四十七杯目:「莉愛は意外とシャイなんだから!」
あまりにも突飛で疾風怒濤のような出来事の連続に、俺の処理能力はとっくに限界を迎えていた。
学年じゅうの視線を一身に集めるようなクラスの一軍女子が、華やかに競い合う借り物競走。
高みの見物を決め込んでいたはずの俺の背後に、いきなりその中心人物が嵐のごとく現れ、容赦のない勢いで俺の腕を引っ掴んで連れ出したのだ。
視界が目まぐるしく回転し、わけも分からないまま、俺は現在進行形でその――「佐伯莉愛」に強く手を引かれ、スタンドの階段を転げるような速さで駆け下りていた。
「なぁ、佐伯。いい加減教えてくれよ」
「……」
先ほどから何度尋ねてみても、返ってくるのは冷ややかな沈黙だけだった。
借り物競走という競技の性質上、佐伯が箱から引き当てたお題の条件に、この俺という存在が合致していたことくらいは容易に推測がつく。
そして彼女は、観客席にひしめく大勢の人間という選択肢の中から、わざわざ俺を選び出してここに引っ張り出してきたのだ。
であるならば、巻き込まれた当事者として、そのお題の内容を知る権利くらいは少なからず俺にもあるはずだ。
だからこそ俺は、彼女の背中に向かって何度も問いかけを重ねている。
しかし、彼女は終始頑ななまでに口を閉ざしたままだった。
「それからもう手を引っ張らなくていいんじゃ無いか? お前のお題の答えが俺だって事はもう分かったから普通に着いていくぞ?」
「……」
「……なぁ。なんか怒ってるのか?」
「……」
相変わらず、佐伯の細く滑らかな指先は、容赦のない力で俺の手首を固く掴み続けている。
カンカンと乾いた音を立てて階段を降り終えた二人は、日陰になって薄暗く静まり返ったスタジアムの裏通路へと足を踏み入れ、一直線に駆け抜けていく。
腕を掴まれたあの瞬間から、彼女は頑なにこちらへ顔を向けようとせず、後頭部と揺れる髪しか見せてくれない。
普段の彼女からは想像もつかないその態度が、なぜだか無性に胸をもどかしくさせた。
それと同時に、俺の知らない何かにひどく立腹しているようにも見えたのだ。
となれば、原因は俺にあるのかもしれない。
無意識のうちに何か失礼なことでもしてしまったのだろうかという不吉な予感が脳裏をよぎる。
「……」
「……」
ひんやりとした裏通路に、二人の荒い息遣いと足音だけが響く気まずい無言の中、俺の頭脳は一つの可能性に思い至った。
「俺、佐伯に何かしちゃったか?」
「……」
「……俺じゃなくてあれか? 会長にキレてるのか?」
「……」
その瞬間、俺の手首を握りしめる彼女の指に、ぎゅっと微かな力がこもった。
それは無意識下における、あまりにも露骨で反射に近い身体反応だった。
人間というものは、自身の内心や本音をズバリと言い当てられた時、どれほど隠そうとしても体の一部に何らかの反応が出てしまう生き物だ。
今の佐伯のように握力が強くなったり、あるいは眉根がピクッと跳ね上がったり。
目に見えない微細な変化で言えば、脈拍が急激に跳ね上がったりと、必ずどこかに動揺の証拠が表出する。
「当たりか?」
「……それも……ある」
ようやく静寂を破ってこぼれ落ちた彼女の声は、どういうわけか小さく震えていた。
それが生徒会長の理不尽な企みに対する激怒ゆえのものなのか、あるいは何か全く別の感情による揺らぎなのか……。
それにしても、「それもある」という含みを持たせた答え方だ。
まるで、会長への怒りの他にもう一つ、もっと重大な理由が存在しているかのような言い回しじゃないか。
その引っかかりが、俺の胸の奥で妙な胸騒ぎを生み出していた。
「ようやく喋ってくれたな」
「……」
「で? お題は何だったんだ」
「……」
「どうして教えてくれないんだよ」
彼女はお題の内容についてだけは、頑固なまでに口を開こうとしない。
ようやく口を開いてくれたことに安堵し、ここぞとばかりに再び尋ねてみたものの、佐伯は途端に元の貝のように固い沈黙へと戻ってしまった。
俺には到底言えないような恥ずかしい理由があるのか、はたまた「お題はゴールするまで口にしてはならない」といった妙な特別ルールでも課せられているのだろうか。
まあ、あの悪趣味な生徒会長の仕業なら、後者のような意地悪いルールを仕込んでいる可能性も十全にあるのが憎めないところだ。
だが、もし後者のルールが原因ならば、「教えられない」だの「ルールだから」だのと突っぱねる言いようはいくらでもあるはずなのだ。
ましてや佐伯は非常に頭が切れる。
クラス内どころか、学年全体で見ても常にトップクラスの成績を誇る秀才だ。
その手の言い回しやルールの穴を突く立ち回りなど、彼女ならいくらでも思いつくに決まっている。
つまり、ルールではなく前者の「俺だから言えない」という個人的な理由こそが正解なのだ。
ならば、教えられないその理由とは一体何だ?
