九杯目:「彼女、少しポンコツなところがありまして……」
「委員に決まった感想は?」なんて、余裕しゃくしゃくで聞いてきた一軍ギャルの末路がこれだ。
「いいから集中しろ! ほら、溢れる!」
現在、俺たちはキャラメルマキアートの心臓部とも言える、キャラメルソース作りに取り組んでいる。
しかし、お喋りに夢中な一ノ瀬は、目の前の鍋から完全に意識を逸らしていた。
結果、熱せられて粘度を増したキャラメルが、意思を持つ生き物のような猛烈な勢いで、鍋の縁までせり上がっている。
……物理学的に考えて、この鍋のサイズで溢れるはずがないんだが。
一ノ瀬の「物理法則を歪曲させるほどのドジ」の才能は、日々恐ろしい速度で進化を続けている。
「うわっ! マジじゃん!」
彼女は慌てて火を止めた。
危うくコンロが、琥珀色のキャラメル地獄に沈むところだった。
「ま、これも私に降りかかる試練ってことだね! ねくすと行こう、ねくすと!」
驚くほど切り替えの早い彼女は、鼻歌混じりに次の材料の準備を始める。
その横顔には、自分のしでかした惨事への反省など微塵も見当たらない。
どうやら彼女の辞書から、反省という言葉は完全に欠落しているらしい。
今更だが、キャラメルソースの作り方には二つの道がある。
市販のソースをベースにするような簡略化された効率重視の方法か、砂糖を焦がす工程から始める本格的な方法か。
最初、俺は迷わず前者を提案した。
失敗のリスクを最小限に抑えたかったからだ。
しかし彼女は「喫茶店なんだよ? 本格的な方をやるべきじゃない?」と、どこから湧いて出たのかも知れない職人プライドを唐突に発揮し、わざわざ難易度の高い修羅の道を選んだ。
ちなみに、簡略化された方法でも十分すぎるほど美味いのだが。
本格派を選んだ彼女のために、俺は事前にソースの製法を完璧に予習しておいた。
【白河流・本格キャラメルソースの工程】
1.鍋にグラニュー糖と少量の水を入れ、中火にかける。
2.きつね色になるまで、焦らずじっくりと待つ。
3.理想の色彩に到達した瞬間に、迷わず火から下ろす。
4.焦げ付かないよう、絶えず一定の速度で混ぜ続ける。少しでも油断して焦がせば、甘美なソースは一瞬にして、不快な苦みの塊へと成り下がるからだ。
5.火を止めた後、生クリームを入れ、よくかき混ぜて馴染ませる。
どうだろうか。この論理的かつ簡潔なプロセスを聞いて、一体どこに「鍋から溢れ出す」ような不確定要素が介在する余地があるというのか。
俺の目の前で、溢れかけた鍋を覗き込んで「あはは、キャラメル生きてるみたい!」とはしゃいでいる一軍ギャルを見ていると、科学の領域では証明不可能な何かがこの世には確実に存在することを、痛感せざるを得ない。
……文化委員の仕事も、こんな風に予想外の方向へ爆発しなければいいのだが。
「で、さっきの続きなんだけど、感想は?」
「なんでさっきの話に戻るんだよ! おい、手を止めるなって!」
生クリームを注ぐべき絶妙なタイミングで、またしても彼女の追求が始まった。
「だって、私のおかげでなれたでしょ?」
……いや、「おかげ」じゃなくて「せい」だろうが!!
