八杯目:「……『花ちゃん』はやめろ」
「へい、パス!」
陽光を反射する鮮やかな緑のグラウンド。
青い芝生の上を、白黒のボールが勢いよく転がっていく。 その中心で、ひときわ目を引く動きを見せる男子が一人。
「ナイス、神崎!」
チームメイトたちが、彼のゴールを祝して駆け寄る。
「今の見たか白河? スーパープレイだぞ」
隣で菊池が興奮気味に言ったが、それを誇張だと笑う気にはなれなかった。
敵陣深くでパスを受けた神崎は、吸い付くようなドリブルで三人を見事に抜き去ると、飛び出してきたキーパーの頭上を越す技ありのループシュートを叩き込んだのだ。
「ぱねー。やっぱ神崎は『神崎』だわ」
菊池はもはや、彼の名前を特別な称号か何かのように口にする。
コートの脇では、ネット越しに見ていた女子たちが黄色い声援を上げていた。
無理もない。 あれは男から見ても惚れ惚れする動きだ。
時刻は四限目。 俺はこの時間にやる体育が嫌いじゃない。
四限ともなれば、嫌でも腹が減って授業への集中力が切れてくる。 心なしか、他の時間帯よりもみんなのテンションが無駄に高いのは、空腹による一種のランナーズハイのようなものだろうか。
この学園の体育は二クラス合同で、男女は別々の種目を行う。 別々と言っても、基本的には隣り合ったコートを使う。
今日の合同相手は三組。 俺たち二組とは、何かと顔を合わせる機会が多いクラスだった。
「次、BとC交代だ」
体育教師の無機質な声がグラウンドに響き、チーム替えが告げられる。
手元のスコア表を横目で盗み見れば、Aチームが一勝、Bチームが零勝。
……今の試合が、文字通りのワンサイドゲームだったことを物語っている。
Aチームは、神崎を筆頭に運動神経の化け物を集めたスター軍団。
対するBチームは、山波を中心としたバランス重視のオールラウンダーチーム。
そして、今からコートに入るCチームは——俺、白河が属する……というよりは、九条が中心となって動くリアリスト集団だ。
「く、九条くん。ど、どうする……?」
隣で三組の生徒が、すがるような視線を九条に送っているのが聞こえた。
神崎の戦力は、贔屓目に見ても一人で十人分はある。
あんな「台風」をまともに相手にするなら、生半可な根性論では一分と持たずに蹂躙されるだろう。
「……みんなは、勝ちたい? 勝ちたいなら『プラン』はあるけど」
九条は瞳の奥を冷徹に光らせ、淡々と告げた。
その口ぶりからは、勝利への執着よりも、最短ルートで最適解を導き出そうとする機械的な響きさえ感じる。
横でそんな密談が交わされているが、正直に言って俺は勝利に一ミリも興味がない。
体育の評定に響かない程度の運動量さえ確保できれば、それで十分だ。 勝敗なんてものは、放課後のアイスと同じくらい、今の俺にはどうでもいいことだった。
だが、俺のそんな「事なかれ主義」は、他の連中には関係ないらしい。
どうやら無情にも、Cチームは九条の指し示す「勝ち筋」に乗ることに決めたようだ。
「おっけー。じゃあ、作戦はこうだ——」
九条が簡潔に指示を飛ばすと、Cチームの面々はまるでチェスの駒のように、それぞれの持ち場へと散らばっていった。
「……怜。お前が何もしないなんて、あり得ないよな? 何隠してる?」
コートのセンター。 ボールをセットしながら、神崎は射抜くような視線を九条へと向けた。
「さぁ? それを考えるのが、このゲームの『楽しみ』なんじゃないか?」
神崎の挑発を受け流すように、九条は氷のように冷ややかな笑みを浮かべて告げた。
「怖ぇな、相変わらず」
口ではそう言いながらも、神崎の唇は吊り上がり、好戦的な笑みに変わっていた。
ピーーーッ!
