五杯目:「……悪いな、白河。あの二人、ちょっとマイペースすぎるところがあるから。許してやって」
「ちょ……ちょっと待て。俺は……」
なんとか断りの言葉を捻り出そうとした、その時。
教室のドアがガラガラと、無機質な音を立てて開いた。
「あれ? 琥珀じゃん。今日早いんだな」
現れたのは、棒付きキャンディーを口にくわえた佐伯莉愛。
一ノ瀬と同じグループに属する、クール系の中心人物だ。
彼女がこの時間にいるのは、バスケ部の朝練帰りだろう。
その細い指先からは想像もつかないほど、コート上では鋭いプレーを見せると噂の女子だ。
莉愛が入ってきた瞬間、俺と一ノ瀬の間にあった空気は霧散した。
磁石が反発し合うように距離をあけ、さっきまで喋ってなどいなかったかのように装う。
「莉愛こそ! 朝練、もう終わったの?」
「今日は早めに切り上げたから。……で? 琥珀はなんでこんな時間にいるわけ?」
「あはは、なんか目が覚めちゃってさ」
「珍しいね。いつもなら『二度寝最高』とか言って、始業ギリギリに滑り込んでくるのに」
何事もなかったかのように自分の席に座り、教科書を取り出す俺の耳に、二人の会話が届く。
「ちょっと! 莉愛、余計なこと言わないでよー」
一ノ瀬は少し頬を染めて、莉愛の肩をぽかぽかと軽く叩く。
さっきまで俺に茶封筒を押し付けていた「店長」の面影はどこにもない。
そこにあるのは、どこまでも楽しげな、一軍女子としての日常の風景だった。
「ごめんごめん。……ねえ、うち今からコンビニ行くけど、琥珀も来る?」
「行く、行く! ちょうどお腹空いてたんだー」
この学園には、小さな購買部のようなコンビニがある。昼休みの混雑は戦場さながらで、あえて時間をずらして利用するのがこの学校の「メタ」とされていた。
二人は賑やかに教室を後にし、廊下からは楽しげな笑い声が遠ざかっていく。
「……後で、絶対に断ろう」
残された静寂の中で、俺は自分に言い聞かせるように、そう決心した。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
「……であるからして、ここにxを乗じるとこうなる。これが導き出される解だ」
時刻は一限目。朝礼が終わってすぐの、どこか眠気の残る数学の授業。
教室を見渡すと、そこには凝縮された「学生生活」が広がっている。
黒板に食らいつく優等生に、肘をついて欠伸を噛み殺す連中。中には完全に割り切って、堂々と爆睡を極めている猛者もいる。
学校生活における、いつもの光景だ。
「……では、次の問題。佐伯、わかるか」
「三です」
「……正解だ」
今朝、俺たちの「秘密の密談」を中断させた佐伯莉愛が、事も無げに正解を告げた。
意外と言うと失礼だが、彼女は驚くほど頭がいい。
中学までの俺の偏見では、いわゆる「一軍女子」は流行り物には詳しいが学業は二の次……というイメージだった。だが、佐伯莉愛という存在がその偏見を真っ向から叩き潰した。
「すごいじゃん莉愛! なんでそんなパッとわかるの?」
「……適当だよ、適当」
斜め後ろから、琥珀の感嘆混じりの囁き声と、莉愛の素っ気ない返事が漏れ聞こえてくる。
適当なはずがない。前回の定期テストで、彼女が学年の上位層に名前を連ねていたのを俺は知っている。あの一見クールで冷めた態度の裏で、彼女は虎視眈々と「結果」を出し続けているのだ。
「では、今日の授業はここまで。日直、号令」
先生が教卓を叩き、終了を告げた瞬間。
ダムが決壊したように、教室の空気は一気に喧騒へと塗り替えられた。
「あー、疲れた。マジで脳みそ溶ける……」
「ね! 一限から数学とか重すぎでしょ」
休み時間のチャイムと共に、教室のボルテージが跳ね上がる。
そんな喧騒の中、俺の机の前に一人の男が立ちふさがった。
「おい、白河! お前はどう思うよ?」
「あ? 悪い、聞いてなかった。なんて言った?」
話しかけてきたのは、菊池。
高校からの付き合いになる、いわゆる「普通オブ普通」な友人だ。
こいつを一言で表すなら「阿呆」に尽きる。そう断言できる理由は――。
「だーかーら! あの女子グループの中で、誰が一番可愛いと思うかって聞いてんの!」
ほらな、阿呆だ。
いつもこんな具合に、生産性ゼロのくだらない話題を振ってくる。
「で? 実際のところどうなんだよ白河。誰がタイプ?」