どうして俺にだけは頑なに隠そうとする?
俺に言えない理由――。
……いや、余計な期待を抱くのはよそう。
そんな都合の良い話がこの世にあるはずがないのだ。
自嘲気味に諦めるまでもなく、俺のような男にラブコメのような甘酸っぱい青春の展開が訪れるはずがないのだから。
「……」
「……俺だからか?」
「ッ!」
直後、前を走る彼女の背中が目に見えて大きく跳ね上がった。
さっき見せた指先の力が強まる程度の小さな変化などではない。
今度は隠しきれない小さな呼気が、彼女の唇から明確な音となって漏れ出していた。
図星を突かれた時の、紛れもない動揺の反応。
――どうやら、勘違いでも自意識過剰でもなく、それが本当の正解だったらしい。
「別にどんなお題でも俺は何も思わないぞ? 変な人とか、おかしな人とか、男だからでもいい。くだらないお題でも、悪口が書かれているとかでも、別に何とも思わないから教えてくれないか?」
……。
彼のあまりにも真っ直ぐで、曇りのない優しさに満ちたその言葉が、鋭いトゲとなって胸の奥底に突き刺さる。
彼はただ、純粋に何があったのかを知りたいだけなのだ。
自分だって、もしも立場が逆で、こんな風に突然引っ張り出されたなら間違いなく気になって仕方がなくなるだろう。
ましてや、あんな尋常ではない焦りと羞恥に満ちた連れ出し方をされたのなら、なおさらだ。
知りたいと思うのは当然だ。
だけど。
それでも、どうしても口に出すことなどできない。
……。
口が裂けたって、「うちが心から好きな人だから」なんて言えるはずがない。
もしも仮に、そんな恥ずかしい本心をそのまま彼に伝えたとしたら、彼は一体どんな表情をし、何と思うのだろうか。
――もしかしたら、引かれてしまうかもしれない。
笑われてしまうかもしれない。
そんな最悪の結末を想像するだけで、胸が締め付けられ、熱い涙が一気にこみ上げてきそうになる。
逆に、もし好意を向けられて喜んでくれたらどうだろう。
そんな甘い可能性を頭の片隅で思い描くだけで、足元からふわふわと宙に浮いてしまいそうなくらい、胸の鼓動が激しく跳ね上がってしまう。
……。
どちらにせよ、今ここで言葉にすることはできない。
今のうちには、そんな残酷な現実を受け止めるほどの勇気も、すべてを打ち明ける覚悟も持ち合わせてはいないのだ。
この、彼と並んで歩く関係を壊したくない。
今こうして繋がっている温かい彼の掌の体温も、胸を焦がすこの早まる心臓の鼓動の音も、ずっといつまでも感じていたい。
これ以上踏み込んで、今の優しい空気感を壊したくない。
そう強く願ってしまうのは、私がおかしくなってしまったからなのだろうか。
こんな臆病で情けない独占欲を抱くのは、間違っているのだろうか。
何も分からない。
ただ、彼の隣にこうしていられる時間だけが、今の私にとってのすべてだった。
「ごめん」
今の私にできるのは、ただ絞り出すような小さな声で謝罪を紡ぐことだけだった。
この理不尽な状況に巻き込んでしまった彼に対して、そして今なお好奇の視線を向けているあの一同に対して。
ただただ、申し訳なさと焦燥に満ちた謝罪の言葉を心のなかで繰り返すしか……。
「何で謝るんだよ。佐伯は何も悪い事してないだろ? あっ! 本当に悪口のお題だったのか? だとしたら逆に気になるな」
あぁ、本当に、心から好きだなと思ってしまう。
この、彼の底なしの優しさが滲み出た言葉の響きがたまらなく愛おしい。
決してお前が悪いわけじゃないと、私のプライドや立場を傷つけないように配慮してくれている言い方。
そして、どこか場を和ませようと冗談めかして笑いながら紡ぐその声音。
彼の一挙手一投足、そのすべてが私の目を引きつけて離さない。
一度こうして恋心という名の意識の沼に足を踏み入れてしまったら、もう二度と引き返すことなどできないほど、ずっと、ずっと彼のことばかりを目で追ってしまう。
だけど、だからこそ「本当に悪口が書かれていたんだ」と彼に誤解されるのだけは絶対に違っていた。
