四杯目:「……重役出勤だな、一ノ瀬さん」
私立星城海原学園
窓の外に広がる私立星城海原学園の情景は、今日も変わらず穏やかだ。
都会の喧騒から切り離されたこの場所には、独自のゆったりとした時間が流れている。
大きく開け放った窓からは、湿り気を帯びた五月の風が入り込み、薄汚れたカーテンを緩やかに躍らせる。
鼻腔をくすぐるのは、どこか懐かしい潮騒の記憶を孕んだ磯の香り。
それは遠くの水平線から境界線を越えて運ばれてくる、この学園特有の呼吸のようなものだ。
かつて中学生だった俺が、進路に迷いながら訪れたオープンキャンパス。
あの時、校舎の廊下からふと目に飛び込んできた、陽光に輝く紺碧の海。
あの鮮烈な青に心を射抜かれた衝撃は、今でも胸の奥に淡い熱を持って居座っている。
その景色を自らの日常にしたいと願った当時の青臭い憧憬が、今の俺をこの席に座らせていた。
視界の下方、陽光を照り返す校庭では、サッカー部員たちの影が長く伸び、土を蹴る乾いた音が響く。
「――一本!」
「しゃあ、いくぞ!」
彼らの放つ熱を帯びた呼気と、肺を震わせるような掛け声。
それは朝の静謐な空気を切り裂く鋭い矢のように、無人の教室まで届いてくる。
ふと壁の時計に目を向ければ、長針と短針が重なり、ようやく七時を告げたところだった。
始業まではまだ一時間半近くもある。
普段の俺なら、シーツの温もりにしがみつき、あと五分の二度寝を貪っているはずの時刻だ。
誰もいない教室。
整然と並んだ机の脚が、ワックスの剥げかけた床に長い影を落としている。
自分の呼吸音さえもやけに大きく響くこの空間で、俺は所在なげに自らの指先を見つめた。
(……はて。なぜ俺は、一時間以上も前に、誰もいない教室に座っているのだろう)
早起きを美徳とするような高潔な精神は持ち合わせていないし、ましてやサッカー部の練習に情熱を傾けるような熱血漢でもない。
思考の海を深く潜っていくと、意識の底に沈んでいた昨日の放課後の記憶が、澱のようにゆっくりと浮上してきた。
オレンジ色に染まったあの瞬間に起きた出来事が、今の俺の体内時計を狂わせた元凶だった。
―――――――――――――――――――――――――
「……今日はありがとね。白河」
その声は、放課後の静まり返った家庭科室に、ひどく場違いなほど優しく溶け込んだ。 彼女――一ノ瀬琥珀は、自らの手で淹れた生涯初の「至高の一杯」を、壊れ物を扱うような手つきで包み込んでいる。
カップから立ち上る湯気が、彼女の鼻先を白く霞ませ、慈しむように目を細めて琥珀色の液体を啜る仕草は、どこか神聖な儀式のようでもあった。
西日に照らされた彼女の髪が、透き通るような輝きを放ち、教室の輪郭を曖昧にぼかしていく。
いつも見せる快活な笑顔とは違う、凪のような穏やかな表情。
その一瞬の美しさに、俺の胸の鼓動がわずかにリズムを乱したことを、俺は断固として認めるわけにはいかなかった。
「ああ、いいよ。コーヒーの淹れ方くらいなら」
俺は意識的に感情を削ぎ落とした声で応じ、視線を彼女から、惨劇の舞台と化したキッチンへと移した。
目の前に広がるのは、もはや調理の跡などではない。
「爆辞の痕跡」と形容するに相応しい混沌だ。
散乱したコーヒー粉の黒い斑点、天板を無秩序に這う水滴の筋、そして、役目を終えて放置されたミルクの空き瓶。
整理整頓という概念を根底から覆すようなその光景に、俺の理性が静かに悲鳴を上げた。
「……っておい! なんで俺が片付けてんだよ!」
耐えかねて上げた怒声に、彼女は肩を跳ねさせた。
「びっ……くりしたぁ! 急に大声出さないでよ、心臓に悪いじゃん」
「一ノ瀬さんが汚したんだから、一ノ瀬さんが片付けるのが筋だろ!」
俺の正論に対し、彼女は反省の色を見せるどころか、眉を下げて困ったような、それでいてどこか他人事のような笑みを浮かべた。
