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「クラスのギャル、放課後は喫茶店で不器用マスターやってます。」  作者: 路地裏の猫


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13/43

十一杯目:「……よし! それじゃあ決まりだね。僕が必ず勝利へ導くから、みんなはドーンと構えていていいよ」

 神崎に相談する。  

 その方針が決まった直後、俺はある重大な事実に気づき、心臓が嫌な音を立てて跳ねるのを感じた。


 ……待てよ。

 俺、神崎と一度も喋ったことなくね?


 神崎は、このクラスという生態系の頂点に君臨する男だ。

 武両道、顔面偏差値は測定不能、性格まで聖人君子という、非の打ち所がないパーフェクトヒューマン。

 対する俺は、休み時間は菊池と小声で喋るか、一人で思考の海に沈んでいるような存在だ。  

 そんな俺が、いきなり神崎の眩い輪の中に飛び込むなんて、実感が湧かないどころか、もはや本能的な恐怖すら覚える。

 いっそ、同じ一軍住人である佐伯にすべてを丸投げして、俺は影武者に徹した方がいいんじゃないか?


「……なあ、佐伯」


「何?」


「その……なんだ。神崎なら、本当に何とかなるのか? その、物理的、あるいは社会的に」


 正直、まだ半信半疑だ。

 神崎が噂通りの『コネ』を持っているのか、それとも単なる尾ひれがついた伝説なのか、俺は知らない。

 ……とは言っても、他に代案があるわけでもない。

 結局のところ、俺は佐伯という羅針盤の指す方角を信じるしかないのだ。


「聞いてみなきゃわかんないでしょ。でも、動かなきゃ何も始まらないよ」


 佐伯は前だけを見て、淡々と言い切る。

 その迷いのなさが、今は少しだけ羨ましかった。

 教室に辿り着いた俺たちは、意を決して扉を開けた。  

 視界に飛び込んできたのは、見慣れているはずなのに、どこか遠い世界の出来事のような光景だ。

 教室の中心、そこだけスポットライトが当たっているかのように眩い輝きを放つ『一軍グループ』が、和やかに談笑している。


「あ、莉愛じゃん! お疲れー、会議どうだった?」


 帰還した佐伯を認め、一ノ瀬が満開のひまわりのような笑顔で駆け寄ってくる。  


 ……一応、俺も同じドアから入ってきたんだけどな。


 そんな寂しい感想は、そっと心の奥底、キャラメルソースの瓶の底あたりに沈めておくことにした。


「どうもこうも、ちょっとどころじゃない面倒なことになった」


 佐伯は呆れたように首を振り、疲労感を隠そうともせずに息を吐く。

 その声を合図に、他のメンバーも磁石に吸い寄せられる鉄屑のように集まってきた。


「面倒って、あの生徒会長がまた何か突拍子もないことでも言い出したの?」


 九条が、すべてを見透かそうとする鋭い視線を佐伯へと向ける。