この女が「じゃんけんにしよー!」などと余計な提案をしたからこそ、俺は今、人生最大級の袋小路に追い込まれているんだ。
そう、目の前で首を傾げているこの少女こそが、全ての混沌の元凶。
本来、立候補者がいない時のクラスの不文律は「クジ引き」だった。
はずだったのだ。
彼女がじゃんけんという、実力(?)が介入する不確定要素を持ち出すまでは。
いや、確かにクジだったとしても、俺が当選していた可能性はゼロではない。
でも、それはあくまで結果論だ。
じゃんけんという形をとったことで、自分の右手が自発的に「グー」を選んでしまったという事実が、より一層俺のダメージを深いものにしている。
「嫌に決まってるだろうが!」
「えー、どうして?」
まるで理解できないといった風に、ビー玉のような瞳で無垢な疑問をぶつけてくる彼女。
「めんどくさいからだよ!」
「あー、それはわかるかも! 特にあの三つ――体育祭に文化祭に修学旅行だっけ? 仕事多そうだもんねー!」
「まーぜまーぜ」と小さな独り言を呟きながら、彼女は鍋の中身をかき混ぜる。
今度はちゃんと手元を見ているようだが、その手つきは見ていて心臓に悪いほどに危なっかしい。
「……確かに、一ノ瀬にはできないだろうな。というか想像すらできん」
「ちょっと! できるよ! 頑張れば!」
……なら、まず目の前の仕事をもう少し「頑張って」安定させてくれ。
という無意味なツッコミを喉元で飲み込み、俺は出来上がりつつあるソースの温度をチェックする。
「いい感じだ。じゃあ生クリームを入れてみてくれ」
「合点承知の助!」
昭和のドラマでも聞かないような古すぎる返事と共に、敬礼のポーズを決めて冷蔵庫へ向かった彼女。
だが、扉を開けた瞬間に彼女の動きが静止した。
「あ」
「どうした? 一ノ瀬」
「まずい! まずいよ白河、緊急事態発生だよ!」
大げさに頭を抱えて右往左往する彼女を見て、嫌な予感が背筋を駆け抜ける。
まさか冷蔵庫の中で生クリームが爆発でもしたのか?
あるいは、蓋を開けたまま放置して中身が全部「こんにちは」しているのか。
「生クリームがゼロ! どうしよう、白河!」
……は?
今回、彼女には事前に「材料の準備」を任せていた。
本格的なソースを作るなら、生クリームは絶対に欠かせない必須アイテムだと言っておいたはずだ。
「え? どのくらい買ったんだ?」
「……一個だけ」
「予備とか考えなかったのか!?」
「だって、こんなにドバドバ使うと思わなかったんだもん! 溢れそうになった時に使っちゃったし!」
あの一瞬のミスをリカバーするために、貴重な唯一のストックを、あろうことかこの初期段階で使い切ったというのか。
……彼女は自分の「ドジ」という名の特異点を、計算に入れなさすぎる。
「仕方がない、俺が行ってくるよ」
「待って! 私が行く!」
バックヤードで着替えようとした俺の肩に、細く、それでいて意外なほどに力の強い手が置かれた。
「いやいや。一ノ瀬は店長だろ? 店にいないとダメだろ」
「ううん! 私、白河がいない時にお客さんが来たら絶対わたわた……ってなっちゃうもん! 注文とか間違えて泣いちゃう自信あるもん!」
……おいおい。
一応、この『喫茶店』の「店長」という重役を担っているはずだろう、お前は。
もう少し、いや、ほんの僅かでもいいから自分の立場に自覚を持ってくれと言いたくなるのを、俺は懸命に喉元で堰き止めた。
とはいえ、彼女の口から漏れたあまりに弱気な懸念も、無視できない一理を孕んでいる。 俺が買い出しに走って彼女を一人店に残すのと、彼女を買い出しに出して俺が防衛ラインを守るのとでは、店にかかるリスクの桁が天と地ほどに違うのだ。
