一杯目のコーヒーと一粒の砂糖
「えーっと。次はこうして……ああッ!」
放課後の柔らかな西日が差し込む静まり返った店内に、金属製のキッチン道具が床と激突する、耳を劈くような派手な音が鳴り響いた。
重厚な木目調のカウンター、使い込まれたドリッパー。
焙煎された豆の香ばしさと、長年積み重なったどこか懐かしい埃の匂いが静かに沈殿するこの場所で、私の失態だけが鋭く空気を切り裂く。
「……あちゃー。またやっちゃった」
自分の不手際が生んだ惨状を前に、私はがっくりと肩を落とした。
ここは、とある街角の喫茶店。私が「店長」という、分不相応な重荷を背負っている場所。
「……失敗ばかりだな、私」
一人、散らばった計量スプーンやメジャーカップを拾い上げながら、ぼそりと独り言が漏れる。
拾い集める手元が、視界の端で微かに潤んで歪んだ。
……ダメ、泣いちゃダメ。
お婆ちゃんに任されたこの店を、私が守らなきゃいけないんだから。
私は溢れそうになる涙をこぼさないよう、「フンス!」と気合を込めて鼻を鳴らす。
無理やり口角を上げ、自分を奮い立たせるようにせっせと片付けを再開した。
カランコロン。
その時、入口のドアに取り付けられた真鍮のベルが、非情なほど軽やかに、そして透明感のある音色を奏でた。
(お、お客さん!? 嘘、今このタイミングで!?)
驚きのあまり、私はバネ仕掛けのスプリングのように弾けて立ち上がった。
心臓が早鐘を打ち、手足の先が急激に冷たくなる。
「い、いらっしゃいませ……っ!」
逆光の中、ドアの近くに立っていたのは一人の男子高校生だった。
制服こそ着崩しているけれど、その独特の落ち着いた、どこか冷めたような雰囲気が、私と同じ年代であることを無言で物語っている。
「す、すみません! い、いまちょっと手が空いてなくて……お、お好きなお席へどうぞ!」
「わかりました」
彼は短く、事務的とも取れる低い声で答えた。
そのまま迷いのない足取りで、店の一番奥、西日がブラインド越しに模様を描く窓際の角にある席を選んで腰を下ろした。
その席の小さな花瓶には、紫色の繊細な花——ハーデンベルギアが揺れている。
花言葉は『運命的な出会い』。
もちろん、パニック寸前で頭の中が真っ白な私が、そんなロマンチックで残酷な事実に気づくはずもなかった。
彼の方に視線を送ると、きょろきょろと好奇心というよりは確認するように店内を見渡しているのが見えた。
店員を探しているんだ! と勝手に決めつけた私は、焦燥感に突き動かされるまま、一目散にテーブルへと駆け寄った。
「す、すみません! お待たせしました。……ご注文、お決まりでしょうか?」
前のめり気味に尋ねた私を、彼は少しだけ驚いたような、キョトンとした顔で見上げた。
「えーっと……」
まるで、目の前にあるはずの何かを——そう、最も肝心な「情報の地図」を探すような戸惑いの視線。
「あ! メ、メニュー忘れた! す、すぐにお持ちしますっ!」
私はいつもそうだ。
目の前の課題にフルスロットルで集中すると、周辺の重要な事項が一瞬で脳内のゴミ箱へと消去されてしまう。
直そうともがいてはいるけれど、私のこの「ポンコツ仕様」なOSは、なかなかアップデートの兆しを見せてくれない。
けれど、カウンターへメニューを取りに走りながら、胸の奥で小さな違和感が風船のように膨らんでいた。
言葉にはできない、しかし確実に肌に触れるような潜在的な既視感。
(なんか、見たことあるな……。あの横顔、あの声……どこだっけ?)
私は自分の、お世辞にも頼りになるとは言えない記憶の図書館を必死にひっくり返した。 今まで来てくれた数少ない、顔なじみにもなれなかったお客さん。
通学路の雑踏。
……あるいは、学校?
唯一、カチリとパズルのピースが噛み合った「学校」という単語を頼りに、朝の騒がしい昇降口や、無機質な廊下ですれ違う無数の顔ぶれを高速で検索していく。
(……あっ!)
脳内の検索エンジンが、一人の生徒のデータでピタリと停止した。
(嘘でしょ? よりによって、クラスメイトの……白河君!?)
私がこの店で、必死に「店長」の仮面を被っていることを、クラスの誰にも——特にあの一軍グループには絶対に言えない、切実な理由がある。
けれど、目の前の彼が本当に、あの物静かで掴みどころのない「白河奏」なのか。
それを確かめずにはいられない衝動が、恐怖を上回った。
私は勇気を振り絞り、メニューを盾のように握りしめたまま、震える声で尋ねた。
「あ、あの……間違ってたら、ごめんなさい。……私たち、どこかで会ったこと、ある?」
これは、そんな不器用な二人が出会い、互いの欠けたピースを埋めるように——歪で、愛おしい日々を積み重ねていく物語。
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