六杯目:「ムリムリムリ! 無理だよぉ! 白河がやってよ!」
「……まじかよ。本当に働くのか、俺」
店を目前にして、俺はもう一度、逃げ出したくなるような衝動を抑えて自分自身に問いかけた。
白河奏、十七歳。
平穏を愛し、効率を重んじ、その他大勢の一人として静かに過ごすことを信条とする、しがない普通の高校生。
そんな俺が、ひょんなことから――いや、あの一軍ギャルにしてポンコツ店長の、理不尽なまでの勢いに押し切られて、この喫茶店で働くことになってしまった。
夕暮れ時、街角にひっそりと佇むこの喫茶店。
レンガ造りの外観は落ち着いた雰囲気を醸し出し、窓から漏れる暖色の灯りは、初見の客なら誰もが「隠れた名店」だと錯覚するだろう。
「貼ってるよぉ」
昼休みに彼女が自信満々に、それこそ宇宙の真理を語るかのような口調で放った言葉を思い出し、俺は入り口の前で立ち止まって「バイト募集」の貼り紙を探した。
アンティーク調のフォントで店名が刻まれた看板の裏表、重厚なウッドドアの隅々、レトロな格子窓の四隅。
果ては地面に置かれたメニューボードの足元、果ては夕焼けに染まる空の彼方まで。
「……ねぇじゃねぇか」
どこをどう探しても、一ミリも、その形跡すら見当たらない。
やはり彼女の「貼っている」という認識は、現実世界とは異なる位相にあるとしか思えない。
「……ふにゃあ」
呆れ果てて立ち尽くす俺の足元で、間の抜けた鳴き声がした。
見ると、昨日もこのあたりで見かけた三毛猫が、親愛の情を示すように俺の制服のズボンに身体を擦り付けてきている。
俺は現実逃避気味に、猫と目線を合わせるようにその場にしゃがみ込んだ。
「なあ。お前は知らないか? 貼り紙。……あのアホな店長、一体どこに隠したと思う?」
猫は答えず、ただ喉を鳴らして俺を見上げている。
その瞳は、これから俺が踏み込む苦難を憐れんでいるようにも見えた。
「なにしてんの?」
カウベルがカラランと、静寂を切り裂くような高い音を立てて響いた。
重い扉が内側から開き、ひょいと首を傾げてこちらを覗き込んでいるのは、一ノ瀬琥珀だ。
不意を突かれた俺は、あまりの気まずさに心臓が跳ね上がり、膝をガクつかせながら立ち上がった。
「い、いやっ! ここに猫が! ほら、猫と対話してたんだよ!」
「猫? いないよ?」
一ノ瀬は不思議そうに地面に視線を落とす。
「いや、いるって! ほら、俺の目の前に――」
俺が必死に指差した先。
そこには、さっきまで確かにいたはずの三毛猫の姿はなく、ただ夕風に舞った枯れ葉が虚しく転がっているだけだった。
件の猫は、俺が驚いた拍子に驚いたのか、すでに路地の奥へと音もなく消え去っていた。
「…………いやー。いい天気ですね、一ノ瀬さん」
あまりにマヌケな自分の姿を誤魔化すべく、俺は意味もなく空を仰ぎ、乾いた笑いを漏らした。
夕陽が目に染みる。
「白河って変だね」
一ノ瀬は心底、未知の生物でも見るような顔をして、けれどすぐに「あはは」と快活に笑う。
その笑顔は、学校で見せる「一軍の象徴」としての華やかさではなく、昨日見せた、どこか危なっかしい「少女店長」のそれだった。
「早く中に入って。今日から、私たちの『秘密の特訓』開始なんだから!」
そう言って彼女は、俺を招き入れるように扉を大きく開け放った。
店内に漂うのは、昨日の「泥水」の残り香……ではなく、意外にも清潔で、どこか寂寥感のある静かな空気。
「……はぁ。お手柔らかに頼むよ、店長」
俺は重い溜息を一つ、今度こそ完全に運命を受け入れる証として吐き出し、琥珀色の光が満ちる店内へと一歩を踏み出した。
こうして、俺の平穏だったはずの放課後は、一人のポンコツ店長によって鮮やかに塗り替えられていくことになった。
――――――――――――――――――――――――
「いや、本当にいたんだって! 貼り紙探してるときに猫が来て――」
必死に言葉を紡ぐ。
あの、陽だまりの中で見た幻のような猫の存在を。
