三杯目:「……もう一回、教えて」
「ちょっと! 火傷したらどうするのよ、バカ!」
「俺のせいかよ!? 一ノ瀬さんが急に手を離すからだろ!」
足元に飛び散った熱湯の飛沫を避けるように、俺たちは慌てて足をバタつかせた。
静寂に包まれていた店内に、二人の怒号と焦りが反響する。
俺はキッチンペーパーを掴み出し、床に広がった水溜まりを無我夢中で拭った。
隣で屈み込んだ一ノ瀬さんは、濡れて色が変わったエプロンを気にすることもなく、噛みつくように食い下がってくる。
「っていうか、フィルターを通すってどういうことよ!? コーヒーの粉って、お湯で溶かすんじゃないの!?」
「そのまんまの意味だよ! さっきの俺の手元、どこをどう見てたらそうなるんだよ……」
大きな溜息が、キッチンのタイルに虚しく吸い込まれていく。
懸命に手を動かしていると、ふと、隣で作業していた彼女の指先がピタリと止まった。
「……もう一回、教えて」
蚊の鳴くような、ひどく小さな呟き。
そこには先ほどまでの意地っ張りなギャルの面影はない。
自分の無知、そして一週間も「毒」を出し続けていたことへの罪悪感に、その細い肩を小さく震わせる、一人の少女の姿があった。
「……分かったよ。でも、今のままじゃ店は閉めたほうがいい。このクオリティでお客さんを通すのは、流石に不誠実だ」
「……分かったわよ」
彼女は力なく、消え入りそうな声で答えると、力なく入り口へと向かった。
……少し言い過ぎただろうか。
てくてくと歩き、しょんぼりと丸まった彼女の背中を見送ると、なんだか俺のほうがひどい悪党になったような気分になる。
あとで謝っておこう。
学校で一軍女子に目をつけられるのは、平凡な俺の平穏には荷が重すぎる。
それにしても、なぜ彼女はこの「実力」で店長なんて大役を担っているんだろう。
自分で建てたのか?
そもそも資金はどこから?
そんな疑問が脳内で渦巻いていると、入り口の札を裏返した彼女が戻ってきた。
「お店、閉めてきたから! ……だから、お、教えて! お願い、白河!」
目の前でギュッと両手を合わせ、必死に頭を下げる一ノ瀬さん。
クラスの頂点に君臨し、俺のようなモブキャラなど風景の一部としか思っていないはずの彼女に、まさか名前を覚えられていたなんて。
予想外の事実に少しだけ胸を熱くしながら、俺は腹を括った。
「……素人だけど。それでも良ければ」
―――――――――――――――――――――――――
「そうそう。いい感じ。あとはゆっくり一周して……完成だ」
「……できたぁっ!」
格闘すること、約二時間。
失敗した数は数知れず。
無駄にした豆の量と、重なる溜息、そして幾度ものやり直し。
ようやく完成した「一ノ瀬琥珀・至極の一杯」が、白いカップの中で静かに琥珀色の湯気を立てていた。
「飲んでみたら?」
俺の言葉に、彼女は恐る恐る、まるで伝説の聖杯でも扱うような慎重な手つきでカップを口元へ運ぶ。
……ごくり。
「……っ、おい、しい。おいしい! 白河、美味しいよこれ!」
瞬間、彼女の瞳にパッと光が宿った。
頭の上にピンと耳が立ち、見えない尻尾がちぎれんばかりに振られているような錯覚に陥る。
「できた! 本当にコーヒーができた! やったぁぁ!」
「……よかったな。喜んでく……れ、て……?」
「ほら! 白河も飲んでみて! すっっっごく美味しいから!」
興奮のあまり、彼女は距離感を完全に見失っていた。
自分の唇が触れたばかりのカップを、そのまま俺の唇に強引に押し付けてくる。
甘いグロスの香りと、コーヒーの熱い匂いが混ざり合い、視界がいっぱいになった。
「ちょ、いや、俺はいいよ!」
「なんでよ! アンタが教えてくれたんでしょ、飲んでよ!」
「いや、だって今のっ……ご、ごくっ……」
至近距離で見つめてくる彼女の勢いに負け、俺の喉を液体が通り過ぎる。
それは、彼女が初めて「誰かのために」心を込めて淹れた、温かい琥珀の味がした。
「…………美味しい」
「でしょ!? んふふ、ありがと!」
そう言って、太陽が弾けるようにニコッと笑った彼女。
学校では決して見せない、壁をすべて取り払った年相応の、それでいて破壊力抜群の笑顔――。
俺の心臓は、さっきの熱湯を浴びた時よりも、もっと熱く、激しく跳ね上がった。
いいね&コメントしていただけると喜びます




