八杯目:「……『花ちゃん』はやめろ」
「へい、パス!」
突き抜けるように青い空から降り注ぐ、暴力的なまでに眩しい陽光。
鮮やかな緑が目に沁みるグラウンドの上を、白黒の模様を躍らせたボールが、意志を持っているかのように勢いよく転がっていく。
その喧騒の中心で、ひ思いときわ軽やかな、それでいて鋭い動きを見せる男子が一人。
「ナイス、神崎! マジでエグいわ!」
チームメイトたちが、鮮やかな先制ゴールを祝して彼のもとへ雪崩のように駆け寄る。
「今の見たか白河? スーパープレイなんてレベルじゃねーぞ、今の。物理法則どこ行ったんだよ」
隣で息を切らしていた菊池が、興奮を隠しきれない様子で捲し立てた。
普段なら大袈裟だと鼻で笑うところだが、今回ばかりは否定する気にはなれなかった。
敵陣深くの死角でパスを受けた神崎は、足元に吸い付くような超絶的なドリブルでディフェンス三人を見事に翻弄し、抜き去った。
さらに、焦って飛び出してきたキーパーの鼻先を突くように、技ありのループシュートをゴールネットに突き刺したのだ。
「ぱねー。やっぱ神崎は『神崎』だわ。名前からして神だしな」
菊池はもはや、彼の名字を人名ではなく、一種の完成されたブランドか特別な称号か何かのように口にする。
コートの脇では、フェンス越しに試合を眺めていた女子たちが、黄色い、というよりは悲鳴に近い熱狂的な声援を上げていた。
無理もない。
あれは同じ男から見ても、反論の余地がないほど惚れ惚れする「主人公」の動きだった。
時刻は四限目。
俺はこの時間帯に行われる体育が、決して嫌いではない。
四限ともなれば、体内時計が正確に時を刻み、嫌でも腹が減って座学への集中力は底を突く。
心なしか、他の時間帯よりも生徒たちのテンションが無駄に高いのは、目前に迫った昼食への期待と空腹がもたらす、一種のランナーズハイのようなものだろうか。
この学園の体育は二クラス合同で行われ、男女は種目こそ別だが、基本的には隣り合ったコートを使用する。
今日の合同相手は三組。
俺たち二組とは、何かと顔を合わせる機会が多く、妙なライバル意識が漂うクラスだった。
「次、BチームとCチーム交代だ。さっさと動け!」
体育教師の無機質な号令が、熱を帯びたグラウンドに響き渡り、チーム替えが告げられる。
ベンチ横に置かれたスコア表を横目で盗み見れば、Aチームの一勝に対し、Bチームは零勝。
……今の試合が、神崎という絶対的な個の力に支配された、文字通りのワンサイドゲームだったことを冷酷に物語っていた。
Aチームは、神崎を筆頭に運動神経の化け物をこれでもかと詰め込んだ、選ばれしスター軍団。
対するBチームは、山波を中心としたバランス重視の堅実なオールラウンダーチーム。
そして、今から熱気の残るコートに足を踏み入れるCチームは——俺、白河が属する、というよりは、九条という男が中心となって動く、徹底した効率と勝利を追求するリアリスト集団だった。
「く、九条くん。ど、どうする……? あの神崎をどうやって止めるの……?」
隣で三組の男子生徒が、救いを求めるような、あるいは処刑台を待つ罪人のような視線を九条に送っているのが聞こえた。
実際、神崎の戦力は贔屓目に見ても一人で十人分、いやそれ以上の価値がある。
あんな、グラウンドの平穏を根こそぎ奪い去る「台風」をまともに正面から相手にするなら、生半可な根性論や気合いでは一分と持たずに蹂躙され、更地にされるのがオチだろう。
「……みんなは、勝ちたい? 勝ちたいなら『プラン』はあるけど」
九条は眼鏡の奥の瞳を冷徹に光らせ、淡々と、しかし有無を言わせぬ重みを持って告げた。
