七杯目:『琥珀は必ずしも琥珀とは限らない。しっかりと確認して初めて琥珀と判断できる』
「ぎいだ? ……うっ……う。ざっきのおぎゃぐざん……うっ。おいじがっだっで……」
客のいなくなった静寂が戻った店内に、子供のような泣きじゃくる声だけが木霊する。 一ノ瀬はカウンターの隅に丸まって、肩を激しく上下させていた。
えーっと、状況を整理して、なぜこんなことになっているのかを説明すると……。
俺がこの店で働き始めてから、記念すべき最初のお客さんがやって来た。
しかし、もともとこの店で供されていたのは、お世辞にも飲み物とは呼べない、例えるなら――そうだな。 『泥水』という名の黒い絶望を提供する喫茶店だった。
そんな魔窟のような店に、不運にも迷い込んでしまったあのお爺さんは、何も知らずに席に座り、品書きの中からカフェラテを頼んだ。
だが、従来のレシピのままであれば、提供されるのはラテですらなかった。
かつての『自称カフェラテ』は、あろうことかコーヒーが欠落し、砂糖と塩が混じり合っただけの温かい牛乳。
名付けるなら「ソルト・ホットミルク」という奇妙な代物だったのだ。
しかし、破滅へと向かう喫茶店に救世主が現れた。
白川奏。
店長である一ノ瀬琥珀のクラスメイトであり、数奇な運命の悪戯によって、この店でエプロンを締めることになった少年。
日頃の自炊経験と、数学的な手順を重んじる彼の指導が、彼女の拙い技術を劇的に改善させた。
ソルト・ホットミルクは、見事に「商品」としてのカフェラテへと進化を遂げたのだ。 その成果を口にしたお客さんは、震える手でそれを作った店長に、真っ直ぐな言葉を贈った。
「ありがとう。おいしかった」と。
するとなんということだろう。
その一言が彼女の心の琴線に触れ、ダムが決壊したかのように彼女は泣き崩れてしまった。
これにて、一件落着。
めでたしめでたし。
「……大体、こんなところか」
俺は心の中でこれまでの経緯を反芻し、小さく息を吐いた。
「……うっ。……ぐすん、ひっ……」
「なぁ。いい加減に泣き止んでくれ。もう外は日が落ち始めてるぞ」
彼女が泣き出してから、かれこれ三十分は経過している。
カウンターに突っ伏したまま、彼女の嗚咽は一向に止む気配がない。
「だっで……あんなごといばれたの……はじめでで……うれじぐで……」
彼女はぐちゃぐちゃになった顔を上げると、テーブルに置かれた箱ティッシュを乱暴に引き抜き、溢れる涙と鼻水を一気に拭い去った。
その鼻先は、真っ赤に熟した木苺のように色づいている。
まぁ、確かにこれまでの惨状を考えれば、面と向かって賞賛されることなど皆無だったのだろうな。
彼女の告白によれば、オープン当初に顔を出していた数少ない客たちも、今では誰一人として戻ってこないらしい。
きっと、心からの「ありがとう」という言葉を、作り手として受け取ったのは、彼女の人生で初めてのことだったのだ。
自分でも内心では不安だったはずの料理を、「おいしい」と肯定してもらえる。
その震えるような喜びは、俺にも痛いほど共感できた。
今日の昼休み、自分が丹精込めて作った弁当を広げたときのように。
真心と時間を注ぎ込んで形にしたものが、他者の心に届き、正当に評価される。
それは何物にも代えがたい肯定であり、魂が震えるほどに誇らしく、そして何より温かいものなのだ。
「あー……よかったな。褒めてもらえて」
柄にもない言葉をかけながら、俺は少しだけ視線を逸らした。