本当の決定的な言葉こそ口に出せないけれど、それだけは頑なに否定しなければならない。
「ち、違ッ! 白河の悪口じゃない!」
「違うのか? ならなんだ? うーん」
彼女がこれほどまでに頑なに黙り込んでしまうような、そんな不条理なお題とは一体何なのだろうか。
首を傾げながら、俺は懸命に頭をフル回転させて思考を巡らせる。
——だが、どれだけ脳裏を捜索しても、一切思い当たりやしない。
だって、普段のクラスにおける佐伯の姿を思い出してみれば、こんな風にうろたえたり赤面したりするような人間ではないと確信してしまうからだ。
いつも一軍のグループの中心にいて、周囲を圧倒するほどの冷静さと揺るぎない冷徹さを持ち合わせ、時には面白そうに周囲を翻弄する意地悪な一面も見せる。
やるべき時は誰よりも完璧にこなし、どこか委員長気質の一ノ瀬とも通ずる気高さを漂わせている。
そんな完璧超人のような佐伯が、これほどまでに理性を失い、別人のような変化を見せつけている理由。
その決定的な答えが、どうしても俺の頭では導き出せずにいた。
そんな他愛のない、けれど頭が沸騰しそうな思考のラリーを繰り広げているうちに、私たちの足はついに日差しの照りつけるグラウンドのトラックへと飛び出していた。
目の前に広がるのは、白くまっすぐに引かれたゴールライン。
やるべきことはもう迷わない。
後はあの光の向こう側のゴールテープを切るだけだ。
二人の間にあった気まずさも、高鳴る胸の鼓動もすべて置き去りにするように、残された距離はもはや三十メートルもなかった。
それはほんの一瞬の出来事のように過ぎ去っていく。
風を切り裂くようにして引き裂いたゴールテープの感触とともに、佐伯は、いや、私たち二人は、見事にこの競技の一位の座をもぎ取り、鮮烈な勝利をその手に掴み取ったのだった。
何とか恐れていたお題を周囲に悟られることなく、無事にゴールラインを駆け抜けることができた。
自分の口を一切開かないという、あまりにも強引でゴリ押しなパワープレイではあったけれど、結果として事態は丸く収まってくれたのだ。
あとは、こんな悪趣味極まりない仕掛けを施したあの忌々しい悪魔――あの生徒会長に、渾身の一発を叩き込んでやる仕事が残っているだけ。
……けれど、自分の胸の奥に眠っていた、この切なくも愛おしい本当の感情に気づくことができた今、私の心を取り巻いていた重苦しい霧は、少しだけ爽やかに晴れ渡ったような気がしていた。
言葉にして誰かに伝えることはまだ到底できないけれど、モノクロに見えていた視界が一気に色づき、世界全体が鮮やかな色彩を帯びて輝き出したような、そんな不思議な感覚。
そのきっかけを与えてくれたという点においてのみ、あのクソ会長にもほんの少しだけ感謝してあげないこともない。
やっぱり、殴り飛ばすのはやめて、デコピンくらいにとどめておいてあげることにしよう。
ただし、指先におそろしく全精力を注ぎ込んだ、本気の殺傷能力を秘めたデコピンを脳天にお見舞いしてやらないと気が済まないけれど。
「お、おい……佐伯? なんか黄色いオーラが体を覆ってるぞ?」
「へ? えっ! あっ! 何でも無い。何でも」
一瞬、光の加減か何かのせいで佐伯の美しい髪が黄金色に輝いたように見えたのだが……まあ、さすがに気のせいだろう。
だが、何はともあれ無事に一位という最高の形でフィニッシュできたのだから、結果としてはオーライというやつだろう。
彼女が引いたお題の内容が気になると言えば今でも猛烈に気になるが、本人がこれほど頑なに口を閉ざしたがっているのだから、これ以上野暮に詮索する必要もないはずだ。
佐伯は「俺の悪口じゃない」とはっきりと宣言していたし、彼女が嘘をつく理由もない以上、きっとそれは真実なのだろう。
第一、あの企み深い生徒会長が、コンプライアンスや配慮にうるさいこのご時世に「変な人」だとか、あるいは一瞬だけ俺が都合よく期待してしまったような「好きな人」なんていう甘酸っぱいお題を仕込んでくるはずがないのだ。
どうせ本当のところは「クラスメイト」とか、その程度のありきたりで無難なお題だったのだろう。