「そう、あの生徒会長がね……。な、白河」


「えっ! あ、ああ。そうだな。想像の斜め上を地平線まで突き抜けてたよ」


 いきなりパスを回されるなんて微塵も想定していなかった俺は、情けないほどに上ずった声を返してしまった。


「早速で悪いんだけど、相談があるの。神崎、聞き……」


 佐伯が本題を切り出し、この不透明な状況に一筋の光を差し込もうとしたその時。  

 無情にも、現実へと引き戻す授業開始のチャイムが校舎内に鳴り響き、それと同時に担任の浅野先生が、嵐のように教室へと滑り込んできた。


「おい、チャイムが聞こえなかったのか? お喋りはそこまでだ。早く自分の席に戻れ」


「ごめーん、花ちゃん! 今めっちゃ大事なところだったのにー!」


「『花ちゃん』はやめろと何度言えばわかる、一ノ瀬。いいから座れ。……白河と佐伯もだ」


 一軍の放つ華やかなオーラは一瞬で霧散し、俺たちはそれぞれの席へと戻らざるを得なくなる。  

 教卓の前に立った浅野先生は、出席簿でパンと景気よく音を立てて教卓を叩き、クラス全員を鋭い眼光で見渡した。

 その表情は、これから始まる「文化祭」という名の嵐を予見しているかのようだった。


「今日は体育祭についてだ。……山波、説明しろ」


「あいよ。――いいかお前ら。知っての通り、俺たちは『勝ち』だけを奪いに行くぞ」


 浅野先生に促され、壇上に上がった体育委員・山波の第一声は、宣戦布告に近いものだった。  

 冗談で言っているようには到底見えない。

 短く刈り込まれた髪の下、奴の瞳には、本物の闘志が宿った炎がメラメラと燃え盛っていた。


「改めてルールを説明するぞ。今年はいつも通り――」  



 星城海原体育祭。

 この学園の体育祭は、外部の巨大なプロ仕様スタジアムを丸ごと貸し切って行われる、地域の風物詩でもある。

 ルールは至ってシンプル。

 種目ごとの順位に応じて付与されるポイント制で争う、学年別のクラス対抗戦だ。  

 つまり、山波の宣言は「二年生の中でぶっちぎりの総合一位を強奪する」という、剥き出しの決意表明に他ならなかった。


 種目は多岐にわたる。  

 徒競走、リレー、綱引きといった王道の陸上競技はもちろん、サッカーや野球、バスケットボールといった球技種目が、毎年ランダムで一つ「団体競技」の目玉として選出されるのがこの学校の通例だ。


「今年はなんだか知らねえが、大幅に前倒しでやるらしい。例の生徒会長の意向で、文化祭の準備期間を死守するためとかなんとか。……いいか、俺たちは当然、文化祭でも頂点を獲りに行く。だが、まずは目の前の体育祭で弾みをつけるぞ! で、注目の今年の団体競技だが――」


 俺は、山波の言葉を聞きながら少しだけ認識を改めた。

 てっきり力押しと根性論しか持ち合わせない脳筋野郎かと思っていたが、山波は文化祭という先のイベントまで見据えて、巧みにクラスの士気をコントロールしようとしている。意外にも、戦局を俯瞰できる視野の広い男らしい。