その口ぶりからは、スポーツマンシップ的な勝利への執着よりも、最短ルートで最適解を導き出そうとするチェスプレイヤーのような、機械的な響きさえ感じる。
横でそんな不穏な密談が交わされているが、正直に言って、俺は勝利という二文字に一ミリの興味も抱いていない。
体育の評定に響かない程度の「適当な運動量」さえ確保できれば、それで十分だ。
勝敗なんていう形のないものは、放課後にコンビニで買うアイスの種類と同じくらい、今の俺にはどうでもいい些事だった。
だが、俺のそんな「事なかれ主義」の隠れ蓑は、周囲の熱狂には通用しないらしい。
どうやら無情にも、追い詰められたCチームの面々は、九条の指し示す「勝ち筋」という名の泥舟——あるいは装甲車に乗ることに決めたようだ。
「おっけー。じゃあ、作戦はこうだ。配置は絶対に変えるな——」
九条が鋭く、簡潔に指示を飛ばすと、Cチームの面々はまるで緻密に計算されたクロックワークの部品のように、それぞれの持ち場へと無機質に散らばっていった。
「……怜。お前が何もしないなんて、あり得ないよな? 今度は何を隠してる?」
コートの中央、センターサークル。
ボールをセットしながら、神崎は射抜くような鋭い視線を九条へと向けた。
その視線は、親友への信頼と、ライバルへの警戒が複雑に混ざり合った熱を帯びている。
「さぁ? それを考えるのが、この退屈なゲームにおける唯一の『楽しみ』なんじゃないかな」
神崎の剥き出しの挑発を受け流すように、九条は氷のように冷ややかな、けれどどこか愉悦を含んだ笑みを浮かべて告げた。
「怖ぇな、相変わらず。お前のその面を見るたび、背筋が寒くなるぜ」
口ではそう言いながらも、神崎の唇は不敵に吊り上がり、獲物を見つけた猛獣のような好戦的な笑みに変わっていた。
ピーーーッ!
鼓膜を突くような試合開始の笛が、熱を孕んだグラウンドに響き渡る。
神崎は開始の合図と同時に、一切の迷いなくボールを後方の味方へと戻した。
「俺にくれ!」
パスを出した直後、すぐさま自分へ戻すようチームメイトに吼える。
最短距離でボールを支配下に置いた神崎は、独り言のように、けれど確かな宣戦布告として呟いた。
「……九条。俺をなめるなよ。お前の理屈、全部ぶち壊してやる」
なめていたわけじゃない。
九条はもちろん、この場にいる全員が——誰よりもやる気のないはずの俺でさえも——神崎という男のスペックを低く見積もってなどいなかった。
むしろ、高く、あまりにも高く見積もっていたからこそ、俺たちは九条の「非情なプラン」という毒を飲み、それに頼らざるを得なかったんだ。
刹那。
ハーフラインを越えた神崎は、一切の予備動作なくシュート体勢に入り、爆発的な力で右足を振り抜いた。
放たれたボールは、弾丸のような速度で空気を切り裂き、コートを縦断する。
それは精密機械が計算したかのような美しい放物線を描き、防ぎようのない鋭さと威力で、ゴールネットを激しく揺らした。
「……おいおい。漫画かよ」
開いた口が塞がらないとは、まさにこのことだ。
さっきの試合を遥かに凌駕する「超次元」のプレイ。
その場にいた全員の時間が、一瞬だけ絶対零度で凍りついた。
静まり返ったグラウンドに冷たい風が吹き抜けた直後、遅れて爆発したような歓声が沸き起こる。
「マジかよ! 今の見たか!? 軌道がおかしいだろ!」
「やばすぎだろ、距離考えろよ! プロかよ!」
称賛と驚愕が入り混じった怒号のような声が、四方八方から降り注ぐ。
いくらミニゲーム用のハーフコートだとはいえ、センターライン付近からのダイレクト シュートなんて、高校生の体育という常識の範疇を軽々と飛び越えていた。
