10|あれから三日
――行かないで。
そう叫んだはずの喉は、ひどく乾いていた。
ゆっくりと瞼を持ち上げる。視界を埋めていたのは、病的なまでに白い天井だった。夢の中で見た、あの温かい夕暮れはどこにもない。鼻を突くのは、薬草を煮詰めたような鋭い香りと、魔導具が発する微かな焦げの匂いだった。
そこが蒼天の塔の上層にある医務室だとわかるまでに、少し時間がかかった。
「……」
掠れた声が、静かな部屋に落ちる。
指先を動かしてみる。感覚はある。けれど、身体の芯には重い倦怠感が居座っていた。まるで、骨の内側まで使い切ってしまったあとのような、妙な空虚さがある。
「フィオル!」
低く、落ち着いた声が、すぐそばで弾んだ。
ベッドの脇に置かれた椅子に、ユースルフィアが腰掛けていた。いつもなら乱れのない黒髪は少しだけ跳ねていて、その端正な顔立ちには隠しきれない疲労が滲んでいる。ずっとここにいたのだと、説明されるまでもなくわかった。
「……よかった。目覚めたんだね」
その一言に、張りつめていた三日ぶんの気配が詰まっていた。
「ユル……」
僕は起き上がろうとして、思ったよりも力が入らず、途中で止まった。ユースルフィアがすぐに背へ腕を差し入れ、身体を支えてくれる。
「無理しないで。まだ起きたばかりだから」
「僕……どれくらい……」
「三日」
その言葉に、意識が一気に澄んだ。
「三日……?」
「今日で三日。君が深碧の社の祭壇の前で倒れてから、ずっとそのままだったよ」
三日も眠っていたというその長さが、すぐには実感にならない。
深碧の社。祭壇。黒い霧。悲鳴。異形。蒼い光。そこまで思い出した瞬間、胸の内側が強く鳴った。
「ユル……!」
僕はユースルフィアの袖を掴んだ。
「神殿は……? あのみんなは? 黒い霧は、どうなったの?」
喉はまだ弱っているのに、言葉だけが先に溢れた。ユースルフィアは僕の肩へ手を置いたまま、静かに頷く。
「落ち着いて。ちゃんと話すから、少しずつ息をして」
その声に従って、どうにか呼吸を整える。ユースルフィアは机の上のトレイから香茶の器を取り上げると、僕の口元へそっと運んだ。少しぬるくなっていたけれど、その温かさが喉を通っていくと、ようやく自分が現実へ戻ってきたのだと感じた。
「霧は晴れたし、元凶の空間の亀裂も閉じたよ。……君が放った蒼い魔法が、全部洗い流してくれた」
ユースルフィアの言葉に、僕は息を止めた。
「祈りの間にいた生存者たちは助かった。君の結界が、黒い霧と異形を退けたんだ。それから、君は祭壇の上にできた亀裂そのものを浄化した。救護班が着いた時には、神殿はもう静まり返っていたよ」
そこまで話してから、ユースルフィアは少しだけ目を伏せた。
「生き残った人たちは、口を揃えて言っていた。蒼い光を纏った少年が、闇を射抜いたって」
「……」
言葉が出なかった。
蒼い光。弓。矢。たしかにあれは僕の手の中にあった。けれど、それを自分のこととして受け止めようとすると、頭のどこかが拒んでしまう。
「……なんか怖い……僕じゃないみたいだ」
やっと出た声は、情けないほど小さかった。ユースルフィアはすぐには否定しなかった。その沈黙が、かえってありがたかった。
「でも、世界はそう見ないかもしれない」
静かな声だった。
僕は顔を上げる。ユースルフィアは立ち上がると、重いカーテンを少し開いた。窓の向こうには、サンクレアの王都が広がっている。
いつもなら調和の日の翌日は、祭りの余韻に浸る人々で賑わうはずの時間だ。けれど眼下の街は妙に静まり返っていた。通りのあちこちに魔導士団の姿がある。巡回の数も多い。目に見えて、街の空気が変わっていた。
「異変が起きたのは、深碧の社だけじゃなかったみたい」
その言葉に、背筋が冷えた。
「セレスタニア大陸の数か所で、同じような亀裂が確認された。国境付近でも被害が出ているらしい。詳しい報告はまだ錯綜してるけど……少なくとも、深碧の社だけの出来事じゃない」
“封印は解けゆくだろう”。
