十杯目:「ああいう自信満々の人間に、土をつけた時が一番楽しいんだから」
「えー。今年の文化祭まで残り二ヶ月近くありますが、今年からさらに本気を出そうと生徒会で結論が出ました」
学園内にいくつか存在する無機質な会議室の一つに、全学年の文化委員たちが一堂に会していた。
窓から差し込む午後の光が、埃の舞う室内を斜めに切り裂いている。
教壇に立ち、威風堂々とした立ち居振る舞いで言葉を紡いでいるのは、現生徒会長・如月雅貴先輩だ。
三年生にして学年首席を独走し、淀みなく膨大な業務を完遂するその姿は、生徒という枠を超えた一種の「超人」に近い。
教師陣からも「史上最高の生徒会長」という、最大級の賛辞を一身に集める傑物だ。
彼が去年から推し進めてきた改革によって、この学校の行事は単なる学生の催しから、別次元のエンターテインメントへと変貌を遂げてきた。
会議室の座席は円状に配置され、各学年・クラスごとに固まって如月先輩を囲む形式をとっている。
……もちろん、運命の悪戯によってこの重役を引き当ててしまった俺も、望まぬままにその輪の一角に収まっていた。
隣からは、言葉にこそ出さないが、冷ややかな空気が絶え間なく伝わってくる。
「つきましては、手元の資料を確認してください」
如月先輩の、心地よくも威厳に満ちた通る声に促され、俺は配られたばかりの資料に視線を落とした。
そこには、到底高校の文化祭とは思えない、野心に溢れた文言がでかでかと躍っていた。
『全クラス共通テーマ:外部企業・地域連携による「出店」と「クラス別収益勝負」』。
……は?
意味がわからない。
文字面は理解できるが、それが指し示す現実が脳内で像を結ばない。
静まり返っていた会議室は、一瞬の空白を置いて、蜂の巣をつついたような騒乱へと叩き落とされた。
ざわざわと広がる動揺の波、交わされる当惑の囁き。
それは、この計画の異常性を感じ取っているのが俺一人ではないことを如実に物語っていた。
ふと横を盗み見れば、常に感情を分厚い氷の下に隠しているような鉄面皮の佐伯莉愛でさえ、わずかに目を見開き、言葉を失ったまま資料を凝視している。
「すみません会長! これって……一体どういうことですか?」
一人の委員が、堰を切ったようにたまらず声を上げた。
至極当然の反応だ。
いくら「本気を出す」という美名の下であっても、この計画は従来の「文化祭」という平穏な範疇を完全に逸脱している。
たかが高校生にできる社会貢献や経済活動など、高が知れているはずだ。
酸いも甘いも噛み分けた大人が動かしている「企業」が、学生の稚拙な遊びに本気で肩入れするのか?
利益という名の数字を競わせるのか?
本当にそんな荒唐無稽なことが可能だと、この男は、如月雅貴という怪物だけは本気で信じているのか。
「……そのままの意味だ。クラスごとに企業や地域コミュニティと連携を取り、出店や演劇、スポーツアクティビティなどジャンルは問わない。その純利益と集客数において、厳正な勝負を行ってもらう」
降りかかる疑問の矢を、如月先輩は微動だにせず、涼しげな表情で受け止める。
いやいや、そんな字面通りの辞書的な意味を聞いているんじゃない。
問題の本質はそこではない。
実現可能性、つまり地に足のついた現実味の話をしているんだ。
「そ、そんな無茶な! 俺たちに企業と渡り合えるような人脈なんて、どこにもありません!」
最前列に座る一年生の委員が、悲鳴に近い、掠れた声を絞り出す。
安心しろ、後輩。
二年生の俺だって、そんな都合のいいコネクションなんて、この世界のどこにも持ち合わせてはいない。
「その懸念については、あらかじめ対策を講じてある。我々生徒会が各クラスに対し、提携候補の資料提供、交渉におけるノウハウの共有、さらには初期投資の一部負担といった全面的なバックアップを行う予定だ」
如月先輩の口から語られる「サポート」という言葉。
だが、いくら彼が常人離れした手腕を持っていたとしても、全クラスを同時に、かつ十全にバックアップするなど、リソースが圧倒的に足りないはずだ。
この甘い言葉の裏には、さらなる過酷な試練が隠されているのではないか。
そんな予感が、俺の背筋を冷たく撫でていった。
「……具体的に、『サポート』とは何をしてくれるんですか?」
突如、俺のすぐ隣から、鼓膜を震わせるほどに鋭く、冷徹な響きを伴った声が飛んだ。 反射的に横を向くと、そこには腕を組み、如月先輩を射抜かんばかりの視線で真っ直ぐに睨みつける佐伯莉愛の姿があった。
つい先刻までの驚愕はどこへやら、今の彼女の瞳には、状況を冷酷なまでに分析し、損得を弾き出す「計算」の光が深く宿っている。
「あまりに適当なことなら、うちらは従えませんが」
……おいおい、佐伯さん?
