五十杯目:「……こっち見て笑いやがった」
「やっぱ神崎が来たか!」
「怜に無理矢理な。そっちこそお前が来たんだな」
「来るだろ。サッカーだぜ? ま、お前には勝てねぇな」
重厚な扉を開けて第三会議室に足を踏み入れた瞬間、むせ返るような熱気と威勢のいい声が飛び交っていた。
誰?
あっちで談笑している奴も誰?
てか、この部屋に集まっている奴ら全員誰なんだ?
パイプ椅子が整然と並べられた無機質な会議室を見渡してみるが、俺の記憶にある顔は一つとして存在しない。
どうやら各クラスから選りすぐられた運動神経抜群の猛者や、部活の主力級が勢揃いしているらしい。
神崎は入室するやいなや周囲の奴らと親しげに拳を突き合わせたり笑い合ったりしており、殆どの人間と顔見知りであるようだった。
隣に立つ九条もまた、穏やかな笑みを浮かべながら静かに視線を送っているが、彼の交友関係の広さを考えればこの空間にも自然と馴染んでいるのだろう。
「お前と蓮が来るのはずるいだろ!」
「人数指定されてなかったからね」
周囲の他クラスの代表者たちから、軽口交じりのブーイングが飛ぶ。
学年屈指の運動神経を誇る神崎と、頭脳・実力ともに隙のない九条が揃って登場したのだから、彼らにしてみれば脅威以外の何物でもないのだろう。
……そう、完全に俺だけがこの空間で異物として浮いているのだ。
スポーツ万能な猛者たちが放つ独特の熱気に気圧され、俺は居心地の悪さに肩を身を縮める。
……。
だから言ったろうが!
俺がここに来る意味なんて最初から一切無いって!
それなのに俺を半ば強引に連れてきた九条の野郎、爽やかな顔をしておいて本当になんてことをしてくれたんだ!
「てか何で集められたんだ? 今更ルールなんて説明する必要無いだろ?」
「蓮には必要だろ。馬鹿なんだから」
「てめぇ。当たった時覚えとけよ」
威勢のいい会話が繰り広げられるのを、俺は少し離れた位置で冷ややかに眺めていた。
誰だか知らないけれど彼の言う通りだ。
今更わざわざ代表者を呼び出してルール説明だなんて、あまりにも野暮で効率が悪い。
どのクラスにも最低一人はサッカー部員が混ざっているはずだし、仮に居ないにしても体育の授業を通していわゆる一般的な基本ルールくらいは頭に入っているはずだ。
まあ、オフサイドの適用基準だとか細かいファウルの扱いあたりは怪しいかもしれないが。
——何はともあれつまり、俺たちの考えは一致している。
集められたのは単なる無味乾燥なルール説明のためなどではない。
その裏には、必ず何か別の目的や意図が隠されているはずだった。
「あー……あー……。聞こえるか」
会議室の前面に据えつけられたスピーカーから、意図的なノイズと共に、どこか冷ややかで通りやすい声が室内に響き渡った。
それまで雑多な私語でザワついていた室内が一瞬にして静まり返り、ピンと張り詰めたような緊張感が空間を支配する。
誰もが息を飲み、背筋を伸ばすのも無理はない。
スピーカー越しに聞こえたその声の主は、間違いなくあの如月会長のものだったからだ。
「これからルール説明をする。一度しか言わない」
有無を言わせぬ絶対的な独裁者を思わせる威圧的な口調。
だが不思議なことに、それを聞く側に嫌悪感や反発を抱かせない。
言葉の端々に漂う絶対的な自信と気品が、その場にいる全員を自然と従わせる強力な磁場を生み出している。
それだけ会長のカリスマ性が高いのだろう。
「ルールは基本的なサッカーと変わらない。コートは授業とかでやるミニコート。ただし決勝だけはフルコートでやる」
「わざわざその為に集めたのか?」
「うーん。少し信じがたいね」
スピーカーからのアナウンスを聞きながら俺が低く呟くと、九条もまた顎に手を当てて深く思案するような素振りを見せた。
