↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「クラスのギャル、放課後は喫茶店で不器用マスターやってます。」  作者: 路地裏の猫


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
50/55

四十六杯目:思慕切々

 最初はただの善意からだった。

 本当に、ほんの出来心と言ってもいい。


「ごめん莉愛ちゃん! 借り物競走代わりに出てくれない?」


 クラスの女の子からの一生のお願いとばかりの切実な頼み。

 本来なら、体育祭のプログラムなんて自分の出場種目以外は面倒なだけだ。

 だが、特に断る明確な理由もなく、去年の記憶を引っ張り出してみても、指定された帽子やジャージ、あるいは特定の先生を連れてくるだけの、然程めんどくさくもないただの簡単なバラエティ競技という認識しかなかった。


「え、いいよ」


 だからうちは、二つ返事で了承した。  

 何か裏があるとも思わなかったし、この後に及んで自分が学校中の注目を浴びる特大の罠に嵌まるなどとは、これっぽっちも、特に意識もしていなかったのだ。


「……水野。競技の内容って生徒会長が決めてるのか?」


 白河の、あの嫌な予感に満ちた低いトーンの言葉を言われるまでは。

 あの悪魔のような、人の心を弄ぶことに快感を覚えるクソ会長が考えたプログラム。

 その競技が、去年のようにただ走ってモノを拾うだけの楽で簡単な内容で終わる。

 そんなはずがない。

 絶対にあり得ない。

 アイツがそんな平和な企画を通すわけがないのだ。


「待って待って待って! 日葵! お願い! 嘘って言って!」


 白河の指摘によって全てのパズルのピースが繋がり、頭の先から足の先まで一気に血の気が引いていくのを感じた。

 自分でも驚くほど情けない声だと思った。

 普段のコートの上での冷静沈着な自分なら絶対に発しないような、完全にパニックを起こした裏返った悲鳴。

 でも、それでも誰かに強く否定して欲しかった。

 ただ一言、笑いながら「違うよ、考えすぎだよ」と言ってもらえたらそれで良かった。  

 ——けど、残酷なことに結果は変わらない。


「ッ最悪!」


 自分の出番を待つため、グラウンドへと向かう途中。

 ひんやりとしたスタジアムの裏通路のコンクリート壁に、うちの吐き捨てるような独り言が空しく反響して響く。

 よりによって、何であのクソ会長なの?

 そもそもアイツは生徒会長という立場を利用して、いつも裏でコソコソとくだらないサプライズばかり仕込んでくる。

 最早、今日の運勢が悪かったとか、そういうレベルの運が悪いでは解決できない程の致命的な不運。

 去年のお題は、その辺に転がっているような食べ物や道具だった。

 だが、今年は絶対にそう簡単はいかない。

 普通の借り物で終わりいくはずがないのだ。

 なにしろ、この地獄のデスゲームを考えたのは、あの性格のひん曲がったクソ会長なのだから。


 歩きながら、うちは必死に頭をフル回転させて考えた。

 今から腹痛を訴える?

 いや、嘘はバレる。

 どうやったらこの悪夢のような競技に出なくて済むか。

 必死に考えた。

 しかし、考えれば考えるほど、逃げ道を塞がれている現実に直面し、うちの思考は『いかにして逃げるか』から『一体どんな最悪なお題が出るのか』を推測する生存戦略の方向にシフトしていった。