夕暮れ時の淡い光が、埃の舞う店内に斜めに差し込み、彼女の赤くなった耳朶を透かしている。
「……うん……ぐすっ……」
「……見てても完璧だったぞ。一ノ瀬が淹れたカフェラテ」
「……うん……あでぃがど……」
「……まだ泣き止まないのか?」
「ごべん……あとじょっどだげ。……あとちょっとだけだからぁ」
鼻を啜りながら、彼女は再び腕の中に顔を埋めた。
俺は腰に手を当てて、天井の染みを眺めながらどうしたものかと頭を悩ませる。
もし今後、店が繁盛して、今日と同じようにお客さんが彼女を褒めるたびに、こうして三十分も営業がストップしてしまうのだろうか。
「正直、ちょっと面倒だな」という冷めた感情が胸の片隅を掠めたが、それ以上に、彼女のあまりにも純粋な涙にどう触れていいかわからない気恥ずかしさが勝っていた。
俺は所在なさを紛らわせるように、次の仕事を探すことにした。
(うーん。ま、掃除でもするか)
正式に採用され、給料をもらうことが確定している以上、それ相応の対価として動かなければならない。
俺もまた、彼女と同じかそれ以上に、受けた恩義や約束を数学の証明のようにきっちりと果たしたいという、妙な律儀さを持ち合わせていた。
「よし」と小さく気合を入れ、俺はカウンターの内側へと足を踏み入れた。
「……うわっ……汚っ!」
思わず、素の声が漏れた。
視界に飛び込んできたのは、戦場さながらに散らかり放題となったキッチンだった。
出しっぱなしのケトル、飛び散ったコーヒーの粉、ミルクの膜がこびりつき始めた小鍋、所在なげに転がる温度計……。
一ノ瀬が必死に格闘した痕跡といえば聞こえはいいが、衛生管理という言葉は彼女の辞書には存在しないらしい。
「……はぁ」
深い溜息が一つ。
「まぁ、暇だしな」と自分に言い聞かせるようにマインドを切り替え、俺は静かに袖を捲り上げた。
まずは、用済みとなったコーヒーのカスをゴミ箱へ。
それから、無惨に放置された道具たちをシンクへと集める。
蛇口を捻ると、勢いよく水が流れ出した。
鍋、温度計、ケトル。
スポンジを滑らせ、それぞれの汚れを丁寧に、かつ迅速に落としていく。
金属が触れ合う澄んだ音が、一ノ瀬の嗚咽と混じり合って店内に響いた。
一通り洗い物を終え、水切りカゴに並べた俺は、次に足元の床へと視線を落とした。
よく見れば、牛乳の飛沫や、抽出の際にこぼれたであろうお湯の跡が、あちこちに不規則な模様を描いている。
「なぁ一ノ瀬。床を拭くものはどこにあるんだ?」
カウンター越しに、いまだテーブルに伏せている彼女へと問いかける。
「……」
返事はない。代わりに、テーブルの上から力なく伸びた彼女の右手が、幽霊のようにゆっくりと「下」を指し示した。
「……『下』って言ったって……一体どこだよ」
俺は膝を突き、一番近い棚の引き出しを開けてみる。
だが、そこに入っていたのは鈍い光を放つ包丁や、場違いなほど大きなお玉といった調理器具の山だった。
「……なぁ、下ってどの下なんだ?」
「……」
再びの沈黙。
そして、今度は人差し指がゆらりと「右」へとスライドした。
「……はいはい。右の引き出しですね……っと、あった」
言われた通りに隣の引き出しを引くと、そこには使い込まれたふきんが重なっていた。
俺はその中から一枚を手に取り、水で濡らして固く絞る。
腰をかがめ、地面に散らばった水滴を一つ一つ、執念深く拭き取っていく。
膝をついた姿勢で床を磨くその姿は、端から見れば修行僧か、あるいは相当にマメな家政夫に見えるかもしれない。