相手は、あの如月雅貴先輩だぞ。
並み居る生徒たちはおろか、一癖も二癖もある教師陣ですら一目置く、この学園における絶対的な権力者だ。
釈然としない気持ちは痛いほど理解できるが、もう少しオブラートに包んだ、角の立たない言い方をだな……。
会議室の空気が、まるで液体窒素をぶちまけられたかのように一瞬で凍りついた。
全クラスから集まった文化委員たちの視線が、不遜極まる物言いをした佐伯莉愛と、そのすぐ隣に座っている俺とに、針のように突き刺さる。
……やめてくれ、俺まで同罪の反逆者みたいな目で見ないでくれ。
俺はただの巻き込まれた被害者なんだ。
「……君は、佐伯莉愛……といったかな?」
「……はい。二年四組、佐伯です」
「佐伯の質問に答えよう。『具体的に』だったな。結論から言えば、企業へのファーストコンタクト、アポイントメントの類はすべて私が代行する。そして、発生するすべての責任も、私がこの背に負う。もともと他の生徒会役員や教師陣には、文字通り死ぬほど反対された案だからな。私が強引に押し通した以上、それを完遂させるのは当然の義務だ」
会議室に、先ほど以上のどよめきが、地鳴りのように広がっていく。
「もちろん、自分たちで交渉の最前線に立ち、泥臭くやり遂げたいという気概のあるクラスがあれば、私はそれを全力で許可しよう。好きにやれ。だが、私の全リソースは常に君たちに開放されている。それだけは忘れないでいてくれ」
如月先輩は、不敵なまでの自信を湛えた微笑を浮かべ、たった一人で全責任を背負うと断言した。
いくら彼が常軌を逸した超人であっても、物理的な限界はあるはずだ。
高校生という、社会的にはまだ未熟なレッテルを貼られている以上、大人たちの世界との交渉は、それだけで圧倒的に不利な条件からのスタートとなる。
「……それと、見事一位を勝ち取ったクラスへの報酬だが――」
如月先輩の口角が、さらに不敵に吊り上がった。
過酷な集客数勝負を強いる以上、それに見合うだけの、誰もが食いつかざるを得ない特大の『エサ』を用意しているということだ。
「次回の定期テストにおいて、当該クラスの全員に対し、一律で『満点』の評価を与える。これについては、すでに理事会および教師陣との正式な合意は済んでいる」
……満点?
つまり、解答用紙に名前を書き込むだけで、難解な数式も、複雑な歴史用語も、すべてが全問正解として処理されるということか。
破格、という言葉では足りないほどの特権だ。
だが、同時に背筋が寒くなるような危うさも感じる。
特に受験を間近に控えた三年生にとって、内申やテストの結果は文字通りの死活問題だ。 これを機に、学問への牙を抜かれ、勉強を放棄する奴が続出するのではないか。
「もちろん、無条件で学力を放棄させるわけではない。勝利したクラスには、代替措置として授業ごとに『要点を極限まで絞った小テスト』を課す。受験に必要な重点を最小の労力で、かつ効率よく習得させ、将来の実績に微塵の影響も出ないよう綿密に調整済みだ」
俺の心中に浮かんだ懸念を、まるでテレパシーで読み取ったかのように、如月先輩は一寸の隙もない完璧なフォローを口にした。
流石は「史上最高の生徒会長」。この男は、最初から誰一人として取り残すつもりなどないらしい。
「……わかりました。詳細な説明、ありがとうございます」
先ほどまで鋭い眼光を放っていた佐伯は、満足したようにすっと瞼を閉じ、纏っていた刺々しいトゲを霧散させた。
……ふぅ。
とりあえず、一触即発の事態は回避された。
俺は誰にも気づかれないよう、深く、長く胸をなでおろした。
「――今回はこれで解散だ。他に質問がある者はここに残れ。順番に答える」
如月先輩のその事務的な宣告を合図に、波乱に満ちた委員集会は幕を閉じた。
重苦しい沈黙から解放された生徒たちが、我先にとわらわらと出口へ向かい始める。 俺は、喧騒の人混みに紛れて教室を後にしようとする佐伯莉愛の、どこか寂しげで、それでいて決然とした背中を見つけ、急いでその後を追った。
「……お、おい佐伯! 待て、待てってば!」
早足で遠ざかる彼女の背を追い、なりふり構わず声を張り上げる。
喧騒の廊下を縫うように進む彼女の歩調は、迷いがなく、驚くほど速い。
なんだよ、お前もあの一ノ瀬と同じで、外見のイメージに反して意外とマイペースなところがあるのかよ。
「……? ああ、ごめん。少し考え事をしてた」
ようやく追いついた俺は、激しく上下する肩で息を整えながら問いかける。