 得体の知れない恐怖に怯えるよりも、最悪の事態を想定して先に対策をする方が、精神衛生上よっぽどマシだと気がついたからだ。

 コートの上と同じ。

 相手の戦術を読めば、まだ戦える。


「出場選手はこちらに整列して下さーい」


 裏通路を抜け、グラウンドの光が差し込む入り口。

 係員の生徒が声を張り上げているが、極限まで神経が張り詰めている今のうちには、この明るい声でさえ脳髄を直接撫でられるようにイライラする。

 わかっている。

 誘導してくれているこの人は全く悪くないのに。

 完全にうちの八つ当たりだ。

 心の中で毒づいてしまう、そんな心の狭い自分にもさらにイライラする。

 焦りが焦りを呼ぶ、最悪の負の連鎖だ。


「あっれー?」


 苛立ちを必死に深呼吸で抑え込もうとしていたその時。

 背後から、鼓膜にねっとりと絡みつくような、とても面倒くさい聞き覚えのある声がする。

 舌打ちしそうになるのを堪え、声のする方向にゆっくりと顔を向けると、そこには腕を組んでこちらをニヤニヤと見下してくるバレー部の横島がいた。

 横島沙織。

 歩くたびにファサッと揺れる、いかにも運動部らしいポニーテール。

 女子バレーボール部でレギュラーを張っている、うちと同じ同学年の女子だ。

 体育館の入り口や更衣室でよく顔を合わせる間柄だが、決して『仲が良い』わけではない。

 この学園に体育館はニつある。

 しかし、設備は平等ではない。

 片方は天井が高く床のグリップも完璧な大きく新しい体育館で、もう片方は空調の効きも悪く手狭な古い小さい体育館だ。

 大きい方の体育館は、コートを広く取っても二つの部活が同時に悠々と練習できるほどの広大な大きさがある。

 だが、その圧倒的な快適さのせいで、体育館競技の部活同士でいつも使用権の激しい取り合いになる。

 結果として、県大会でも上位に食い込み、学校の看板として明確に成績がいいうちのバスケ部が、優先的に何かと大きい体育館でやることが多い。

 つまり、横島たちバレー部が快適な大きい体育館で思うように練習出来ない主な要因である『うちの部』に対して、彼女はいつも顔を合わせるたびにチクチクと色々嫌味を言ってくるのだ。


 だが、うちはそんな負け犬の遠吠えなど気にしてないし、まともに目にもくれてない。  

 施設を使いたくて悔しいのなら、文句を言う前に死ぬ気で練習をしろ。

 そして、誰の目にも明らかな『結果』を残せばいい。

 学校の予算も施設も、結果を出した者が勝ち取る。

 それが勝負の世界の絶対的なルールだ。

 うちはそれが出来る。

 だからあそこを使っている。

 ただそれだけのシンプルな話だ。


「……」


「莉愛出てたんだー」


 大して仲も良くないくせに、馴れ馴れしく下の名前で呼んでくる。

 この横島という女は、昔からそういう無神経に他人のパーソナルスペースに土足で踏み込んでくるような奴なのだ。

 きっと私生活でも絶対に空気が読めないタイプに違いない。


「代わりにね」


「ふーん。知ってる?」


「何?」


「この競技、今年から変わるらしいよ」


 横島は二組だ。

 確か、田辺?

 それとも田口?

 だったっけ?