ある程度、床に輝きが戻ったことを確認して立ち上がると、俺は使ったふきんを綺麗にすすぎ、定位置と思われるフックへと掛けた。
水気を吸ったふきんが、少しだけ重たげに揺れていた。
することがなくなり、手持ち無沙汰になった俺は、ふと将来的な作業効率を考えた。
この狭いキッチンで、どこに何があるか把握していないのは致命的だ。
俺は予習を兼ねて、収納の確認作業に移ることにした。
順番に引き出しを引いていく。
整然と並んだ計量スプーンや、予備のドリッパー、サーバー。
「道具とかは、しっかりと揃えてるんだな」
不器用を絵に描いたような彼女だが、形から入るタイプなのか、あるいはこの店への思い入れの表れか。
道具一式は驚くほど丁寧に準備されていた。
さて、最後は一番端にあるこの引き出しだ。
俺は軽い気持ちで、その取っ手を引いた。
だが、そこには調理器具も、消耗品のストックも一切なかった。
入っていたのは――。
「……なんだこれ?」
掌に収まる程度の、四角い板だった。
木製の柔らかな質感を残した枠には、落ち着いた色が塗られている。
中心には、角度を調整して自立させるためのストッパーのような突起が見えた。
「……写真立てか?」
見覚えのあるその造形に、俺は無意識にそれを手に取り、裏返した。
「……女の子と、お婆さん?」
色褪せかけた写真の中で、一軒家の庭先を背景に二人の人物が並んでいた。
セーラー服に身を包んだ、まだ幼さの残る中学生くらいの少女。
その隣で、慈愛に満ちた笑みを浮かべて彼女の肩を抱く、七十歳前後のお婆さん。
どこか懐かしく、そしてひどく個人的な空気を纏ったその写真に、俺が思考を巡らせようとした――その時。
「ごめん白河、もう大丈夫。おまたせ」
「……っ!」
背後から届いた凛とした声に、心臓が跳ね上がった。
俺は反射的に、盗み見を咎められた子供のように、慌ててその写真を元の場所へ押し込み、引き出しを閉めた。
「……どうかした?」
怪訝そうに首を傾げ、こちらを覗き込む彼女。
「……い、いや、今ちょうど掃除が終わったところだ!」
咄嗟に吐いた嘘が、自分の喉を焼く。
理由はわからない。
ただ、今この瞬間の彼女には――一ノ瀬琥珀には、あの写真を見たことを知られてはいけないと、俺の本能が強烈に警鐘を鳴らしたのだ。
「そっか! ありがと白河! やっぱり優しいね、白河は!」
まだ瞼を赤く腫らし、涙の痕を残したままの彼女が、屈託のない笑顔で感謝を述べる。
嘘をついた直後の俺に投げかけられた「優しい」という言葉は、どんな皮肉よりも深く胸に突き刺さった。
罪悪感を誤魔化すように、俺はわざとぶっきらぼうに言葉を返す。
「……給料をもらっている以上、当然の仕事だ。それが労働の対価だからな」
「りちぎってやつだね!」
ふふっと、春風のような微笑みを浮かべる彼女。
その曇りのない表情を見て、俺は小さく息を吐いた。
「お前が言うな」
少しだけ笑い混じりに返すと、彼女は何のことだかさっぱり分からないといった様子で、頭の上に「?」を浮かべながら、あどけなく首を傾げていた。
―――――――――――――――――――――――
「違うって! だからなんで紅茶を作るのに、ティーパックをわざわざ破って中身をぶちまけるんだよ!」
「だって、これは紅茶でしょ? コーヒーと違って、わざわざ丁寧に一個ずつ小分けになってるんだから『袋から出して使え』っていう、メーカーさんからのメッセージじゃん!」
先ほどまでの、あの写真にまつわる静謐で気まずい空気はどこへやら。