 続けて、山波が黒板に、力強い――というよりはチョークが砕けそうな筆致で、文字を書き殴っていく。


「……以上が今年の競技一覧だ。各自、自分の適正を考えながらよく見てくれ」


 黒板には、予想通りのラインナップが並んでいた。  

 基本構成は去年とほぼ同じ。

 唯一の不確定要素であり、ポイント配分が最も高い「団体競技」。

 そこに記された文字は――。


「俺は勝てると踏んでいる。それも同学年どころか、全学年でぶっちぎりの総合一位だ。異論は認めねえ」


 豪語する山波だが、その不敵な自信には、揺るぎない客観的な根拠があった。  

 それもそのはずだ。

 このクラスには、その競技において「絶対的な神」と称される存在が、現にこの教室に座っているのだから。


今年の団体競技に選ばれたのは――。


「……サッカーだ。この競技が選ばれた時点で、勝機は十分にあると俺は踏んでいる」


 この団体競技だけは、例年全学年合同で行われる。

 普通なら体格や経験で勝る三年生には敵わないはずだが、ことサッカーに関しては話が別だ。

 なにせ、このクラスには実力者たちが揃っている。


「俺は戦術だの采配だの、そんな小難しいことは何も知らねえ。だから九条、助けてもらってもいいか?」


「……」


 腕を組み、鋭い視線で黒板を見つめていた九条が、一拍置いてから不敵に微笑んだ。


「仕方ないなー。山波くんの頼みなら、僕に任せて!」


 こいつらの尊敬できるところは、自分の限界を認め、躊躇わずに適任者の助けを呼べるところだ。

 そして、その求めに全力で応える強固な信頼関係が、このグループには確立されている。


「さて! それじゃあ、まずは個人競技から決めていこう。希望がある人はどんどん言って!」


「はいはい! 私、走ります!」


 九条が言い終わるかどうかのタイミングで、一ノ瀬が自信満々に挙手した。


「おっけー。一ノ瀬さんは『百メートル走』でいい?」


「うん、大丈夫! あ、それからリレーのメンバーにも入れといて!」


「了解。任せたよ、期待してる」


 九条がさらさらと名前を書き込んでいく。

 その後も次々と希望者が手を挙げ、黒板の空白はみるみるうちに埋まっていった。

 迷いのない采配、そして誰もが納得する決定。

 それほどまでに九条の人望は厚く、同時にクラスメイトから深く信頼されているのだ。


「残るは団体競技と、男女混合リレーか……」


 黒板に残された数少ない空欄を見つめ、九条が深く腕を組む。

 無理もない。

 この二種目は他の競技に比べて配点が極めて高く、総合優勝を狙うなら、勝利――それも圧倒的な大差での一着が至上命題となるからだ。


「うん。……ここからは、僕が独断で決めてもいいかな。僕のプランなら、勝てる自信があるんだ」


 凄まじい自信だ。

 普通なら、反発や異論の一つくらい出てもおかしくない場面。

 だが、教室のどこからも声は上がらない。

 クラス全員が、九条という人間の判断に全幅の信頼を寄せているのだ。

 ……そして、その「全員」の中には、もちろん俺も含まれている。


「まずは団体競技。メンバーは――」


 淀みのない手つきで、九条が黒板に名前を書き連ねていく。

 神崎や山波を筆頭に、現役のサッカー部員たち、そして身体能力の高い他部のエース級。 前後半で男女が入れ替わるルールのため、女子も選出される。

 そこには当然のように一ノ瀬や佐伯の名もあった。

 黒板に並ぶ名前を見るだけで、他クラスが絶望するのが容易に想像できる。

 このクラスの「一軍」が揃い踏みするサッカーチーム。

 それは、もはや暴力的なまでの戦力差を意味していた。


 ……よかった、俺の名前はないな。  

 ふと、物語にありがちな「なぜか主役が抜擢される」というお約束の展開を危惧していた俺は、心底から安堵の吐息を漏らした。

 サッカーなんて、あの一軍の化け物たちに混ざってピッチに立とうものなら、文字通り文字通り「消される」自信がある。


「異論がないなら、リレーのメンバーを決めるけどいいかな?」


 クラスから反対意見が出るはずもなかった。

 当然、俺もその一人だ。  

 サッカーという過酷な運動から解放された俺は、心の中で「九条、お前は最高だ」と大大大賛成の意を表明していた。


「よし。次はリレーだね。僕の計算上、最も勝率が高いメンバーは――これだ」


 九条の手が迷いなく動き、黒板に名前が刻まれていく。

 そのたびに、クラスが一瞬どよめいた。  

 そこに並んだのは――。  


『一ノ瀬』、『神崎』、『佐伯』、『山波』、『水野』。  


 クラスの精鋭、一軍のオールスター。

 誰の目から見ても文句なし、暴力的なまでに華やかな布陣だ。

 だが、最後、アンカーの枠に書き加えられた名前を見た瞬間、教室の空気は音を立てて凍りついた。


『白河』。


「…………え?」


 そこには、間違いなく俺の名前があった。  

 予想だにしない名前に、クラスメイトたちがざわつき始める。

 俺自身、真っ先に自分の目を疑った。

 何度も目をこすり、夢でも見ているんじゃないかと必死の現実逃避を試みる。

 だが、何度見直しても、黒板に書かれた白亜の文字は無情にも俺を指し示していた。


 ……九条? 


 お前、さっき「勝てる自信がある」って言わなかったか?  