 名前の細かいところまでは興味がないから覚えていないが、そんな感じの苗字のクラスメイトが体育祭の実行委員会にいた記憶がおぼろげながらある。

 どうせ、その委員のやつから得意げに色々裏情報を聞き出したのだろう。

 優越感に浸りたくて、うちにわざわざマウントを取りに来た魂胆が見え見えだ。


 しかし、情報戦という意味ではそれはうちだって全く同じ状況だ。

 生徒会役員である、うちの最高に可愛くて賢い大親友の日葵から、すでに『今年からルールが変わる』という不吉な事前通達はしっかり伝えられているのだから。

 悪いけど、あんたなんかの薄っぺらい情報網に、うちは負けてないもん。


「へー。そう」


 心の中の子供っぽい対抗心は一切顔に出さず、うちはあえて全く知らないフリをして、見事なまでに温度のない塩対応を返した。

 ここで「知ってる」と張り合っても面倒くさいマウント合戦になるだけで、真面目に付き合うだけ無駄だからだ。

 これまでも幾度となく、この手のアプローチには氷のように冷たく対応し続けた。

 部活の貴重な思考時間を割いてまで、こんな次元の低い煽り合いに付き合うのは人生の時間の無駄だからだ。

 でも、横島はどれだけ冷たくあしらわれても、懲りずにこうしてネチネチと突っかかってくる。

 メンタルだけは無駄に強靭らしい。

 だから、うちも絶対にこの鉄壁の塩対応は変えない。


「出場する選手にお伝えする事があります!」


 横島との不毛なやり取りを遮るように、整列するうちら全選手の前に立つ委員の係の人が声を張り上げた。

 そして、バインダーを手にした別の係員が、列を回りながら一人ずつ何やら小さなものを渡していく。


「……紙?」


 うちも手渡された一枚の紙を受け取った。

 手のひらに収まるほどの、二つ折りにされた小さな紙切れ。

 これが、運命を分けるお題だというのか。


「今配った紙はお題です。今年は二回借り物をしていただきます!」


「二回?」


 係員からの衝撃的なアナウンスに、選手内でざわめきとどよめきが同時に起きる。  

 当然の反応だ。

 借り物競争なんて普通一回だけ走って終わりだからだ。

 現に去年もそうだったし、過去の体育祭の記録だってずっとそうだった。


「お題の内容は今確認していただいて大丈夫です。ゴールの際必要になりますので必ず持っていてください」


 やっぱり、今年のルールは根本から変わってる。

 走り出す前に、先に内容を見ていいなんていくらなんでも簡単すぎる。

 スタートの号砲が鳴る前にターゲットの目星をつけられるのだから、対策し放題じゃないか。

 ……おかしい。

 ほんとにあの、性格のひん曲がった悪魔のようなクソ会長が考えたの?

 あいつがこんな、選手側に圧倒的に有利で親切なルールを敷くなんて、絶対に裏があるはずだ。


「莉愛ちゃんの紙にはなんて書いてたのかな?」


 うちが警戒心を強めていると、隣からベタベタとまとわりつくような嫌味ったらしい言い方が飛んできた。

 おまけに、少し背を屈めて下からねっとりと、うちの手元の紙を覗き込もうとする不躾な顔。

 うわぁ……。

 ドン引きだ。

 絶対に友達いないでしょこの人。


「別に言う必要ないでしょ」


「気になるじゃんー? あれかな? す、き、な、ひ、ととかー?」


「それはそれは残念」


 バカバカしい。

 コンプライアンスが叫ばれる今の時代に、そんな露骨にプライバシーに踏み込むようなセクハラまがいの内容が出るはずがない。

 いくら悪ふざけが好きでも、保護者から色々クレームが来て大問題になる可能性がある事を、計算高いあのクソ眼鏡(生徒会長)が軽はずみにするわけがないのだ。

 ちなみに、うちが今こっそりと開いた紙に書いてあった文字は「部活で使う物」だった。  

 十八分の一の確率の中で、中々いい最高のお題を引き当てたのでは?

 と、自分の強運を盛大に賞賛してあげたい気分だ。

 これなら、このスタジアムの何処か、それもバスケ部の後輩や同級生が固まっている観客席の近くに絶対にある。

 ボールでもシューズでも何でもいい。

 簡単だ。

 これなら余裕で一着をもぎ取れる。


「さぁ! 続いての競技は借り物競争ォー! 先程までの数々のデットヒート! 今回も競争なので容易に想像できます! 名勝負を期待しましょう!」


 色鮮やかに染まる青空の下、広大な競技場全体へと波及するように、黒沢のハイテンションな実況の声が響き渡っていた。

 膨大な数の観客たちが発する熱気と歓声が地響きのように重なり合い、足元のコンクリートさえも微かに揺らしているかのような錯覚を抱かせる。


「ざんねーん。精々二位を目指して頑張ってねー莉愛ちゃん」


 皮肉げな笑みを浮かべた横島が、すぐ隣から鬱陶しい声を投げかけてくる。


「……」


 この不愉快な女に今後一切話しかけられなくなるという点においてのみ、うちは、先ほどからスピーカー越しに耳障りな実況を続ける黒沢という存在に心底からの感謝を捧げたい衝動に駆られていた。


「さぁ! お待たせいたしました! 選手入場です!」


 再び響き渡る黒沢の甲高い声に背中を押されるようにして、うちらは重い一歩を踏み出す。

 眩いまでの陽光が照りつける暗い入り口から一歩外へと抜け出した瞬間、澄み切った開放的な空気が、全身を包み込むように吹き抜けた。

 だが、その爽やかな風すらも、これから待ち受けているであろう過酷な地獄を予感させるだけで、うちの胃の腑を締め付け、胸やけのような不快感を呼び起こす。


 入場してからの流れは、まるで泥の中を歩くような現実感のなさを伴いながら、一瞬のうちに過ぎ去っていった。

 あっという間に所定の位置へと整列させられ、冷徹な審判の声に促されるままスタートの合図をただ待てと命じられる。

 ほんの少しでいいから息を整える時間くらい寄こせよ、という喉まで出かかえた激しい怒りと焦燥感が、かえってうちの頭脳を氷のように冷徹なまでの冷静さへと引き戻していく。

 