「……蓮は本当にすごいな。これじゃあ、僕たちが点を取り返したとしてもあまり意味がないね。敗因は、キックオフが僕たちのボールじゃなかったこと、ただそれ一点に集約されるよ」
横で九条が、光を反射する眼鏡の奥、感情の読めない瞳で淡々と呟いた。
……いやいや。
そういう次元の話じゃないだろ、九条。
作戦以前の問題というか、もはや物理法則の敗北に近い。
戦略がどうこうというレベルを、神崎の右足が物理的に粉砕してしまったんだ。
ただコートの端に突っ立っているだけの俺は、声に出さない全力のツッコミを、冷や汗とともに心の中で叩き込んでいた。
―――――――――――――――――――――――――
六限目のホームルーム。
窓から差し込む西日が、眠気を誘うどんよりとした空気を作り出している。
そんな教室の壇上に立つのは、俺たちの担任、浅野花。
「花ちゃん」なんて可愛らしい愛称で呼ばれてはいるが、その実態は竹を割ったような、というよりは竹を叩き折ったようなサバサバとした性格の女性教師だ。
「今日は後期の委員を決めようと思う。去年で知ってはいるとは思うが、後期は体育祭に文化祭、そして何より修学旅行がある。大まかに大事なのはこの三つだ」
彼女はチョークを走らせ、黒板に書かれた『文化委員』『体育委員』、そして『学級委員』という文字を力強く丸で囲んだ。
「基本的には立候補があれば優先する。だが例年、どうしても余る委員が出てくる。その場合はクジで決める。……では早速、学級委員に立候補する奴はいるか?」
学級委員。
クラスの顔であり、担任の右腕。
そんな重責、どう考えても俺の器じゃない。
というか、俺はどの係だって御免被りたい。
理由は極めて単純明快。
……めんどくさいからだ。
それに加えて、今の俺には「喫茶店の新人店員」という裏の顔がある。
ただでさえ一ノ瀬に振り回されて摩耗しているのに、これ以上学校の雑務まで背負い込んだら、過労死の二文字が現実味を帯びてくる。
俺は気配を消し、石像のように固まって浅野先生の視線から逃れた。
俺のそんな杞憂は、拍子抜けするほどあっさりと霧散した。
「……誰もいないなら、私やろうかな」
静寂を切り裂いて、凛とした声が響く。
迷いのない動作でスッと右手を挙げたのは、水野日葵だった。
正直、学級委員という大役を務めるなら、彼女以上の適任はいないだろう。
クラスの「一軍」の中心人物でありながら、その名の通り向日葵のような明るさと包容力を持つ彼女なら、バラバラな個性の集まりであるこのクラスを見事にまとめ上げてしまうはずだ。
おまけに彼女は生徒会役員。
この手の実務には、俺たちが宿題を忘れるのと同じくらい手慣れている。
「よし。なら女子は水野で決まりだな。あとは男子だが……。立候補がないなら、推薦とかでもいいぞ」
浅野先生が教壇を指でトントンと叩きながら、男子の座席へと視線を流す。
案の定、男子側からは一人の名乗りも上がらない。
理由は明白だ。
この委員は、とにかく「面倒」の一言に尽きる。
そして何よりの問題は、その相方だ。
女子側が水野日葵という「完璧な太陽」である以上、男子側にもそれに見合うだけのスペックが要求される。
普通の男子があの隣に立とうものなら、公開処刑同然のプレッシャーに晒されるのが目に見えている。
教室を支配する気まずい沈黙。
誰もが「自分以外の誰か」を期待し、あるいは視線を逸らしている。 水野が「誰かやってくれないかなー?」といたずらっぽく男子席を見渡すと、数人の男子が気まずそうに目を逸らすのがわかった。
「……男子、本当にいないのか?」
浅野先生の溜息が、チョークの粉と一緒に舞い上がる。
このままではクジ引きという最悪の結末を迎えかねない。