俺と九条は、額面通りの言葉の裏に隠された会長の真の目的を探ろうと必死に思考を巡らせる。
あの効率主義で無駄を嫌う会長が、このような通り一辺倒な伝達事項のためだけに各クラスの代表者の足を運ばせるとは思えない。
ふと隣を見ると、神崎は腕を組み、「なるほどな」と言わんばかりの表情で深く頷いているだけだった。
完璧に言葉通り受け取っている顔だ。
余計な深読みをして違和感に気づくことができる九条を連れてきて、やはり大正解だったなと俺は密かに胸を撫で下ろした。
「この話も予想できてたし、元よりそのつもりだった。でもわざわざ集める必要がない。会長は一体何が目的なんだろう?」
九条が顎に指をあて、冷涼な瞳を少し細めながら思考を口にする。
彼が思惑を巡らせると同時に、天井のスピーカーから発せられる凛とした声が、再び静まり返った会議室の空気を振動させた。
「知っての通り午後の競技は二つのみ。つまり得点配分が高いと言うことだ。そこで疑問が生まれるだろう。チーム分けはどうなるんだと」
スピーカーの向こう側にいる如月会長の、見透かすような声。
やっぱりだ、と俺は心の中で大きく頷いた。
全十八クラスという端数の出るチーム数でトーナメントを組む以上、どう組み合わせても公平な対戦表を作るのは難しい。
先ほど俺たちが外のテントで頭を悩ませていた予想は、見事に的中していたのだ。
「安心しろ。三年を優先するつもりなど毛頭ない。それについては後で説明する。ではここから改めて’ルール’を説明する」
「は?」
思わず、間抜けな声が口から漏れ出てしまった。
だって、そうだろ?
会長はついさっき自ら「ルール説明をする」と言って、競技の基本ルールを語り終えたばかりだったのだから。
「一度しか言わない」という前置き。
あの簡潔な競技説明は単なる前置きに過ぎず、文字通りの本題はここからだったのだ。
「知っての通り、決勝は三チームとなり奇数になる。これでは決勝が行えない為、シードを採用する」
「やっぱりそうだよね」
九条や水野の予想通り、不条理な学年優遇ではなく、純粋なトーナメントの計算上としてシード権を採用するらしい。
となれば、最大の問題はそのシード権を一体どのような基準で、誰に与えるのかという決定方法だが——。
「シードの決め方は至って簡単。ご存知だろうが私は実力主義者だ。サッカーについてはサッカーで決める」
「まじか」
「これってラッキーじゃない?」
隣で九条が、実に嬉しそうな、そして確信に満ちた笑みを浮かべて神崎の顔を覗き込んだ。
九条の視線を受けて、俺の頭の中でもカチリとパズルのピースが組み合わさる。
「サッカーだよ? 蓮の一人勝ちで決まり!」
「確かに」
具体的な対決内容はまだ明かされていない。
だが、九条の言う通り、球技——それもサッカーに関することであるならば、目の前にいる神崎蓮という男の右に出る者など、この学校には存在しない。
これはひょっとして、棚からぼた餅というか、奇跡的に勝利を約束されたようなものではないだろうか。
いや、ダメだ。
相手はあの予測不能な絶対権力者、如月会長だぞ。
油断して浮足立った瞬間に足をすくわれる。
次に何を言い出すか分かったものじゃない。
「シードはリフティングの回数で決める」
「え?」
あまりにも直球でシンプルな内容に、俺は思わず拍子抜けしてしまった。
あの完璧主義で知られる会長が、そんな拍子抜けするほど分かりやすい方法で重要なシード権を決めるのかと、拍子抜けと同等の意外性が胸を突く。
「理由は簡単だ。サッカーの基礎かつ、時間がかからない」
スピーカー越しに聞こえる声には、一切の迷いがない。