 俺を入れるのは、勝負を捨てるのと同義だぞ。


 だが、九条の瞳は至って真剣だった。

 それは冗談でも、お情けの仲間外れ防止でもない。

 本気で勝利を、そして記録を奪いにいく者の目だ。

 クラスに広がる戸惑いを一喝するように、彼は確信に満ちた言葉を紡ぐ。


「僕のシミュレーションによれば、この六人が最も勝率が高い。このメンバーなら、一位どころか学園記録すら狙えるはずだよ。……白河くん、君の『ポテンシャル』が必要なんだ」


 ……いやいや、無理ですよ九条くん。

 計算機が壊れてるんじゃないですか?


 俺は必死に九条の顔を凝視し、激しく首を振って「物理的に不可能だ」という意思表示を全力で行った。

 しかし、九条はそんな俺の必死な視線を受け止めると、ただニコリと……どこか慈愛に満ちた、けれど一切の拒絶を許さない完璧な笑顔を返し、再び前を向いた。


「意見がなければこれでいこうと思うけれど……何か、ある?」


 教室の温度が、一気に数度下がったような気がした。  

 穏やかな声色。

 しかし、その奥底には「僕の理論に、一点の曇りも間違いもない」という、絶対的な自信に裏打ちされた静かな圧が含まれている。

 その有無を言わせぬ響きを敏感に感じ取ったのか、先ほどまで騒がしかったクラスが一瞬で水を打ったように静まり返った。


「……よし! それじゃあ決まりだね。僕が必ず勝利へ導くから、みんなはドーンと構えていていいよ」


 先ほどまでの底知れない威圧感はどこへやら。  

 九条は瞬時に、いつもの「優しくて人当たりのいい完璧な九条」に戻って微笑んでいた。 そのあまりに鮮やかな切り替えに、俺は背筋に薄寒いものを感じずにはいられない。


「あ、それとリレーのメンバーはこのまま残ってね。走る順番を決めちゃいたいから」


 九条のその軽やかな一言で、今日の体育祭会議は終わりを告げた。  

 それは同時に、俺の望んでいた「目立たず平穏な生活」の終焉を告げる弔鐘のようにも聞こえた。



――――――――――――――――――――――――



「怜、あの場では言わなかったが……本気なんだな?」


 放課後の喧騒が遠ざかり、静寂が支配し始めた教室。  

 窓から差し込む西日が、使い古された机や椅子を濃いオレンジ色に焼き、長く伸びた影が床に幾何学的な模様を描き出している。

 そんな斜陽の光に目を細めることもなく、神崎は真っ直ぐに九条を射抜いた。  

 クラスの誰もが喉元まで出かかりながら、その圧倒的な存在感に気圧されて飲み込んだ疑問。

 それを臆することなく突きつけられるのは、この広い教室を見渡しても、リーダー格の神崎か、あるいはその傍らに立つ山波くらいのものだろう。


「俺も蓮と同意見だ。俺たちは別にいいが……流石に白河が可哀想じゃないか?」


 予想通り、山波もわずかに眉間に皺を寄せ、神崎の言葉を補足するように言葉を重ねる。

 その表情には、友を慮るような真剣な色が浮かんでいた。  


(そう、それだよ! 俺、めちゃくちゃ可哀想だよね!?)


