11|禁書庫の足跡
大臣たちが去ったあとの玉座の間には、妙な静けさが落ちていた。
誰も声を立てないのに、空気だけが重い。高い天井を支える柱も、水の紋章も、何ひとつ変わっていないはずなのに、そこへ持ち込まれた話だけが、この場の輪郭を少しずつ変えていた。
僕は赤い絨毯の端を見つめたまま、呼吸の深さだけを整えようとしていた。
全ては書庫で見た禁書、そこに記された予言から始まった。さらに深碧の社で起きたことも、まだ胸の奥で音を立てている。頭の中は少しも落ち着かなかった。
イリシアは玉座に腰掛けたまま、指先ひとつ動かさなかった。ただ、その視線だけは静かにこちらへ向いている。
そして女王の声が、張りつめた空気の中へ落ちた。
「あなたが書庫で見た書は、題も著者名もなく、朱印だけが押されていたのですね」
「……はい」
「そして、あなたにだけ古代文字の意味が伝わった」
「そう……だと思います」
曖昧な返事に聞こえたかもしれない。けれど、それ以外に言いようがなかった。目で追って読んだ、とは少し違う。意味の方が勝手にこちらへ流れ込んできたのだから。
イリシアはごくわずかに目を細めた。
「古代文字の解読。蒼い光。そして、闇に関する予言……ですか」
その言葉は誰かへ確認するためというより、自分の中で並べ直しているように聞こえた。左右に控えていた文官たちも、張りつめた顔のまま沈黙している。
やがて、扉の外から足音が近づいてきた。
重い扉が開く。
先ほど出ていった大臣たちが戻ってきた。先頭にいた男は玉座の前まで進むと、膝を折って頭を下げる。
「ご報告いたします」
その声には、さっきまでよりはっきりと緊張が滲んでいた。
「フィオル・ストラティの申告した棚を確認いたしましたところ、道標の書を発見しました」
僕は思わず顔を上げた。胸の奥で張っていたものが、ほんの少しだけほどける。あれは見間違いでも、夢の続きでもなかったのだ。
けれど、大臣の表情は少しも和らいでいなかった。
「加えて、念のため禁書庫の内部も確認いたしました」
その一言で、広間の空気がまた硬くなる。
上層の奥にある、あの閉ざされた扉の向こう。
近衛番からも、近づくなとだけ言われていた場所だ。そこが開かれたのだと知って、僕は無意識に息を呑んだ。
イリシアが静かに問う。
「禁書庫は、どうなっていましたか」
「封は無事でした。鍵にも異常はありません。無理に開けられた形跡もございません」
短い報告だった。
けれど“異常がない”という言葉が、かえって不気味だった。
「……なぜか書は本来の保管場所から持ち出され、上層の棚へ移されていたということになりますね」
「はい。そのことですが」
大臣はそこでわずかに言葉を切った。
「禁書庫の床は、長いあいだ人の出入りが少ないため、かなり埃をかぶっておりました」
僕はその続きを、聞く前から怖かった。思わず唾を飲んだ。
「道標の書が保管されていた棚の前に――足跡が残っていたのです」
玉座の間が、しんと静まり返る。
「賊が入ったと?」
イリシアが眉を寄せて呟いた。
報告している男は、顔を上げないまま続けた。
「いえ、それが……子どもの足跡と思われます」
背筋が、ぞくりとした。
子どもの足跡? 禁書庫の中に?
