六杯目:「ムリムリムリ! 無理だよぉ! 白河がやってよ!」
「……マジかよ。本当に働くのか、俺」
俺は白河奏。
どこにでもいる、しがない普通の高校生だ。
それがどういうわけか、放課後の今、この喫茶店の前に立っている。
街角にひっそりと佇む、この店。
「貼ってるよぉ」
俺は、彼女が自信満々に放った言葉を思い出し、まずは「バイト募集」の張り紙を探すことにした。
店の名前が彫られた看板から、入り口の隅々、窓、ついでに地面や空まで。
「……ねぇじゃねぇか」
どこをどう探しても、それらしい紙は見当たらない。
ふと、足元に視線を感じた。
昨日も見た、あの野良猫だ。
俺は猫と目線を合わせるようにその場にしゃがみ込み、藁にもすがる思いで問いかける。
「なあ。お前、知らないか? ……張り紙」
「……何してんの?」
カラン、というベルの音と共に扉が開き、一ノ瀬がひょっこりと顔を出した。
あまりにタイミングの悪い登場に、俺は思わず飛び上がる。
「い、いやっ! ここに猫が! ほら、いたんだよ!」
「猫? いないよ?」
「いや、いるって。ほら、目の前に——」
必死に指差した先では、猫が優雅に尻尾を振りながら、路地へと消えていくところだった。
「…………いやー。いい天気ですね、一ノ瀬さん」
「白河って、変だね」
ゴミを見るような目……ではないが、心底理解不能なものを見るような目で一ノ瀬が呟く。 「早く中に入って」と促され、俺は逃げ場を失ったまま、閉まる扉の音を聞いた。
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「いや、本当にいたんだって! 張り紙探してるときに猫が来て、そいつが——」
「はいっ! これ制服。早く着替えて!」
猫の実在を証明しようと必死な俺のことなど一瞥もくれず、一ノ瀬は畳まれた布の塊を俺の胸に押し付けた。
「……わかったよ。ってか猫で忘れかけてたけど、張り紙、本当になかったぞ」
「嘘っ! 看板に貼ってたもん。ちゃんと見た?」
「看板だけじゃなくて扉も窓も、ついでに空まで見たよ!」
「あれれー、おかしいなー。ちゃんとセロハンテープでペタッて貼ったんだけど」
「セロハンテープ!? ……そりゃなくなるに決まってんだろ! 雨が降るか風が吹いた瞬間に、どっか遠くの街まで飛んでいったよ、それ!」
外の看板に、簡易的なテープで紙を貼る。
そんな常識以前のズボラさが、この店が「泥水」を錬成するに至った元凶なのだろう。
「ま、いいやー。白河が入ってくれたから、全部解決解決!」
……全然、解決の質が違うと思うんだが。
「で? 俺は何からすればいいんだ?」
俺は室内を見渡した。
客席の整頓か、店内の掃除か、それとも窓拭きか。
まずは「衛生面」から手をつけるべきだろうと考えていたのだが——。
「えーっとね。まずは、新メニューを考えようと思うの!」
新メニュー?
……正気か。
基本的な掃除もできず、まともな飲み物すら淹れられない店主が、なぜ「新しい商品」を開発しようという思考に至るのか。
「……理由、聞いてもいいか?」
「ふふーん。私、昨日考えたの! このお店のダメなところは、お客さんがいないことだと思うの! お客さんがいないとお金ももらえないし、それに——新メニューとか、なんだか楽しそうだし!」
誇らしげに胸を張る彼女を見て、俺は深い、深い溜息を飲み込んだ。
確かにこの店には客がいない。
壊滅的なまでにいない。
最初は物珍しさで来ていた客もいたのだろうが、彼女の「泥水コーヒー」を経験してしまった以上、わざわざ金を払ってリピートしようと思う物好きは、この世にそう多くはないはずだ。
つまりだ。
今の状態で新しい客を呼ぶのは、論理的に言ってナンセンスだ。
仮に素晴らしい新メニューを開発したとしても、注文した客があの「泥水コーヒー」をセットで経験してしまえば、せっかくの新規客は二度と戻ってこない死に筋の客になる。
よって、俺たちが取るべき選択肢は一つしかない。
「新メニューはやめだ。俺たちに必要なのは、定番メニューのクオリティを底上げすることだ」
「なんでぇ? お客さんが来ないとお店、潰れちゃうじゃん」
「いいか一ノ瀬。物事には順序があるんだ。数学の問題と同じで、決められた手順を踏まないと正解には辿り着けない。今日の授業を思い出せ」
「ごめん。一ミリも意味が分からない」
「……つ、つまりだ。新しいお客さんを呼んだとして、もしその人が新メニューじゃなくて他のメニューを頼んだら、どうなると思う?」
俺は今、小学校の低学年を受け持つ教師のような気分だった。
