四十八杯目:「勘というか……予想にニュアンスは近いな」
「これより一時間半の休憩時間となります。次の競技の再開は二時を予定しております。繰り返します——」
大口径スピーカーから流れ出る無機質で機械的なアナウンスが、熱狂と喧騒に包まれていた体育祭の一時休戦を静かに告げた。
その声を合図にするようにして、スタンド席を埋め尽くしていた生徒たちが一斉に席を立ち上がり始める。
歓談しながら昼食を買いに向かう者、久しぶりに会う他クラスの友人のもとへ駆け寄る者、あるいは激闘の汗を流しにトイレへと向かう者。
グラウンドに立ち込めていた緊張感がふっと和らぎ、和やかな活気がスタジアム全体をゆるやかに包み込んでいく。
それは、この巨大なイベントの骨組みを一つひとつ精緻に組み上げ、緻密な計画のもとに練り上げた張本人――生徒会長である如月雅貴にとっても全く同じことだった。
この体育祭という舞台裏において、数々の怪しい企みや悪辣な仕掛けによって密かに多方面から熱い眼光(とりわけ、先ほどの競技で理不尽なお題を引かされた佐伯莉愛からの殺意に満ちた視線)を向けられている如月だが、当の本人にとってそんなものは日常茶飯事の戯れに過ぎない。
痛くも痒くもないため、端から気にする必要すら感じていなかった。
「今の所うまくいってるね」
スタジアムの賑やかな裏手にひっそりと位置する、ひんやりとした空気が満ちるパイプ椅子と長机だけのシンプルな休憩室。
そこには、星城海原学園の頂点に君臨するツートップ――生徒会長である如月と、副会長である花野の姿があった。
花野はどこか退屈そうに、椅子の背もたれへと深く身を預け、天井の蛍光灯を見上げながらつぶやいた。
「あぁ。これといって目立った問題もない。このまま何事もなくいけばいいが……」
幸いなことに、午前中の全競技は大きなトラブルや不測の事態に見舞われることもなく、スケジュール通りスムーズにこの昼休みの時間へと到達していた。
このまま何もなく平穏無事に幕を閉じるのが、行事の主催者としては最も望ましい着地点であり、生徒会長である如月がそう願うのも至極当然のことだ。
しかし、この如月雅貴という男の思考回路は、一般的な人間とは一線を画していた。
彼は決して、どんなに状況が順調であろうと甘い油断を自分に許さない。
常に思考の裏側で「最悪のシナリオ」を多角的に想定し続ける。
それどころか、突如巨大な隕石が飛来して地球が滅亡する事態になった場合のリスク管理まで本気で思考を巡らせているような、常軌を逸したレベルの異常者なのだ。
「雅貴が関与したのってどの競技だっけ?」
「関与? 不穏な言い方はよしてくれ。違うぞ?」
「違う?」
如月はまるで自分の潔白を主張するかのように、心底心外だと言わんばかりの不服そうな表情を浮かべて言葉を正した。
「関与ではなく『手伝った』と表現するのが正しい」
「……相変わらず細かいなぁ」
彼にとって、なぜだか「関与」というフレーズは聞き捨てならないものらしい。
花野は呆れたように小さく息を吐き出し、「言わんとしていることは結局一緒でしょ」と肩をすくめた。
「関与だと、まるで私が物語の悪役みたいじゃないか」
「うん。言葉の綾で結局やってることは一緒だけどね」
競技の企画や準備段階において、この如月という存在がほんの少しでも介入するだけで、その競技の持つ性質は劇的に変貌を遂げてしまうのだ。
それは観客を大いに沸かせる最高のアトラクションになるという良い意味でもあり、同時に競技者を理不尽な混沌へと叩き落とす悪夢になるという悪い意味でもあった。
「で、具体的にはどの競技を手伝ったの?」
「借り物競走と、あとは午後に控えているサッカーだな」
「なんでまた、その二つだけなの?」