「それは、外部からのものですか?」
イリシアの問いは短かった。
「……いえ」
その返答は、もっと短かった。
「足跡は、禁書庫の入口から続いていたわけではありません」
広間の空気が凍りつく。
「不可解にも禁書庫内部の途中から、突然始まっていたのです」
大臣はそこでようやく顔を上げた。その表情には、ただの困惑ではないものが浮かんでいた。理屈で説明できないものを目にしてしまった人の顔だった。
「道標の書が収められていた棚の前へ向かって、まっすぐに」
誰も言葉を挟まない。その光景が、あまりにもはっきり頭の中へ浮かんでしまったからだ。
まるで、そこに最初からいた何かが、迷いなく道標の書の棚へ向かい、それを持って外へ出た――そうとしか思えなかった。
「……外から忍び込んだ者の痕ではない、ということか」
別の大臣が低く言う。
「はい」
答える声には、わずかな震えがあった。
「足跡は棚の前で明瞭に残っておりました。道標の書が抜き取られた痕も一致しております。その後、上層の閲覧棚に本を動かしたと考えれば……」
そこから先は、言葉にされなくてもわかった。
僕の前に、あの本は現れた。偶然、本来あるはずのない場所へ紛れ込んでいたのではない。
ユースルフィアが言っていたとおり誰かが、いや、何かが、僕に見つけさせるためにそこへ置いたのだ。
胸の奥が、嫌な音を立てた。
僕はあの本の蒼い背表紙を見た時、導かれるように近づいた。でも違ったのかもしれない。
僕が本へ近づいたんじゃない。本の方が、僕のいる場所まで来ていたのかもしれない。
ユースルフィアが、隣で静かに口を開く。
「まるで子どもの悪戯みたいだ……」
誰へ向けたわけでもない、低い声だった。
イリシアはしばらく黙っていた。玉座に腰掛けたまま、指先ひとつ動かさず、ただ静かに考えている。やがて、ゆっくりと息を吐いた。
「道標の書は、禁書庫の奥に保管されるべき書」
低い声だった。
「それが、閉ざされた扉の外へ出て、古代文字を読める少年の前に現れ、予言を読ませたのち、予言通りの異変が起きた」
言葉が一つずつ、玉座の間の中央へ置かれていく。
「偶然にしては、出来すぎていますね」
誰も答えなかった。答えられなかった、という方が正しい。イリシアは改めて僕を見た。
「ストラティ。あの書に記されていた文を、もう一度聞かせてもらえませんか」
喉の奥が乾く。
「……はい」
息を吸う。
頭の中へ、あの頁の感触が戻る。書庫の灯り。光る文字。意味だけが胸へ落ちてきた、あの奇妙な瞬間。
僕はゆっくりと口を開いた。
「闇 世を覆ふ時
我らが母 蒼き光を生む
その蒼光を纏ひし者は
調律へ導く――道標」
広間の空気が、わずかに揺れた気がした。続けて、もうひとつの文を告げる。
「……調律より二百年、封印は解けゆくだろう」
最後の言葉を口にしたあと、しばらく誰も動かなかった。重い沈黙ののち、イリシアが静かに言う。
「封印。蒼き光。闇」
その三つを、確かめるようにひとつずつ置いていく。
「深碧の社で起きた現象が、この予言の示す“封印の綻び”だとすれば……いま世界各地に現れている異変も、同じ根を持つと考えるべきでしょう」
そこまで言ってから、初めて大臣たちを見渡した。
「以後、あの現象を単なる異変とは呼べませんね」
広間の全員が息を呑んだ。イリシアの声は低く、はっきりしていた。
「二百年前の記録に倣い、それを――“歪み”と呼びましょう」
その一言が落ちた瞬間、言葉が現実そのものへ名前を与えた気がした。
歪み。
たしかに、それはただの裂け目ではなかった。空間だけじゃない。理も、命も、祈りの場そのものさえ捻じ曲げていた、現実離れした現象だった。
僕は自分の指先を見下ろした。そこには何もない。けれど、深碧の社で残った熱の名残が、まだ皮膚の奥に沈んでいる気がした。
あの歪みを前にして、僕の中の蒼い光は目を覚ました。そして、道標の書は、そのことを最初から知っていたみたいに僕の前へ現れた。
玉座の間の空気は、もう後戻りできないところまで来ていた。
イリシアは静かに告げる。
「……話はここからです」
その声を聞いた瞬間、胸の奥が小さく鳴った。世界が、確かに動き出してしまったのだと、僕はその時ようやく理解した。