根気強く、噛み砕くように、一つずつ順を追って教えていく。
「私たちが、すっごく嬉しくなる! ……じゃないの?」
…………ダメだこりゃ。
脳内が新メニューへのワクワクで完全にハレーションを起こしている。
「……違う。正解は『その客は二度と来なくなる』だ」
「え? なんで?」
純粋な疑問をぶつけてくる小学生を、俺は真っ直ぐに見据えた。
「思い出してくれ。昨日までお前が淹れていた、あのコーヒーを」
「…………はっ!!」
彼女は、自分がとんでもない大量破壊兵器を量産していたことを今さら思い出したかのように、ガバッと口を手で覆った。
「そうだ。あのコーヒーを出している限り、客は二度とこの店の敷居を跨がない。だから俺たちに必要なのは、まずは『飲めるもの』を出すためのクオリティ管理だ。わかるな?」
「うん、わかった! そうしよう、すぐに! 今すぐ!」
言うが早いか、彼女はカウンターの奥へ突撃し、何やら調理器具を引っ張り出し始めた。 背後から「ガシャン!」とか「ガラガラ!」とか、不穏な破壊音が聞こえてくるが、今は一旦スルーしよう。
命(店)を救うための手術には、多少の出血は付きものだ……多分。
「で? 何から手をつけるんだ?」
俺は彼女の後に続いて、カウンターの中へと足を踏み入れた。
「まずは、昨日のコーヒーの確認から! 復習が大事なんだからね」
ほう。意外と大事なことは分かっているらしい。
正直、彼女のポンコツぶりしか見ていなかった俺は、その真っ当な意見に少し驚かされた。
「そうだな。じゃあ、やってみてくれ」
…………。
「……できた!」
彼女は昨日の手順を忠実になぞり、一杯のコーヒーを完成させた。
俺はそのカップを手に取り、ゆっくりと口へと運ぶ。
「……うん。うまい」
驚いた。昨日のあの「泥水」とは比べ物にならない。
コーヒー独特の鋭い角が取れ、心地よい苦みだけが後を引く。まろやかで、コクがある。これなら、金を取って客に出しても文句は出ないクオリティだ。
復習、なんて言っていたが……これ、相当練習しただろ。
スタバ……いや「バックス」で売られていても違和感がないレベルだぞ。
「なぁ一ノ瀬。これ、どれくらい練習したんだ? めちゃくちゃ美味いぞ」
「へへーん。頑張ったんだよぉ」
鼻を高くして、誇らしげに笑う一ノ瀬。
「正直、驚いてる。これなら他のメニューもすぐにモノにできるぞ」
お世辞ではなく、本心だった。
コーヒーはすべての基礎だ。
この土台がしっかりしているなら、その発展形も必然的にクオリティが上がる。
……淡い期待が胸に灯る。
こいつ、意外と筋がいいのかもしれない。
「なら、次は『ラテ』を作ろう」
「らて?」
「あぁ、カフェラテだ。基本のコーヒーと作り方が近いから、今の感覚を忘れないう
ちに覚えてしまおう」
「ホントに!? じゃあそうしよう!」
やる気満々の一ノ瀬。
鼻歌まじりに、一ノ瀬は楽しげに準備に取り掛かる。
コーヒー豆の入った銀袋に手を伸ばし……そこで、ぴたりと動きが止まった。
「えーっと……何がいるんだっけ?」
彼女は「えへへ」と、あざといほどに可愛らしくとぼけて見せた。
……前言撤回。
さっきのコーヒー一杯で、俺はこの女を美化しすぎていたらしい。
喫茶店の店主を名乗る者が、ラテの材料すら把握していないなんて、一体誰が想像できるだろうか。
「ごめん、一ノ瀬。……今までどうやって提供してたのか、一応聞いてもいいか?」
「牛乳を使ってたよ!」
胸を張って答える一ノ瀬。
うん、正解だ。
ラテに牛乳は不可欠だ。
そこまではいい。
「…………他には?」
「これだけかな。あとはお砂糖と、それから……」
「待て待て待て! 砂糖はどうでもいい、もっと大事なものを忘れてるだろ!」
「これだけだよ?」
彼女は、カウンターの上に並べられた**牛乳、砂糖、そして『塩』**を、まるで宝物を披露するかのように両手で指し示した。
カフェラテ。
基本は、エスプレッソ(濃いめのコーヒー)と温めた牛乳を、およそ一対一の比率で合わせる飲み物だ。
断じて、そこに「塩」が入り込む余地はない。
何より恐ろしいのは、彼女のラインナップに「コーヒー」が含まれていないことだ。
「……一ノ瀬。ラテっていうのはな、コーヒーを使うんだよ」
「…………え?」
「まさかとは思うが、牛乳に砂糖と塩を入れるだけの飲み物だと思ってたんじゃないだろうな」
「もちろん、牛乳はあったかい牛乳だよ? お砂糖が溶けにくいからね!」
論点がそこじゃない。
いや、それ以前にこの女、今まで客に「甘じょっぱいホットミルク」をカフェラテと偽って出していたのか?