しかし、俺の焦りとは裏腹に、彼女の意識はすでに別の場所へと飛んでいた。
「はいっ! これ制服。これに着替えて!」
有無を言わさぬ快活な声と共に、視界を塞ぐように差し出されたのは、独特のシワが刻まれた喫茶店の制服だった。
使い込まれた布地からは、微かに古いコーヒー豆の香りが漂ってくる。
俺の懸命な説明など、彼女の耳には一滴も残っていないようだった。
「……わかった。ってか猫で忘れてたけど、貼り紙なかったぞ!」
諦めて制服を受け取りながら、本来の目的を思い出す。
店を訪れるきっかけになった、あの貼り紙だ。
「嘘っ! 看板に貼ってたよ! ちゃんと見た?」
「見たって! 看板だけじゃなく扉とか窓も!」
「あれれーおかしいなー。ちゃんと看板にセロハンテープで貼ってたんだけど」
小首を傾げる彼女の口から出た「セロハンテープ」という単語に、俺は思わず天を仰いだ。
「セロハンテープ!? そりゃなくなるに決まってるだろ! 風吹いたら飛んでいくに決まってるだろ」
表の看板は、刻一刻と変わる街の風にさらされているのだ。
剥がれやすいセロハンテープで留めた紙など、薄い翼を得てどこかの空き地か側溝へと消えてしまったに違いない。
初めて会った時からそうだ。
詰めが甘いというか、根本的に抜けているというか。目の前の彼女は、相変わらずのズボラ具合を遺憾なく発揮していた。
「ま、いいやー。白河が入ってくれたから解決解決!」
ひらひらと手を振り、何でもないことのように笑う彼女。
その屈託のない笑顔を見ていると、こちらの脱力感だけが募っていく。
そういう問題じゃないと思うのだが、彼女の中ではすべてが丸く収まったことになっているらしい。
「で? 何をすればいいんだ?」
俺は一度深呼吸をして、店内をぐるりと見渡した。
琥珀色の光が差し込む静かなフロア。
年季の入ったテーブルの整頓か?
隅に溜まった埃の掃除か?
それとも、曇った窓ガラスを磨き上げることか。あるいは、もっと根本的な……。
「えーっとね。まずは新メニューを考えようと思うの!」
「新メニュー?」
思わず声が裏返った。
なぜそうなる。
店内の清掃もままならず、まともなコーヒー一杯すら淹れられない彼女が、なぜいきなり創作のステージへと飛び上がろうとするのか。
「……理由を聞いても?」
「ふふーん。私昨日考えたの! このお店のダメなところはお客さんがいないことだと思うの! お客さんがいないとお金ももらえないし! なんだか楽しそうだし!」
胸を張り、鼻歌でも歌い出しそうな得意げな表情。
確かに、彼女の分析は間違っていない。
この店に足りないのは圧倒的に客足だ。
というか、現状はゼロに近い。
開店当初は物珍しさで訪れる者もいたのだろう。
だが、彼女の淹れる、あの泥水のように濁り、えぐみの強いコーヒーを一度でも経験してしまえば、二度とこの扉を叩こうとは思わないはずだ。
つまり、今やるべきことは新規顧客の獲得ではない。
どれほど魅力的な新メニューを掲げて客を呼び寄せたところで、その客が「基本の味」の惨状を知ってしまえば、それはリピーターを増やすどころか、店の悪評を広める種を撒くだけの行為だ。
よって、俺たちが進むべき道は一つしかない。
「新メニューはやめよう。俺たちに必要なのは定番メニューのクオリティを上げることだ」
「なんで? お客さんが来ないと店つぶれるじゃん」
不服そうに唇を尖らせる一ノ瀬に、俺は諭すように言葉を重ねる。
「いいか一ノ瀬。物事には順序があるんだ。数学のように決められた手順で解かないと正解することはできない。今日の授業のようにな」
「ごめん。意味が分からない」
「……つ、つまりだ。新しいお客さんを呼んでも、もし新メニューじゃなくてほかのメニューを頼んだらどうなる?」
まるで、好奇心だけで動く低学年の児童を相手にする教師のような気分だった。
複雑な理論を削ぎ落とし、一番単純な形にして問いかける。
「私たちがうれしくなる! じゃない?」