効率と公平性を極限まで突き詰める彼らしい、合理的すぎる理由だった。
「ねぇ蓮。最高は何回?」
「リフティングか? 数えた事ないな」
「怖っ!」
九条の問いに対する神崎の返答に、俺は思わず引きつった声をあげてしまった。
リフティングの回数を「数えたことがない」というのは、途中で落として失敗したことがない、あるいは限界を迎える前に自分が飽きるまで永遠に続けられるということに他ならない。
サッカー馬鹿の底知れなさに、味方ながら戦慄を覚える。
しかし、これで完全に勝機は見えた。
この条件ならば勝ち取ったも同然だ。
「各クラスの代表者一名ずつ並べ。ボールを渡す。合図と共に開始。ボールが地面についた者は座れ。言っておくが不正は禁止だ。やってもいいがバレた時は十点マイナスから試合をしてもらう」
淡々と告げられるペナルティの重さに、室内に緊張が走る。
ただの脅しではなく、本気でそれを実行に移す冷酷さと圧倒的な行動力があの会長にはある。
この場にいる全員がそれを肌で理解しているからこそ、誰も不正なんてバカな真似は考えつきもしない。
全員が正々堂々、己の実力のみで勝負に挑むしかないのだ。
放送が切れると同時に、生徒役員の手によって全クラスの代表者に一つずつサッカーボールが手渡されていく。
渡された代表者たちは、室内の中央へと進み出て等間隔に広がり始めた。
改めて見回して驚かされたのは、この第三会議室の異常な広さだった。
全十八クラスの代表が一斉にリフティングを行っても、互いの領域を侵すことなく十分なディスタンスを保てるほどの空間。
無機質な蛍光灯の光が白熱する空気を照らし出している。
全員が指定の位置につき、手に持ったボールへ視線を落とした瞬間、張り詰めたような静寂と鋭い緊張感が部屋全体を支配した。
両手でボールを大切そうに抱える者、すでに足元へボールを落とし、静かに軸足を整える者。
スタートの姿勢やアプローチは人それぞれだが、その瞳に宿る眼光は一様に鋭い。
たった一つのシード権をもぎ取るため、猛者たちの静かな闘志が、密室の中で激しく火花を散らし始めていた。
「初め!」
会長の凛とした合図が広い会議室の空気を切り裂いた瞬間、参加者一斉にボールを蹴り出した。
ポン、タン、と乾いたボールの打撃音が無機質な部屋の壁に反響し、規則的なリズムとなって重なり合う。
全校から集まった猛者たちの集中が一瞬で極限まで高まり、室内の湿度が跳ね上がったかのように錯覚する。
そんな張り詰めた空気の中、ただ一人あくびでも噛み殺しそうなほど余裕綽々な様子でボールを蹴り上げている奴がいた。
神崎だ。
「なぁ怜、白河。上手そうな奴いるか?」
あろうことか、足元でリズミカルにボールを躍らせながら、隣で見守る俺と九条に向かって平然と話しかけてくる。
「お……おい! 集中しろよ神崎!」
周りの奴らが必死な顔でボールと自分との距離を図っている中、余計な話をしてミスでもされたら目も当てられない。
俺は思わず焦って声をひそめた。
「うーん。素人目線で上手そうなのはさっき蓮が話してた子かな?」
九条は周囲の動きを冷静に観察しながら、顎を軽くしゃくって一人の生徒を指し示した。
「あー。祐希ね。上手いけど俺よりは下」
神崎はチラリとその生徒に視線を送り、なんでもないことのように言い捨てる。
「仲良いんだな」
名前を呼び捨てにするその親しげな言い草からも、互いを認め合っている関係性が窺えた。
部活という厳しい環境で共に汗水垂らし、切磋琢磨してきたからこそ通じ合うものがあるのだろう。
「他はいねぇの?」
「ビックリしたのは会長がやってないって事かな。あの人の実力見ときたかったなー」
「確かに。如月会長は見てるだけだな」