これは「泥水」以前の、商売としての根欠陥だ。
「そんなのほとんど詐——」
「はい! 飲んでみて?」
「まだツッコんでる最中だっつの!」
「ん? なにか言った?」
思わず口をついて出かけた「詐欺」という言葉を飲み込む。
本人は悪気なく、どこまでも純粋に「これがラテ」だと信じているのが、一番の恐怖だ。
「……いや、こっちの話だ。それより、何勝手に作ってんだよ!」
彼女が差し出したのは、湯気が立つ真っ白な液体が入ったカップ。
「いらないよ! いいか一ノ瀬、一度しか言わないからよく聞け。それは『ホットミルク』だ」
「ホットミルク? ラテじゃないの?」
「強いて言うなら、塩まで入ってるから『ソルト・ホットミルク』だ。……そもそもコーヒーが入ってない時点で、ラテ以前の問題なんだよ」
俺の言葉に、一ノ瀬は不思議そうに首を傾げながらカップを置いた。
「じゃあ、どうやってラテは作るの?」
「簡単だ。まずコーヒーを用意する。淹れ方はさっきの復習通りでいい。ただ——」
俺は一ノ瀬の隣に立ち、実演を始める。
まずコーヒーの準備。その間に牛乳を温める。
「いいか一ノ瀬、牛乳を温める時に絶対に守らなきゃいけないのは、沸騰させないことだ」
「どうして? フーフーして飲む方が、熱々でよくない?」
「理由はいくつかあるが……おいっ! スマホなんか見るな! 温度計を見ろ!」
通知の音に気を取られた一ノ瀬を怒鳴りつけ、計器に集中させる。
沸騰させれば独特の臭気が出て、牛乳本来の甘みが死ぬ。挙句の果てには表面に膜まで張ってしまう。そんなものを出した瞬間に「素人」の刻印を押されるんだ。
「あと、忘れてた。コーヒーは少し濃いめに作るんだぞ」
「む、難しいじゃん……ラテ」
一ノ瀬が頬を膨らませるが、ここだけは譲れない。
普通に淹れたコーヒーに牛乳を混ぜれば、味はボヤけてしまう。粉を多めにするか、お湯を少なめにするのがコツだ。
「最後に、コーヒーの後に牛乳を注ぐ。……これで、完成だ」
こうして出来上がったカフェラテは、さっきのコーヒーとは対照的な、柔らかくまろやかな香りを立ち上らせていた。
表面は滑らかな、温かみのあるベージュ色。 一ノ瀬の視線を温度計に釘付けにさせたおかげで、膜ひとつ張っていない完璧な仕上がりだ。
「わぁー、私のと全然違う! おいしそー……これ、飲んでもいい?」
「あぁ」
許可を出すと同時に、一ノ瀬は待ちきれない様子でカップを口元へ運んだ。
一口。含んだ瞬間に、彼女の大きな目がさらに丸くなる。
「……なにこれ! ちょーおいしいんだけど!」
「それはよかった」
自分でも意外なほど、素直に安堵した。
料理を趣味にしていて良かった、と心から思った瞬間だ。毎日コツコツと自分一人分の弁当を作り続けてきた経験が、こんな形で——しかもクラス一の有名人を驚かせる形で発揮されるなんて。
「次は一ノ瀬の番だ。学んだ通りに作ってみ——」
カランカラン、と。 言葉を遮るように、喫茶店の扉が開く音が響いた。
俺たち二人は、弾かれたように扉の方を向く。
「こんにちは。やってますかね?」
入ってきたのは、穏やかそうな雰囲気の一老紳士だった。
隣を見ると、一ノ瀬は完全にフリーズしてあたふたしている。
……ダメだ、こいつに任せたらまた「塩ミルク」を出し兼ねない。
体が勝手に動いたのは、俺の方だった。
「いらっしゃいませ。一名様でしょうか?」
「ええ、そうです」
素人同然、見よう見まねの接客だ。
だが、今のパニック状態の店長よりは、いくらかマシなはずである。
幸い、お爺さんは俺のたどたどしい案内にも優しく頷いてくれた。
「かしこまりました。お席はお好きなところへどうぞ」
お爺さんが一番近くのテーブル席に腰掛けるのを見届け、俺はカウンターからメニューを抜き取った。
「こちらメニューになります。ご注文が決まりましたらお呼びください。……失礼いたします」
おもむろにメニューを置き、一礼してカウンターへ戻る。
「……ちょ、ちょっと! 白河、なんでそんなに接客うまいの!?」