ぱぁっと顔を輝かせて答える彼女に、俺は膝から崩れ落ちそうになった。
ダメだこりゃ。
新メニューという甘美な響きに、彼女の思考回路は完全にハックされている。
「……違う。正解は『二度と来なくなる』だ」
「え? なんで?」
大きな瞳をパチクリさせ、純粋な疑問を投げかけてくる。
その瞳には一点の曇りもなく、本気で理由を測りかねているようだった。
「思い出してくれ。昨日までにお前が作ったコーヒーを」
「……はっ!」
その瞬間、彼女の脳内に過去の惨劇――あのどす黒い液体の記憶――がフラッシュバックしたらしい。
とんでもない失策に今さら気づいたかのように、彼女は戦慄した顔で、勢いよく自分の口を両手で覆った。
「そうだ。あのコーヒーじゃ、せっかく勇気を出して入ってくれたお客さんも、二度と暖簾をくぐらなくなる。だから俺たちに必要なのは、奇をてらった新メニューじゃない。土台となるクオリティを底上げすることだ。わかるな?」
「うん。そうしよう! すぐに! 今すぐ!」
俺の言葉がすとんと胸に落ちたのか、彼女は弾かれたようにカウンターへと駆け出した。 背後からは「ガラガラ!」という派手な物音や、「ガシャン!」という何かがぶつかる不穏な響きが聞こえてくるが、今はあえて触れないでおこう。
彼女のやる気に水を差すのは得策ではない。
「で? なにからやるんだ?」
俺は苦笑を噛み殺しながら、彼女の後を追ってカウンターの奥へと足を踏み入れた。
使い込まれた木の質感が残るカウンターの中は、外から見るよりもずっと狭く、密やかな熱気に包まれている。
「まずは昨日のコーヒーの確認から! 勉強だって仕事だって、復習が一番大事なんだから!」
意外な言葉だった。
その真っ直ぐな瞳には、先ほどまでの浮ついた様子はない。
あの救いようのないポンコツぶりしか知らなかった俺は、彼女が口にした「復習」という至極真っ当な単語に、少しだけ認識を改めた。
「そうだな。じゃあ、やってみてくれ」
彼女は真剣な面持ちで、ドリッパーをセットし、ペーパーフィルターを丁寧に折り曲げる。
昨日の手順をなぞるその手つきには、迷いがない。
細いポットの注ぎ口から、糸のようなお湯がコーヒー粉の上で円を描く。
ふわりと、香ばしくも深みのある香りが立ち上り、店内の空気を柔らかく塗り替えていく。
「……できた」
完成した液体は、昨日見た泥水のような濁りはない。
澄んだ琥珀色が、白い陶器のカップの中で静かに揺れている。俺はそれを手に取り、慎重に口へと運んだ。
「うん。うまい」
思わず独り言が漏れた。
最初の一口で、格段に進化しているのがわかる。
コーヒー独特の尖った苦みは影を潜め、喉を通る瞬間にまろやかな余韻が広がる。
これなら十分に、看板メニューとして胸を張って提供できるクオリティだ。
「復習」なんて言っていたが、これは昨日今日で身につくものではない。
昨日の今日でこれだけの味を出せるようになるまで、彼女は一体どれほどの豆を、時間を、費やしたのだろうか。
「これ、相当練習しただろ。そこらのチェーン店で出されても、全く違和感ないぞ?」
「へへーん。頑張ったんだよ」
彼女は照れ隠しのように鼻の頭を指でこすり、満足げに胸を張った。
「正直驚いてる。これだけの基礎ができてるなら、他のメニューもすぐに形になるはずだ」
これはお世辞ではない。
コーヒーは喫茶店の背骨だ。
この一本の軸がしっかりしていれば、そこから派生するメニューの完成度も自ずと高まる。
俺の中に、微かな、しかし確かな期待が芽生え始めていた。
次に手をつけるべきは、注文頻度が高く、かつ今の彼女のスキルを活かせるもの。
「なら次はラテを作ろう」
「らて?」
「あぁ、カフェラテだ。コーヒーにひと手間加えるだけだから、今の一ノ瀬ならすぐにコツを掴めると思う」
「ほんとに! じゃあそうしよう!」
現金なもので、彼女は再び鼻歌を歌いながら軽快に準備に取り掛かる。