試合開始を告げる笛の音がグラウンドに響き渡る。
神崎は開始と同時に、迷いなくボールを後方へと戻した。
「俺にくれ!」
パスを出した直後、すぐさま自分に戻すようチームメイトに指示を飛ばす。 リターンパスを受け取った神崎は、独り言のように、けれど確かな重みを持って呟いた。
「……九条。俺をなめるなよ」
なめていたわけじゃない。
九条はもちろん、この場にいる全員が——やる気のない俺でさえも——神崎という男を低く見積もってなどいなかった。 むしろ、高く、高すぎるほどに見積もっていたからこそ、俺たちは九条の「非情なプラン」に頼らざるを得なかったんだ
刹那。 シュート体勢に入った神崎は、一切の迷いなく右足を振り抜いた。
放たれたボールは、弾丸のような速度でコートを縦断する。 美しいまでの放物線を描き、防ぎようのない鋭さでゴールネットへと突き刺さった。
「……おいおい。漫画かよ」
開いた口が塞がらない。
さっきの試合を遥かに凌駕する「超次元」のプレイに、その場にいた全員の時間が一瞬だけ凍りついた。 静まり返ったグラウンドに冷たい風が吹き抜けた後、爆発したような歓声が沸き起こる。
「マジかよ! 今の見たか!?」
「やばすぎだろ、距離考えろよ!」
称賛と驚愕が入り混じった声が、至る所から降り注ぐ。
いくらミニゲーム用のハーフコートだとはいえ、センターライン付近からのダイレクトシュートなんて、常識の範疇を軽々と超えていた。
「……蓮は本当にすごいな。これじゃあ、僕たちが点を取り返したとしてもあまり意味がないね。敗因は、キックオフが僕たちのボールじゃなかったことだ」
横で九条が、感情の読めない瞳で淡々と呟いた。
……いやいや。そういう次元の話じゃないだろ、九条。
作戦以前の問題というか、もはや物理法則の敗北に近い。
ただコートに突っ立っているだけの俺は、声に出さない全力のツッコミを心の中で叩き込んでいた。
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六限目のホームルーム。
窓から差し込む西日が、眠気を誘うどんよりとした空気を作り出している。
そんな教室の壇上に立つのは、俺たちの担任、浅野花。
「花ちゃん」なんて可愛らしい愛称で呼ばれてはいるが、その実態は竹を割ったような、というよりは竹を叩き折ったようなサバサバとした性格の女性教師だ。
「今日は後期の委員を決めようと思う。去年で知ってはいるとは思うが、後期は体育祭に文化祭、そして何より修学旅行がある。大まかに大事なのはこの三つだ」
浅野先生はチョークを走らせ、黒板に書かれた『文化委員』『体育委員』、そして『学級委員』という文字を力強く丸で囲んだ。
「基本的には立候補があれば優先する。だが例年、どうしても余る委員が出てくる。その場合はクジで決める。……では早速、学級委員に立候補する奴はいるか?」
学級委員。 クラスの顔であり、担任の右腕。
そんな重責、どう考えても俺の器じゃない。 というか、俺はどの係だって御免被りたい。
理由は極めて単純明快。
……めんどくさいからだ。
それに加えて、今の俺には「喫茶店の新人店員」という裏の顔がある。 ただでさえ一ノ瀬に振り回されて摩耗しているのに、これ以上学校の雑務まで背負い込んだら、過労死の二文字が現実味を帯びてくる。
俺は気配を消し、石像のように固まって浅野先生の視線から逃れた。
俺のそんな杞憂は、拍子抜けするほどあっさりと霧散した。
「……誰もいないなら、私やろうかな」
静寂を切り裂いて、凛とした声が響く。
迷いのない動作でスッと右手を挙げたのは、水野日葵だった。
正直、学級委員という大役を務めるなら、彼女以上の適任はいないだろう。
クラスの「一軍」の中心人物でありながら、その名の通り向日葵のような明るさと包容力を持つ彼女なら、バラバラな個性の集まりであるこのクラスを見事にまとめ上げてしまうはずだ。
おまけに彼女は生徒会役員。
この手の実務には、俺たちが宿題を忘れるのと同じくらい手慣れている。
「よし。なら女子は水野で決まりだな。あとは男子だが……。立候補がないなら、推薦とかでもいいぞ」
浅野先生が教壇を指でトントンと叩きながら、男子の座席へと視線を流す。
案の定、男子側からは一人の名乗りも上がらない。
理由は明白だ。
この委員は、とにかく「面倒」の一言に尽きる。
そして何よりの問題は、その相方だ。
女子側が水野日葵という「完璧な太陽」である以上、男子側にもそれに見合うだけのスペックが要求される。普通の男子があの隣に立とうものなら、公開処刑同然のプレッシャーに晒されるのが目に見えている。
いや、正確には、いるにはいるのだが……。
「……蓮がいいんじゃないかな?」
静寂を切り裂いたのは、九条の淡々とした推薦だった。