祈るような気持ちでいた、その時だった。
「……蓮がいいんじゃないかな?」
静寂を切り裂いたのは、九条の淡々とした、しかし有無を言わせぬ響きを伴った推薦だった。
「……は? おいおい怜! 冗談だろ!?」
指名された神崎は、文字通り飛び上がらんばかりの勢いで驚愕の表情を浮かべる。
だが、九条の目は笑っていない。
親友を確実な「義務」の檻へと追い込む静かな光を宿している。
「……確かにな。神崎、やってくれるか?」
九条の案に、浅野先生が即座に乗った。
逃げ道を塞ぐように、経験豊富なハンターのような視線が神崎をロックする。
「……花ちゃーん。俺、無理だって。そういうガラじゃないし、もっと適任がいるだろ?」
「そうだな。神崎ならできる。……それから、何度も言うが『花ちゃん』と呼ぶなと言っているだろう」
机に突っ伏して「えー……」と深く項垂れる神崎。
だが、浅野先生の言葉には、拒絶を許さない奇妙な、それでいて絶対的な信頼感がこもっていた。
「水野。神崎ならお前も安心だろう?」
先生が視線を向けると、水野は待ってましたと言わんばかりに顔を輝かせた。
「はい! 私も、蓮くんがいいと思います!」
神崎の方を真っ直ぐに見つめながら、彼女もまた彼を学級委員に推した。
俺も、心の中で神崎を猛烈に推していた。
水野が立候補した瞬間に確信していたんだ。
このクラスという、バラバラの個性を乗せた巨大な船を操るなら、彼女の隣に立って、同じだけの熱量でクラスを引っ張れるのは、神崎蓮という男以外にいない。
「……くっそ。これ、完全に外堀埋められて確定じゃん。……わかった、やりますよ。やりますよ、花ちゃん!」
神崎は観念したように腕を頭の後ろで組み、椅子に深くもたれかかった。
こうして、このクラスが誇る「最強の双璧」が、後期の学級委員として決定した。
「……恩に着るぞ、神崎。それから『花ちゃん』はやめろ。……よし、後は二人に任せるぞ」
浅野先生が満足げに教壇を譲ると、新たに学級委員となった神崎と水野が席を立ち、教卓の前へと移動した。
「……えーっと。残念なことに、そして不本意ながら学級委員になった神崎です。……よし。なってしまったもんはしょうがない。やるからには精一杯頑張ります!」
これが神崎のすごいところだ。
嫌な役目でも、一度引き受けた以上は瞬時にマインドを切り替え、全力を尽くそうとする。
その潔さと責任感があるからこそ、彼は自然とクラスの中心に、そして主人公の座に座るんだろう。
「私も頑張ります! みんな、よろしくお願いします!」
隣で水野が胸の前で小さくガッツポーズを作り、「フンス!」と気合を入れ直した。
その眩しすぎる二人の並びに、教室中の空気が一気に浄化されていくのがわかる。
……一瞬、菊池がこちらを「いいよなぁ、あんな美男美女ペア」と羨ましそうに見てきた気がしたが、全力で気づかなかったことにしよう。
今の俺にとっての優先事項は、あくまで「平穏」と「労働」なのだから。
黒板の学級委員の欄に、自分たちの名前を力強く書き込んだ二人は、小声で「次は文化委員だね」「おう」と手短な作戦会議を開いた後、再びクラスに向き直った。
「えーっと、次は文化委員かな。やりたい人ー?」
神崎の明るい声が、午後の気だるい教室に響き渡った。
彼は軽やかなジェスチャーで挙手を促しながら、教卓の前でクラスメイトたちの顔を一人ずつ覗き込むようにして見渡していく。
だが、その期待に応える者はいなかった。
返ってくるのは、心臓の鼓動さえ聞こえてきそうなほどに重苦しい沈黙と、物理的な質量を伴って床へ突き刺さる無数の視線だけ。
誰もが「自分だけは選ばれたくない」という切実な願いを胸に、透明な壁を作るようにして神崎との接触を拒んでいた。