どうせ手を出して混沌を作り出すのならば、二つなどと生ぬるいことを言わず、すべての競技に手を出して掌握してしまえばいいのに。
それが、如月という男の底知れない底力と悪趣味さを誰よりも熟知している花野の、極めて率直で素朴な感想だった。
「サッカーは目玉競技だからって理由でなんとなく分かるんだけど、借り物競走は……なんで?」
腕を組み、いかにも解せないといった様子で首を傾げる。
ましてや、あの効率と合理性の塊のような男が、なぜわざわざ地味な借り物競走なんかに手を出そうと考えたのだろうか。
花形種目であるサッカーならまだ理解が及ぶ。
全校生徒の視線が一線に注がれ、最も歓声と熱気が最高潮に達するあのメインイベントを超える注目種目など存在しないのだから。
しかし、もう一方の借り物競走はというと、どうしても地味な印象を拭えない。
確かに、意中の異性と手を繋ぐドラマが生まれたり、普段は厳格な先生と微笑ましく絡む機会があったりと、甘酸っぱいイベント感はあるかもしれない。
だが、もしもイベントとしての盛り上がりやドラマ性を追求するのであれば、同じ走る競技であっても、最高潮の盛り上がりを見せるであろう最終リレーなどに関与するはずなのだ。
というよりも、私の知る如月雅貴という男は、迷わずそういう大舞台を支配するタイプの人間だった。
生徒会室で誰よりも長く彼の隣に立ち、その異常なまでの手腕を見つめ続けてきた私だからこそ、一番よく知っている。
だからこそ、私の頭の中には拭いきれない疑問のハテナマークが何個も浮かび上がっていた。
「……両方とも勘だな」
「……勘?」
静かな休憩室に落とされたその言葉に、私は思わず目を見張った。
あの雅貴が、根拠のない「勘」などという不確定要素で動くことなんて、この生徒会での長い月日においてただの一度としてあり得なかったからだ。
常に「合理的か」「効率的か」を至上命題として掲げ、完璧な計算と冷徹なまでのロジックで世界を構築する雅貴が、直感や勘で動くだなんて――太陽が西から昇るよりもあり得ない事態だった。
「勘というか……予想にニュアンスは近いな」
「ごめん。意味がわからない」
何を元にして、一体どんなデータを解析してその予想とやらを組み立てたというのだろう。
そもそも、彼の中において「勘」と「予想」の違いとは何なのか。
氷のように静かな瞳で淡々と語る雅貴の思考回路が、どうしても私には理解できない。
「俺自身も意味は求めていない。ただそうしただけだ」
「意味不」
素っ気なく言い放つ彼に対して、私は深く溜め息をつきながらバッサリと吐き捨てた。
借り物競走という地味な種目に、雅貴がどんな悪辣で巧妙な仕掛けを施したのかも恐ろしいけれど、もう一つのサッカーの方も輪をかけて気になる。
ルールも形式も世界中で完全に確立されているあのスポーツに、雅貴はいったい何を企み、どんな改変を加えたというのだろうか。
「じゃあサッカーは? サッカーには何したの?」
「この体育祭の意味は何だと思う?」
「意味?」
パイプ椅子に深く腰掛けたまま、雅貴は質問を質問で返してきた。
体育祭の、意味……?
どこか遠くを見つめるような彼の整った横顔を眺めながら、私は呆れと落胆の混じった思考を巡らせる。
この男は、一体全体何を突拍子もないことを言っているのだろうか。
我ながら、どうしてこんなにも偏屈で理屈っぽく、救いようのない異常者を好きになってしまったのだろうと、時々本気で頭を抱えたくなる瞬間がある。
まさに、今この瞬間がそうだ。
……はぁ、ダメダメ、思考を本来の場所に戻そう。
学校行事としての体育祭に、そんな高尚な意味なんて存在するのだろうか。
毎年恒例で決まっているからやる……単なる学校の年中行事だから……あるいは、みんなで体を動かして楽しいから?