しかし、コーヒー豆の入った銀袋を手に取ったところで、ぴたりと動きが止まった。
「えーっと……。何がいるかな?」
先ほどまでの凛々しさはどこへやら、彼女は「えへへ」と力なく笑い、首を傾げる。
どうやら俺は、彼女のことを少しばかり美化しすぎていたようだ。
喫茶店の看板を背負っていながら、ラテの構成要素すら把握していないとは。
「……ごめん一ノ瀬。今までどうしてたか聞いてもいい?」
一縷の望みをかけて、彼女のこれまでの「ラテ」の定義を確認する。
「牛乳を使ってたよ」
うん、正解だ。
ラテには牛乳が欠かせない。
そこまでは合っている。
……だが、彼女の視線が、常温で放置されたままの未開封の牛乳パックと、なぜか棚の奥から取り出された「すり鉢」の間を泳いでいるのを見た瞬間、俺の期待は音を立てて崩れ去った。
「他には!?」
俺の切実な問いかけに、彼女は不思議そうに首を傾げた。
「これだけかな。あとは砂糖と、それから……」
「待て待て待て。砂糖とかいいさきに! 大事なもの、根本的な何かを忘れてるんじゃないか?」
「えー、これだけだよ?」
自信満々に言い放ちながら、彼女はカウンターの上にトントンと「材料」を並べていく。 白い液体が詰まったパック、使い古されたシュガーポット、そして……なぜかそこにある食卓塩の小瓶。
彼女はそれらを、まるで宝物を披露するかのように両手を広げて指し示した。
ラテ。
正式名称、カフェ・ラテ。
香り高いエスプレッソ、あるいは濃いめに淹れたコーヒーに、丁寧に温めたミルクを注ぎ入れる。
黄金比の一対一で混ざり合う、シンプルながらも奥深い飲み物。
断じて、隠し味に塩など投入しないし、何より絶望的なのは――彼女の頭の中から「コーヒー」という主役が完全にドロップアウトしていることだった。
「……これだけって。一ノ瀬、ラテは『コーヒー』を使うんだが」
「……え?」
「まさかとは思うが、牛乳に砂糖と塩をぶち込むだけで完成だと思ってないだろうな」
「もちろん牛乳はあったかい牛乳だよ? ほら、砂糖が溶けにくいから」
「問題はそこじゃない!」というツッコミを喉の奥で辛うじて飲み込む。
これは想像以上に根が深い。
喫茶店の看板を掲げながら、看板メニューの一角を、彼女はただの「温かくて甘じょっぱい乳飲料」として提供しようとしていたのだ。
そんなの、もはや詐――。
「はい! 飲んでみて?」
「人の話を聞け! まだツッコんでる途中だ!」
「ん? なにブツブツ言ってんの?」
「いや、こっちの話だ。それより、何を勝手に作り始めてるんだよ!」
気づけば、彼女の手には湯気を立てる真っ白なマグカップが握られていた。
「いらないって! いいか一ノ瀬、一度しか言わないからよく聞け。それは『ホットミルク』だ」
「ホットミルク? ラテじゃないの?」
「言うなれば、余計なもんが入ってるから『ソルト・ホットミルク』だ。ラテの要素がどこにもない!」
「じゃあ、どうやってラテは作るの?」
一ノ瀬は不思議そうに目を丸くしながら、ソルト・ホットミルクのカップをコトリと置いた。
その無垢な瞳に毒気を抜かれつつ、俺は実演を交えて教えることにした。
「簡単だ。まず、コーヒーを淹れる。それから――」
まずはベースとなるコーヒーの準備だ。
手順自体は先ほどのドリップと同じでいい。
だが、抽出と並行して進めるべき重要な工程がある。
「いいか一ノ瀬。牛乳を温めるときに一番大事なのは、絶対に沸騰させないことだ」
「どうして? 熱々をフーフーして飲むほうが、なんか冬っぽくて良くない?」
「理由はいくつかあるが……おいっ! スマホで動画を見るな! 画面じゃなくて温度計を見ろ!」
慌てて彼女の視線を鍋へと引き戻す。
牛乳はデリケートな飲み物だ。
沸騰させてしまえば、あの独特の生臭い「加熱臭」が発生し、繊細なコーヒーの香りを殺してしまう。
さらに、牛乳本来の優しい甘みが損なわれるばかりか、表面には無粋な膜が張ってしまう。