「うん、ゼロ。知ってた。どうする、日葵?」
「うーん。こういう時は抽選だけど、できるだけしたくないんだよねー。……だって、面白くないもん!」
「面白くないって……」
効率や平等性といった合理的な判断よりも、その場の「楽しさ」や「空気の揺らぎ」を重んじる水野日葵らしい悩みだ。
彼女の困り果てたような、けれどどこか楽しげな溜息が、静まり返った教室に微かな波紋を広げる。
委員長と副委員長が顔を見合わせ、行き詰まった空気をどう打破すべきか思案に暮れていた、その時だ。
静止した時間を切り裂くように、とある人物が弾けるような勢いで案をぶち上げた。
「じゃんけんにしよう! 神崎が親で、負けた人だけが残っていくサバイバル・ルール!」
……一ノ瀬だ。
座席から身を乗り出し、期待に目をキラキラと輝かせた彼女は、今にもその場で飛び跳ねんばかりの熱量を帯びている。
クラス中が忌避するこの緊迫した委員決めの時間すらも、彼女の瞳には刺激に満ちたアトラクションとして映っているようだった。
「……じゃんけんか。まぁ、公平だしそれでいいか。いいよね、花ちゃん?」
神崎が教卓の端で事務的に作業を続けている担任へと、伺いを立てるように首を向ける。
「好きにしろ。決まりさえすればな」
手元の資料から視線ひとつ動かさず、浅野先生は極めて素っ気なく答えた。窓から差し込む西日が彼女の横顔を淡く照らしているが、その表情に一切の情は見て取れない。
過程よりも結果を、理想よりも決着を。
冷徹なまでの機能主義が、いかにも彼女らしいスタンスを物語っていた。
実行部隊である神崎と水野を除き、残るは三十二人。
その中から残酷にも選抜される文化委員の椅子は、わずか二つだ。
確率に直せば、およそ十六分の一。
低いようでいて、油断すれば一気に手元へ転がり込んでくる、絶妙に不吉な数字だった。
「ちょっと待ってくれよ! 俺は体育委員してぇんだけど!」
その時、沈黙を破って逞しい腕が天を突いた。
サッカーの試合でフィールドを縦横無尽に駆け回っていた姿そのままの躍動感を伴って、山波大河が声を上げる。
「だろうな。大河はそうくると思ったよ。他になければ決まりでいいが、誰かいるか?」
神崎が苦笑を浮かべながら、改めてクラスの面々を見渡す。
野性味に溢れ、猪突猛進という言葉を擬人化したような山波を相手に、わざわざその対抗馬に名乗りを上げようなどという奇特な変人は、当然のごとく存在しなかった。
「じゃ、大河くんで決まりだね」
水野が迷いのない手つきで、さらさらと黒板に山波の名前を刻んでいく。
チョークの乾いた音が教室に響き、一種の決定事項として定着する。
山波大河という男ほど、その暑苦しいまでの役職がお似合いのやつも他にいないだろう。 体育委員は他の委員とは異なり、単独の枠であるため、これで一つ目の平和が確定した。
「よし。他にこの委員やりたいってやつはいないか?」
神崎は静まり返った教室内を確認し、誰も手を挙げないことを最終的に見定めると、再び
「文化委員」という名の過酷な戦場へと、冷ややかな視線を戻した。
「じゃあ、じゃんけんするぞ? みんな手を出してくれ。……いくぞ!」
神崎が握り拳を突き出す。
それを合図に、教室の空気が一気に引き絞られた。
全員が張り詰めた緊張感の中で右手を掲げ、獲物を狙う獣のように周囲をキョロキョロと窺う。
そして、運命の瞬間。
神崎の手は——鮮やかな「パー」へとその形を変えた。
勝負は一瞬。
勝鬨を上げたのはチョキを出した生存者たちと、あいこで首の皮一枚繋がったパーを出した連中だった。
……。
……おい。
……おいおいおい、嘘だろ?