 心の中で激しく同意し、声を大にして叫びたい衝動に駆られる。

 喉の奥まで出かかった肯定の言葉を、俺は必死に飲み込んだ。


「……? 二人とも、何が問題なの?」


 九条は瞬きを一つ、まるで見当違いな問いを投げかけられたかのように、きょとんとした顔で首を傾げた。

 その瞳に悪意や冷笑の類は一切なく、ただ純粋な困惑だけが揺れている。  

 学園トップクラスの明晰な頭脳を持ち、常に最適解を導き出すはずの男。

 しかし、時折こうして「常人の感情の機微」から決定的に乖離したズレを見せるのが、九条怜という人間の不可解なところだった。


「何がって……。おい白河、お前自身はどうなんだ? 大丈夫なのか?」


「っ! お、俺? 俺は……」


 突然、議論の矛先が自分へと向けられ、心臓が跳ね上がる。

 視界がかすかに揺れ、言葉が喉の奥で渋滞を起こして詰まった。  

 正直に言えば、嫌だなんて言葉では到底足りない。

 断固拒否、文字通りの意味で絶対に、何が何でもやりたくないのだ。  

 体育祭の目玉中の目玉。

 全校生徒の視線が一点に集中し、学園中が熱狂の渦に包まれるあの競技に、俺が出る? 


 それも、クラスのヒエラルキーの頂点に君臨する、眩いばかりの光を放つ一軍軍団の輪に混ざって?  

 

 それは無機質な石ころをダイヤモンドのネックレスに繋ぐような、あまりにも不釣り合いで滑稽な構図に思えてならなかった。  

 無理だ。

 到底できない。

 それに――。


「……正直、不安しかない。俺なんかが神崎たちと並んで走る姿なんて、とてもじゃないけど想像できないし、何より似合わないと……思うんだ」


 絞り出した声は、自分でも驚くほど頼りなく震えていた。

 自嘲気味に視線を足元へ落とす。


「似合わないなんて、俺たちは一度も思ってないぞ。ただ、嫌がる奴に無理やり走らせるのは、やり方として違うだろって話だ」


 神崎の返答に、俺は弾かれたように顔を上げた。  

 こいつらは、俺のような存在が自分たちの列に加わることに対して、蔑みも拒絶も抱いていない。

 それどころか、ただ一人のクラスメイトとして、俺の意思が踏みにじられている現状を純粋に憤り、案じてくれている。

 その真っ直ぐな善意が、卑屈になりかけていた心に温かく、けれど少しだけ痛痒く染み渡った。


「そうだよ、白河くん! 嫌なら嫌って、ちゃんと言わないとダメだよ?」


 隣で水野が、祈るような仕草で両手を胸の前で合わせ、潤んだ瞳でこちらを見つめていた。

 西日を背に受けた彼女の柔らかな髪が黄金色に輝き、その透き通るような肌をいっそう白く際立たせている。  

 その光景があまりに神々しく、まるで迷える羊を導く聖母のようだと錯覚する。  

 女神だ。

 ここに、本物の女神がいた。


「……嫌っていうか、俺でいいのかなって気持ちの方が強いんだ。足を引っ張るのが確定してるようなもんだし」


 吐き出した言葉は、夕暮れ時の重苦しい空気の中に溶けて消えた。  

 クラス全体が熱を帯び、本気で勝利という栄光を掴み取りにいこうとしている。

 その一糸乱れぬ士気の中に、何も持たない俺という異分子が混じれば、それは『足かせ』以外の何物でもない。

 自分の凡庸さが、彼らの積み上げてきた努力を台無しにしてしまう光景が、嫌なほど鮮明に脳裏をよぎった。


(……本当は、お前らのキラキラした輪に混ざる自信がないだけだってのは、死んでも言えないけどな)


 心の片隅で、卑屈な独白が冷ややかに響く。

 眩しすぎる彼らの世界に踏み込むことへの本能的な恐怖を、俺は「集団への配慮」というもっともらしい言葉で塗り固めていた。


「足を引っ張る? ――白河くん、どうしてそう思うの?」



 九条が、わずかに身を乗り出すようにして俺の瞳を覗き込んできた。

 その双眸はどこまでも澄み渡り、俺の心の奥底に隠した欺瞞さえも見透かそうとするかのように、鋭く、けれど穏やかに瞬いている。


「どうしてって……」


 問い返され、言葉に詰まる。  

 先ほど並べた理屈は、彼の前ではあまりに脆弱だった。

 俺がそこにいる姿がどうしてもイメージできないこと。

 不協和音を奏でるのが怖いこと。

 言葉にできない、泥のように重く漠然とした拒絶感が胸の内で渦を巻き、思考をかき乱す。


「……分からないけど、なんとなくそう思うんだ。直感、みたいなもんだけど」


「僕は、そうは思わないな。君は僕の緻密なプランにおける、欠かせないラストピースだ。君というパズルの欠片が嵌まることで、僕たちのチームは初めて完成し、勝利への方程式が成立する。……これじゃ、理由にならないかな?」