菊池が首をクイッと動かして示した先には、クラスのヒエラルキー頂点に君臨する一ノ瀬たちのグループがあった。
華やかな一軍女子たちが集まり、楽しげに談笑している光景は、教室の中でもそこだけスポットライトが当たっているかのように眩しい。
「……そういう菊池は、誰がいいんだよ」
「俺? 俺はやっぱり水野さんかなー! なんといっても、あの――」
語り始めた菊池の話を右から左へ受け流し、俺は彼女たちの「イメージ」を脳内で整理する。
水野日葵。
グループ随一の明るさを誇るチャームポイントの塊。
もしこの世界がラノベなら、間違いなく彼女がメインヒロインの座に就くだろう。
二年生にして生徒会にも所属する、名実ともに学園の太陽だ。
「でも珊瑚ちゃんも捨てがたいよなー。あの――」
宮本珊瑚。
小柄で人懐っこく、これでもかというほど「妹属性」を詰め込んだような女子。
誰にでも遠慮なく絡んでいく姿は、クラスの癒やし枠として完成されている。
「佐伯さんも外せないよな。あのクールな――」
佐伯莉愛。今朝の件とさっきの数学の件を思い出せば、説明の必要はないだろう。
「でも、結局は一ノ瀬に落ち着くんだよなぁ! やっぱりギャルは正義!」
一ノ瀬琥珀。
クラス一のギャルで、グループの中心人物。
そして――
俺だけが知る、喫茶店のオーナー。
簡単な飲み物すら作れず、基本的な掃除すらおぼつかないポンコツ店長。
けれど、労働の対価(給料)については、驚くほど誠実に向き合おうとする。
……クラスで「一軍の象徴」として君臨する今の姿と、今朝のあの必死な姿。
あまりのギャップの激しさに、脳が風邪を引きそうだった。
「知ってるか、白河。一ノ瀬、めちゃくちゃモテるらしいぞ。まぁ、当然だよな。あんなの見せつけられたら、誰だって惹かれちまうよ」
「……心底、分かんねえな」
思わず本音が漏れた。
あの「泥水コーヒー」を平然と提供し、掃除もできずに途方に暮れていた彼女の姿を思い出すと、クラスの羨望の眼差しがどこか遠い世界の出来事のように思える。
「ん? なんか言ったか?」
「いや、なんでもない」
「にしても羨ましいぜ、あいつら……」
菊池の視線の先には、一軍女子たちの輪に自然と溶け込んでいる男子たちの姿があった。
女子に一軍があるなら、当然男子にもそれがある。
グループの中心で爽やかな笑顔を振りまくのは、神崎蓮。
同性から見ても文句なしのイケメンで、二年にしてサッカー部のスタメンフォワード。
学力も高く、噂では実家も相当な資産家らしい。
天は二物も三物も与えるのかと毒づきたくなるような完璧超人だ。
その神崎の机に腰掛けているのは、九条怜。
クラス随一の切れ者で、学年順位でも常にトップ争いの常連だ。
戦場で例えるなら、冷徹に戦局を支配する司令塔。
佐伯莉愛と同様、一軍グループの温度を適度に下げるクールな立ち位置にいる。
その二人の隣で騒がしく笑っているのが、山波大河。
圧倒的なムードメーカーで、学力こそ二人には劣るが、抜群の運動センスを武器に様々な部活の助っ人として引っ張りだこだという。
「いいよなー。どんな徳を積んだら、あっち側の住人になれるんだろうな」
遠い目をして呟く親友に、俺は少しだけ申し訳ない気持ちになった。
「……前世とか関係なく、なろうと思えばなれるんじゃないか? 菊池なら」
「……マジかよ。お前……さては風邪でも引いてるんじゃないか?」
心底心配そうな顔をする菊池に、俺は乾いた笑いを漏らす。
「確かに引いてるかもな。今朝から、いろいろありすぎて」
その「いろいろ」の元凶である一ノ瀬琥珀は、一軍の輪の中で楽しそうに笑っている。
一ノ瀬の鞄の中には、俺に渡したものと同じ茶封筒がまだ眠っているのだろうか。
そんな思考を遮るように、次なる授業の開始を告げる予鈴が、無慈悲に教室へと鳴り響いた。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
昼休み。
教室は一気に緩んだ空気になり、あちこちで弁当の包みを解く音や、学内コンビニへ向かう足音が響き始める。
学生生活において、ある種もっとも「素」が出る時間だ。
俺はおもむろに自席で弁当を取り出し、割り箸を割る。
今日の出来は、自分でも珍しく自信があった。彩りも悪くないし、何より唐揚げの揚げ具合が絶妙だ。
「お前、それ自分で作ってんの?」