「……いやー、まあ。何となく察してると思うけどさ……。私、掃除も絶望的に苦手なんだよね」
彼女は「テヘッ」という擬音が物理的に鼓膜を叩くのではないかと思えるほど、教科書通りの仕草で自分の頭を軽く叩き、ぺろりと舌を出した。
その一挙手一投足に、計算高さではなく「本気で言っている」という救いようのない天真爛漫さが透けて見える。
ただの粉とお湯を直接結合させようとしたあの壊滅的な料理センス。
それを持つ人間に、清掃という繊細なタスクをこなす異能が宿っているはずもなかった。 宇宙の法則は、彼女に対してどこまでも一貫しているらしい。
「てことで、後片付けもお願いしちゃっていい? 頼んだよ、白河!」
もはや逆らうことさえ許されない、宇宙開闢の瞬間から定められていた絶対的な真理。
彼女の言葉には、そんな有無を言わせぬ響きがあった。
これが、学園の一軍という頂に君臨する者のオーラなのか。
自分のペースに周囲を巻き込み、いつの間にかそれを「当たり前」に変えてしまう圧倒的な吸引力。
だが、俺は心の中で強く首を振る。
この掃除が終われば、魔法は解ける。
明日になれば、また接点のない他人同士に戻るだけだ。
住む世界の違う住人と、これ以上深く関わってはいけない。
俺は自分にそう言い聞かせ、無心になってスポンジを走らせた。
ステンレスのシンクを鏡のように磨き上げ、道具をミリ単位の狂いもなく定位置へ戻していく。
「……はい、終わり。一ノ瀬さん、片付いたぞ」
「あー。あふぃがほー……」
達成感と共に振り返った俺の視界に入ったのは、頬をリスのように膨らませ、厚切りパンを懸命に咀嚼する彼女の姿だった。
感謝の言葉は炭水化物の厚い壁に阻まれ、意味をなさない音の塊となって霧散する。
呆れるのを通り越して、もはや乾いた笑いすら出ない。
俺はこれ以上の接触は精神衛生上よろしくないと判断し、背を向けた。
「……じゃあ、俺はもう帰るから。さようなら」
「ふぁ、ふぁって!」
背後から放たれた謎の言語に、足が止まる。
彼女は口内のパンを強引に嚥下すると、潤んだ瞳に鋭い光を宿し、俺を射抜いた。
「あ、明日! ちょっと早めに学校来て!」
「……それは、どういった意図のご発言でしょうか?」
「いいから! そのまんまの意味!」
冗談ではない。
俺の通学時間を一体何だと思っているのか。
通常でも七時には家を出る必要がある俺に、さらなる早起きを強いるというのか。
「七時くらいに! じゃ、店閉めるから。また明日ね、白河!」
抗議の言葉を紡ぐ隙も与えられず、俺は背中にその柔らかな、それでいて容赦のない圧力を感じた。
なかば突き飛ばされるようにして店外へと放り出され、背後で「カチリ」と冷徹な施錠の音が響く。
夜の帳が下り始めた路地裏。
嵐が過ぎ去った後のような虚無感の中で、俺は重い足取りを引きずりながら駅へと向かった。
明日、一時間以上も早く登校した教室で、俺を待ち受けているのが「最悪」ではないことを、ただ祈るしかなかった。
―――――――――――――――――――――――――
「……いや、なんで俺は律儀に従ってんだよ。っていうか、呼び出した本人が遅刻ってどういうことだ」
誰もいない教室。
整然と並ぶ無機質な机たちに向かって放たれた独り言は、吸音材に吸い込まれるように虚空へと消えていった。
窓から差し込む朝の光は、埃のダンスを白く浮き彫りにし、世界の静寂をいっそう際立たせている。
一体、用事とは何なのだ。
こんな、鳥すら寝静まっていそうな時間に。
脳内では、最悪のシミュレーションが高速で展開されていた。
昨日の醜態を口外すれば社会的に抹殺するという、冷徹な口封じの儀式か。
あるいは、今日を境に公式な「雑用係」として登録されたことを告げる、隷属の宣告か。
……いや、待て。
放課後の密室、二人きりの時間。
学校一のギャル。
(まさか、告白……?)