だが、そんなありきたりで子供っぽい答えを雅貴が求めていないことくらい、私だって百も承知だ。
けれど、彼を満足させるような完璧な正解なんて、どうしても思い浮かびそうにない。
「分かんない。何?」
「一体感だ」
「一体感?」
「あぁ。この体育祭で、それぞれのクラスがより仲良く、協力するように。そして体育祭の後にある文化祭に繋ぐ。それがこの体育祭の意味だ」
窓から差し込む初夏の光線が彼の影を長く伸ばす中、返ってきたのはなんとも規模の大きな、彼らしい大層な答えだった。
彼と会話していて、話が難しくない瞬間なんてこれまで一度たりとも存在しなかったけれど。
しかし、よくよく彼の言葉の意図を考え直してみれば、体育祭の後に控えている我が校の文化祭の企画内容は、言わせてもらえば正気の沙汰ではない、完全にイカれた代物だった。
生徒会役員である私自身も、企画書を目にした時には「いくら何でもこれはやりすぎだ」と本気で雅貴を止めに入ったほどなのだ。
雅貴は、その常軌を逸したスケールの文化祭という大一番に向けて、全校の各クラスがより強固な一体感と結束力を育めるように、前哨戦であるこの体育祭に特別な意味を持たせようとしているらしい。
だとしたら、私の中で新たな矛盾と疑問が膨らみ上がってくる。
どうして、たったの二種目だけなのか。
本気で学校全体に一体感をもたらしたいのであれば、二種目などという生ぬるい限定的な介入ではなく、すべての競技に手を加えて支配する方が、よほど雅貴の掲げる理念や美学に沿っているのではないだろうか。
「じゃあ、全部の競技に手を加えたら良かったのに」
「……それは流石にやり過ぎだろ?」
「え?」
「せっかくの体育祭だ。体育委員やそれ以外の生徒たち、部活の人間が知恵を絞って考えた内容に、生徒会が過剰に口を出しすぎるのは申し訳ない」
「あんたがそれを言うか……」
思わず漏れ出た私の呆れ交じりの独り言を聞きつけた雅貴は、心底心外だとでも言いたげに首を横に振った。
そして、手にしていた使い捨てのプラスチック容器から、屋台で買ってきたというカレーをスプーンですくい、淡々と口へと運んだ。
祭りの屋台と言われて誰もが真っ先に思い浮かべるような、薄いスチロールの白い容器に、黄色い福神漬けが添えられた極めてありふれた見た目のカレー。
けれど、ひんやりとしたパイプ椅子が並ぶ静かな休憩室の中に充満するスパイシーで食欲をそそる芳醇な香りと、初夏の陽光が差し込むシチュエーションも手伝って、それがどうしようもなく美味しそうに見えてしまうのだった。
「雅貴が食べてるそれ、どこのお店の?」
「知らん。外の広場にあった気がするが、具体的な場所までは覚えていないな」
「知らんって……」
どこまでもマイペース、そして徹底的な無関心。
世の中にこれほど「マイペース」という言葉がしっくりと馴染む人間が他に存在するのだろうか。
もし仮にどこかでそんな奇特な人物に出会えたとしたら、きっと雅貴と意気投合して大親友にでもなれるに違いない。
「それ、何円だったの?」
「五百円だ」
「え? 安くない?」
思わず所帯じみた主婦のような素っ頓狂な声を上げてしまい、ハッと気づいた時には自分の両頬が熱くなっていくのを感じた。
けれど、実際問題としてそれは驚くほど安い。
校内の学食で提供されている標準的なメニューと比べてもほぼ変わらない価格設定だ。
そのうえ、チラリと見えた容器の中身を見る限り、量も申し分なく良心的だった。
「そもそも、校内に屋台を出してくれと業者に掛け合って頼み込んだのは俺だからな。出店料の交渉から販売価格に至るまで、徹底的に値切りに値切り倒した。安心しろ、向こうの利益もしっかり確保できる計算にはなっている」
「あんた……本当に何者なの?」
確かに、体育祭の会場に本格的な屋台が立ち並ぶなんて試みは、我が校の歴史上今年が初めてのことだ。
これもすべて、雅貴が裏で怪しく根回しをし、緻密な計算のもとに動いていたからなのか。
それにしたって、そんな面白い計画があるなら私にくらい事前に教えてくれても良かったのに。
前もって知っていれば、私だって準備を手伝ったり、一緒に楽しく買い出しの段取りを考えたりできたのに……という小さな不満が胸をかすめる。
「どこかの誰かが、一気に向こうの売上に貢献するくらい大量に買い込んで行ったらしいからな。屋台の業者も今頃ウキウキで店を回しているだろう」