横から覗き込んできた菊池が、信じられないものを見るような目で聞いてきた。俺は口に含んだ唐揚げを咀嚼し、嚥下してから短く「あぁ」と答える。
「今年から親が家にいなくてな。最初は食堂とかコンビニで済まそうとも考えたんだが、いざ作ってみたら意外と楽しくて続いてる」
「ふーん、意外だな。お前のことなら『タイパが悪い』とか何とか理屈こねて、速攻でパンとか買ってきそうなのに」
「……どんなイメージだよ、俺」
心外な評価に眉をひそめる。
確かに効率は重視する方だが、自分で手を動かして何かを完成させる工程は、嫌いじゃない。
……そういえば、今朝のあの「店長」も、不器用なりに必死にコーヒーを淹れようとしていた。
ふと視線を上げると、一軍女子の輪の中心で、一ノ瀬が購買のサンドイッチを豪快に頬張っているのが見えた。
あんなに不器用な彼女が、もし「自作の弁当」なんて概念に手を出したら、キッチンは間違いなく戦場と化すだろう。
「……あ、おい白河。お前の弁当、美味そうだな。一個くれよ」
「断る。これは俺の今日のモチベーションだ」
菊池の厚かましい要求を撥ね除け、俺は自分の作った料理に集中することにした。
午後からの「断る」というミッションのためにも、今はスタミナをつけておく必要がある。
「へぇ。白河って、自分でお弁当作ってるんだー」
「……っ!?」
菊池との気の抜けた会話を切り裂いて、聞き覚えのある——だが、この場ではもっとも聞こえてほしくない声が降ってきた。
顔を上げると、そこには購買のパンを口にくわえた一ノ瀬琥珀が、興味津々といった様子で俺の机を覗き込んでいた。
「い、一ノ瀬さん……!?」
普段、彼女たちと接点の一切ない菊池が、裏返った声で絶句する。無理もない、一軍の象徴がわざわざ俺たちの席まで「遠征」してくるなんて、異常事態だ。
「ねぇねぇ、どうしたのこはー?」
一ノ瀬の背後から、小動物のような足取りで宮本珊瑚がとことこと駆け寄ってくるのが見えた。
「白河、自分でご飯作ってるんだってー」
「へぇー、どれどれ? ……うわっ、おいしそー! いっただっきまーす!」
珊瑚は持ち前の遠慮のなさをフル回転させ、俺が止める間もなく、自慢の唐揚げを一つひょいとつまみ上げた。
「お、おい……!」
「……はむっ。……っ、うっまー!!」
目を輝かせて咀嚼する彼女を見て、反射的に安堵が胸をよぎる。
自分の作った料理を他人に食わせるのは初めてだったが、その反応は、作り手として一番欲しかったものだった。
「ちょっ……ずるい! 私も食べたい! 白河、いいでしょ?」
珊瑚のリアクションに釣られ、一ノ瀬までもが持ち前のマイペースを発動させる。
今朝の「お願い」と呼んでいた時の目をして、俺の弁当へと迷いなく手を伸ばした。
「ちょっと二人とも! そんなに食べたら白河くんの分がなくなっちゃうでしょ!」
一ノ瀬の指先が唐揚げに触れる直前、鋭い制止の声が飛んだ。
水野日葵だ。彼女は二人の暴走を物理的に食い止めると、申し訳なさそうに俺へ会釈する。
「ごめんね、白河くん。……ほら、二人とも、行くよ!」
嵐のような一軍女子たちは、水野に引きずられるようにして自分たちの席へと戻っていった。
遠ざかる彼女たちの輪の中から、微かに声が漏れ聞こえてくる。
「……悪いな、白河。あの二人、ちょっとマイペースすぎるところがあるから。許してやって」
一ノ瀬と宮本の暴走を肩代わりするように謝罪を口にしたのは、佐伯莉愛だった。
「……あ、いや、別にいいけど」
「ありがと」
佐伯は口角をわずかに上げ、どこか意味深な笑みを残して三人のもとへと戻っていった。
一ノ瀬がマイペースなのは今朝の件で痛感していたが、宮本まであんな自由人だったとは。
……まあ、普段の教室での振る舞いを見ていれば、想像はついていたけれど。
「……おい、白河! なんであの一ノ瀬がお前の弁当に興味津々なんだよ! おかしいだろ!」
案の定、目を剥いた菊池が怒涛の勢いで詰め寄ってくる。
「……し、知らねえよ。ただの気まぐれだろ」
俺は誤魔化すように残りの弁当を勢いよく口に放り込み、「トイレ!」とだけ言い残して逃げるように教室を後にした。
まさか、向こうからあんな風に絡んでくるとは。
これ以上関わりを増やさないように慎重に立ち回るつもりだったのに、これじゃ不可避だ。
くそっ、あのポンコツ店長……。
おまけに喫茶店の手伝いなんて、どう考えても無理がある。
正直に「俺には荷が重い」と突き放すべきか?