客に聞こえないよう、一ノ瀬が声を殺して詰め寄ってきた。
顔が近い。心底不思議そうな彼女の瞳に、俺は少しだけ眉を潜めて見せた。
「いや、それくらいできるだろ」
「無理だって! 緊張とかしないの!?」
「緊張もなにも、扉が開いた時の一ノ瀬を見てたら、俺が行くしかないと思っただけだ。……これでも一応、バイトだしな」
流石にあの、石像のように固まった一ノ瀬にお客さん対応を任せる勇気はなかった。
何をしでかすか想定できない恐怖の方が、接客の緊張を上回っていたのだ。
「すみません」
店内にお爺さんの穏やかな声が響く。
「はーい、ただいま」
俺は淀みのない足取りでテーブルへと向かった。
「えーっとね。この、カフェラテをくださいな」
お爺さんが指差したのは、奇しくもさっきまで特訓していたカフェラテだった。
「ホットでよろしいでしょうか?」
「うん。大丈夫。ありがとうねぇ」
「かしこまりました。少々お待ちください」
お爺さんからメニューを受け取り、棚に戻した俺は、カウンターで今にも逃げ出しそうな一ノ瀬の元へと戻る。
「一ノ瀬、カフェラテだ。やってみてくれ」
「ムリムリムリ! 無理だよぉ! 白河がやってよ!」
一ノ瀬はうっすらと目に涙を浮かべながら、助けを乞うように空のカップを俺に押し付けてくる。
学校での堂々とした一軍オーラはどこへやら、今の彼女は完全に迷子の子供状態だ。
「ここでやらなくてどうするんだ。今できるようにならないと、今後ずっと困るのは店長だろ?」
「う……うぅ。……わかった。けど、ちゃんと隣で見ててよ?」
「もちろんだ」
俺の返答を聞いて、ようやく一ノ瀬は覚悟を決めたように震える手で準備に取り掛かった。
従来の手順通りにコーヒーを準備し、慎重に牛乳を温める。
俺が伝えた「粉は多めに」「温度計から目を離さない」という鉄則を、彼女は必死に守ろうとしていた。
途中、「えーっと、えーっと……」と小声で独り言を漏らしながら作業するその姿は、まるで初めてのお使いをこなす小動物のようでもあった。
そうして完成したカフェラテは、俺が作ったものと遜色ない、完璧な仕上がりだった。
「で……できたっ」
「うん。これならいける」
一ノ瀬から託されたカップを手に、俺はお爺さんの待つテーブルへと向かう。
「お待たせいたしました。カフェラテです。ごゆっくりどうぞ」
配膳を終え、カウンターの中へ戻る。
お爺さんがゆっくりとカップを口に運ぶ様子を、俺たちは固唾を呑んで見守っていた。
心臓の鼓動が、自分の耳にまで届きそうなほどにうるさい。
「ね、ねぇ。……上手に、できたかな?」
「あ、あぁ。見てた限り、手順は完璧だった。きっと大丈夫なは……ずだ」
確かな手応えと、それを上回るほどの不安。
二人の間に奇妙な連帯感と緊張が漂う中、お爺さんが最後の一口を飲み干し、席を立つのを待った。
やがて、お爺さんがゆっくりと立ち上がった。
俺と一ノ瀬は顔を見合わせ、弾かれたようにレジへと向かう。
「お会計、五百円になります!」
「はい、五百円。ちょうどだね」
「ありがとうございます」
受け取った硬貨をレジに収めようとした、その時だった。
「カフェラテ、とっても美味しかったよ。また今度来るね。今日はありがとう」
穏やかな声が、店内に響いた。
「あ……ありがとうございます!」
「君が淹れてくれたのかい?」
「い、いえ。今回のは、隣の彼女が」
俺は隣で固まっている一ノ瀬を指差して、お爺さんに伝えた。
お爺さんは少し驚いたように目を細め、それから優しく微笑んだ。
「そうかい。……お嬢さん、とっても美味しかった。また来るね」
「……えっ……あ、ありがとうございますっ!」
カランカラン、とベルが鳴り、お爺さんは夕暮れの街へと消えていった。
深々とお辞儀をして見送った彼女。
その顔に、今まで見たこともないような——学校での完璧な笑顔とは違う、心の底から溢れ出した喜びが咲いているのを、俺はまだ知らない。
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