突き出した自分の右手が、まるで自分の意思を離れた異物のように、ひどく無機質な塊に見える。
俺の指先は、硬く、固く握り込まれていた。
……グーだ。
以前、どこかの雑学で耳にしたことがある。
人間は構造上、反射的に手を動かす際、筋肉の緊張から無意識に「グー」を形成しやすいのだという。
だからこそ、俺はその浅知恵を利用し、裏をかいたつもりだった。
出しやすいのがグーであるならば、それ以外の選択肢——すなわちチョキかパーをあらかじめ選択しておけば、少なくともこの「負け残り」という泥沼の底へ沈む最悪の事態だけは回避できるはずだ、と。
しかし、その臆病で浅はかな論理的思考こそが、残酷な運命の女神に嘲笑われる結果となった。
裏の裏は表。
策に溺れた俺の右手は、皮肉なほどに完璧な敗北を突きつけていた。
「おっ。男子は白河で決まりだな。えーっと女子は……」
神崎の宣告が、まるで宣告人の槌音のように俺の耳朶を打った。
自分の右手が、敗北の象徴である「グー」の形のまま固まっている。
視線をそこから剥がすことができず、ただ呆然と立ち尽くす俺を置き去りにして、教室の時間は無情なまでの速度で、そして残酷なほど滑らかに進んでいく。
「あ。女子も決まったみたいだな」
神崎のその一言で、ようやく俺の意識は混濁した思考の淵から引きずり戻された。
心臓の鼓動が、不協和音を奏でるように胸の奥で騒がしく鳴り響く。
決まってしまったものは、もうどうしようもない。
覆ることのない現実は、コンクリートのように冷たく重い。
百歩譲って、委員という役職そのものは受け入れよう。
そうやって無理やり自分を納得させ、崩れそうな心の均衡を保つのが精一杯だった。
けれど、せめて……せめて相方の女子だけは、波風の立たない普通の女の子であってくれ。
ここ数日、一ノ瀬の予測不能な行動に振り回され、俺の平穏な日常はすでにボロボロの欠陥住宅状態なのだ。
これ以上の過剰な刺激は、精神の安全保障に関わる。
穏便に、できれば静かで、こちらに過度な干渉をしてこない空気のようなタイプの人を——。
そんな、溺れる者が藁をも掴むような、切実極まる祈り。
それを神崎の声が、一瞬の容赦もなく叩き折った。
「男子は白河、女子は——」
肺の中の空気が凍りついたような錯覚。
神崎が読み上げた名前は、俺が最も恐れていた響きを伴っていた。
「莉愛だな」
莉愛。
文化委員、俺の隣に座ることになる相方は——佐伯莉愛に決まった。
いや、確かに「静か目」とは願ったが、それは控えめという意味であって、カースト最上位の「一軍」属性を求めたわけじゃない!
なんでこんなに教科書通りの、様式美すら感じさせるフラグ回収をかましてくるんだよ、俺の右腕……!
しかし、非情にも世界に巻き戻しボタンは存在しない。
確定した絶望を視覚化するように、黒板の「文化委員」という欄に、俺と彼女の名前が並んで記されていく。
白チョークの粉が舞い、無機質な文字が俺の平穏な未来を塗りつぶしていく。
恐る恐る、右斜め後方の席にいる佐伯の方を盗み見てみる。
彼女は窓から差し込む午後の光を背に受け、どこまでも無関心を装うように、ただ真っ直ぐ前を見つめていた。
その横顔は彫刻のように整い、冷たく、昨日の放課後に見せたあの柔らかな笑みが、白昼夢の幻だったのではないかと思えるほどに遠い。
「よし、大体決まったな」
魂が抜けたような放心状態の俺を置き去りにしたまま、他の空席もパズルのピースが隙間なく埋まるように次々と埋まっていく。
そしてついに、クラスの勢力図を示す全ての空欄が黒板から消えた。
「花ちゃん、全部決まったよ!」
「……よし。じゃあ今日はこれで終わりだ。それからまだ先だが、体育祭と文化祭についての『委員集会』がある。これについては詳細が決まり次第説明する」
追い打ちをかけるように「集会」という不穏極まりない単語を放り投げ、浅野先生は事務的に授業の終了を告げた。
ガラガラと椅子を引く音、教科書を閉じる音。
張り詰めていた教室の緊張が霧散するように解け、放課後の解放感が広がっていく。