そうなると、尚更「俺である必要性があったのか?」という新たな疑問が沸き起こってくるわけだが、あの場面での佐伯も一位を勝ち取ることに必死で、パニックになりかけて切羽詰まっていたのだろう。
とりあえず目の前で間抜けに突っ立っていた俺を、咄嗟の判断で選んだ。
単にそれだけの話なのだ。
うん、そうに決まっている。
愚かな過度な期待を抱くのはやめよう、俺よ。
あの高嶺の花である佐伯に限って、そしてあの性格の悪い生徒会長に限って、そんな奇跡のようなラブコメ展開が起きるはずなど絶対にないのだから。
「一位は二年四組ッ! 佐伯莉愛選手ー! 圧倒的な速さでゴール! お題は何だったのでしょうか! 学園の有名人が引いたお題! 非常に気になりますが内容を聞くのは御法度ッ! 答えは彼女の心の中にしまっておいてもらいましょう!」
大音量のスピーカー越しに響く黒沢の熱っぽい実況を聞いて、俺はようやく自分たちが本当に一位でゴールしたのだという実感をジワジワと胸に染み込ませていた。
借り物競走の「借り物」として、ただ腕を引っ張られて着いていっただけとはいえ、勝利の歓声を浴びるこの独特の感覚はどこか懐かしい。
専門だった陸上競技とはまるで勝手が違うとはいえ、トラックの上で誰よりも早くゴールを駆け抜ける爽快感と嬉しさは、根底で繋がっているような気がする。
まあ、今回はただ佐伯の金魚のフンのように、必死にしがみついて並走していただけなのだが。
「莉愛ァーー! ナイスーー!」
喧騒を突き抜けて俺たちの耳へとまっすぐに届くほどの圧倒的な声量で、一ノ瀬がスタンドの観客席から身を乗り出すようにして叫んでいた。
この競技が始まる直前に彼女が見せたあの容赦のない鬼畜な言動を思い返すと、「一体どういう精神構造をして応援しているんだ」と思わずツッコミを入れたくなるところだが、彼女自身に一切の悪気がないことくらいは俺だって痛いほど分かっている。
それこそが、彼女が誰からも愛される最大の理由なのだ。 これこそが、天真爛漫な一ノ瀬琥珀という少女そのものなのだから。
「琥珀はほっんと琥珀だよね」
フッと柔らかく頬を緩めた佐伯は、愛おしそうな眼差しで一ノ瀬のいる客席へと手を振り返していた。
彼女が呟いたその一言には、「一ノ瀬は相変わらず一ノ瀬らしい」という親愛の意味と、どこか「どうかそのままで、変わらないでいてほしい」という切実な祈りのようなニュアンスが込められている――そんな気が一瞬だけしたのだが、自分たちの待機場所へと戻り着いた頃には、俺の頭からその不確かな直感はきれいに消え去っていた。
―――――――――――――――――――――――――
「おいおい。何だよあれ」
観客席の喧騒が遠くで渦巻く中、目の前で起きたあまりにも予想外すぎる展開に、蓮くんは喉を鳴らしながら動揺を露わにしていた。
急展開すぎる事態に、私だって全く頭の理解が追いついていない。
まぁ、普段から何事に対しても理解できていないことの方が圧倒的に多い私ではあるけれど。
って、何自分で自分にツッコミを入れてるの私!
とにかく、あの莉愛が突然疾風のように現れて、あろうことか白河のことを無理矢理連れ去っていったのだ。
状況から考えて百パーセント借り物競走のお題の影響であることは間違いないけれど、そんな論理的な考察なんてどうだっていいくらいに……。
『あの莉愛が、男の子の手を引いて連れ出した!』
この天地がひっくり返るような衝撃的な事実が、何よりも一番の驚きなのだ。
あの、誰も寄せ付けない孤高の美しさを持つ莉愛が。
以前、みんなで夜遅くまでお泊まり会をした時、恋愛の話題になった途端に一切興味なさそうな顔をしてスルー決め込んでいたあの莉愛が。
学校で男子から何度熱烈に告白されても、「無理」と氷のように冷たい一言だけを言い放って、数々の男子たちのハートを容赦なく打ち砕いてあしらってきたあの莉愛が。
まさかそんな奇跡みたいな出来事が、少女漫画みたいな胸キュンな光景をこの目で見られる日が来るなんて!