神崎の問いかけに応じつつ、俺も部屋の奥へと視線を向けた。
壁際にすっと立ち、胸の前で腕を組んで全体を見回している如月会長。
その氷のように冷たい瞳は、一人ひとりの動きやボールの軌道を精緻に観察している。
あえて自らは参戦せず、完璧な監視者としてその場を支配する立ち振る舞いに、ある種の圧倒的なカリスマ性を感じずにはいられなかった。
「一年二組アウト!」
部屋の四隅に配置された審判役のボランティア生徒が、冷徹な声で宣告を上げる。
微かに軸足を滑らせた生徒が、絶望的な表情でその場に崩れ落ちた。
「デスゲームかよ」
リフティングを続けながら、神崎がクックと喉を鳴らして笑う。
脱落者が一人、また一人と去っていく様は、確かに生き残りをかけた残酷なデスゲームのような緊張感を漂わせている。
すでに全体の半分以上が脱落し、残っているのは指で数えられるほどになっていた。
リフティングの回数は、ゆうに二百を超えている。
ふと観察してみると、残っている者たちのやり方は千差万別だった。
つま先でボールの底をちょんと突くように低く刻む省エネのやり方。
足の甲を使って胸の高さまで優雅に蹴り上げるやり方。
だが、神崎のスタイルは異次元だった。
インサイド、アウトサイドはもちろん、太もも、頭、肩、時にはかかとを使って背中側に回すといった、まるで大道芸のような遊び心あふれる魅せるリフティング。
素人目線で見ても、神崎の技巧は群を抜いていた。
彼にとってボールを浮かせ続けることなど、息を吸うのと同じくらい自然で「自由」な行為なのだ。
「クッソ! おい蓮! いい加減諦めろよ!」
数メートル離れた位置で、額に大量の汗を浮かべながら必死にボールを蹴り続けている他クラスの選手が、限界寸前の声を張り上げた。
だが、その声には焦りと苛立ち、そして神崎という圧倒的な存在に対する諦悪が混ざり合っていた。
「諦めるったって落としようがないんだからしゃあねぇだろ?」
神崎にとっては何の悪気もない当然の事実なのだが、追い詰められている相手からすればこれ以上ない極上の煽り文句にしかならない。
神崎はさらに余裕を見せつけるかのように、ポンと胸でボールを受け止めて高く跳ね返してみせた。
実に器用な真似をする。
「っざけんな! お前のクラスは別にシードいらねぇだろ!」
「要らないことはねーだろ。楽に勝てるならそれに越したことはねぇし。てかいいのか? そんなに喋るのに集中してたら——」
ポン、という軽い音の直後、乾いた嫌な音が床に響いた。
動揺して足元を狂わせた相手のボールが、無情にも滑らかなフローリングの上を転がっていく。
「ほらな? ドンマイ」
「クッソ!」
悔しそうに頭を抱えるライバルの姿を皮切りに、極限状態に達していた参加者たちが次々と集中力を切らし、脱落の音が連続して響き渡った。
「終了。これによりシードは二年四組、そして三年一組に決定した」
スピーカーから冷淡な会長の声が響き、長い戦いに終止符が打たれた。
勝ち残ったのは、俺たちのクラスである二年四組と……絶対王者である会長の率いる三年一組。
この結末は予想外ではあったが、俺たちにとっては——。
「最高の結果だね」
「あぁ。逆に助かった」
「は? どういう事だよ。会長のクラスにシードが行ったんだぞ? いいのか?」
神崎が戸惑うのも無理はない。
最も警戒しているチームが、優先権を取ったのだ。
普通は神崎の様に思うだろう。
だが、重要な事を見逃している。
俺と九条は気づいたのだ。
「まぁそう思うだろうね。ね、白河君」
混乱する神崎をよそに、九条はフッと口元を緩め、意味深な笑みを浮かべながら俺に同意を求めてきた。