「大量?」
「あぁ。男女二人だけで持ち切るには到底不可能なほどの量を買い込んで行ったらしい。おそらくクラスの連中と分け合って食べる用として買っていったんだろう」
「へー」
男女二人きりで、クラスのみんなのために賑やかに買い出し。
きっとすごく仲の良いお似合いの組み合わせなんだろうな。
あるいは、甘い雰囲気を漂わせたカップルなのかもしれない。
どちらにしても、私も雅貴と一緒にあの活気溢れる屋台街を歩いて買い出しに行きたかったな、と胸の奥がキュッと甘酸まく痛む。
もしも目の前でこの男が呑気にカレーを平らげていなかったら、自分から「一緒に買いに行こう」って素直に誘えたのに。
「花野。お前は何も食べないのか?」
「……あのねー、女の子に向かってそんなデリカシーのない質問を直球で投げるのは色々と危険だから、今後はやめた方がいいと思うよ?」
「危険? そうなのか? ……分かった、肝に銘じておく。で、何か食べないのか?」
「あんたねぇ……」
正直に言えば、お腹はぺこぺこだった。
流石に早朝から生徒会役員として運営に追われ、グラウンドを走り回っていたのだから、お腹が空いていないはずがない。
けれど、雅貴の前で「お腹が空いた!」とがっついて、たくさん食べる女の子だと思われて引かれるのも恥ずかしい……なんて乙女心を抱いたのだが。
よくよく考えたら、こんな無頓着でノンデリな野郎がそんな細かい女の子の羞恥心に気づくはずもないか、と思い直す。
私は諦め混じりの溜め息をつき、右手でこめかみを押さえながら、それ以上口から出かかった文句を飲み込んだ。
「……食べようかな。おすすめのお店とかってあるの?」
屋台の誘致を企画し、業者との交渉まで突っ込んで仕切った本人である雅貴ならば、出店している店舗の中でどこが一番人気で、どこが美味しいのかという情報くらい一つや二つ知っているかもしれない、と私は踏んだのだ。
なにせ、直接オファーを出した張本人なのだから。
「おすすめか……。今の気分とかはあるか?」
「気分? うーん……何でもいいかな」
私はあえて、彼を困らせるような大雑把で曖昧な言い方をしてみせた。
普段、彼の突飛な思いつきや無茶振りに散々振り回されっぱなしなのだ。
いきなりの暴走行動、その後の後始末、急な呼び出し……思い出すだけでも頭が痛くなって疲れが込み上げてくる。
だからこそ、たまにはこの男にも少しだけ頭を抱えて困ってもらいたいという、ささやかな反抗心が持ち上がったのだ。
決して意図的な意地悪をしたいわけではなく、本音を言えば、彼が私のためだけにうーんと眉根を寄せて悩むその顔が好きだから。
ま、好きな人を困らせて構いたくなってしまうという意味では、十分すぎるくらい意地悪な感情かもしれないけれど。
「何でも、か……」
私の意図通り、雅貴はわずかに視線を落として思案の仕草を見せた。
整った顔立ちの顎に細い指先を当て、静かに下を向く。
そうそう!
悩め悩め!
私のために、精一杯頭を悩ませなさい!
そんな風に優越感に浸りながら彼の表情を見つめていたのも束の間、雅貴は一瞬の迷いもなく、すぐに顔を上げた。
「一つ、ぴったりな素晴らしい店がある。場所を教えるから自分一人で行くか? それとも、俺がそこまで連れて行こうか?」
一筋の隙もない、私にとってこれ以上ない願ってもない答えが返ってきた。
こうなってしまえば、彼が選んだお店が何であろうとどうでもよかった。
ニンニクが大量に効いたガッツリ系だろうが、舌が痺れるような激辛料理だろうが、あるいはこの際クソ不味い料理だったとしても何の問題もない。
私の口から飛び出す答えは、最初からただ一つに決まっていた。
「連れてって!」
「分かった。じゃあ、行こう」
――――――――――――――――――――――
「くっそ。何で俺が買い出しなんだよ」
「しょうがないじゃん。うちらジャンケン負けたんだし」
昼休憩の到来を告げる無機質なアナウンスがスタジアム全体に流れるや否や、すぐさま一ノ瀬が「ジャンケンしよ!」と大声を張り上げて周囲を巻き込み、あれよあれよという間にこの惨状へと至っていた。
無情にも叩き出された結果は、俺と佐伯の完全敗北。
こうして現在、俺たちは仲良く二人きりで、猛暑の残る陽射しの下、クラス全員分の昼食の買い出しへと駆り出されているわけだ。
……ふざけんなっ!
なんで貴重な昼休みにこんな大役を引き受けなきゃならないんだ!