 落ち着け。

 深呼吸をするのだ。

 幸いにして、最初のお題というものは、往々にして単純かつ簡単な物であると相場が決まっている。

 周囲のライバルたちは、既に自分のもとへと突きつけられた理不尽な運命に翻弄され、不吉なはずれくじを引いてしまったかもしれない。

 大体において、うちらが所属するクラスが掲げている絶対の目標は、栄えある「総合一位」の座だ。

 その高みへ到達するためには、うち自身が誰よりも抜きん出た好成績を残し、確実にポイントを稼ぎ出すことが必須条件となる。

 余計な思考は切り捨てろ。

 ただ目の前の課題をこなすだけだ。

 ただ、忠実に、機械のように遂行するのだ。


 スタートの合図を待ちわびるそのわずかな時間が、鉛のように重く、途方もなく長く感じられた。

 張り詰めた静寂が、うちらの心拍数を否応なしに跳ね上げ、極限までの緊張を誘発していく。


 ......。

 ......。

 ......。

 ......バンッ!


 乾いた破裂音を合図に、うちは全身の全筋肉へと一気に爆発的な力を漲らせ、力強くタータンの地面を蹴り飛ばした。

 まさか、あんな奴の、白河の気まぐれとも思えるくだらない教えが、こんな極限の場面でこれほどまでに生きることになるとは思ってもみなかった。

 脳裏で瞬時に計算を巡らせる。

 最初のお題は部活で使う物。

 うちの中での答えは、スタートの号砲が鳴るよりも遥か以前に導き出されていた。

 ボール。

 できれば、取り回しやすいバスケットボールがいい。

 ここはスタジアムだ。

 バスケ部の誰かに頼るのもいいが倉庫くらいあるだろう。

 運動器具の倉庫の場所なんて、この手の施設であればどこにだって備わっているに決まっている。

 仮になかったとしても倉庫になら何かしらはあるはずだ。

 致命的な事態に備えた代替案の構築も決して怠らない。

 周りはバラバラに散った。

 知ってる。

 皆違うお題なのだから当然だ。

 他人の動きに惑わされるな。

 気にしない。


 倉庫の場所。

 そんなの大体スタジアムの裏にあるでしょ。

 一目散にスタジアムの裏に向かった。

 裏に入った瞬間、「倉庫」と書かれた看板が見えた。

 ついてる。

 今日のうちは運の女神に愛されているらしい。


 すぐに扉をあけ、中に飛び込んだ。

 一番最初に目に入った物。

 これまたついてる。

 バスケットボール。

 なんでこのスタジアムにあるのかはこの際どうでもいい。

 今はすぐにこれを持って走りに行くだけ。

 後は......。


 ……最悪だ。


 疾走する足音と自身の荒い息遣いが鼓膜を打つ中、走る最中にハッと重要な事実を思い出した。

 そういえば、まだもう一つ、この競技には避けて通れない過酷なお題という関門が残されていたのだ。

 視線の先、競技場のコース中央に無慈悲に鎮座する、いかにも怪しげな一つの箱。

 あんな悪趣味な仕掛け、どう考えてもあの外道でクソバカな生徒会長の企てた悪辣な嫌がらせに決まっている。

 あの男がこの状況で仕掛けてくるとすれば、あの箱の中身を使った理不尽な試練に違いなかった。

 因縁から相手の思考回路など手に取るように痛いほど分かる。

 疑いようのない確信が、焦燥感とともに胸の内で膨れ上がっていく。


 灼熱の太陽光が照りつけるコースを猛然と駆け抜ける途中、喧騒の向こう側から、聞き慣れた親愛なる友の声が耳朶を打った。

 「莉愛だ!」と、うちを呼ぶ琥珀の声が、風に乗ってはっきりと聞こえた気がした。

 ごめん、琥珀。

 たとえ今、うちの名前を呼んで応援してくれていたとしても、今のうちにはそちらへ意識を割く余裕のかけらも残されていない。

 今は、ただ目の前の試練を突破することだけが全ての優先事項だった。


 ――この目の前に立ちはだかる箱から、いかにして最も手間でなく、かつ確実な「簡単なお題」を引き当てるか。

 その一点のみに、私の全神経と全リソースを集中させる。

 震えそうになる指先を懸命に抑え込みながら、箱の中へと手を伸ばす。

 ゆっくりと。

 あくまで慎重に、しかし一刻も早く。

 箱の暗がりの中へと手を入れる。

 指実に、無造作に放り込まれた幾枚もの紙片がカサリと触れる冷たい感覚が伝わってきた。


 どれだ?