大切なお客さんに正体不明の「暗黒物質」を飲ませたり、無人の店内で盛大にスライディングを決めて棚をなぎ倒されたりする大惨事に比べれば、買い出しのミスの方がまだ人道的なリカバリーが効くはずだ。
「……わかった。頼むぞ? 『生クリーム』だからな。いいか、Say 生クリーム」
「ナマクリーム!」
小さな拳を握って意気込む彼女の瞳は、まるで初めてのおつかいという人生最大の試練に挑む子供のように、無垢な輝きを放っている。
……正直、期待よりも不安の方が遥かに大きく胸を占拠しているが。
「植物性のホイップじゃなくて、乳脂肪分が高い動物性の『生クリーム』だぞ? パッケージの成分表示をちゃんと見て――」
「オッケーオッケー! 白河お父さんじゃないんだから! 行ってきまーす!」
俺の切実な忠告を軽やかな背中で聞き流しながら、彼女はエプロンを脱ぎ捨て、弾かれたような勢いで外の世界へと飛び出していった。
「あいつ、本当に大丈夫かよ……」
夕暮れの光の中へ遠ざかる、危ういほどに元気な背中を見送りながら、俺は深い溜息と共に独り言をこぼした。
正直、不安要素しか残っていない。
スーパーの乳製品売り場の前で「あれ? 生クリームと生チョコって親戚だっけ?」とか脈絡のない思考の迷路に迷い込み、最終的に「間違えちゃった、てへっ!」と、場違いな『生』チョコを戦利品のように掲げて帰ってくる姿が、あまりに容易に想像できてしまうのだ。
……まあいい。
今は、この火に掛かった鍋の世話が先決だ。
一ノ瀬がいなくなった店内に、煮詰まり、濃縮されていくキャラメルの甘美で重厚な香りと、規則正しく換気扇の回る低音だけが響く。
客なんて、どうせ来やしない。
ドジな自称店長と二人、試行錯誤の末にソースを完成させて終わる平和な放課後になるはずだ。
そう、俺は高を括っていた。どこかで、この静寂が続くと信じていたんだ。
カランコロン、と。
静寂の幕を無慈悲に引き裂くように、軽やかな扉のベルが、夕闇の訪れを告げるように鳴り響いた。
「いらっしゃいませ!」
染み付いた条件反射で顔を上げ、接客用の声を張る。
……早速のフラグ回収ですか、神様。
目の前に現れた「予期せぬ来訪者」を認め、俺の心臓は今日何度目か分からない嫌な跳ね方をした。
――――――――――――――――――――――――
「今日は可愛らしい店長さん、いないのかい?」
カランコロンと余韻を残して揺れる扉の向こう側に立っていたのは、俺がこの店で働き始めてから初めて「客」として訪れてくれた、あの柔和な面差しのお爺さんだった。
あの日、一ノ瀬が淹れた、コーヒーを、嫌な顔一つせず飲み干してくれた御仁だ。
それ以来、彼は迷走しがちな俺たちの店を静かに見守ってくれる、砂漠のオアシスのような貴重な常連さんとなってくれていた。
「いえ、今はちょっと……急ぎの買い出しに出かけてまして。すぐ戻るとは思うのですが」
「ほー、そうかいそうかい。にしても、君の淹れるコーヒーは本当にいい味だね。いつ来ても心が落ち着くよ」
「……っ! ありがとうございます」
不意を突かれた直球の称賛に、柄にもなく頬が熱くなる。
一ノ瀬のあまりに奔放で予測不能なオペレーションを背後から支える裏方としては、これ以上ない救済の言葉だった。
自分の努力が、理論に基づいた一杯が、誰かの安らぎになっている。
その事実は、疲弊した心にじわりと染み渡る。
「なんだか、懐かしい味がするんだ。昔、どこかで飲んだような……そんな温かみがある」
「懐かしい……ですか?」
その言葉の真意を測りかね、俺はドリップの手を止めて思わず聞き返した。
お爺さんの瞳は、遠い記憶の断片を慈しむように手繰り寄せているのか、窓から差し込む斜陽のような、深く穏やかな温かみを帯びている。
俺がマニュアル通り、徹底して論理的に、雑味を削ぎ落として淹れたはずの一杯。
そこに彼は、一体どんな情景を、どんな過去を重ね合わせているのだろうか。