「言い忘れてたが、コーヒーは少し濃い目に作るんだぞ」
「難しいじゃん、ラテって」
彼女は眉を寄せ、まるで難解な数式を解かされているような顔で鍋の中を見つめている。 コーヒーを濃く淹れるのは、ミルクと合わせたときに味がぼやけるのを防ぐためだ。
粉の量を増やすか、注ぐお湯の量を絞る。
その微細な調整が、最後の一口までの満足感を左右する。
「淹れる順番は、コーヒーが先。その後に温まった牛乳を静かに注ぐ。……これで完成だ」
立ち上る湯気と共に、さっきのブラックコーヒーとはまた違う、甘やかで深みのある香りが鼻腔をくすぐる。
カップの表面は、シルクのような滑らかさを湛えた柔らかなベージュ色。
温度を秒単位で管理したおかげで、膜ひとつない完璧な仕上がりだ。
「わぁー、私のと全然違うじゃん。おいしそー! 飲んでもいい?」
一ノ瀬は身を乗り出し、カップから立ち上る湯気を胸いっぱいに吸い込んだ。
その瞳は、まるで宝石箱を覗き込む子供のようにキラキラと輝いている。
「あぁ、味を覚えておけよ」
俺が促すと、彼女は大切そうに両手でカップを包み、慎重に唇を運んだ。
一口、含んだ瞬間。彼女の動きが止まり、丸く見開かれた瞳がいっそう大きく零れそうになる。
「なにこれ! ちょーおいしいんだけど! ふわふわしてて、全然苦くない!」
「それはよかった」
その素直すぎる反応に、心のどこかでホッとする。
自炊で培ったこだわりが、こんな場所で役に立つとは思わなかった。
毎日、狭い台所で自分用の弁当を詰めていた地味な努力が、目の前の少女をこれほどまでに驚かせている事実に、奇妙な達成感を覚える。
「今度は一ノ瀬の番だ。忘れないうちに作ってみ――」
言葉を遮るように、静まり返っていた店内に「カランカラン」と乾いた鐘の音が響いた。 重厚な木製の扉が押し開かれ、外の湿った空気と共に新しい風が入り込む。
俺たち二人は、弾かれたように扉の方へと視線を飛ばした。
「こんにちは。やってますかね?」
逆光の中に立っていたのは、穏やかな笑みを浮かべた初老の男性だった。
隣で一ノ瀬が「ひゃっ」と短く息を呑み、金縛りにあったように硬直するのがわかる。
パニック寸前の彼女に代わり、俺は無意識に足を踏み出していた。
「いらっしゃいませ。一名様でしょうか?」
「はい、そうですよ」
独学の知識と、わずかな人生経験を総動員した接客。
お世辞にも洗練されているとは言えないが、硬直した一ノ瀬を晒すよりは幾分マシだろう。
お爺さんは、俺のぎこちない案内にも嫌な顔ひとつせず、柔らかな口調で応じてくれた。
「かしこまりました。お席はお好きなところへどうぞ」
お爺さんは小さく頷くと、入り口に一番近い、使い込まれた飴色のテーブル席に腰を下ろした。
「こちらメニューになります。ご注文が決まりましたらお呼びください。失礼します」
棚から取り出したメニュー表を、滑らせるようにテーブルへ置く。
その一連の動作を終えてカウンターに戻ると、そこには顔を真っ赤にした一ノ瀬が待ち構えていた。
「……ちょ、ちょっと! なんでそんなに接客うまいの!?」
お客さんに悟られないよう、一ノ瀬は蚊の鳴くような小声で、しかし必死に詰め寄ってくる。
「いや、これくらい普通だろ」
「無理だって! あんなに自然に声かけるなんて……緊張とかしないの?」
「緊張もなにも、扉が開いたときの一ノ瀬の顔を見てたら、俺が行くしかないと思ったんだよ。一応、これでもバイトなんだしな」
何が飛び出すかわからない「爆弾」を、最初からお客さんの前に放り出すわけにはいかない。
「すみません」
店内の空気を震わせるように、お爺さんの穏やかな声が響いた。
「はーい、ただいま」
俺は再びテーブルへと向かう。
「えーっとね。この、カフェラテをくださいな」
お爺さんが指差したのは、奇しくも俺たちが今しがたまで格闘していたカフェラテだった。
運命のいたずらにしては、少しばかり出来すぎている。
「ホットでよろしいでしょうか?」