 どれを引けばうちはこの地獄から最短で抜け出せる?

 どれが一番、今のうちにとって救いとなる正解の紙?

 どれが最も簡単で、無駄な体力を消費せずに済むお題なの?


 焦燥に駆られながら、指先で中の紙を必死にかき混ぜる。

 かき混ぜる。

 かき混ぜる。

 少しでも当たりを引き当てようと、視線を宙に向けたまま指先の感触だけに全意識を研ぎ澄ませた。


 だが、うちらに残された猶予は残酷なほどに少ない。

 ぐずぐずと悩んでいる時間など、一秒たりとも存在しないのだ。

 背後からは、うちを追い抜こうと血走った目を剥いた他の競技者たちが、地鳴りのような足音を立てて次々に迫り来てきている。

 もしここで最悪のハズレ、あるいは常軌を逸した難問を引き当ててしまったら、それだけで致命的なタイムロスを背負うことになる。

 だからこそ、なおのこと躊躇している暇などなく、一刻も早く自らの手で引き抜かなければならなかった。


 覚悟を決め、思い切って指に引っかかった一枚の紙片を強くつかみ取り、一気に箱の外へと引き剥がす。

 丸められた、あるいは折り畳まれたその小さな紙の束をめくる――その単純な動作ですさえ、今のうちにとっては針のむしろに座るような凄まじい勇気を必要とした。


 クッソ……!

 一体、なんでうちはこんな理不尽な苦痛と屈辱を味わいながら、ただの学校行事であるはずの体育祭を生き延びなきゃならないのか!


 震える指先で、意を決してペラリと紙をめくる。


 ――そこに記された無慈悲な文字を視界に入れた瞬間、うちのたった一つの希望は木端微塵に打ち砕かれ、絶望的な現実の答えが脳裏に叩き込まれた。

 否、あまりにも不条理すぎて、’分かってしまった’という事実そのものがうちの理性を焼き切っていく。


 ......。


「莉愛ー! 一位とってねー!」


 先ほどよりも格段に近く、今度は濁りのないクリアな響きとして、その声はうちの耳の奥底へとハッキリと届いた。

 間違いなく、うちを気遣ってくれている親愛なる琥珀の声だ。

 こんなにも精神的にも肉体的にも辛い極限の思いをしているというのに、よりによって呑気に声援を送ってくるなんて、琥珀と来たら一体どういう神経をしているのか――と、ほんの一瞬だけ理不尽な八つ当たりめいた感情が湧き上がったが、そんな可愛らしい怒りなど、手元の紙に書かれた地獄のような内容の文字を目撃した瞬間に霧散した。

 先ほどの感情など比較にならないほど巨大で悍ましい、別の凶悪な怒りによって完全に押し流されてしまったのだ。


「……ッ! ふざっけんなよ、あのクソ会長が……ッ!」


 絶対に許さない。

 この身に刻まれた屈辱と理不尽の借りは、形を変えて必ずあの男の頭上に百倍にして叩き返してやる。

 絶対に、だ!

 ぜぇーーーーーーーッたいに、その身を後悔の底に沈めてやるからな!


 我が身の不運を呪いながらも、心の中で全宇宙のあらゆる罵詈雑言やこの世のありとあらゆる呪詛の言葉を総動員して、あのクソバカでキモい生徒会長へと浴びせかけ続ける。

 そうして怒りで沸騰しそうな頭を押さえ込みながら、紙に書かれた条件を満たすために導き出された唯一の「正解」の場所へと、うちは再び殺気を孕んだ足取りで猛然と駆け出した。


 なんで。

 よりによって。

 どうして、うちのお題がこんな……!


 グラウンドの喧騒から少し離れた、四組の待機場所へと続くコンクリートの階段を上りながら、うちは自身のあまりにも不運すぎる巡り合わせを心の底から呪い続けていた。

 照りつける初夏の太陽がジリジリと肌を焦がし、焦燥感で湿った背中を熱い風が撫でていく。

 やがて一段飛ばしで階段を登り切り、最後の一歩を力強く踏みしめた。

 ガツン、と予想以上に大きな足音が静まり返った空間に響き渡る。

 その瞬間、周囲にいたクラスメイトたちの視線が一斉にこちらへと向けられた。


 ――やらかした。

 こんな衆目の一切が集まる最悪の状況で、あのあいつを、よりによって白河をここから連れ出すだなんて……?