俺は今、人類の常識を根底から覆すような「琥珀理論」という名の迷宮に迷い込んでいた。
彼女独自の解釈によれば、ティーパックは「鮮度を保つための包装」であり、一回分ずつ律儀に袋を開けて葉をカップに直にぶち撒けるのが正解らしい。
その逆ノーベル賞にノミネートされそうな斜め上の理論に、俺は頭痛を覚えていた。
「なんだよその変な理論。いいか? 何度も言うが、これはこの『袋に入ったまま』使うんだ。この網はいわば、コーヒーフィルターと同じ役割なんだよ!」
「全然違うじゃん! 三角じゃないし!」
驚いたことに、彼女には例え話すら通じない。
今になって補足するが、俺たちは今、アイスティー作りの練習中だ。
この不毛なやり取りに、コーヒーの基本を教えたときの、あの遠い目をしたくなるような徒労感が蘇ってくる。
「正確には扇型だけどな! そんなことはどうでもいい。とにかく、ティーパックは開けない! 破らない! いいな?」
「おうぎがた……?」
「……いい。忘れてくれ。ほら、もう一回。集中してやってみろ」
「……おうぎがた……あ、ごめん。また無意識に開けちゃった」
「俺が悪かったから、頼むから集中してくれぇぇーーー!」
俺の魂の叫びが、無人の店内に虚しく響き渡る。
一度気になった単語が頭にこびりつき、一度に一つのことしか処理できない彼女のキャパシティを、俺の「扇型」という余計な一言がパンクさせてしまったらしい。
いや、普通高校生にもなれば、扇の形くらい常識として備わっているはずなのだが。
「ティーパックを、カップにそのまま入れて、お湯をかけるだけでいいの? 本当に?」
小学生でも知っているであろう基本知識に、まるで世紀の大発見を疑う科学者のような疑念を抱きつつ、彼女はようやく実行に移した。
透明なカップの中で、お湯が揺れる。
「……なんだぁ! めっちゃ簡単じゃん! 早く教えてよ、白河!」
「……何度も言ったし、目の前で実際に手本も見せただろ……」
俺は深い溜息と共に、どっと押し寄せた疲労感に耐えきれず、その場にしゃがみ込んだ。 一方で彼女は、熱いお湯の中で琥珀色の紅茶がじわじわと染み出し、渦を巻く様子を、幼子のようにワクワクした表情で見守っている。
「どう? 白河、もういいかな?」
期待に満ちた彼女の問いかけに、俺は重い腰を持ち上げて立ち上がり、カップを覗き込んだ。
「……あぁ。十分に出たな。じゃあ、ティーパックを静かに取り出して、お好みで砂糖を入れれば完成だ」
「やったぁー、できた! 私、もしかして紅茶の天才かもしれない!」
……お願いだ。
その溢れんばかりの自信は、自らのポンコツさ加減を知るためだけに取っておいてくれ。
「はいはい。天才ですねー」
俺はあからさまな棒読みで応える。
もはや言葉に感情を乗せる余力すら残っていなかった。
「どれどれお味はー……んんーっ! おいしーーい!」
どんなに突拍子もない理論に驚かされ、険しく、めんどくさく、呆れ果てて頭を抱え、魂を削られるような思いをしても。
この、世界が春になったかのような満面の笑みで「おいしい」と喜ぶ彼女を見ると、心に溜まった澱のような疲れが、ほんの少しだけ浄化されるような気がした。
その後も、いくつかの基本メニューの練習を重ねた。
……すまない、その結果については深く追求しないでくれ。
読者の皆さんの想像通り、あるいはそれ以上に過酷な戦いだったとだけ言っておこう。
幾多の試練という名の練習を乗り越えた頃には、窓の外はあっという間に夜の帳が下り、街灯の光がアスファルトを淡く照らし出していた。