自由になった途端、クラスは一気に熱を帯びて活気づくが、俺の心象風景だけは、どんよりとした雲が垂れ込める土砂降りの雨模様だ。
「絶対にならない」と、数学的な確信すら抱いて臨んだじゃんけんにものの見事な負け残りを喫し、あろうことか相方は、昨日あんなにも重く気まずい沈黙を共有した佐伯莉愛ときた。
……そのうち、本当に心停止でもするんじゃないか、俺。
そう思えるほどに、確率論を無視した不運がここ数日、間髪入れずに頭上から降り注いでいる。
普段、神様なんて統計学上の誤差や、人間の心理的防衛機制が生み出した概念程度にしか思っていない俺だが、流石に今回ばかりは看過できない。
オレンジ色に染まり始めた空を仰ぎ、運命という名の理不尽を、心の底から呪いたい気分だった。
「ドンマイだな、白河!」
背後から飛んできた、心底他人事だと言わんばかりの脳天気な声。
振り返らなくても、それが親友の菊池であることは明白だった。
「……うるせぇよ。そう思うなら今すぐ代わってくれ、菊池」
俺は机の冷たい木目に額を押しつけたまま、顔も上げずに力なく言葉を返した。
視界の端で、菊池がヘラヘラと唇を歪めてこちらを冷やかしている気配がする。
「まあいいじゃねえか。残り物には福があるって言うし。それに何より、あの『一軍クール女子』の佐伯が相方なんだからよ。男子全員の敵だぞ、お前」
こいつは、事の重大さをこれっぽっちも分かっていない。
一ノ瀬の秘密のバイト、指導という名の甘い皮を被った強制労働、そして昨夜の海沿いでのあまりに気まずいエンカウント……。
積み木のように重なりすぎた偶然が、もう「福」なんて呼べるレベルを遥かに超え、人生を狂わせかねない「劇薬」に変質していることに、隣の能天気男は一生気づかないんだろう。
本当に、心の底から代わってほしい。
それに「残り物」なんていう言葉は、この惨状にはあまりに不適切だ。
これは運命による、ただの無惨で一方的な「ジャン負け」に過ぎない。
「ジャン負けには福来る」?
そんな、全宇宙の敗北者を嘲笑うようなふざけた格言、今まで一度として聞いたことがない。
どうにかしなければ。
今すぐにでも、この確定事項を白紙に戻す手段を。
浅野先生に、今にも泣き出しそうな勢いで直談判しに行けば何とかなるだろうか。
……いや、あの「花ちゃん」がそんな湿っぽい温情を見せてくれるはずがない。
精々、「決まった以上は責任を持て」と、凍てつくような一言で一蹴されて終わるのが関の山だ。
なら、情熱溢れる代わりの人間を探すか?
それも絶望の淵にある。
そもそも立候補者が一人も現れなかったからこそ、この理不尽な地獄のじゃんけん大会が開催されたのだから。
いや待てよ。
相方が、あの全男子の憧れであり畏怖の対象でもある佐伯莉愛ならば。
下心と野心を全開にして、身代わりを申し出る血気盛んな男子の一人や二人……。
とりあえず、その可能性の糸を——。
「何してるの?」
必死に思考の荒波を泳ぎ、生存戦略を練っていた俺の耳に、凛とした静かな声が届いた。 弾かれたように顔を上げると、そこにはいつの間にか菊池の姿はなく、代わりに九条が立っていた。
窓から差し込む夕光を浴びて、彼女の瞳は知性的な光を帯びて俺を見下ろしている。
「えっ。いや、その……」
「待って。言わなくていい。当ててみるから」
焦る俺を制するように、九条はすっと細く長い睫毛を伏せて目を閉じた。
放課後の教室。
誰もいなくなった静寂の中、開いた窓から入り込んだ風が、バサバサと重々しい音を立ててカーテンをなびかせる。
その無機質な音だけが響く異様な緊張感の中、九条は精密な脳内の計算機を高速で回転させるように、淡々と言葉を紡ぎ始めた。
「六限が始まったとき、君にそんな様子はなかった。つまり、その途中……もしくは終わってから何かがあったということだ。君がそれほどまでに項垂れる理由は、君にとって著しく合理性を欠く、不利益な事象が発生したから。——僕の知る限り、現時点でそうなり得る原因は『じゃんけん』しかない。……文化委員になってしまったことが、そんなに不本意なのかな?」