俺は胸の中に渦巻く微かな苛立ちを鎮めるように、手洗い場の水で指先を冷やした。
ふぅ、と一つ溜息をついて教室へ戻ろうとした、その時だ。
男子トイレの入り口のすぐ側に、壁に背を預けた一ノ瀬琥珀が立っているのが見えた。
心臓が跳ねる。
俺は平静を装い、逃げるように「うっす」と軽く会釈をして通り過ぎようとしたが。
「……白河! よかった、トイレで合ってて! ねぇ、朝の話の続き、いいかな?」
後ろから呼び止められ、足を止める。
振り返ると、そこには少しだけ首を横に傾け、期待と不安が混ざったような瞳で俺を見つめる一ノ瀬がいた。
「一ノ瀬さん、なんでここに? さっきまで一軍のみんなと、楽しそうにサンドイッチ食ってたはずだろ」
必死に距離を取ろうと、あえて素っ気ない言葉を投げる。
だが、男子トイレの前という最悪のシチュエーションで、俺のそんな抵抗は意味をなさなかった。
「そっ……それは別にいいでしょ! それよりも、朝のお願い……聞いてくれる?」
ダメだ、完全に逃げ場がない。
「お願いってのは……あれだよな。店のバイトだか手伝いだかっていう」
「そう! どうかな?」
断る。
そう決めていた。
面倒なことには関わらず、元の「ただのクラスメイト」に戻るつもりだったんだ。
だが、一ノ瀬の期待を潤ませた真っ直ぐな眼差しを前にすると、言葉が喉に引っかかって出てこない。
……。
沈黙が流れる。
……。
黙り込む俺を見て、彼女は焦ったように言葉を重ねた。
「もっ……もちろん給料は出すよ! タダ働きなんてさせないから。だから……っ」
その必死な訴えを聞きながら、ふとした疑問が頭をよぎった。
この様子なら、金を払うこと自体は問題なさそうだ。
むしろ、昨日のあの「泥水」の件から見ても、彼女は驚くほど義理堅い。
だったら――なんでわざわざ、俺なんだ?
店をなんとかしたいなら、普通にバイトを募集すればいい。
料理ができるやつなんて他にもいるだろうし、経験者を雇うのが一番手っ取り早いはずだ。なのに、なぜ昨日たまたま店に入っただけの、ただの同級生にここまでしがみついてくる?
……昨日の光景が、ふと頭に浮かんだ。
キッチンで一人、半べそをかきそうになりながらバタバタしていた一ノ瀬の姿。
埃ひとつないのに、どこか冷え切った感じのする、客のいない静かなテーブル席。
あの店には、彼女以外に店員も、大人の影も、一人も見当たらなかった。
俺は意を決して、一ノ瀬に核心を聞いてみることにした。
「……なら、他にバイトの人とかいないのか? もしいるんなら、別に店長だからって人を頼るのは恥ずかしいことじゃないと思うぞ」
「それはそうなんだけど……」
一ノ瀬が歯切れの悪い顔をする。
おい、まさかとは思うが「雇ってるバイトが全員私以上のポンコツなんだよね」なんてオチじゃないだろうな。
頼むからそれだけは否定してくれ。
「私一人なんだよね、あのお店」
「……は?」
喫茶店を、女子高生一人で経営?
そんな馬鹿な話があるか。
いや、確かに一人で回している個人経営の店はある。
だがそれは、長年培った技術と接客、何より圧倒的な「慣れ」があって初めて成立する職人技だ。
昨日の「泥水」を錬成した一ノ瀬琥珀の実力で、成立させていい道理がない。
「一人でって……なんで他のバイトを雇わないんだよ。今の時代、ネットでいくらでも募集なんてかけられるだろ?」
「いやー、そのー……」
「その?」
「ネットで募集できるじゃん? それは知ってるんだけどー……」
「知ってるけど?」
「やり方、わかんないんだよね」
「…………ヤリカタガ、ワカラナイ?」
なんだ、そういうことか。
やり方がわからないんじゃ、そりゃあ募集もできないよな。
しょうがない。
……なわけあるか!!