「そもそも、あいつらが食べたいなら自分で買いに行けばいいだろ?」
「でも、白河は拒否せずに自分から手を差し出した。なら、文句は言えない……でしょ?」
「それは……そうだな」
整った顔立ちをちょこんと傾け、澄んだ瞳でじっと見つめてくる佐伯の視線に気圧され、俺はぐうの音も出なくなって今の理不尽な状況を認めるしかなかった。
ま、まあ……あんな喧騒の待機場所でむさ苦しい野郎どもと丸くなるよりは、こうして佐伯と二人で風を感じながら歩くのも、決して悪くはないのだが。
「で、あいつらに頼まれたのって具体的に何なんだ?」
「えーっと……『まだ食べてないやつ!』だってさ」
手元のスマートフォンを覗き込んでいた佐伯は、一ノ瀬から送られてきたであろう大雑把なメッセージをそのまま口にした。
送ってきた人物が、見ずとも一ノ瀬琥珀だと即座に理解できたのは、メッセージを読み上げる佐伯の声真似が、思いのほかそっくりで妙に特徴を捉えていたからだ。
「食べてないやつって……雑すぎるだろ」
「適当でいいんじゃない?」
「後から『これじゃない!』って怒りそうじゃないか?」
「大丈夫だよ適当で。あの琥珀のことだし、美味しい食べ物さえ目の前に出されれば何だって喜ぶから」
親友である佐伯がそこまで自信満々に言うのであれば、きっと大丈夫なのだろう。
万が一、文句を言われたとしても俺は一切の責任を取らない。
決して、だ。
「にしても、想像以上に凄いな。これ、ほぼ祭りじゃねぇか」
スタジアムのコンクリート通路にチラホラと数軒並んでいる程度かと思いきや、朝の静けさとは打って変わり、ピークを迎えた昼時ともなれば外の広場にまで色鮮やかな屋台が所狭しと立ち並んでいた。
スタジアム内部の屋台はあらかた一ノ瀬の胃袋に収まっただろうと推測した俺と佐伯は、外に広がる屋台街の盛況ぶりを目にして、敷地の外へと足を延ばすことにしたのだ。
香ばしいソースの匂いと甘い砂糖の香りが、初夏の熱い風に乗って鼻腔をくすぐる。
「これじゃあ、たまたま通りかかった人達がお祭りだって勘違いしちゃうね」
「いや、実際勘違いして入ってきてる奴もいるんじゃねぇか?」
外の屋台エリアは、熱気と人混みで埋め尽くされていた。
開会式の段階から観客の数は相当なものだったのだ。
なにせ、この体育祭は一般入場が完全無料という太っ腹な仕様になっている。
近隣の住民や通りすがりの観客たちも、美味しそうな匂いに誘われるようにして昼ご飯を求めて買い出しにやって来る。
だから当然、一歩足を踏み入れれば身動きが取りづらいほどの人山となっていた。
スタジアムの外をふらりと通りかかっただけの一般人が、何ごとかと覗き込んでそのまま祭りの輪に巻き込まれていたとしても、何らおかしくはない光景だ。
「白河! カステラ! ベビーカステラがある!」
「お、おう……」
それまで隣でおとなしく歩いていた佐伯が、突如として幼子のようにテンションを爆発させたため、俺は盛大に動揺してしまった。
普段の冷徹で完璧な印象からはほど遠く、カステラというワード一つで瞳を輝かせてはしゃぐ佐伯の姿は、まるで遠足に来た小学生のようだ。
そのギャップがあまりにも可愛らしく、胸がふっと温かくなる。
ぴょんぴょんとその場で小さくジャンプしながら、甘い匂いを漂わせるカステラの黄色い看板を指差す佐伯に対して、俺は思わず苦笑いを浮かべながら「はいはい」と彼女の後ろをついていく。
「いらっしゃい! 兄ちゃんに姉ちゃん、サイズはどれにする?」
威勢のいい声とともに、ねじり鉢巻きをしめた店主のおじさんが、店頭に見本として飾られている透明なビニール袋をポンポンと指差した。
そこには大・中・小という三種類の大きさの袋が整然と並べられており、焼き立ての黄金色のカステラがぎっしりと詰まったイメージを膨らませていた。