言葉にしなくても意思が通じ合う心地よさを覚えつつ、俺は腕を組み、未だ状況を飲み込めていない神崎に向き直る。
「あぁ……神崎。シードって何だ?」
「はぁ? 一つ飛ばすやつだろ? 言ったらいきなり二回戦みたいな」
頭の上に大きな疑問符を浮かべたまま、神崎が眉をひそめて当然のように答える。
そうだ。
神崎の言う通り、シード枠を獲得するというのは、予選一回戦をまるまる免除されて二回戦からスタートするということだ。
つまり——トーナメントの構造を考えれば、自ずと一つの決定的な答えが導き出される。
「シードとシードが当たる事あるか?」
「んな事はないだろ。大体真反対の島に……」
勢いよく答えかけて、神崎の言葉がピタリと止まった。
ハッとしたように目を丸くし、自分の口から出た言葉の意味を脳内で反芻する。
そもそも、俺たちが最も警戒していたのは、早い段階であの会長率いる三年一組と激突することだった。
圧倒的な知略と運動能力を兼ね備えた絶対的な存在。
そんな化け物じみたチームと早々に当たれば、最悪の場合、優勝の芽すら初戦で摘み取られかねない。
しかし、シード権を分け合ったということは、トーナメントの真反対のブロック——いわゆる「逆の山」に配置されるということに他ならない。
つまり、お互いが勝ち進んで決勝戦の舞台にたどり着くまでの間、直接対決するリスクは完全にゼロになったのだ。
最も恐れていた早期敗退の可能性が一気に遠のき、俺たちの勝率は飛躍的に跳ね上がる。
「そうだよ蓮。気がついた?」
意図を完璧に汲み取った神崎の表情の変化を見て、九条が楽しそうに目を細めた。
「あぁ。こりゃラッキーだ」
神崎の顔から困惑が消え去り、いつもの強気な笑みが戻ってくる。
だが、九条の鋭い視線はすでに別の対象へと向けられていた。
無機質な蛍光灯の光が届く会議室の少し離れた一角、静かに呼吸を整えている一人の人物へと。
「それよりも気になるのは……彼」
九条がすっと指差す方向にいたのは、先ほどまで神崎と熾烈なリフティング勝負を繰り広げていた生徒だった。
三年一組の代表として立っていた先輩。
てっきり会長自らが代表として前に出てくるものと思い込んでいた俺たちに、強烈なファーストインパクトを与えた人物だ。
何しろ、サッカーに対して圧倒的なセンスと情熱を持つ神崎と互角以上に渡り合ったのだ。
ただの一般生徒であるはずがない。
「蓮、知ってる人?」
「いや知らねぇ。サッカー部じゃねぇな」
校内のサッカー部員の顔ぶれを熟知しているはずの神崎ですら首をかしげる。
となると考えられる可能性は、過去に中学や小学校の強豪クラブチームで本格的に打ち込んでいた経験者か、あるいは——底知れぬ運動神経を隠し持つ、ノーマークの「隠し玉」か。
後者であった場合、会長の策士としての恐ろしさを改めて思い知らされることになり、俺たちにとっても最悪の脅威となり得る。
「蓮も知らないんだ。誰なんだろう」
九条が低く呟き、俺たち三人の視線がその謎の先輩に集中する。
張り詰めた空気のなか、その佇まいはどこか異様な存在感を放っていた。
その時だった。
神崎の表情が大きく歪んだ。
「……待てよ? 何処かで見たことある様な……ッ!」
記憶の引き出しを激しくひっくり返すように、神崎が突然驚きの声を上げる。
息を飲み、目を限界まで見開いていた。
「どうしたの?」
「あの野郎……」
絞り出すような声の後、神崎の口元がぐにりと歪み、獰猛な笑みがこぼれ落ちた。
「……こっち見て笑いやがった」
神崎の声色には、恐怖や怯えなど微塵もなかった。
それは、長らく出会うことのなかった己の領域に踏み込んでくるライバル、対等に殴り合える強者と久々に出会い、これから繰り広げられるであろう灼熱の勝負に胸を躍らせる、一人の純粋な少年の声そのものだった。