「あれ? もうこんな時間じゃんっ! そろそろお店閉めないと!」
窓から夜の気配を確認した彼女は、慌てた様子でパタパタと表へ飛び出し、看板を店内に運び入れて鍵を閉めた。
嵐が去った後のような静寂が戻り、俺は怒涛の疲労感に身を任せて、店内の椅子に深く座り込む。
「じゃーん! これはなんでしょう!」
ぐったりとしている俺の目の前に、茶色い封筒を両手で握りしめた彼女がどーんと現れた。
その古風な封筒には見覚えがある。
今朝、俺の目の前に差し出された「給料」の袋だ。
「……給料、だよな?」
「つまんなーい。もっとこう、宝箱でも開けるみたいに喜んでよー」
口をタコのように尖らせていじける彼女を前にしても、残念ながら「申し訳ない」という殊勝な気持ちは一ミクロンも湧いてこない。
「はいこれ! 今日の分のごほうび!」
有無を言わさぬ勢いで差し出された封筒を、俺は観念して受け取った。
手に伝わる重みが、今日の労働の重みであると自分に言い聞かせる。
「……なぁ。こんなことを聞くのは野暮だってわかってるんだが、中身、いくら入れてるんだ?」
本来、給料の中身をその場で確認するのは失礼にあたるという風潮もあった。
だが、最近ではむしろ間違いを防ぐためにその場で検めるのが合理的だという考えが一般的だ。
ましてや、雇い主が「彼女」である場合はその鉄則が何倍にも強化される。
かつて、ある偉大な思想家が言ったとか言わないとかいう言葉に、『琥珀は必ずしも琥珀とは限らない。しっかりと自らの目で検分して初めて、それが本物の琥珀であると定義できる』という名言がある。
……いや、今俺が作ったデタラメな格言だが。
「一万円だよ!」
「そうか、一万……って、おい! 多い! 多すぎるって!」
今日働いた時間は、準備やこの居残り練習を含めてもざっと四時間程度。
時給に換算すれば二千五百円。
どんな高給バイトだ。
深夜の過酷な肉体労働や、特殊な専門職でもない限り、これほど破格の条件など滅多にお目にかかれない。
俺の常識という名の天秤が、音を立てて傾いていく。
「……? 多いかな? 一万円ってきりがいいと思ったんだけど」
「多いどころじゃない。世の中のバイトの相場を知ってるか? 高くてもせいぜい千五百円前後だぞ?」
俺の指摘に、彼女は首を傾げ、記憶を辿るように視線を泳がせた。
「でも、今日はラテの淹れ方も紅茶のこともいっぱい教えてくれたし、散らかしたところも綺麗に掃除してくれたし……それに、あの時接客してくれたの、すっごく助かったから……」
彼女は、世間一般の経済観念からあまりにも切り離されすぎていた。
どこの世界に、一日の研修期間を終えたばかりの新人バイトに時給二千五百円を叩き出す経営者がいるというのか。
掃除や接客は、喫茶店員としての業務の基本中の基本だ。
確かに「店長の再教育」というイレギュラーな労働はあったが、それでも対価としては破格に過ぎる。
「……よし、この封筒はいったん返す。賃金のことは明日また二人で話し合って決めよう。お金の管理を一ノ瀬だけに任せるのは危なっかしすぎる」
「私……やっぱり、役立たずなのかな……」
しまった、と内心で舌打ちする。
「任せられない」という表現が、彼女の脆い部分に触れてしまったらしい。
みるみるうちに瞳が潤み、今にも大粒の涙が零れ落ちそうな、捨てられた子犬のような顔になる。
「ごめん。言い方を間違えた。一ノ瀬だけにこの重責を背負わせられない、ってことだ。これからは、こういう難しい相談も二人で分担していこう」