「……はぁ、はぁ。考え事って……さっきの、如月先輩の話か?」
「うん。どうやって協賛を取りつけるべきか、ね……」
彼女の視線は、まだ見ぬ勝負の盤面を凝視しているかのように鋭い。
「……取るって、自分たちでか? 如月先輩を頼るのはダメなのか?」
わざわざ自分たちで泥臭く動かなくても、あの超人にすべてを丸投げしてしまえば済むはずだ。
責任は自分が持つとまで言い切ったんだ。
なら、思う存分あの人の広すぎる肩に乗っかれば、それで――。
「だって、ムカつくじゃない。あんな無責任な人に頼り切るなんて。だから考えるの。どうやってあの人を出し抜くかを」
そう言って不敵に微笑む彼女に、俺は一瞬、如月先輩と通じるような……圧倒的な強者のオーラを感じて、言葉を失った。
「ああいう自信満々の完璧超人に、思いきり土をつけた時が一番楽しいんだから」
俺は、彼女のことをまだ何も知らなかったのかもしれない。
氷のようなクールな仮面の下に、これほどまでに熱く、苛烈で、好戦的な一面を隠していたなんて。
だが――その歪んだ負けず嫌いな気持ちは、少しだけ理解できる。
勝負に勝った瞬間の、あの脳が焼けるような全能感。
料理を褒められた時とはまた毛色が違うが、根底にある原始的な喜びは似ている。
……懐かしいな。
かつて、何事にも全力で挑み、勝利に飢えていたあの頃の『感覚』が、痺れるように指先まで戻ってくるようだ。
「……ったく。わかったよ、佐伯。俺も手伝う。あの完璧な眼鏡を叩き割ってやるくらいのつもりで、先輩に挑んでやろうぜ」
差し伸べられた俺の掌を見て、佐伯は一瞬だけ驚いたように目を見開く。
だが、すぐに俺の意図を汲み取った彼女は、迷いのない動作で右手を力強く振り上げ――。
――パァンッ!
放課後の静まり返った廊下に、乾いたハイタッチの音が小気味よく響き渡った。
―――――――――――――――――――――――――
即興の同盟を結んだ後、俺と佐伯は作戦会議のために学園の食堂へと足を運んでいた。
席に着いて話し始めると、通りがかる生徒たちが次々に足を止め、彼女に声をかけてくる。
「佐伯、お疲れ! 今日の会議、大変だったでしょ?」
「莉愛、あとでLINE送るね! 今度の週末の件なんだけどさー!」
淀みなく交わされる挨拶、向けられる親愛の情。
そんな光景を目の当たりにして、俺は今更ながらに現実を突きつけられる。
そうだ、目の前のこの少女もまた、学園のヒエラルキーの頂点に属する人気者だった。
……やっぱ、俺とは住む世界が根本から違うんだな。
改めて絶望的な格差を再認識し、微かな疎外感に沈む俺には目もくれず、佐伯は議論を再開した。
「で。何か具体的な案はある?」
購買で買った、高校生が飲むにはいささか贅沢すぎる本格的なカフェラテ。
そのストローを無造作に咥えながら、彼女は事も無げに問いかけてきた。
「……案か。正直、まだ白紙だ。ただ、あの如月先輩に勝つなら、生半可な企画じゃ太刀打ちできないことだけは確かだ」
如月雅貴。
あの怪物が本気で盤面を操作し始めたら、一体どれほど恐ろしい光景が広がるのか、想像することさえ容易ではない。
「だよね。うちもそう思う。それに、私たちには去年ほど準備時間が残されていないし」
「ああ、そうだったな……」
時間がないのは、この学園特有の狂気じみた行事予定のせいだ。
例年、この時期は体育祭が開催される。
うちの体育祭は本格的すぎて、近隣でも有名だ。
学園がプロの使うスタジアムを丸ごと借り切り、全競技をそこで完遂するという規格外のスケール。
それゆえに、エネルギーを使い果たした後の文化祭は、文字通り「お祭り」程度のクオリティに留まるのが通例だった。
……あくまで、これまでは。
だが、今年は違う。
如月先輩の独断という名の英断により、今年は体育祭と文化祭、二つの巨大イベントを全力で、かつ連続で開催することが決定してしまったのだ。
「とりあえず!」
パン、と一度手を叩いて思考の霧を切り裂いた彼女が、テーブル越しに身を乗り出して続ける。
「とにもかくにも、出し物のジャンルを確定させないことには始まらない。白河、何か案はある?」
「そうだな。如月先輩の話が本当なら、集客と客単価がキーになる。佐伯の方は何か考えてるのか?」
文化祭の王道といえば、やはり飲食店だろう。
安価で手軽、かつ確実に胃袋を掴んで人を呼び込める。