明日には絶対、季節外れの大雪が降るに違いない!
「莉愛ちゃんなんか変だったね」
「うん。あんなの見た事ない」
スタンドのベンチに腰かける日葵と珊瑚の不安そうな言葉に、私の心の中の叫びも大きく乗っかっている。
二人と全く同じように、胸の中で言葉にならない期待と動揺がグルグルと渦巻いているのだ。
とにかく、今の莉愛は誰がどう見ても完全な異常事態だった。
「白河君を連れ出したって事は問題が彼についてのことだったんだろうね」
「確かにそうなんだろうけどにしても様子が変だった様な……」
顎に手を当てて静かに分析する冷静な怜君と、その意見に素直に賛同しつつも、どこか引っかかるように首を傾げる日葵。
日葵が抱いた疑問は、莉愛が白河という人物を選んだことそのものに対してではなく、その時の莉愛の見せた尋常ではない様子や雰囲気に対してのものだった。
その点に関しては、私も猛烈に同感だし、同じ疑問を抱いている。
今まで出会ってから一度だって、あんな風に狼狽した莉愛なんて見たことがない。
なんだか必死に怒りを爆発させているような感じでもあったけれど、どこかそれとは微妙に違う、甘い揺らぎのようなものも混ざっていたような気がする。
一体何なんだろう。
私には正解なんて分からないけれど、とにかく最高に変で、最高に怪しかった!
「私も見た事ない!」
「あれじゃね?」
突如として腕を組み、眩しい太陽を背に受けて目を閉じながら、神崎がなぜか無駄にかっこいい仁王立ちのポーズでドヤ顔で言い放った。
「好きな人とかじゃね?」
す、好きな人……。
……。
……。
え?
ええええええええ!?
「嘘ッ! 莉愛が!? 本当に!?」
あの、氷の女王みたいな莉愛に好きな人が!?
それも、よりによって相手が白河だなんて!?
そんな奇跡みたいな大事件、本当にあっていいの!?
嘘ッ!
なんだー!
莉愛、興味なさそうなフリして裏ではちゃんと甘酸っぱい恋愛してるじゃん!
親友なんだから、前もってコッソリ私に話してくれても良かったのにー!
「流石にそれはないよ蓮」
一瞬で脳内ピンク色の妄想を爆発させた私の希望通りのお題ではないと、冷ややかな声音で怜君が即座に否定の言葉を突きつけた。
「ないって?」
「あの会長がそんな事するはずがない」
すました顔で淡々と告げる怜君の言葉の真意が、私にはさっぱり理解できなかった。
どうしてそこまで確信めいた顔で言い切れるんだろう。
あの面白至上主義みたいな生徒会長のことだから、みんなをパニックに陥れるような悪趣味で甘酸っぱいお題を仕込んでいたって、全然おかしくないはずなのに。
「私もないと思うな」
「日葵まで?」
自信満々に胸を張っていた神崎のロマンチックな予想を、怜君だけでなく日葵までもが重ねるようにして否定していく。
「蓮。考えてみてくれ。もしそんなお題だったらこの会場にいる皆が知る事になるだろ?」
「皆って……。まぁ確かに気づく人はいるな」
「そう。もしそうなったらどう思う?」
「俺は……別に何とも思わないけど……」
蓮君は確かに、昔から恋愛ごとなんてこれっぽっちも興味なさそうというのが私の率直でリアルな印象だ。
彼の頭の中はいつだってサッカーの練習や試合の組み立てのことでいっぱいで、放課後に女の子とおしゃれなカフェでデートをするなんて場面は、金輪際想像すらしたことがなさそうである。
けれど、本人の無頓着すぎる態度とは裏腹に、彼は昔からとにかくズバ抜けてモテるのだ。
放課後の校舎裏や誰もいない体育館の陰で、何度も女の子から真剣な表情で告白されている現場を目撃したことがあるし、女子同士の集まりで繰り広げられる甘い恋バナでも、必ずと言っていいほど「憧れの男子」として彼の名前が挙がってくる。
「嫌……とか……恥ずかしいとか思う奴もいるかもな」
「今蓮が思った様に、他の人もそう思うかも知れない。その可能性を考えない人じゃないと思うよ会長は」
怜君の語る論理的な思考は、私にはなんだか少し難しすぎる大人の議論みたいに聞こえた。
私だったら、もし自分の大好きな友達がそんなドラマチックなお題を引き当てて気になる男の子を連れ出していたら、「キャーッ!」って手を叩いて大喜びしちゃうし、最高に楽しくなっちゃうけれど。
とは言っても、これは怜君の言う通り、人それぞれで捉え方がまるで違う個人の感想に過ぎないのだ。
自分のプライベートな感情を大勢の観客の前に晒されるのを嫌がったり、深く傷ついてしまう繊細な人がいるっていうことも、私なりにちゃんと理解できているつもりだ。
ふふん、それくらいの乙女心や人の気持ちの機微くらい、私にだってちゃんと分かるんだからね!