そんな、セピア色の静寂が支配しかけた店内の空気を、暴力的なまでの活気が一瞬で粉砕した。
バーン! と、古びた扉が景気のいい音を立てて跳ね上がる。
「たっだいまー! 白河、生クリーム買って……きた……ょ」
両手にパンパンに膨らんだレジ袋を掲げ、戦地から凱旋した勇者のような万能感を漂わせて帰還した一ノ瀬。
だが、店内に自分以外の「客」という存在がいることに気づいた瞬間、彼女の誇らしげな凱歌は、急速に空気が抜ける風船のように面白いほどしぼんでいった。
……あー。こうなるか。
今度はどんな規格外の不器用を見せてくれるのかと、心のどこかで微かな期待すら抱いていた俺だったが、予想の斜め上をいく「気まずさの極致」を体現した彼女の姿を見て、もはや感心に近い溜息を漏らした。
「帰ってきたみたいだねぇ。おかえりなさい、店長さん」
お爺さんの鈴の音のように穏やかな声が、極低温で凍りついていた一ノ瀬の鼓動を再開させる。
お爺さんの優しい眼差しを正面から受け止めてしまった彼女は、一瞬で熟したリンゴのように顔を真っ赤に染め上げ、裏返った声を上げながら激しく動揺した。
「た……ただいま……っじゃなくて、いらっしゃいませぇえ!」
よりによって「ただいま」と家のような挨拶を返してしまった自分への羞恥心。
それが臨界点を超えたのだろう。
一ノ瀬はお爺さんに向けて腰が折れんばかりの深々としたお辞儀を繰り出すと、脱兎のごとき勢いでバックヤードの暖簾の向こうへと消え去っていった。
「本当に、すみません。彼女、少し……いえ、かなりポンコツなところがありまして……」
「ううん。可愛らしいじゃない。なんだか、元気な孫を見ているような気分だよ」
……そんなもんなんだろうか。
人生という長い坂道を歩んできた者にとっては、若者の致命的な失態すらも、微笑ましい「愛嬌」という名のスパイスとして昇華されてしまうらしい。
「じゃあ、店長さんの元気な顔も見れたし、今日はお暇させてもらおうかな」
お爺さんはゆっくりとした所作で代金を支払い、「また来るよ」といつもの魔法のような一言を添えて、オレンジ色から紫へと移ろいゆく夕闇の中へ、溶け込むように店を後にした。
――さて。
次は、避けては通れない「後始末」の時間だ。
もう慣れた、と言い切ってしまうのはあまりに悲しい。
いや、もはや慣れてしまったという事実こそが、この数日間の過酷さを物語る正解なのだろう。
失態を演じた直後の彼女は、この世の終わりを告げる審判でも受けたかのような、悲劇のヒロイン然とした顔で落ち込むのが常だった。
「おーい一ノ瀬。大丈夫か? 生きてるか?」
俺は、彼女の羞恥心が充満しているであろうバックヤードの重い扉に向かって、慎重に声をかける。
「……終わった。超ハズい。しかも、よりによってあの常連のお爺さんじゃん! 終わったよー、私の社会的な人生、今ここで完全終了だー……」
……おや?
漏れ聞こえてくる声のトーンを探る限り、意外な、というか驚異的な立ち直りの早さだ。
「人生終了」などという物騒な語彙を並べてはいるものの、その響きに真に迫った悲壮感は微塵も感じられない。
一抹の不安はあったが、俺は敢えて彼女を一旦放置することに決めた。
「可愛い子には旅をさせろ」という古の格言があるが、今のこの状況も、ある種の精神的な修行のようなものなのだろう。
過保護になりすぎて甘やかすのではなく、時には彼女自身がその煮え切らない羞恥心を自力で消化し、表舞台へ戻ってくるのをじっと待つ。
これも立派な教育の一環であり、彼女の人間的な成長を促すための、避けては通れないプロセスなのだ。
うん、間違いない。
我ながら完璧な論理だ。
……って、俺はいつから一ノ瀬の保護者、あるいは厳しい父親役になったんだ!