「大二つと小一つ下さい!」
「え? おいおい、そんなに買うのか?」
威勢よく注文をかます佐伯に、俺は思わず二度見ならぬ三度見をしてしまった。
この店の大サイズは約五十個入り、小サイズでも約二十個入りだ。
計算すると合計で百二十個近くになる。
まさかとは思うが、こいつ一人で百個以上のカステラを平らげるつもりなのだろうか。
もしそうなら、あの一ノ瀬と同等かそれ以上の底なし胃袋を持つ化け物ということになってしまうぞ。
「……まさか一人で全部食べるって思ってる?」
「え、あぁ。一瞬そうかと……」
「琥珀じゃないんだから! 大はクラスの皆で分ける用!」
なるほど、そういうことか。
考えてみれば当然である。
いくら祭りのテンションだからといって、育ち盛りの高校生が昼ご飯をベビーカステラだけで終わらせるはずがないのだ。
「なら、小は?」
「ん? それはうちが食べるの」
佐伯はホカホカの袋を受け取りながら、店主のおじさんに「ありがとうございます」と可愛らしくお礼を言った。
「わぁ、美味しそう……」
小袋の口を少し開け、中を覗き込んだ佐伯はふふんと嬉しそうに鼻を鳴らした。
焼き立ての香ばしい生地から漂ってくる濃厚なミルクの甘い香りと、ほんのり焦げたような香ばしさが、鼻腔を通ってお腹の虫を猛烈に刺激してくる。
「……いる?」
カステラを熱心に見つめていた俺の視線に気づいたのか、佐伯は袋の中から黄色い丸っこい粒を指先で一つ摘み上げ、こちらに向かって尋ねてきた。
「いいのか?」
「いいよ。元々二人でつついて食べようと思って買ったんだし」
「まじか。じゃあ遠慮なく貰おうかな」
なんて気の利く親切なクラスメイトなんだろうと感心しつつ、俺はご好意に甘えて手のひらを差し出した。
「違うよ。口開けて」
「は?」
手のひらではなく口を開けろという謎の要求に、俺の口が疑問符とともに「あ」の形でぽかんと開いた。
次の瞬間――その一瞬の隙を見逃さず、佐伯の手が素早く伸びてきて、俺の口内に焼き立てのカステラが容赦なく捩じ込まれた。
「おい! なにふんらお(何すんだよ)!」
「ふふっ、仕返し!」
口いっぱいに広がったカステラを必死に咀嚼しながら抗議する俺を見て、佐伯は目尻をくしゃっと下げて悪戯っぽく笑った。
「意味わからねぇよ……!」
なんとか飲み込んでから文句を吐き捨てるが、一体何の仕返しだと言うのだろうか。
まったく見当がつかない。
体育祭の最中、こんな大勢の人が行き交う白日の下で、女子に直接「あーん」で食べさせられる羽目になるなんて何の拷問だ。
てか、一回で三つくらいまとめて口の中に放り込みやがったな!
口の中の水分が持っていかれるわ!
「たくっ……こんな事してる暇ないだろ? 俺たちは買い出し係なんだから、早く色々買って戻らないと行けねぇんだからさ」
照れくささを必死に隠すため、俺はあえて少し冷たく、正論で突き放すような言葉を口にしてしまった。
「……嫌だった?」
――なっ……んだ、それ。
一瞬で場の空気が凍りついた。
目の前にいるのは本当に、あの強気で完璧な佐伯莉愛なのか?
さっきまでの悪戯っぽい笑顔は影を潜め、佐伯はキュッと唇を噛み締めながら悲しそうに視線を下に落とした。
長い睫毛の奥で、その澄んだ瞳がどこか薄っすらと涙ぐんでいるように見えたのは……俺の気のせいだろうか。
自分の投げかけた素っ気ない言葉が、予想以上に彼女の心を傷つけてしまったのだろうかという激しい罪悪感が胸を突き刺す。
ドクン、と心臓が跳ね上がった。
不覚にも、この瞬間に目の前の佐伯莉愛という存在を、単なる「悪友」や「クラスメイト」としてではなく、とてつもなく魅力的で守りたくなるような「一人の女の子」として強く認識してしまった。
脳内がパニックを起こし、俺は心の中で全力で自分自身に平手打ちを食らわせた。
落ち着け白河!