「そ、そういうことなら……しょうがないね! わかった、そうしよう!」
泣き出す直前だったのが嘘のように、彼女の表情はぱぁっと華やいだ。
単純と言えばそれまでだが、この切り替えの早さには何度も救われる。
彼女の純粋さに毒気を抜かれながら、俺は大きく伸びをした。
「じゃあ、今日はこれで解散か」
俺は袖を通していた喫茶店の制服を脱ぎ、見慣れた星城海原の制服へと着替え直した。
鏡に映る自分は、今朝家を出たときよりも随分と疲れ果てた顔をしていたが、どこか清々しい気分でもあった。
「ありがとー、白河! また明日、お店でねー!」
扉の前まで小走りでついてきた彼女が、大きく手を振って見送ってくれる。
「あぁ。また明日な」
短く応え、俺は夜の静寂が降りた街へと踏み出した。
「また明日」。
昨日まではただの同級生でしかなかった彼女と、当たり前のように明日を約束する。
そんな、少し前なら考えられなかった奇妙な非日常が、今は驚くほど自然に、俺の中に馴染んでいた。
―――――――――――――――――――――――――
喫茶店を後にした俺は、夜の冷気を含んだ風に当たりながら帰路についていた。
街灯がアスファルトに落とす等間隔の光を跨ぐたび、脳裏には先ほど見てしまった光景が鮮明に蘇る。
引き出しの奥に、まるで秘め事のように収められていた、あの写真。
柔和な笑みを湛えたお婆さんと、その横で屈託のないピースサインを向ける少女。
少女の面影には、既視感があった。
というより、この状況下で考えれば一ノ瀬琥珀本人と見るのが妥当だろう。
髪色こそ今とは違う、艶やかな黒だったが、あの独特の大きな瞳は写真の中でも輝いていた。
だが、確信に近づくほど、不自然な違和感が澱のように心に溜まっていく。
なぜ、あんな場所に隠すように置いていたのか。
自分のルーツや大切な思い出であれば、店内の棚に飾るか、あるいは自室で保管するのが普通だろう。
それなのに、あの写真は客席からも見えず、かといって捨てられたわけでもない中途半端な場所に収められていた。
それも、埃一つ被っていない清潔な状態で。
そして、隣に写るあのお婆さんは何者なのか。
一ノ瀬に愛情を注いだ親族か、あるいはこの店に関わりのある先代の店主か。
彼女が今、一人でこの店を切り盛りしていることと、何か深い関わりがあるのではないか。
考えれば考えるほど、疑問は解けるどころか複雑に絡み合い、謎の迷宮へと俺を誘い込んでいく。
「あの写真、一体……うわっ!」
深く思考に沈み込みながら角を曲がった瞬間、暗闇から現れた人影とぶつかりそうになり、俺は情けない声を上げて尻もちをついた。
「……白河か。そんなところで地面と仲良くなって、何をしてるんだ?」
尾てい骨に響く鈍い痛みを感じながら、俺はゆっくりと顔を上げた。
街灯の逆光を背負い、冷徹なまでの美しさを湛えた視線が俺を射抜いている。
「……佐伯?」
俺の前に立っていたのは、クラスの一軍、そして「クール女子」の名を欲しいままにしている佐伯莉愛だった。
着崩した制服の胸元から覗く白い肌と、片手で無造作に提げた鞄。
彼女は、ゴミを見るような……いや、純粋に不可解なものを見るような目で俺を見下ろしている。
「何やってんの、こんなところで」
「さ、佐伯こそこんな時間に、しかもこんな場所で何を!」
「……私? 私は部活終わりの帰り道だけど」
淡々と答える彼女の言葉に、俺は眉を寄せた。
帰り道?