そんな自問自答を繰り返していると、バックヤードからペシンッ、という威勢のいい音が響いた。
自分に気合を入れるために両頬を叩いたのだろう。
直後、ゆっくりと、だが確かな意思を持って扉が開かれた。
現れた彼女の頬には、叩かれた衝撃か羞恥の名残か、淡い朱が差している。
しかし、その瞳には失われていた力が真っ直ぐに宿っていた。
「よーし! 負けないぞ、頑張るぞ!」
「今日は、あんまり引きずらないんだな。意外だったよ」
「……落ち込んでるに決まってるでしょ。今すぐ穴を掘ってブラジルまで逃げたいくらいハズいし。……でも、私が頑張らないと、お店が始まらないから」
彼女なりに、己の矮小なプライドと、店を切り盛りするという責任感の間で、必死に折り合いをつけたらしい。
その、少しだけ震えながらも前を向こうとする健気な横顔を見てしまうと、俺の中にあった毒気も、春の雪のように少しずつ溶けて抜かれていった。
彼女はレジ袋の中から、今度こそ間違いのない、光り輝くような本物の「生クリーム」を取り出すと、割れ物を扱うような手つきで大切そうに冷蔵庫の奥へと仕舞い込んだ。
「仕上げは俺がやるから、一ノ瀬はソースの続きをやってみてくれ。火加減に注意してな」
「え、マジ!? 白河、ありがと!」
精一杯の勇気を振り絞って再び戦場に立とうとする人間を、無慈悲に突き放すほど、俺の心は鋼鉄の鬼でできているわけではない。
それにしても、と俺は彼女が執念で勝ち取ってきたパッケージを、改めて検分するように確認した。
「ていうか、ちゃんと合ってるな。よく分かったじゃないか。迷わずに買えたか?」
「めっちゃ迷ったよ! 乳製品コーナーの前でフリーズしちゃったもん。でも結局、店員さんに『本格的なキャラメルソース作りたいんですけど、どれがいいですか!?』って超必死に聞いて教えてもらったから助かったんだぁー」
分からないことがあれば、見栄を張らずに素直に他者の知恵を借りる。
この「頼る」という、一見簡単そうでいて極めてハードルの高い謙虚な行動を、彼女は呼吸をするように、ごく自然にやってのける。
特に俺たち日本人は、変なプライドや無駄な遠慮が思考を縛り、自分一人で抱え込んだ挙句に自滅するという悪循環に陥りがちだ。
だが、その点において彼女は、「ギャル」という属性が育んだ圧倒的なコミュニケーション能力を、何よりも強力な武器として自在に使いこなしている。
見ず知らずの店員に懐へ飛び込み、必要な情報を引き出してくるそのバイタリティ。
それこそが、彼女が学校という名の縮図において一軍のポジションに君臨し続けている理由なのだろう。
俺には逆立ちしても真似できない、一種の天賦の才だ。
「……ま、お疲れ。店員さんに助けを求めたのは百点満点の正解だよ。おかげでソースが台無しにならずに済んだ。英断だったな」
「えへへ、でしょ? 白河にそうやってガチで褒められると、なんか調子狂うなー」
一ノ瀬は照れ隠しに、どこか誇らしげな笑みを浮かべ、再び戦場である鍋の前に立った。 今度は、先ほどまでの散漫な様子が嘘のように、真剣な眼差しで木ヘラを動かしている。 その所作の一つひとつに、自分なりの責任感が宿っているのが見て取れた。
鍋の中のキャラメルソースが、熱を帯びながらゆっくりと、夕焼けよりも深い理想的な琥珀色へと染まっていく。
香ばしくも濃厚で甘美な香りが、静まり返った閉店間際の店内に、幸福な予感と共に満ちていった。
「……流石のギャルさまさまだな。脱帽だよ」
その、誰とでも繋がれるコミュ力。
ほんの少しでいいから、分けてほしいものだと心から思う。
……ただ、だ。
俺の視界には、彼女の「成果」が他にも入り込んでいた。
「一ノ瀬」
「んー? なにー、白河お父さん」
「……人を頼るのはすごく偉いことだし、大変よくできました。その判断は間違っていな
い。ただ、少し立ち止まって考えてみてはくれないか?」
俺はカウンターの上に鎮座している、もう一つの、ずっしりと重いレジ袋を開いて、その中身を冷徹な視線で覗き込みながら言葉を続けた。
「……明らかに、買いすぎなことに、気づかなかったのか?」
袋の中身は、あろうことか生クリームのパックだけでぎっしりと埋め尽くされていた。 視認できるだけでも、軽く十個はある。
これでは一回分のキャラメルソースどころか、この店中の壁を生クリームでデコレーションして、クリームまみれの要塞に変えてしまう勢いだ。
彼女の「極端すぎる全力投球」は、時に物理的な供給過多という形で、俺の合理的な理解を軽々と飛び越えてくる。
「あればあるだけいいと思ったからね! 腐るもんじゃないし、助かるでしょー?」
「……脂質の塊をそんなにストックしてどうするんだよ。バターでも精製するつもりか?