 九条の視線は、一切の揺らぎなく俺を射抜いていた。  

 計算し尽くされた確信。

 その声には、一切の妥協も慰めも含まれていない。

 冷徹なまでの自信に満ちた言葉が、凍りついていた俺の心の核に、熱い振動となって伝播していく。


「私も、怜君と同意見だよ。白河は、このチームに絶対に必要だと思う」


 九条の独演に、涼やかな、けれど力強い賛同の声を重ねたのは――一ノ瀬だった。


「……一ノ瀬」


 驚きに目を見開く俺に、彼女は悪戯っぽく笑いかけてみせる。


「白河は、いざという時に驚くような粘りを見せるって、私知ってるし! 論理的な根拠なんてないけど、私の直感は大賛成だよ!」


 窓外に沈みゆく残照が、一ノ瀬の輪郭を鮮やかな黄金色に縁取っている。自信満々に、一点の曇りもない笑顔を浮かべる彼女。

 その瞬間、いつもはあんなに鼻につく彼女のオーラが、初めて少しだけ――認めたくはないが、形容しがたいほど格好よく見えた。  

 いや、落ち着け。

 俺は騙されない。

 こいつの日常生活の壊滅的なズレっぷりを、誰よりも知っているのは俺だ。

 だが、今日この瞬間の、この表情にだけは、特別に好感度リストへ僅かな加点をしてやることに決めた。


「いや、俺たちは別に白河が混ざることに異論はないんだ。ただ、無理をさせていないか心配だっただけで……」


「ありがとう、神崎。……わかったよ。九条や一ノ瀬が、そこまで根拠のない自信を持ってくれてるんだ。ここで逃げたら男が廃るよな。やるよ。やらせてくれ」


 腹の底に力を込め、固めていた拳を解く。

 俺が覚悟を決めると、九条は獲物を捕らえた科学者のように、その端正な顔立ちに満足げな輝きを宿した。


「ありがとう、白河くん。最高の返事だ。じゃあ、さっそく勝利への最短ルート……走走順の相談に移ろう。僕のシミュレーションが導き出した、最も効率的で劇的なオーダーはこれだ」


 九条が机の上に広げたノートに、淀みない手つきでペンを走らせる。

 カリカリという硬質な音が静かな教室に響き、記された名前の羅列が、動き出した運命の歯車のように冷たく、けれど力強く並んでいた。

第一走、佐伯 莉愛。

第二走、山波 大河。

第三走、水野 日葵。

第四走、神崎 蓮。

第五走、一ノ瀬 琥珀。

第六走、白河 奏。


「……俺がアンカー!? 九条、本気で言ってるのか?」


 あまりに現実味を欠いた無茶苦茶な配置に、思考が追いつかず、情けないほど声が裏返った。

 鼓動が耳の奥で早鐘を打ち、冷や汗が背筋を伝い落ちる。  

 しかし、九条は至って真面目な顔のまま、一点の曇りもない瞳で「うん」と短く、あまりにも短く肯定した。


(……いや『うん』じゃなくて! 心臓止まるかと思ったわ!)