だけど、それとこれとは話が別!
やっぱり白河が莉愛の「好きな人」かもしれないっていう激アツな可能性については、気になって気になって仕方がなくなってしまう!
「いやお前ら! そんな事よりも一位だぞ! 佐伯を褒めるべきだ!」
頭からプシューッと目に見えそうなほどの猛烈な熱気を吐き出し、暑苦しいほどの熱血ぶりを見せる山波の叫び声を聞いて、私はハッと正気に返った。
そうだ、お題の内容が何だったかということ以上に、莉愛があの過酷なレースを制して見事に栄光の一位をもぎ取ってきたという、何よりの偉業を思い出すべきだった。
「そうだね。今はお題よりも暖かく迎えてあげよう」
怜君がそう口にすると、なんだか言葉の裏に含みを持たせた別の意味が隠されているようにも聞こえちゃうけれど、とにかく私のやるべきことは一つだけだ。
大好きな莉愛が無事にここへ帰ってきたら、とびきりの笑顔で一番にハグしてあげようと思う。
これまでの苦労を労うように、ありったけの全力の愛を込めて抱きしめる。
私は心の中で、固くそう決めたのだ。
―――――――――――――――――――――――――
「……た、ただいま」
クラスの待機場所へと足を踏み入れた後、佐伯が最初に口にしたのは、消え入りそうなほど小さなその言葉だった。
熱くなった両頬を隠すように俯き、恥ずかしさと申し訳なさを入り交じらせた表情を浮かべている。
「おかえっりーーー!」
そんな彼女の緊張を一瞬で吹き飛ばすように、弾けた声とともに真っ先に駆け寄ったのは一ノ瀬だった。
距離を詰めるや否や、溢れんばかりの勢いで佐伯の華奢な体に飛びつき、全身でぎゅっと抱きしめる。
「琥珀、痛い痛い……」と苦笑混じりに声を漏らしながらも、佐伯の表情にはふっと柔らかい笑みが浮かんでいた。
無邪気で温かい一ノ瀬の抱擁に、彼女の張り詰めていた心が救われたのは間違いなかった。
その自然な笑顔こそが、何よりの証拠だ。
「にしても、ちゃんと一位を取ってくるのは流石だな、莉愛」
一方的に熱烈なハグを繰り出す一ノ瀬と、それにされるがままになっている佐伯の二人に近づきながら、神崎が感心したように言葉をかけた。
確かに、なんだかんだと言いながらも圧倒的な速さで一位という最高の結果を持ち帰ってきたのは事実だ。
体育祭の総合優勝という大きな目標に向けた、非常に大きな一歩と言えるだろう。
それにしても、抱き合っている時間が妙に長すぎやしないだろうか。
男の俺からすれば、あの女子特有の過剰とも言えるスキンシップの文化はどうにも謎すぎる。
「……すぐに答えが思いついたからね」
一ノ瀬に抱きつかれたまま、佐伯はすっと声音を変えた。
おや?