浮足立ちかけた思考を、すぐさま冷徹な理性が叩き潰す。
ありえない。
天地がひっくり返り、海が空へ駆け上ったとしても、それだけは断じてありえない。
「ごめん! お待たせ。何か言った?」
扉が勢いよく弾け、迷走する妄想を断ち切った。
「……重役出勤だな、一ノ瀬さん」
「あはは、ごめーん! ちょっと家でバタバタしちゃってさ。もしかして……結構、待った?」
屈託のない笑みを浮かべて現れた彼女は、ネイビーのブレザーを羽織った私立星城海原学園の制服姿だった。
校則の境界線を絶妙になぞるように着崩された着こなしが、かえって彼女の奔放な魅力を際立たせている。
朝の清冽な光を透過させるその肌は、陶器のように白く滑らかだ。
激しく駆け寄ってきたのか、乱れた呼吸に合わせて上下する薄い胸元に、俺は居心地の悪さを感じて視線を窓の外へと逃がした。
「……別に。それで? 呼び出した用件は何ですか」
「あ、そうだった! はいこれ、昨日の分」
一ノ瀬は距離感を詰めると、少し角の折れた茶封筒を差し出してきた。
朝日に照らされたその封筒は、古ぼけた木の机の上で奇妙な存在感を放っている。
「……何これ。果たし状?」
「違う違う。お金だよ。給料だよ、給料! 昨日いろいろ教えてくれたじゃん。バイト代って言ったほうがいいかな?」
「きゅう……りょう。……え、なんで?」
語彙としての意味は理解できる。
だが、それが自分の掌に収められているという状況に、脳内の論理回路が火花を散らして拒絶反応を示した。
「なんでって……。そりゃあ、あんたのおかげでコーヒー淹れられるようになったし、掃除までさせちゃったからさ」
一ノ瀬は少し照れくさそうに、けれど真っ直ぐな瞳で俺を射抜いた。
その瞳には、教室の中心で取り巻きに囲まれている時の派手な虚飾など微塵もない。
湿り気を帯びた、真実の色。
「働いてくれたようなもんじゃん! 大革命だよ、大革命! だって、あの泥水がコーヒーに変わったんだから!」
……世の中で粉骨砕身、額に汗して働く諸君、本当に申し訳ない。
どうやら俺は昨日、コーヒーを三周ほどお湯で回しただけで、正当な賃金が発生してしまったらしい。
「……いや。流石に受け取れない。俺の倫理観が許さないんだ」
「なに難しいこと言ってんの? いいから受け取って。はい!」
抵抗は無意味だった。
彼女は俺の指を強引にこじ開けると、封筒をその掌に押し付けた。
ノルマを達成した子供のような、満足げな笑みが彼女の顔に広がる。
「きちんと頑張った分は、しっかり褒めてあげないとね!」
「褒める」、か。
その言葉に含まれた、混じりけのない純粋な好意。
理屈という名の防波堤は、その一言であっけなく崩落した。
「……そこまで言うなら、いただきます」
敗北感を伴う気恥ずかしさを覚えながら、俺は封筒を鞄の奥底へと沈めた。
「一ノ瀬さん。お金を渡すためだけに、わざわざこの時間に呼び出したの?」
「うん。そだよー」
あっけらかんとした肯定に、俺は天を仰いだ。
俺の貴重な睡眠時間を返してほしい。
「喫茶店で渡してくれればよかっただろ。わざわざ学校で、七時に呼び出さなくても……」
「だめ! それは絶対無理。だからこの時間にしたんだからっ」
「フンス!」と効果音がつきそうな勢いで鼻を鳴らす彼女に、俺は眉をひそめた。
「……みんなには言いたくないの! 私が店長やってるなんてこと」
その瞬間、彼女の瞳にいたずらが見つかった子供のような、切実な陰りを感じた。
――訳ありだ。
本能が警報を鳴らす。
これ以上深入りすれば、穏やかな日常という名の安息地には戻れなくなる。
だが、他人の秘密を暴く趣味も、土足で踏み込む図太さも俺は持ち合わせていなかった。
「分かった。このことは、誰にも言わないよ」
「うん! ありがと! ……あ、それでね。もう一つ、お願いがあるんだけど」
話の切り替えの速さに呆れる間もなく、脳内のアラートが真っ赤に点滅を始めた。
「コーヒー以外にも、いろいろ淹れ方教えてくれないかな? カフェラテとか、キャラメルマキアートとかさ!」
予感は見事に的中した。
ようやく一つの難問を片付けたと思ったら、目の前にはさらに高く積み上げられた課題の山。
反論しようと、乾いた喉を震わせようとしたその時。
「次、行っくぞーー!」
校庭から、サッカー部員の威勢のいい声が潮風に乗って飛び込んできた。
それはまるで、俺の静寂だった日常に幕を下ろし、一ノ瀬琥珀という名の予測不能な嵐に翻弄される、新しい「放課後」の試合開始を告げるホイッスルのように響き渡った。
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