 あまりの衝撃に、肺から空気が抜けきったような感覚に陥る。

 喉まで出かかった抗議の言葉を必死に抑え込み、俺は酸素を求めて喘いだ。


「一応、意図を聞いてもいいか、怜」


 石像のように硬直してしまった俺に代わり、神崎が低く、落ち着いた声で先を促した。

 その冷静な声が、凍りついた教室の空気をわずかに震わせる。


「もちろんだよ。まず第一走の佐伯さんと、第二走の大河。この二人で、後続に影も踏ませないほど圧倒的な差をつけてぶち抜いてもらう。学園トップクラスの瞬発力と爆発力を併せ持つ二人なら、理論上、後続を絶望させるに十分なリードを作れる。可能だよね?」


 佐伯は女子バスケ部の絶対的エースとして君臨し、コートを縦横無尽に駆け抜ける韋駄天。

 山波もまた、天性の身体能力と野性的な勘でねじ伏せるタイプだ。  

 この二人のロケットスタートによる『先行逃げ切り』の布陣。

 そのあまりに攻撃的で隙のない戦略には、素人の俺でさえ納得せざるを得ない説得力があった。


「次に、第三走の水野さんと第四走の蓮で、さらにそのリードを確固たるものに広げてもらう。二人は極めて安定感のある、崩れにくいオールラウンダーだ。ここで中盤に『絶対的な安心感』という名の楔を盤面に置く。相手に反撃の隙すら与えないための、完璧な防壁だね」


 神崎のハイスペックぶりは、全校生徒が知るところだ。  

 だが、意外だったのは水野さんだ。

 可憐で控えめなその外見に反して、彼女は実はどんな競技も高水準でこなす運動神経の持ち主。

 柔らかな微笑みの裏に秘められた芯の強さと確かな実力。

 まさに隙のない、真の優等生というべき存在がそこにいた。


「で、おそらくみんなが最も大きな疑問を抱いているであろう、第五走と第六走……。ここだけは、この二人以外にありえないんだ。他の四人は状況に応じて柔軟に順番を入れ替えてもいいけれど、この配置だけは、僕のプランにおいて絶対に譲れない聖域なんだ」


「……えーっと。九条、その理由を、詳しく聞いてもいいか?」


 俺はどうしても、その「理由」の深淵に触れたかった。  

 学園中に数多の精鋭、選りすぐりの「一軍」たちがいる中で、なぜあえて俺が選ばれたのか。

 なぜ最も重圧のかかる、勝利のテープを切るべきアンカーなのか。  

 あの九条怜が、ここまで断固として言い切るからには、必ずや常人には及びもつかない勝利への論理があるはずだ。

 彼が常に冷徹なまでに論理的で、常に最短距離で正解を導き出してきた男だと知っているからこそ、俺は彼が提示する『納得』という名の救いを求めた。


「うーんとね。……勘かな?」


「は……?」


 一瞬、脳内のクロックが停止した。  

 静まり返った教室に、自分の間抜けな声だけが虚しく響く。  

 てっきり、どれほど緻密な確率計算に基づいた、どれほど鮮やかな逆転の戦略が飛び出すのかと、心臓が痛くなるほど身構えていたというのに。  

 あの九条だ。  

 膨大なデータをミリ単位で処理し、血の通わないほど完璧な理屈に則って最適解を叩き出し、必ず結果を掴み取る。

 その神懸かり的な姿を何度も間近で見てきたし、だからこそ全幅の信頼を置いてきた。  それなのに――返ってきたのは『勘』という、あまりにも実体のない、無責任極まりない一言だった。  

 梯子を外されたどころか、立っていた地面がいきなり消失したかのような感覚。  

 信じられなかった。

 あの合理主義の権化のような九条怜が、なんの裏付けも、なんの論理的根拠もなく判断を下すなんてことが、果たしてあり得るのだろうか。


「おいおい怜。流石に『勘』はないだろ」


 俺と同じく、神崎の眉間にも深い溝が刻まれていた。

 その声音には、いつもの冷静さを欠いた、隠しきれない疑念が混じっている。  

 俺という凡庸な存在が選ばれた理由さえ霧に包まれているのに、あまつさえ、勝敗を左右する走順までを「直感」という不確かな天秤に預けたと言われては、いくら長く時間を共にしてきた親友同士の間柄であっても、二つ返事で首を縦に振れるはずがない。