九条はパチンと乾いた音を立てて指を鳴らし、正解を確信した冷ややかな、それでいてどこか楽しげな瞳で俺を問いかけた。
「……せ、正解です」
あまりに鮮やかな的中ぶりに、思わず身の毛がよだち、敬語が漏れた。
学園随一の頭脳という噂は、決して誇張などではない。
こいつの前で隠し事をするのは、全面透明なガラス箱の中に物を隠そうとするくらいに無意味な行為だ。
「やった。……でも、どうしてそんなに落ち込むんだい?」
九条はパズルが解けた子供のような無邪気な好奇心で、さらに一歩、土足で俺の心域へと踏み込んでくる。
「シンプルに、嫌なんだ」
「……嫌? どうしてだい? 佐伯さんとペアなんて、男子の九割以上が泣いて喜ぶ幸運だと思うけど」
不思議そうに首を傾げる九条に、俺は抗いきれず白状した。
……もちろん、一ノ瀬の「秘密のバイト」という守秘義務に関わる部分は慎重に伏せたままで。
昨日の帰り道、偶然にも佐伯と出くわしてしまった不運。
俺が盛大に尻もちをつき、地面に這いつくばった情けない姿。あまりの気まずさに耐えかねて、彼女の後ろを幽霊のように歩いていたら、「後ろじゃなく横に来たら?」と、あの佐伯莉愛に促されたこと。
そして、挙句の果てに「変」だと一蹴された、心臓に悪い昨夜の顛末を。
「はは。いや、佐伯の気持ちもわかるけどね」
ずっと静かだった九条が、ついに堪えきれなくなったように声を上げて笑った。
昨日の彼女と同じように、どこか楽しげに、それでいて俺の困惑を遥か高みから突き放すような笑いだ。
「嘘! 俺、変か?」
「うん、だいぶね」
九条は、まだ可笑しそうに細い肩を揺らしながら即答した。
……そんなに、変だろうか。
自分では至って標準的、かつ客観的で合理的な感性を持って生きているつもりなのだが。 学園一の知性にまでこれほどあっさり断言されると、流石にアイデンティティが揺らぎ、自信がなくなってくる。
「でも、そんなの気にしなくていいと思うよ。莉愛はそういうのを気にする人間じゃないからさ」
それには、少しだけ同意する部分があった。
昨日の短い帰り道、俺の無様な醜態を屈託なく笑い飛ばし、真っ直ぐに「変」だと言い切った彼女の凛とした横顔を思い出す。
彼女は相手が誰だろうと、世間体がどうだろうと、自分の心に映った純粋な感覚だけを信じているような……そんな、鋭いまでに潔い空気を纏っていた。
「……けど、俺が気にするんだよ!」
「大丈夫だよ。それに、僕は意外と『合ってる』と思うけどね」
「え? なにが?」
俺の問いかけに、九条はそれ以上答えを返さなかった。
ただ、何か非常に興味深い実験結果でも手に入れたかのような、満足げで含みのある微笑を浮かべ、ひらりと手を振る。
「ううん、なんでもない。じゃあ、また明日!」
嵐のような言葉の羅列だけを置き去りにして、九条は軽やかな足取りで夕闇の廊下へと消えていった。
「……? なんだよ、あいつ……」
九条の残した不可解な言葉に首を傾げ、再び思考の迷宮に迷い込みそうになったその時。 ふと教室の壁に掛かった時計を見上げると、長針が非情な角度で、俺の猶予を削り取っているのが目に入った。
「…………やべぇ、バイト!」
九条の謎かけに浸っている余裕なんて、一秒たりとも残されてはいなかった。
俺は慌ててカバンを掴むと、椅子が鳴る音を教室に残し、静まり返った放課後の廊下へと飛び出した。
不運極まるじゃんけん負け、最悪(?)の相方決定、そして学園の知性からの宣告——。 頭の中はぐちゃぐちゃにかき混ぜられたスープのようだったが、今はそれよりも「遅刻」という現実的で物理的な恐怖が、全ての感情を塗りつぶしていた。
俺は心臓の鼓動を早めながら、全速力であの、非日常の入り口である『喫茶店』へと向かって駆け出した。
白河、委員変わってくれ
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