ここは学校から相当な距離があるはずだ。
学校よりも、むしろ俺の自宅の方が近いようなエリア。
「帰り道って……家、この近くなのか?」
「……」
佐伯は一拍、間を置いてから、短く頷いた。
驚いた。
学年の高嶺の花である彼女が、まさか俺の生活圏内に住んでいたとは。
今まで一度も遭遇しなかったのが不思議なほどだ。
「……で? 白河はここで何をしてるの。学校からここまで、歩いてくるような距離じゃないでしょ」
「お、俺? 俺は……」
喉元まで出かかった「バイトの帰り」という言葉を、寸前で飲み込む。
一ノ瀬との約束だ。
彼女が喫茶店で働いていることは、クラスの誰にも、何があっても内緒。
俺は脳細胞をフル回転させ、最適解と思われる言い訳を必死に紡ぎ出した。
「喫茶店で、勉強してたんだよ。静かで集中できる店を見つけてさ。最近、そういう穴場を探すのにハマってるんだ」
嘘は言っていない。
……後半の「ハマっている」という部分を除けば、概ね事実に即しているはずだ。
「……ふーん。こんな、学校からも駅からも離れた場所で?」
佐伯の瞳が、僅かに細められる。
鋭い。
学年でも指折りの秀才である彼女の洞察力は、俺の拙い嘘の綻びを、針の穴を通すような正確さで見抜こうとしていた。
「学校近くの喫茶店は行き飽きてさ。心機一転、遠くのところにきたんだよ。家もこっちの方向だし、ちょうどいいかなって」
「……ふーん。まぁ、どうでもいいけど」
佐伯は興味なさげに視線を外した。
追及を免れた安堵感で背中に冷や汗が流れる。
「……で? いつまでそこに座ってるの?」
「あ」
指摘されて初めて、俺は自分が無様に地面に根を張ったままだったことを思い出した。
少しばかりの恥ずかしさに顔を熱くしながら、お尻についた砂利や砂を払い、ぎこちない動作でゆっくりと立ち上がる。
歩き出した佐伯の背中を追うように、俺もまた夜道へと足を進めた。
「……」
「……」
前を行く佐伯。
三歩後ろを行く俺。
街灯が俺たちの影を長く引き伸ばし、それが重なっては離れていく。
「……」
「……」
「……ねぇ。なんで後ろなの?」
不意に佐伯が足を止め、肩越しに鋭い視線を投げかけてきた。
「え? えぇーっと、邪魔にならないようにというか……」
「帰り道が一緒なんだから、横を歩けばよくない?」
満天の星空が照らし出す、夜の海沿いの道。
波の音が遠くで低く響く中、彼女は至極当然のような疑念を向けてくる。
「わかったよ」
俺は渋々、彼女の歩調に合わせて早足で歩み寄り、二人横並びで歩き出す。
「……」
「……」
……き、気まずい。
これまでに言葉を交わしたことすらない、クラスの一軍女子と二人きり。
しかも、情けなく尻もちをついた現場を鮮明に目撃された直後だ。
この状況を「気まずい」以外の言葉で言い表す術を、俺は持っていなかった。
「……白河。あんた、いつもあの時間に学校に来てるの?」
重苦しい沈黙を切り裂いたのは、彼女の凛とした声だった。
彼女にとっては気まずさなど些細な問題なのだろう。
ただ純粋に、朝の教室で見かけた俺の姿を思い出して、疑問を口にしただけに見えた。
「いや、今日はたまたま早く来ただけだよ。偶然、本当に偶然だ」
「……そう」
なんだよ、その意味深な「そう」は!
まさか、もう疑われているのか?
俺と一ノ瀬の間の、あの奇妙な関係を。
まずい。
ここで変に勘繰られるのは致命的だ。
火消しをしないと。
「いやー、そしたらさ、一ノ瀬がいてびっくりしたよ! あまりに意外で、運命の出会いかって思っちゃったね!」
「……?」
あれ?