さっきまでパニック寸前だった彼女の様子とまるで違う。
今はこう……まるで頭の中でパチンとスイッチを切り替えたかのような、完璧な「普段の佐伯莉愛」への早変わりだ。
なお、彼女がそうして言葉を紡いでいる間も、一ノ瀬の満足気なハグが解かれる気配は一切ない。
「確かに一つ目も早かったし、二つ目もすぐにここにきたもんね」
水野が顎に手を当て、競技中の佐伯の動きを回想しながら深く頷いた。
佐伯は競技が始まってすぐに運動器具の倉庫へ飛び込み、バスケットボールを手に取って現れ、その後すぐさま怒涛の勢いで俺たちの待機場所へとやってきたのだ。
箱の中から引いたお題の文字を見たその瞬間に、完璧な答えを脳裏で導き出していなければ、到底成し得ない神業のようなスピード感だった。
「一つ目は部活系のお題って簡単に予想出来るけど、二つ目って何だったの?」
宮本がどこか呑気なトーンで問いかけた。
けれど、その場にいる全員が喉を鳴らすほど気になっていた疑問だ。
真横で手を引かれながら一緒に走っていたこの俺ですら、佐伯のあまりの必死さと異様な雰囲気に圧倒されて詮索を断念したほどのお題なのだ。
俺めちゃくちゃ気になります。
ナイスだ宮本、よくぞ聞いてくれた!
「あー……」
宮本の問いかけを受けた瞬間、佐伯の言葉がわずかに途切れた。
一瞬だけ長い睫毛が小さく揺れる。
だが、彼女はすぐに何食わぬ顔で口を開いた。
「簡単だよ。『最近興味を持った人』、或いは『仲良くなった人』ってお題」
『……はぁぁぁ!!』
次の瞬間、待機場所にいた連中の口から、見事に揃った失望と脱力混じりの大声が漏れ出た。
何を隠そう、そこにいたクラスメイトのほとんどが、脳内で「好きな人」というドラマチックなお題を妄想し、期待に胸を膨らませていたからだ。
最初から「好きな人」説を否定していた九条と水野だけは声を出さなかったものの、どこか心の奥底でそんな甘酸っぱい展開をほんの少しばかり期待していたのは間違いなさそうだった。
やはり、借り物競走という青春イベントにおける鉄板の甘い恋物語など、ただの幻想に過ぎなかったのだ。
——けれど、大騒ぎするクラスメイトたちの喧騒の真ん中で、ただ佐伯莉愛ひとりだけが、冷たい孤立感の中に取り残されていた。
彼女は、真実を伏せ、隠し通すという道を選んだのだ。
否、選んだのではない。
それ以外の選択肢を選ぶことができなかったのだ。
この場で、みんなの前で、そして何より白河の前で、本当のお題を打ち明けることもできたはずだった。
けれど、深く葛藤し、思考を巡らせた末に、やっぱり彼女には言えなかった。
踏み出すための勇気が、どうしても足りなかった。
もし本当のことを伝えてしまったら、今の二人の関係が壊れてしまうかもしれないという恐怖が、彼女の足をすくませたのだ。
だから彼女は、咄嗟に「嘘」をついた。
それは周囲のクラスメイトたちに向けられた嘘であり、同時に、自分の本当の気持ちから逃げるための、自分自身に対する悲しい嘘でもあった。
「なんだー! 期待して損した!」
「損って何よ、琥珀……」
ぎゅっと力強くハグしたまま、悪戯っぽく下から覗き込んでくる一ノ瀬の瞳と正面から視線がぶつかり、佐伯は思わず呆れたような、けれど心底安堵したような笑みをこぼした。
いつもと変わらない無邪気で天真爛漫な一ノ瀬の態度に接して、佐伯の胸を締め付けていた冷たい緊張が、じわじわと解けていくのを感じていた。
――「良かった。まだ……まだ大丈夫」
その胸の内に去来した感情には、一言では言い表せない複雑で多層的な思いが幾重にも重なり合っていた。
自分の本当の想いを悟られずに済んだことへの安堵。
この温かい友人関係や、白河との絶妙な距離感を壊さずに守り切れたことへのささやかな安息。
そしてそれと同時に、本当の気持ちを偽り、自分自身の心にまで鍵をかけて「嘘」をついてしまったことへの、チクチクと胸を刺すような苦々しい罪悪感。
それから――。
様々な思考が渦を巻きながらも、今はただ、この日常が壊れなかった事実にすがりつくことしかできなかった。
「それなら何で俺に言ってくれなかったんだよ」
佐伯のついた口出まかせを聞いて、俺の中で新たな疑問と、拭いきれないもどかしさが首をもたげた。