勘違いするな、相手はあの佐伯だぞ! と。
だが、真っ赤になって俯く彼女の華奢な肩から目を逸らすことが、どうしてもできなかった。
「い……嫌とかじゃなくて! 決してそういう訳じゃッ! とにかく早く買い出しを済ませて——」
「驚いたな。まさかお前たち二人も、こんな所でカステラを買いに立ち寄っていたとは」
慌てふためく俺の言葉を強引に遮るようにして耳に届いたのは、背後から響く氷のように冷たく落ち着き払った声だった。
聞き覚えがありすぎるその低音に、俺の背筋は一瞬で氷漬けにされたかのように凍りつき、悪寒でブルッと震えた。
おそるおそる恐ろしい気配のする方へと振り返ると、そこに立っていたのは我が校の絶対的権力者である如月会長と、その隣に並ぶ生徒会副会長の花野先輩だった。
「如月……先輩。どうしてこんな所に?」
「ついでだ。別の店へ向かう途中で、どうしてもカステラが食べたいと騒ぎ立てた奴がいてな」
「ちょっと! 人聞きの悪い言い方はやめてよ。騒いだなんて事実無根でしょ?」
不満そうに口を尖らせる花野先輩。
学園内ではモデル顔負けのスタイルと美貌を持つ超絶美人だと噂には聞いていたが、間近で見ると確かにその噂に一切の狂いはないと思い知らされる。
……というか先輩、カステラ食べたかったんですか。
「雅貴の知り合い?」
「あぁ。先日の文化委員会議の場でな。色々と世話になった」
怖い!
怖いからお願いだからそんな含みを持たせた恐ろしい言い方はやめてくれー!
まるで裏で悪事に巻き込んだかのような言い回し!
言っておくが俺は完全に無関係ですからね!
巻き込まれた被害者です!
会長に余計な「世話」をかけさせた張本人は、俺のすぐ後ろにいるこの佐……伯……?
――ズズズ、ゴゴゴゴゴ……。
突然、地面から地鳴りでも響いているのかと錯覚するほどの、漆黒で禍々しいオーラが俺の背中越しに立ち昇ってきた。
如月会長が発する静かな威圧感とはまた質の違う、より直接的な「殺意」に満ちた恐ろしい圧力が背後からひたひたと押し寄せてくる!
まずい。
圧倒的にまずいぞ。
原因はもちろん、借り物競走でとんでもないお題の仕掛けを食らわされたであろう佐伯の怨念だ。
それに加え、文化委員会議の件もある。
このままじゃ、この平和な屋台街が一瞬で血で血を洗う殺戮の戦場と化してしまう!
「いやー! その節は本当にお世話になりました! あっ! 花野先輩、初めまして! 自分は二年の白河奏と言います! いやー、まさか体育祭の真っ最中に生徒会のトップお二人とお話しできるなんて、いやー本当に光栄で幸運だなーハハハ!」
俺は必死の思いで両手をバタつかせ、わざとらしいほどのハイテンションと大声でその場の空気を覆い隠そうとした。
「あはは、白河君って面白い子だね」
花野先輩は楽しそうに鈴を転がすような声で笑った。
――だが、次の瞬間。
「……で、そんなにマシンガントークで焦って喋ってる理由は、後ろに隠れているその子のせいかな?」
花野先輩の澄んだ瞳が、ナイフのように鋭く俺の背後へと突き刺さった。
口元には華やかな笑みを浮かべたままだというのに、その奥にある瞳だけがまったく笑っていない。
完全に見抜かれている。
なになになに!?
生徒会って一体どうなってんだよ!
揃いも揃って人間の皮をかぶった化け物しかいないのか!?
「いやー、そういう訳じゃ……ッ! 痛ッ! え?」
白々しい笑顔を貼り付け、必死に口を回してこの場の地獄のような空気を誤魔化そうとしていた矢先、俺の身体が横から力強い力で力任せに押し退けられた。
「さ……佐伯?」
「……」
佐伯は俺の問いかけに答えるどころか、一切の言葉を発することなく如月会長の正面へと踏み出した。
そのまま、一切の揺らぎもない鋭い眼光で会長を真っ向から睨みつける。
おいおい、さっきまで「嫌だった?」なんて泣きそうになりながら顔を赤くしていた儚い女の子は一体どこへ行ったんだ!?
今俺の目の前で殺気を撒き散らしているのは、獲物を前にした猛虎か何かか!?