しまった。
やりすぎたか。
一気に饒舌になった俺を、佐伯は不思議なものを見るような目で見つめている。
焦りと気まずさが混ざり合い、変な汗が止まらなくなった、その時――。
「……ふっ。ははっ!」
彼女が笑った。
普段の「クール女子」としての鉄面皮はどこへやら。
それは、鈴の音を転がしたような、年相応の少女らしい、ひどく可愛らしい笑い声だった。
「な、何がおかしいんだ?」
「白河って、意外と変で面白いやつなんだね」
どこかで聞いたような評価を突きつけられた。
彼女はまだ、可笑しそうに肩を揺らしている。
「もっと堅苦しくて、取っ付きにくいやつだと思ってた。……ごめん」
「いや、それは褒められてるのか……?」
「さあ、どうだろうね」
楽しげに笑う彼女を隣に、俺たちは車が勢いよく走り去る海沿いの道を並んで歩いていく。
潮風が頬を撫で、街灯の光が二人の足元を等しく照らしていた。
やがて訪れた分かれ道。
彼女は足を止め、俺の方を振り返った。
「じゃあ、うちはこっちだから。また明日」
暗がりのなか、彼女はまた少しだけ悪戯っぽく微笑んで、静かに言葉を付け加えた。
「今日は、白河のことを少しだけ知れてよかったよ」
そう呟く彼女は、今までに見たこともない柔らかな表情を残して、夜の闇へと消えていった。
―――――――――――――――――――――――――
ようやく訪れた、静寂が支配する一人の時間。
風呂の熱気でこわばった体をほぐし、冷蔵庫の余り物で手早く済ませた自炊飯で腹を満たした俺は、抗うことのできない睡魔に誘われ、吸い込まれるようにベッドへと倒れ込んだ。 スプリングが軋む音さえ、今はどこか遠くの子守唄のように聞こえる。
「にしても……昨日今日と、いろいろありすぎだろ」
誰もいない部屋の天井を見上げながら、掠れた独り言が漏れる。
本当に怒涛の二日間だった。
この四十八時間足らずで、俺の平穏だった、あるいは単調だったはずの学校生活は、音を立てて激変した。
偶然立ち寄った古びた喫茶店。
そこで出会ったのは、教室のヒエラルキーの頂点に君臨する一軍ギャル、一ノ瀬琥珀だった。
彼女がその店の店長であるという、漫画のような事実に呆気に取られる暇もなく、「秘密の共有」という鎖で繋がれた。
挙句の果てには、強引すぎる店への勧誘。
……いや、あれは「スカウト」という名の拉致、あるいはなし崩し的な拉致に近かったかもしれない。
いざ働き始めてみれば、案の定の過酷な労働が待っていた。
いや、作業そのものより、一ノ瀬という「嵐」を御すための指導という精神的摩耗が、何よりも激しすぎた。
さらにその帰り道。
もう一人の一軍女子であり、氷の彫像のように冷徹な佐伯莉愛に、尻もちをついた無様な姿を見られる始末だ。
夜の海沿い、二人きりの帰り道。
彼女が最後に見せた、あの予想外に柔らかな微笑みの意味を測りかねている。
そして――何より頭から離れないのは、あの引き出しの奥に隠されていた一枚の写真だ。
艶やかな黒髪の少女と、慈愛に満ちた瞳で笑うお婆さん。
一ノ瀬琥珀という、常に陽光を背負っているような少女が見せた一瞬の「影」。
その断片に触れてしまったことへの、言いようのないざわつきが、心臓の奥で小さな波紋を広げ続けている。
「……ま、考えても仕方がねぇか」
脳を強制的に休めようとする本能が、絡まり合った思考を強引に断ち切る。
蓄積された疲労が、心地よい泥のような重みとなって全身を包み込んでいく。
重くなった瞼を閉じれば、視界は深い闇に塗り潰された。
俺は抗うことなく、意識を深い眠りの底へと沈めていった。
はじめましての方ははじめまして。路地裏の猫です。
いつもなら『いいね&コメントしていただけると喜びます』とありきたりな文をあとがきに残すのですが今回ばかりはできません。
個人的に今回の回は結構な伏線回となっています。
ここからがこの物語がようやく動き出すようなそんな回となっております。
いうならこれまでの話はエピローグといったところでしょう(ならエピローグに書けやというツッコみはすみません回れ右でお願いします)。
彼女の秘密はいったい何なのか。
ぜひ考えながら楽しんでご覧ください。
では、私は路地裏に帰ろうと思います。
これからも不器用な彼女たちの喫茶店を応援してあげてください。
よろしくお願いいたします。