「……は? おいおい怜! 冗談だろ?」
指名された神崎は、文字通り飛び上がらんばかりの勢いで驚愕の表情を浮かべる。
だが、九条の目は笑っていない。 確信犯的な、静かな追い込みだ。
「……確かにな。神崎、やってくれるか?」
九条の案に、浅野先生が即座に乗った。
逃げ道を塞ぐように、視線が神崎をロックする。
「……花ちゃーん。俺、無理だって。そういうガラじゃないし」
「そうだな。神崎ならできる。……それから『花ちゃん』と呼ぶなと言っているだろう」
机に突っ伏して「えー」と項垂れる神崎。
だが、浅野先生の言葉には、拒絶を許さない奇妙な信頼感がこもっていた。
「水野。神崎ならお前も安心だろう?」
先生が視線を向けると、水野は待ってましたと言わんばかりに顔を輝かせた。
「はい! 私も、蓮くんがいいと思います!」
神崎の方を真っ直ぐに見つめながら、彼女もまた彼を学級委員に推した。
俺も、心の中で神崎を猛烈に推していた。 水野が立候補した瞬間に確信していたんだ。
このクラスという巨大な船を操るなら、彼女の隣に立って、同じだけの熱量でクラスを引っ張れるのは、神崎蓮という男以外にいない。
「……くっそ。これ、外堀埋められて確定じゃん。……わかった、やりますよ。やりますよ、花ちゃん!」
神崎は観念したように腕を頭の後ろで組み、椅子に深くもたれかかった。
こうして、このクラスの最強の双璧が、後期の学級委員として決定した。
「……恩に着るぞ、神崎。それから『花ちゃん』はやめろ。……よし、後は二人に任せるぞ」
浅野先生が満足げに教壇を譲ると、新たに学級委員となった神崎と水野が席を立ち、教卓の前へと移動した。
「……えーっと。残念なことに学級委員になった神崎です。……よし。なってしまったもんはしょうがない。精一杯頑張ります!」
これが神崎のすごいところだ。
嫌な役目でも引き受けた以上は瞬時に切り替え、全力を尽くそうとする。
その潔さと責任感があるからこそ、彼は自然とクラスの中心に座るんだろう。
「私も頑張ります!」
隣で水野が胸の前で小さくガッツポーズを作り、「フンス!」と気合を入れ直した。
……一瞬、菊池がこちらを羨ましそうに見てきた気がしたが、気づかなかったことにしよう。
学級委員の欄に自分たちの名前を書き込んだ二人は、小声で「次どうする?」と作戦会議を開いた後、再びクラスに向き直った。
「えーっと、次は文化委員かな。やりたい人ー?」
神崎が手を挙げるジェスチャーをしながらクラスを見渡す。
だが、返ってくるのは重苦しい沈黙と、逸らされる視線だけ。
「うん、ゼロ。知ってた。どうする、日葵?」
「うーん。こういう時は抽選だけど、できるだけしたくないんだよねー。……だって、面白くないもん!」
「面白くないって……」
効率よりも「楽しさ」を重んじる水野らしい悩みだ。
二人が顔を見合わせて困り果てていると、とある人物が勢いよく案をぶち上げた。
「じゃんけんにしよう! 神崎が親で、負けた人だけが残っていくサバイバル・ルール!」
……一ノ瀬だ。
目をキラキラさせた一ノ瀬は、今にも席を立ちそうな勢いで「じゃんけん」を提案した。 彼女にとって、この緊迫した委員決めすらも一種のアトラクションに映っているらしい。
「……じゃんけんか。まぁ、公平だしそれでいいか。いいよね、花ちゃん?」
神崎が教卓の端で作業をしている先生に確認を取る。
「好きにしろ。決まりさえすればな」
手元の資料から目を離さず、浅野先生は素っ気なく答えた。 決まりさえすれば手段は問わない、という彼女らしいスタンスだ。
神崎と水野、残るは三十二人。 その中から選ばれる文化委員は二人。確率で言えば、およそ十六分の一だ。
「ちょっと待ってくれよ! 俺は体育委員してぇんだけど!」
勢いよく手を挙げたのは、サッカーの試合でも暴れ回っていた山波大河だった。
「だろうな。大河はそうくると思ったよ。他になければ決まりでいいが、誰かいるか?」
神崎が改めてクラスを見渡す。
猪突猛進な山波の対抗馬になろうなんて奇特な奴は、当然いなかった。
「じゃ、大河くんで決まりだね」
水野がさらさらと黒板に山波の名前を書く。
山波ほどその役職がお似合いのやつもいないだろう。
体育委員は他の委員とは違い、一人枠のためこれで確定だ。
「よし。他にこの委員やりたいってやつはいないか?」
誰も手を挙げないのを確認し、神崎は再び「文化委員」という名の戦場へと視線を戻した。
「じゃあ、じゃんけんするぞ? みんな手を出してくれ。……いくぞ!」
神崎が拳を突き出し、合図とともにその形を変える。
クラスの全員がそれに合わせて一斉に手を出し、周囲をキョロキョロと見渡した。
神崎の手は——パー。
勝ったのはチョキ、それとあいこであるパーを出した連中だ。
……。
……おい。 ……おいおいおい、嘘だろ?