「久しぶりだな、佐伯莉愛」
「……」
「あー! 雅貴が世話になったって言ってた下級生ってこの子のこと!? へー!」
な、何なんだこのカオスすぎる構図は!
甘い匂いが漂うベビーカステラの屋台の真ん前で、生徒会長の如月先輩と佐伯がバチバチと火花を散らして睨み合い、そのすぐ横ではモデル級美女の花野先輩が興味津々といった様子で見つめ、俺はその異様な三人をただただオロオロと眺めることしかできない!
頼むからもうやめてくれー!
ほら! 周りの一般客や生徒たちも「何だ何だ?」ってめちゃくちゃ注目して見てるよ!
ただでさえ目立つメンツなんだからこれ以上目立つのをやめてくれ!
あと花野先輩、さっきから目がチラチラとカステラの袋に向いてますよ!
あなたどんだけカステラ食いたいんだよ!
「……あんたに一言、言いたい事があるんだけど」
佐伯は目の前にそびえ立つ学園の絶対権力者を前にしても、姿勢ひとつ崩さず、態度を改める気配すら見せない。
その口から漏れ出たのは、地底から響くようなドスの効いた低い声。
さっきまでの美少女ぶりはどこへやら、今の彼女は完全に向こう見ずなヤンキーそのものだった。
「それは佐伯莉愛、君が先ほど出ていた競技の件についてか?」
「あのー……。会長、佐伯さん? 人目もありますし、一旦ここら辺で会話を打ち切って——」
「やっぱりね。あんたの仕業だったんだ」
あっ。
ダメだコレ。
完全に俺、蚊帳の外に放り出されてる。
俺の必死の制止の声なんて、今の二人には一デシベルも届いていない。
「確か君の引いた借り物競走のお題は……。なるほど、君が白河を連れて引いたカードは……それで、か」
如月会長は俺と佐伯の立ち位置、そして二人が一緒にいる状況を一瞬で洞察し、すべてを察したように意味深に頷いた。
「残念。大外れ。コレはじゃんけんに負けたから、買い出ししてる途中でーす」
佐伯は冷ややかな声でバッサリと切り捨てた。
……というか、話の全貌がまったく見えない!
なぜこの二人はここまで一触即発の火花を飛ばし合っているんだ。
理由が皆目見当もつかない。
ふと隣の花野先輩の方へ視線を向けると、先輩もまた「何が起きてるの?」と言いたげな、疑問符でいっぱいの表情を浮かべていた。
どうやらこの不穏な空気の意味を理解しているのは、渦中の佐伯と如月会長の二人だけのようだ。
「ねぇねぇ、白河君。これって何の話をしてるの?」
花野先輩が身を乗り出し、ヒソヒソ声で俺に耳打ちしてきた。
「いや、俺にも正直サッパリ分かんないです。ただ、前回の文化祭実行委員会議の時、佐伯が会長に派手に喧嘩を売っちゃったことがあって……」
「あはは、その話なら雅貴からチラッと聞いたことあるけど、マジだったんだ」
今目の前で繰り広げられている怒号直前の睨み合いを見れば、あの時に佐伯が会長相手に暴走したという噂も容易に想像できるだろう。
「でも、雰囲気的にその時の話だけじゃないよね?」
「はい……。俺にも何が何だか——」
「とにかく! うちはあんたにデコピン一発食らわせないと、絶対に気が済まないから!」
『……デコピン?』
その場にいた俺、花野先輩、そして当の如月会長を含めた全員の声が見事にハモり、呆然とその単語を反復した。
今にも胸ぐらを掴んで殴りかかりそうなほどの殺気を放っていた佐伯の口から飛び出したフレーズがあまりにも予想外すぎたからだ。
「そう! デコピン!」
佐伯は右手の人差し指を親指の腹にセットし、限界まで力を込め始めた。
あまりの気迫と執念に、シュンシュンと彼女の全身のオーラが指先一点へと集中し、眩しく発光しているようにすら見えた……気がした。
「お……おい佐伯! ちょっと待っ——」
制止しようと手を伸ばした白河の叫びも虚しく。
バチンッ!!
澄み渡る青空の下、屋台街の喧騒を文字通り一瞬で切り裂くような、凄まじい破壊音が響き渡った。
カステラっておいしいですよね。
祭りに行ったときは帰りに買って家で食べる派です。