まぁいい、それよりもお金は大丈夫なのか?」
材料を買うのにも、当然ながら相応の対価が必要になる。
生クリームは決して安価な代物ではない。
道端で無償配布されているわけでも、公園の植え込みに自生しているわけでもないのだ。 ましてや、この店の維持費や光熱費、そして彼女自身の生活基盤。
挙げればきりがないほどのリスクが彼女の細い肩にはのしかかっている。
それなのに、彼女が一人でこれだけの過剰な支出を「平気だ」と言い切れる背景には、一体何があるのだろうか。
「……一ノ瀬がそう断言するなら、俺が口を出すことじゃないけど」 「貯金はいっぱいあるんだよ! だから心配しないで。私、こう見えてしっかりしてるところはあるんだから!」
ふんす、と鼻を鳴らして胸を張る彼女だが、それでも俺の胸中に渦巻く懸念の霧は晴れない。
彼女は俺と同じ、未熟な高校生なのだ。
いくらポンコツで、バカで、天然で、不器用で——救いようのないドジだとしても、世間一般の定義ではまだ保護されるべき「子供」に分類される。
そんな彼女が、たった一人でこの空間を背負い、巨額の在庫を抱えるような買い物を笑顔でこなしている姿は、どこか危うい均衡の上に成り立っているように見えてならなかった。
「やっぱり、白河は優しいんだね」
「……っ」
一切の曇りもない、真っ直ぐな瞳で射抜かれ、俺は思わず言葉を失った。
優しい、なんて。
俺はただ、運営の効率性とか、今後のリソース管理とか、そういった現実的で即物的な不都合を危惧しているだけで――。
「……勘違いするな。材料を無駄にされると、俺のこれまでの教育的努力がすべて水の泡になるから忠告しているだけだ」
俺は熱を持った顔を逸らし、逃げるように完成した琥珀色のソースを小瓶に移し替える作業に没頭した。
熱を帯びたガラス瓶の柔らかな感触が、なんだかさっきの彼女の言葉の残響のように、じわりと手のひらへ温度を残していった。
「ていうか、私思ったんだけど!」
突然、何か歴史的な真理に到達したエジソンのように、頭の上に輝く電球を浮かべるジェスチャーをして彼女が声を上げる。
「ど、どした?」
不意を突かれた俺の声が、情けなくも裏返って店内に響く。
「連絡先交換しとけば解決じゃん! わざわざお店の人に聞かなくても、白河に聞いたら全部おっけーになるでしょ!」
現代の高度な情報通信技術によれば、たとえ距離が離れていても瞬時に意思を通わせることができる魔法のような手段が存在するらしい。
もちろん、知識としての概念は脳内にストックされていたが、俺の閉鎖的な生活圏内においては、それは長らく完全にデッドストックと化していた機能だった。
「……天才かよ」
これは皮肉ではない、本心からの感嘆だった。
こういった直感的な解決策の提示や、瞬発的な思考の転換に関しては、やはり彼女の方が一枚も二枚も上手だと思い知らされる。
「はい! 携帯だして!」
彼女は自分のスマートフォンを俺の眼前へと差し出し、催促するようにゆらゆらと揺らした。
「あ、あぁ」
その有無を言わせぬ勢いに圧倒された俺は、ポケットからスマホを取り出し、彼女に差し出す。
一度指先から滑り落ちそうになった醜態は、どうかバレていないと信じたい。
「……な、なぁ一ノ瀬。これ、どうやって交換するんだ?」
「……? もしかして、交換したことないの?」
……グアッ!
心臓に直接杭を打ち込まれたような衝撃。
やめてくれ、その「マジで言ってる?」という、希少生物を見るような純粋すぎる眼差しで俺を見るのは。
「し、仕方ないだろ! いいから手順を教えてくれ!」
「ふーん……」
今まで見たことがないほど、邪悪で愉悦に満ちた笑みを浮かべる一ノ瀬。
整った可愛らしい顔立ちが、一瞬にして獲物を追い詰めた小悪魔のそれへと変貌する。
「……白河!」
「な、なんだよ!」
「人に聞けて、エライねー」
つい数分前、俺が彼女に授けた称賛の台詞をそのままの形で、特大のカウンターとして返された。俺はぐうの音も出ず、言葉を失う。
「……うるせぇ」
窓の外では、一匹の野良猫が夕映えの中で優雅に毛繕いをし、平和そのものの放課後を謳歌している。
それとは対照的に、俺のスマホの画面内では、一軍ギャルによる「連絡先交換講座」という未知にして混沌とした儀式が、賑々しく執り行われていた。
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