「うん、お願い。ありがとうねぇ」
「畏まりました。少々お待ちください」
メニューを預かり、カウンターへと引き返す。
俺の背中を見つめる一ノ瀬の視線が痛いほど刺さる。
「一ノ瀬、カフェラテだ。お前の番だぞ」
「ムリムリムリ! 絶対無理だよ! 白河がやってよぉ!」
彼女は潤んだ瞳で俺を見上げ、助けを求めるように空のカップを押し付けてくる。
今にも泣き出しそうな、必死の形相だ。
「ここでやらなくてどうするんだ。実践が一番の近道だろ。今できるようにならないと、これから一人で店番もできないぞ?」
「う……うー。……わかった。けど、ちゃんと隣で見ててよ?」
「あぁ、もちろんだ」
観念したように肩を落とした一ノ瀬は、おぼつかない手つきで準備に取り掛かった。 コーヒー豆を測り、慎重にセットする。
コンロの火をつけ、牛乳の入った小鍋を火にかけた。
さっき教えたことを反芻するように、「えーっと、えーっと」と小声で呟きながら温度計を見守る姿は、まるで初めての巣作りに挑む小動物のような危うさと、懸命さに満ちていた。
そうして完成したカフェラテは、柔らかなベージュの液体が静かに揺れ、俺が作ったものと遜色のない、見事な仕上がりだった。
「で……できたぁ……」
一ノ瀬は、祈るように握りしめていた布巾をようやく緩め、長い吐息をついた。
その額には、小さな汗の粒が光っている。
「うん。これならいける」
俺は確信を持って頷き、彼女から受け取ったカップを手に、お爺さんの待つテーブルへと歩み寄った。
「お待たせいたしました。こちら、カフェラテになります。ごゆっくりどうぞ」
湯気と共に立ち上る甘い香りを残し、俺はカウンターの内側へと戻る。
それからの時間は、まるで映画のスローモーションのようだった。
俺と一ノ瀬は、固唾を呑んでお爺さんの動向を見守る。
お爺さんがゆっくりとカップを口に運ぶたび、俺たちの心臓は、静かな店内でも聞こえてしまいそうなほど激しく拍動していた。
「ね、ねぇ。上手にできたかな……?」
一ノ瀬の声は微かに震え、俺の袖口をぎゅっと掴んで離さない。
「あ、あぁ。大丈夫なはずだ。工程は完璧だった。きっと、大丈夫なは……ず」
自分に言い聞かせるように言葉を紡ぎながらも、胃のあたりがチリチリと焼けるような緊張感が消えない。
客が味に満足したのか、それとも失望したのか。
その答えは、彼が席を立つ瞬間にしかわからない。
やがて、お爺さんが最後の一口を飲み干し、静かに席を立った。
俺と一ノ瀬は弾かれたように目を合わせ、重なるようにしてレジへと向かった。
「お会計は五百円になります!」
一ノ瀬の少し上擦った声が店内に響く。
「はい。ちょうど五百円ね」
「ありがとうございます」
差し出されたコインを受け取り、俺がレジを開いて納めようとした、その時だった。
「カフェラテ、とってもおいしかったよ。また今度来るね。今日はありがとう」
お爺さんの口からこぼれたのは、春の陽だまりのような温かい言葉だった。
「あ、ありがとうございます……!」
俺は不意を突かれ、深々とお辞儀をした。
するとお爺さんは、悪戯っぽく目を細めて問いかけてくる。
「君が淹れてくれたのかい?」
「い、いえ。今回のカフェラテは、隣の彼女が淹れたんです」
俺は、まだ呆然と立ち尽くしている一ノ瀬を指さして伝えた。
「そうかい……。お嬢さん、とってもおいしかったよ。また来るね」
「……えっ……あ、ありがとうございます……っ」
お爺さんは優しく微笑むと、カランカランと軽やかな鈴の音を残して、喫茶店を後にした。
深々とお辞儀をしたまま、しばらく動けずにいた一ノ瀬。
ようやく顔を上げた彼女の表情を、俺はまだ知らない。
そこには、今まで見たどんな悪戯な笑みや困り顔とも違う、心の底から溢れ出した純粋な喜びの色が、夕暮れ前の光のように美しく輝いていた。
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