……)
「生き返るにしても……急過ぎるじゃない!」
(……紗羅……)
光は、ただそこにあるだけ。
手を伸ばしても、届かない。
(二人とも……ごめんな……)
そして――
(……ありがとう)
その想いを胸に。
蒼は、ゆっくりと目を閉じた。
蒼の意識は、ぼんやりと漂っていた。
身体は――動かないまま。
(……身体が眠ったままだと……意識もぼーっとしてくるな……)
カラカラカラ……
扉が開く音が響く。
「……蒼さーん。入りますよー」
コツッコツッコツッ
カチャッカチャッ
サッサッサッ
……
耳元で、いくつもの音が重なる。
おそらく、日常的に繰り返されている作業。
そして――
「また来ますからね」
コツッコツッコツッ……
カラカラカラ……
足音が遠ざかり、静寂が戻る。
(……看護師さん……かな……)
・・・
・・・
・・・
(……ダメだな。このままじゃ……)
蒼は、わずかでも動こうとする。
身体に力を込める。
だが――
(……動かない……)
次に、口を開こうとする。
しかし、それも叶わない。
声も出せない。
(……目は……?)
瞼に意識を向ける。
だが、開く気配はない。
(……意識が……肉体の無気力感に……侵されていく……)
沈んでいく。
深く、暗い底へ。
カラカラカラ……
再び、扉が開く音。
コツッコツッコツッ
「おはよう、蒼」
(……この声は……母さん……)
沈みかけていた意識が、一気に引き上げられる。
はっきりとする。
手を、握られる感覚。
(……伝わる……)
(……返さなきゃ……)
力を込める。
握り返そうとする。
だが――
やはり、動かない。
・・・
・・・
・・・
「先生……蒼は……」
「彼は一時的に覚醒した状態で……」
「じゃあ、今は……?」
「最小意識状態である可能性が十分にあります」
「それは……?」
「反応はなくとも、周りの状況を理解していると……」
「蒼が……?」
「ただ、この先も……」
「……そ、そんな……」
会話が、はっきりと聞こえる。
蒼は、その言葉に意識を集中させる。
(まだ……可能性があるなら……)
消えかけていた意識が――
再び、強く灯り始める。
――覚醒へと、近づくように。