突き出した自分の右手が、ひどく無機質な塊に見える。 俺の手は、グーだった。
以前、どこかでこんな話を聞いたことがある。 人間は構造上、咄嗟のじゃんけんでは無意識にグーを出しやすい。
だからこそ、俺はその裏をかいたつもりだった。
出しやすいのがグーなら、それ以外——チョキかパーを出しておけば、少なくとも 「負け残り」という最悪の事態は避けられるはずだ、と。
その浅はかな論理的思考が、ものの見事に裏目に出た。
「おっ。男子は白河で決まりだな。えーっと女子は……」
自分の手から視線を剥がせない俺を置き去りにして、教室の時間は無情な速度で進んでいく。
「あ。女子も決まったみたいだな」
神崎のその一言で、ようやく俺は正気に戻った。
決まってしまったものは、もうどうしようもない。 百歩譲って、委員そのものは受け入れよう。 そうやって無理やり自分を納得させるのが精一杯だった。
けれど、せめて……せめて相方の女子は、普通の女の子であってくれ。
ここ数日、一ノ瀬の件で散々てんやわんやだったんだ。これ以上は勘弁してほしい。
穏便に、できれば静かで、干渉してこないタイプの人を——。
「男子は白河、女子は——」
藁をも掴む思いで祈る俺の願いを、神崎の声が非情に叩き折る。
「莉愛だな」
莉愛。 文化委員、俺の相方は——佐伯莉愛に決まった。
いや、静か目とは言ったけど、属性が「一軍」じゃねーか! なんでこんなに教科書通りのフラグ回収をかましてくるんだよ、俺の右腕……!
しかし、非情にも時間は巻き戻らない。
確定した絶望を突きつけるように、黒板の「文化委員」の欄に俺と彼女の名前が並んで記されていく。 恐る恐る佐伯の方を盗み見ると、彼女はどこまでも無関心を装ったように、ただ真っ直ぐ前を見つめていた。 昨日のあの笑みは、幻だったんじゃないかと思えるほどに。
「よし、大体決まったな」
放心状態の俺を置き去りにしたまま、他の委員もパズルのピースが埋まるように次々と決まっていき、ついに全ての空欄が埋まった。
「花ちゃん、全部決まったよ!」
「……よし。じゃあ今日はこれで終わりだ。それからまだ先だが、体育祭と文化祭についての『委員集会』がある。これについては詳細が決まり次第説明する」
追い打ちをかけるように「集会」という不穏な単語を投げ捨て、浅野先生は授業の終了を告げた。 ガラガラと音を立てて教室の緊張が解け、解散となる。
自由になった途端、クラスは一気に活気づくが、俺の心は土砂降りだ。
「絶対にならない」と踏んでいた委員にものの見事になってしまい、あろうことか相方は昨日あんなに気まずい空気を共有した佐伯莉愛ときた。
……そのうち、本当に死ぬんじゃないか、俺。
そう思えるほどの不運が、ここ数日、間髪入れずに降り注いでいる。
普段は神様なんて統計学上の誤差程度にしか思っていない俺だが、流石に今回ばかりは看過できない。 天を仰いで呪いたい気分だ。
「ドンマイだな、白河!」
「……うるせぇよ。そう思うなら今すぐ代わってくれ、菊池」
机に突っ伏したまま顔も上げずに返すと、菊池が能天気な声で冷やかしてくる。
「まあいいじゃねえか。残り物には福があるって言うし。それに何より、あの『一軍クール女子』の佐伯が相方なんだからよ。男子全員の敵だぞ、お前」
こいつは、事の重大さをこれっぽっちも分かっていない。
秘密の喫茶店、指導という名の強制労働、そして昨夜の海沿いでのエンカウント……。 重なりすぎた偶然が、もう「福」なんて呼べるレベルを超えて「劇薬」になっていることに、隣の能天気男は一生気づかないんだろう。
本当に代わってほしい。
それに「残り物」なんて言葉は、この場合あてはまらない。
ただの無惨な「ジャン負け」だ。
「ジャン負けには福来る」? そんなふざけた格言、聞いたこともない。
どうにかしなければ。 今すぐにでも。
浅野先生に泣きつけば何とかなるだろうか。
……いや、あの「花ちゃん」がそんな温情を見せてくれるはずがない。
「決まった以上は責任を持て」と一蹴されて終わりだ。
なら、代わりの人間を探すか? それも絶望的だ。
そもそも立候補が一人もいなかったからこそ、この地獄のじゃんけん大会が開催されたのだから。