何だそれは。やり方がわからない?
今の時代、スマホ一つで画面の指示通りにポチポチ進めていけば、誰だって募集広告の一つや二つ出せるはずだ。
「やり方がわからないって、そんなわけないだろ! 説明文を書いて送信するだけだろ!」
「ホントだもん! 一回挑戦したもん! なんか途中でエラーとか出て、よく分かんなくなってできなかったんだもん!」
……だもん、じゃない。
本当に、この女にはどこまで頭を抱えさせれば気が済むんだ。
「ネットが無理なら、張り紙とか店に貼ればいいだろ。『バイト募集してます』ってさ!」
「貼ってるよぉ! 白河も見たでしょ? 昨日、店に入るときに」
どうやら、アナログな手段は既に講じているらしい。
だが、俺の記憶にそんなものはない。
少なくとも、入り口に目立つような張り紙はなかったはずだ。
「本当に貼ってるのか? 俺は見てないぞ」
「嘘! 貼ってたってば、入り口にちゃんと! ……もう、バイト募集の話はどうでもいいの! 白河が手伝ってくれたら、全部解決なんだから!」
まるでどこかの国の、わがままな姫君だ。望むものはお願いすれば手に入ると思っている王族の振る舞いである。
……これ以上、論理で反論するのは時間の無駄だな。
俺は一度、感情を脇に置いて真剣に考えてみることにした。
果たして俺は、ここで働く必要があるのか。
まずはデメリットからだ。
筆頭は、このお姫様との関わりが必然的に増える点。
関わりを断ちたいのに、彼女の店でバイトをすれば学校以上に顔を合わせることになる。
次に、仕事量。メニューを教え、掃除を叩き込み、接客のいろはまで……。
想像しただけで仕事の内容はキリがない。
次にメリット。
シンプルに、金だ。
俺は今、バイトをしていない。最近の趣味である喫茶店巡りに注ぎ込みすぎたせいで、貯金は目減りしていく一方だ。
それに、社会経験としてのバイトも悪くない。未経験のまま世に出るのと、一度でも現場を経験しておくのとでは、その後の立ち回りに大きな違いが出る。
……金、経験、そして趣味の延長。
天秤の皿が、少しずつ、けれど確実に「受諾」の方へ傾き始めていた。
さて俺が出す結論は……
「……どうかな、白河?」
覗き込んでくる一ノ瀬の瞳から、もう逃げることはできなかった。
俺は一つ、重い溜息を吐き出して口を開く。
「……わかった。ただし、条件がある」
「いいの!? うん、何でも言って! 全部聞くから!」
「まず、仕事に関しては俺の言うことにある程度従ってもらう。理由は単純だ。このままだとお前の店、間違いなく潰れるからな。……次に、給料について。時給はしっかりと計算して決めること。一ノ瀬さんは気分で額を上げ下げしそうだからな。多く払いすぎるのも、経営的には毒だ」
「わ、わかった! 従う、絶対従う! じゃあ……いいってことだよね!? やったぁぁぁーー!」
一ノ瀬はその場で子供のようにぴょんぴょんと跳ねて喜んだ。一軍ギャルのイメージはどこへやら、今の彼女はただの「救われた店主」そのものだった。
「勘違いするなよ! あの惨状を放置して店が潰れたりしたら、流石に寝覚めが悪いからな。……仕方なくだ、仕方なく!」
嘘ではない。
俺もそこまで鬼じゃない。
一度関わってしまった知り合いの店が、経営破綻して消えていくのを無表情で見届けられるほど、冷徹な人間にはなりきれなかった。
「ありがとー! じゃあ、今日お店に来てね! 待ってるから! じゃあまた後で!」
「あ……おい、一ノ瀬!」
呼び止める声も届かない。
喜びを燃料にした彼女は、持ち前のマイペースをフルスロットルで発揮し、そそくさと教室の方へと走っていった。
「…………今日からかよ」
一人、廊下に取り残された俺は、頭を抱えた。
断るつもりでいたはずなのに、なぜか自分から泥沼に飛び込んだような。
そんな奇妙な脱力感とともに、俺は重い足取りで教室へと戻り始めた。
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