――――――――――――――――――――――――
「大丈夫かなぁー」
秋の爽やかな風が吹き抜ける。
一ノ瀬琥珀ちゃんは、会議室へ代表として呼ばれていった神崎君たちの後ろ姿を遠くに見送りながら、ぽつりと心配の言葉をこぼした。
だが、その口から出た不安げなトーンとは裏腹に、彼女の行動はまったく伴っていない。
買ってきたばかりの焼き鳥の竹串を片手に、両頬をリスのように膨らませながら、もぐもぐと幸せそうに咀嚼を続けているのだ。
美味しそうに食べ進めるその手と、口から出る弱気な言葉があまりにも不釣り合いで、思わず微笑ましい気持ちになってしまう。
ま、彼女にとってはこれがいつもの日常風景みたいなものだけど。
「琥珀が心配する必要ないよ」
「そうそう。サッカー馬鹿と頭脳馬鹿が行ったんだから」
「莉愛ちゃんと珊瑚ちゃんの言う通り! 何にも心配いらない!」
観客席の上に腰を下ろし、冷たいジュースのカップを手に取りながら、私も大きく頷いて同意した。
実際、私自身も胸の中に不安なんてこれっぽっちも抱いていない。
ずば抜けた運動神経と野生の直感を持つ神崎君と、学年トップクラスの知性と冷静な判断力を備えた九条君。
あの二人さえいれば、どんな理不尽なトラブルや難題を突きつけられたとしても、難なく切り抜けて帰ってくるはずだ。
そして何より——彼らの傍らには、白河君がいる。
一見すると突飛に見える神崎君の暴走と、スマートすぎる九条君の思考。
個性が強すぎるその二人の間にどうしても生まれてしまう絶妙な歯車のズレを、白河君はいつもごく自然に、誰にも気づかれないような絶妙な立ち回りで埋めてくれるのだ。
実は私、密かに白河君のことを高く評価している。
普段はどこか気怠げで適当に見えるけれど、ふとした瞬間に覗かせる彼の頭の回転の速さや、周囲を冷静に見つめる眼差し。
……まぁ、完璧超人である九条君の頭脳にはさすがに敵わないけれどね。
「でもでも白河がいるんだよ!?」
『だからじゃん』
私の思考を見透かしたかのように、三人の声が見事に重なった。
ハッと互いに顔を見合わせ、思わずクスリと笑いがこぼれる。
どうやら莉愛ちゃんも珊瑚ちゃんも、言葉には出さないけれど、私と同じように彼のあの不思議なバランス感覚を信頼し、高く評価しているらしい。
クールで毒舌な莉愛ちゃんはともかく、普段はどこか冷静で客観的な珊瑚ちゃんまで白河君を評価してるなんて、少しだけ意外だったな。
「な……なに!? 三人して……」
自分以外の全員の声が完璧に一致したことにショックを受けたのか、琥珀ちゃんは眉を細め、どこか懐疑的で疑わしげな目を向けてきている。
他ならぬ私自身も三人揃って同じ答えに行き着くとは思っていなかったのだから、当の本人の琥珀ちゃんが目を丸くして戸惑うのも当然だろう。
「なにって……ねぇー」
莉愛ちゃんは呆れ半分、諦め半分の溜息を一つ吐くと、私と珊瑚ちゃんへ向けて「言葉にするのは野暮だよね」とでも言いたげな視線を投げかけてきた。
そう。
理屈や数値で明確に説明できるものではないけれど、白河君という男には、土壇場でどうにかしてくれるような不思議な期待感がなぜかあるのだ。
どんなに予測不能な状況に陥っても、彼がそこに立っているだけで、どこかホッと肩の力が抜ける——簡単に言うと「圧倒的な安心感」とでも呼ぶのだろうか。
そんな目に見えない何かがあるからこそ、私たちは心から彼らを信用し、穏やかな気持ちで帰りを待っていられる。
最高の突破力を持つ神崎君、最高の司令塔である九条君、そして二人を繋ぐ最強のバランサーである白河君。
きっと、あの三人なら無敵だ。