そこにプラスアルファの付加価値を加えれば、さらなるブーストも期待できる。よくあるのは、メイド喫茶やコンセプトカフェだが。
あるいは、観客を惹きつける演劇などのステージ系か。
収益面ではどうしても飲食に劣るが、その分「無料」という強みを最大限に活かした爆発的な集客が可能だ。
幸い、俺たちのクラスには他クラスからも羨まれるような美男美女が揃っている。
そのビジュアルを広告塔として前面に押し出せば、客足は自ずと伸びるはずだ。
「……飲食に劇、選択肢は色々あるけれど。やるなら、他にはない『珍しいもの』がいいよね」
佐伯は、奇遇にも俺と同じ論理的帰結に達していた。
『珍しさ』は、それだけで強力な誘客フックになる。
「これは一体何なんだ?」という根源的な好奇心を刺激し、その正体を確認させるために足を運ばせる。
言い方は悪いが、初見のインパクトで観客を搦め捕る。
それが、あの如月先輩という怪物を相手に勝利を掴むための、最低条件になるだろう。
「……やっぱりそうだよな。ちなみに先輩は『スポーツ』とかも例に挙げてたけど、あれはどう思う? 運動神経がいい奴は多いし、盛り上がりそうだけど」
「スポーツは、ダメ。却下」
「……なんでだ? プロモーションの仕方がイメージできないか?」
なぜか頑なに、佐伯はスポーツという選択肢を拒絶した。
集客の難しさを懸念しているのかと思ったが、彼女から返ってきたのは、俺の予想の斜め上をいく、純粋すぎる理由だった。
「……できないの」
「できない? 何がだ? 準備か?」
「スポーツを『出し物』というエンターテインメントとして成立させることが、私にはできない」
……?
どういう意味だ。
スポーツ体験コーナーや、フリースロー大会。
やり方はいくらでもあるはずだが。
佐伯の言う「できない」の真意を測りかね、俺が沈黙していると、彼女はカフェラテのカップを弄びながら、気まずそうに視線を窓の外へと逸らした。
「例えば、出し物でバスケをすることになったら……私、絶対に手加減ができないから。相手が誰であっても」
「……なるほどな」
失念していた。
目の前に座るこの少女は、バスケ界に突如現れた「超新星」だった。
万年予選落ちの常連だったこの学園のバスケ部を、たった一人で「全国常連」という修羅の舞台へと押し上げた怪物。
既存の認識を根底から覆した、紛れもない天才だ。
そんな彼女にとって、スポーツとは常に全力を尽くすべき真剣勝負を意味する。
文化祭の「お遊び」という枠組みの中で、素人相手に手を抜いてボールを回すなんて器用な真似、彼女のプライドが――いや、その闘争本能が許さないのだろう。
お祭りなんだからちょっとくらい手を抜いてやれよ……とは思うものの、これは凡人の計り知れない領域にある「天才ゆえの不器用さ」なのだと納得し、俺はその意見を素直に受け入れることにした。
「……でも、その『できない』って話も、あいつを頼れば物理的にはなんとかなると思う」
どうやら佐伯には、この閉塞した状況を打破する具体的な心当たりがあるらしい。
「なんとかって、どうするつもりなんだ? 他に動ける奴がいるのか?」
「そっか。白河はまだ知らないのか。あいつの本当の姿を」
「……? 何がだよ。そんなに特別な奴なのか、うちのクラスに?」
「神崎。彼に協力を仰げば、大概のことは解決するはず。……主に、コネクション的な意味で」
神崎。
噂では聞いたことがある。
実家がとんでもない資産家で、政財界はおろかあらゆる方面に太いパイプを持っているとか……。
ただの尾ひれがついた都市伝説だと思っていたが、佐伯の確信に満ちた口ぶりからすると、どうやらあれは真実だったらしい。
「とりあえず、神崎に話を通してみる? 彼なら如月先輩の動向も探れるかもしれないし」
「ああ、そうだな。俺たち二人だけの知恵じゃ限界がある。頼れる強力なカードがあるなら、迷わず使うべきだ」
方針が定まり、俺たちは食堂を後にして、作戦の第二段階へと進むべく教室へと戻ることにした。
その途中、佐伯が飲み干したカフェラテの空容器を、数メートル先のゴミ箱へ向かって、歩みを止めぬまま軽く放り投げる。
空容器は、計算し尽くされたような綺麗な放物線を描き、吸い込まれるように「ストン」と音を立ててゴミ箱の中心に収まった。
何気ない、無意識の動作にすら宿る圧倒的な身体能力。
俺は改めて、隣を歩く彼女が本物の天才であることを、そしてそんな彼女と組んで「怪物」に挑もうとしているのだという現実を、深く思い知らされた。