いや待てよ。相方が「あの」佐伯莉愛なら、下心全開で代わりたいという男子の一人や二人
……。
とりあえず、可能性を——。
「何してるの?」
必死に思考の海を泳いでいた俺の耳に、静かな声が届いた。
顔を上げると、そこにはいつの間にか菊池の姿はなく、代わりに九条が立っていた。
「えっ。いや、その……」
「待って。言わなくていい。当ててみるから」
焦る俺を制するように、九条はすっと目を閉じた。
放課後の教室。 開いた窓から入り込んだ風が、バサバサとカーテンをなびかせる。
その無機質な音だけが響く中、九条は脳内の計算機を回すように言葉を紡ぎ始めた。
「六限が始まったとき、君にそんな様子はなかった。つまり、その途中……もしくは終わってから何かがあったということだ。君がそれほどまでに項垂れる理由は、君にとって著しく合理性を欠く、不利益な事象が発生したから。——僕の知る限り、現時点でそうなり得る原因は『じゃんけん』しかない。……文化委員になってしまったことが、そんなに不本意なのかな?」
九条はパチンと指を鳴らし、正解を確信した冷ややかな瞳で俺を問いかけた。
「……せ、正解です」
あまりに鮮やかな的中ぶりに、思わず敬語が漏れた。
学園随一の頭脳という噂は伊達じゃない。
こいつの前で隠し事をするのは、透明な箱の中に物を隠すようなものだ。
「やった。……でも、どうしてそんなに落ち込むんだい?」
九条はパズルが解けた子供のような無邪気さで、さらに踏み込んでくる。
「シンプルに、嫌なんだ」
「……嫌? どうしてだい? 佐伯さんとペアなんて、男子の九割以上が泣いて喜ぶ幸運だと思うけど」
首を傾げる九条に、俺は抗いきれず白状した。
……もちろん、一ノ瀬の「秘密のバイト」に関わる部分は慎重に伏せて。
昨日の帰り道、偶然にも佐伯と出くわしてしまったこと。
俺が盛大に尻もちをついた情けない姿。
気まずくて彼女の後ろを歩いていたら、「後ろじゃなく横に来たら?」と、あの佐伯莉愛に言われたこと。
そして、挙句の果てに「変」だと一蹴されたこと。
「はは。いや、佐伯の気持ちもわかるけどね」
静かだった九条が、ついに声を上げて笑った。
昨日の彼女と同じように、どこか楽しげに、それでいて俺の困惑を突き放すような笑いだ。
「嘘! 俺、変か?」
「うん、だいぶね」
九条は、まだおかしそうに肩を揺らしながら即答した。
……そんなに変だろうか。
自分では至って標準的、かつ合理的な感性を持って生きているつもりなのだが、学園一の知性にまで断言されると自信がなくなってくる。
「でも、そんなの気にしなくていいと思うよ。佐伯はそういうのを気にする人間じゃないからさ」
それには、少しだけ同意する。
昨日の短い帰り道、俺の無様な尻もちを笑い飛ばし、「変」だと一蹴した彼女の横顔を思い出す。
彼女は、相手が誰だろうと、世間体がどうだろうと、自分の心に映ったものだけを信じているような……そんな潔さがあった。
「……けど、俺が気にするんだよ!」
「大丈夫だよ。それに、僕は意外と『合ってる』と思うけどね」
「え? なにが?」
俺の問いかけに、九条はそれ以上答えなかった。
ただ、何か面白い実験結果でも手に入れたかのような満足げな表情で、ひらりと手を振る。
「ううん、なんでもない。じゃあ、また明日!」
嵐のような言葉だけを残して、九条は軽やかな足取りで教室を後にした。
「……? なんだよ、あいつ……」
九条の不可解な言葉に首を傾げ、思考の迷宮に迷い込みそうになったその時、教室の壁に掛かった時計が非情な時刻を指しているのが目に入った。
「…………やべぇ、バイト!」
九条の謎かけに浸っている余裕なんて一秒もなかった。
俺は慌ててカバンを掴むと、静まり返った放課後の廊下へと飛び出した。
不運のじゃんけん負け、最悪(?)の相方決定、そして九条からの宣告——。
頭の中はぐちゃぐちゃだが、今はそれよりも「遅刻」という現実的な恐怖が勝っていた。
俺は全速力で、あの『喫茶店』へと向かった
白河、委員変わってくれ
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