いや……正直に言えば、ほんの、ほんの少しだけ期待していた自分がいたのだ。
「好きな人」なんていうドラマみたいなワンチャンが、もしかしたらあるんじゃないか、と。
だが、完璧で高嶺の花である佐伯に限ってそんな甘い展開があるはずもないと思い直していたからこそ、すぐさま別のお題なのだと自分を納得させていた。
しかし、まさか明かされたお題がそんなにも単純で、他愛のない内容だったとは。
だったら、なおさら分からない。
どうして走っている最中、あそこまで必死に、頑なに口を閉ざして隠そうとしたのか。
巻き込まれた身としては、その「教えてくれなかった理由」こそが気になって仕方がなかった。
「だって……じゃん」
「ん?」
一ノ瀬の腕の中で顔を俯かせる佐伯の声はあまりにも小さく、グラウンドの喧騒にかき消されてしまって俺の耳には全く届かない。
細い肩がわずかに震え、耳の先端までが鮮やかな朱色に染まっていくのが見えた。
「恥ずかしいじゃん……っ!」
「……恥ずかしい?」
「そうじゃん!『最近興味を持ったからです』とか!『私は仲良くなったと思うからです』とか……っ! そんなの面と向かって口にするなんて恥ずかしいでしょ! ましてや男の子に面と向かって言えるわけないじゃん!」
予期せぬ彼女のリアクションに、俺は思わず目を見張った。
あの、学園内で「氷の令嬢」やら「冷静冷徹な完璧女子」などと影で噂される(令嬢というフレーズ自体は本人の耳には届いていないだろうが)あの佐伯莉愛が、こんなにも余裕を失い、顔を真っ赤にして照れ散らかす姿を見せるなんて。
普段の孤高な雰囲気からは想像もつかない、あまりにも「年相応の女の子」らしい可愛らしい仕草に、俺の頭脳が一瞬フリーズを起こしかける。
女の子なんだから当たり前だろう――そんな極めて当然の事実に、今更のように思い至って目を丸くする俺であった。
だが当然ながら、佐伯の側にも彼女なりの必死な事情があった。
お題の内容そのものはとっさの思いつきでついた「嘘」ではあるものの、彼女の口から出た感情そのものは何一つ偽りのない「本物」だったのだ。
実際に、本人の目の前に立って「あなたが好きな人だから」なんて甘い本音を告げられるはずがない。
恥ずかしくて死にそうになっているのも、心臓が爆発しそうなほど顔が熱いのも、すべて紛れもない真実。
だからこそ、彼女の頬を染める紅潮と焦燥は、演技などではなく本物の乙女心そのものだった。
「莉愛は意外とシャイなんだから!」
真っ赤になって抗議する佐伯の背中をポンポンと叩きながら、一ノ瀬はここぞとばかりに満足そうな笑みを浮かべて援護射撃(あるいは追い打ち)を放つ。
「躓いて転びそうになった時とか、照れてうずくまっちゃうんだからねー!」
「琥珀……ッ! 余計なことまで言わなくていいからッ!」
目の前で繰り広げられる、何なんだこの甘甘で不毛な痴話喧嘩は。
佐伯の真っ赤な額には怒りと恥ずかしさのマークがくっきりと浮かび上がり、それに対して一ノ瀬はいたずらっ子のような邪気のない笑顔でその反応を心底楽しんでいる。
一体全体、どうしてこんなにも話がごちゃごちゃとややこしい方向へ転がっていくのだろうか。
周囲を見渡せば、神崎は「ハハッ!」と腹を抱えて大笑いしており、九条はいつものニコニコとした笑みを浮かべて事たたずまいを見守っている。
水野と宮本は「まあまあ、二人とも落ち着いて」と苦笑しながらなだめに入り、山波に至っては腕を組んで難しそうな顔をしているが何を考えているのかさっぱり分からない。
何なんだ、この収集のつかないカオスな状況は。
こんなにも賑やかでごちゃごちゃ騒ぐのは、応援席ではなく競技中のトラックの上だけにしてほしいものだ。
太陽が頭上から眩い光を注ぎ込み、初夏の風が赤や青のクラス旗を賑やかにたなびかせていく。
この笑い声と熱気の混ざり合った賑やかなワチャワチャ感は、それからもしばらくの間、止むことなく続いた。
青空の下、歓声と青春の熱気に包まれた星城海原学園の体育祭は、まだまだ最高の盛り上がりを見せながら続いていく。
ドラえもんの映画で恐竜のやつがあって(名前忘れました)、その映画に温かい目っていうのが出てくるんですよ。
ドラえもんがすんごい目してて、今僕はその目で佐伯を見つめてます。(意味不)