「そ、そうだよ。白河くんも、流石に今の説明だけじゃ納得できないよね?」


 隣で水野が、縋るような視線を俺に向けてくる。

 戸惑いに揺れる彼女の瞳には、俺の抱く不安と同質の、割り切れない感情が滲んでいた。


「あ、ああ。水野さんの言う通り、俺もせめて……納得できるだけの理由くらいは……」


「本当に、ただの勘なんだ。……でもね、僕の勘は今まで一度も外れたことがない。そうだろう? 僕を信じて。もしこれで負けるようなことがあれば、好きなだけ僕を罵り、泥を投げつけてくれて構わないから」


 九条は淡々と、けれど有無を言わせぬ重みを持って言い切った。

 その瞳には微塵の揺らぎもなく、狂気すら感じさせるほどの静謐さが宿っている。  

 そこにあるのは、吐き出した言葉の軽さとは正反対の、勝利という結果をあらかじめ手中に収めている者だけが放つ、絶対的な確信の色だった。


「罵るなんて、そんなことしないけど……」


 九条の纏う独特の圧力に、言葉が尻すぼみになる。


「……はぁ。そこまで怜が言うなら、乗らないわけにはいかないな。こいつはこうなったら、テコでも動かないし絶対に折れないんだ。……みんな、今回はこれでいこう。異論はないな? 白河、お前も……いいか?」


「あ、ああ……」


 神崎の、半ば諦めの混じった問いかけに、俺は力なく頷くしかなかった。  

 学園のカリスマである神崎が折れるほどの九条の執念。

 そして、射抜くような期待を込めて俺に向けられたその眼差しを、正面から否定できるほど、俺の心臓は強くできていなかった。


「よし! ひとまずこれで決定だ。練習はどうする? いつから集まる?」


 山波がパンと勢いよく手を叩き、沈滞しかけていた空気を強引に塗り替える。


「じゃあ、リレー用のグループ作っちゃうね! 私、今から招待送るから、みんなスマホ出して!」


 一ノ瀬がこの展開を予見していたかのようにスマホを取り出し、鮮やかな手つきで画面を叩き始めた。

 電子音が小さく響き、「できたから確認してー」と、屈託のない、太陽のような笑顔でスマホを差し出してくる。


 夕闇が忍び寄り始めた教室で、ポケットの中のスマホが、短く、けれど重く震えた。   液晶画面に表示された「リレー選抜メンバー」という通知。

 その文字の羅列は、今の卑屈な俺にはあまりにも不釣り合いで、網膜を焼くほどに眩しすぎた。


「……はぁ」


 一ノ瀬に急かされるまま、重い指先で参加ボタンをタップし、画面に並んだアイコンをそっと眺める。  

 神崎、九条、山波、佐伯、水野、そして一ノ瀬。  

 どこをどう切り取っても、この学園を象徴するようなスターたちが、一つのタイムラインに集結している。


 その綺羅星のごとき名前の中に、俺の名前がポツンと異物のように混ざっている光景は、誰かが悪意を持って作った精巧なコラージュ画像のようで、どこか現実感を欠いた遠い世界の出来事のように感じられた。


(本当に、やるのか……俺が。この面々と一緒に……)


 ふと顔を上げると、窓の外はさらに赤みを増し、教室の隅々まで濃いオレンジ色の影が侵食していた。

 長い影が自分を飲み込んでいく。放課後の静寂が、今はこれから始まる暴風雨の前の静けさのように、俺の肌をチリチリと刺すような緊張感で焼く。

 不安は、一向に霧散してくれない。  

 むしろ、退路を断って腹を括ったことで、その恐怖はより鮮明に、より重く、鉛のような質量を持って俺の胸の奥深くに居座っていた。


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