あの禁書の言葉が、ひどく現実的な重さを持って胸へ沈む。あれは、本当に予言だったのだ。
「……僕は、どうしたらいいんだろう」
自然に零れた言葉だった。
ユースルフィアは窓の外を見たまま、少しだけ考える気配を見せる。それから振り返って、ベッド脇へ戻ってきた。
「そのことも含めて、陛下が君を呼んでる」
僕は瞬きをした。
「イリシア様が……?」
「うん。意識が戻ったら、来るようにって伝言を預かってる」
当然だ、とも思った。深碧の社で起きたことと、書庫で読んだ道標の書の内容は、もう切り離せない。黙って済む段階ではなかった。
僕はベッドの縁へ手をついた。
「じゃあ、行かなきゃ」
「待って」
ユースルフィアの声が少しだけ強くなる。
「まだ病み上がりなんだから、すぐはだめだよ。もう少し休んでから」
「でも――」
「でも、じゃない」
やわらかい声のままなのに、そこだけは譲らない響きだった。
「また倒れたら、話どころじゃなくなるだろ?」
僕は言葉を失った。その通りだとわかっている。けれど、止まっている間にも何かが遅れてしまう気がして、じっとしている方が苦しかった。
結局、もう一杯だけ香茶を飲まされて、呼吸が落ち着くのを待ってから、僕たちは医務室を出た。
玉座の間は静かだった。
高い天井。水の紋章が刻まれた柱。足音を吸い込む赤い絨毯。そこに立つだけで、自分の声が場違いなものに思えてくる。
女王イリシアは、玉座の前で僕たちを待っていた。左右には大臣たちが控えている。全員、深碧の社での一件をすでに知っている顔だった。
「フィオル・ストラティ」
イリシアの声が広間に響く。
「気分はどうですか」
「……大丈夫、です」
本当は少しも落ち着いていなかった。けれど、そう答えるしかなかった。イリシアは短く頷いた。
「では、早速ですが、話を聞かせてください。深碧の社で起きたこと。そして、その前に、あなたが書庫で見つけた書についても」
僕は喉を鳴らした。それから、できるだけ順を追って話した。まずは蒼く光る本を見つけたこと。書の名前。そこに古代文字が記されていたこと。意味が頭の中へ落ちてきたこと。そこに、「調律より二百年、封印は解けゆくだろう」とあったこと。
僕が話し終えると、控えていた大臣の一人が、すぐに顔をしかめた。
「なんですと?」
声がきつくなる。
「禁書が、大書庫へ置かれているはずがない。まさか禁書庫へ入ったのですか?」
広間の空気がぴんと張った。僕は口を閉ざした。大書庫にあったのは本当だ。けれど、それをどう言えば信じてもらえるのかがわからなかった。
その時、ユースルフィアが一歩前へ出た。
「お言葉ですが……」
いつもより少し硬い声だった。
「フィオルは禁書庫へ入っていません。書は大書庫の棚にあったそうです。僕はそこまでは立ち会っていませんが、フィオルが禁書庫へ忍び込むようなことをしたとは思えません」
僕もすぐに言葉を継いだ。
「……本は、あった場所へ戻しました。上層の柱の近くに――」
勝手に持ち出したわけではない。隠したわけでもない。ただ、そこにあったから手に取って、読んで、戻しただけだ。大臣はなおも何か言いかけたが、イリシアが手を上げた。
「よい」
その一言で、広間は静まった。イリシアは大臣たちへ視線を向ける。
「直ちに大書庫へ向かい、その書の確認をしなさい」
「は」
数名の大臣が一斉に頭を下げ、そのまま足早に玉座の間を出ていった。
重い扉が閉まる。その音だけが、やけに大きく響いた。残された広間に、静けさが戻る。
けれど、最初の静けさとは違っていた。何かひとつ、見えてはいけないものの輪郭が、いま確かにこの場へ持ち込まれた――そんな重さがあった。
イリシアは僕から視線を外さなかった。
「フィオル・ストラティ」
その呼びかけは、低く静かだった。
「確認が戻るまで、もう少し詳しく聞かせてください」
僕は小さく息を呑んだ。深碧の社で起きたこと。道標の書に記されていた予言。それらが、いまようやく一つの場所へ集まりはじめていた。