 無理、無理、無理!

 そんなの正気の沙汰じゃない!

 恥ずかしさのあまり、今すぐこの場で地面に穴を掘って埋まりたいほどに顔から火が出る思いがする。

 で、でも! クラスの総合一位という栄光と、これまでの努力の成果がかかった順位が!


 頭の中で、理性と羞恥心が激しくせめぎ合う究極の二択が轟音を立てて暴れ回る。


「莉愛!?」


「......」


 葛藤の末に、うちが選んだ答え。

 それは、全ての問いかけを断固として拒絶する「黙秘」だった。

 今ここで何を言われたってまともに返せるわけがない。

 言い訳なんて、この競技をすべて終わらせた後でいくらでも考えてやる。

 ゴールのテープを切るその瞬間に向けて走りながら考えたっていい。

 とにかく今は、言葉を発する余裕すら惜しんで、頑なに黙秘を貫き通したままあいつを連れていくしかないのだ。

 もはや、思考の回路は「お題をクリアして勝利を掴む」というそれ一つの結論へと収束していた。


「莉愛、どうした?」


「......」


 心配そうに声をかけてくれる友人の言葉さえも、今のうちの耳には届かない。


「り、莉愛?」


「……」


 ごめん、みんな。

 いまのうちの顔は、あまりの羞恥と混乱でとてもじゃないけどみんなに見せられるような代物じゃないんだよ。

 ごめんね。

 あとで必ず、ちゃんと言い訳を考えて、この理不尽な状況のすべてを説明するから。

 本当に、本当にごめん!


 心の中で狂おしいほどの謝罪を繰り返しながら、うちはもう一度勢いよく駆け出した。  

 きびすを返して階段を転げ落ちるように駆け下り、お題の答えが待つ場所の前にどっしりと立ち塞がる。


 ふぅーーーっ。


 大きく、乱れた息を整えるために深呼吸を一つ。

 こんなの、いくら頭で冷静になろうとしたって、何食わぬ顔で落ち着いてあいつを連れ出すような真似なんて……できるかぁぁぁぁ!


「白河ッ!」


 羞恥心をねじ伏せるような勢いそのままに、うちは彼の細くもしなやかな腕をガシリと掴み取った。


「何だよ! てか、力強ぇよ!」


「いいから来てっ!」


 もう、後戻りのできない引き返せない地点へと踏み込んでしまった。

 いや、心のどこかでは、もっと前からずっと気づいていたんだ。

 いつからそんな感情を抱いていたのかなんて、もうどうだっていい。

 いつだって構わない。

 これが、逃げ続けた果てにうちの中でようやく導き出された嘘偽りのない答えなのだから。

 知ってしまった。

 知ってしまったんだ、こんなにも鮮烈に。

 胸の奥で早鐘を打つこのドキドキとした心臓の鼓動の音色も。

 今、この肌でしっかりと熱を感じている。

 感じてしまっているんだ、紛れもなく。

 彼の存在を思い浮かべるだけで、凍てついていたはずの心がふわりと温かくなるこの愛おしい感覚を。

 周囲からどんな風に言われようとも、もう決して変わらない、変えることのできない確かな真実。

 あんなに恋愛なんて自分には無縁の遠い世界の話だと思っていた。

 でも、実際にこうして自分の身に起きてしまった。

 他人に興味なんてない、そう思い込んで生きてきたはずだった。

 だけど、実際にこうして心が揺さぶられてしまった。

 そして、その疼くような変化を、どこか心地いいとすら感じてしまっている自分がいる。  

 もっと言葉を交わしたい。

 もっと彼のことを深く知りたい。

 同じ時間を、同じ景色を、心から感じたい。

 並んで歩き、他愛のないことで笑い合いたい。

 くだらないことで一緒にふざけ合いたい。

 ただ、ずうっと一緒にいたい。

 そう素直に願ってしまうのは、うちがおかしくなってしまったからなのだろうか。

 でも、もうこんなにも鮮烈に感じてしまったのだから。

 逃げられないほど深く知ってしまったのだから。

 抗えないほどにハッキリと気づいてしまったのだから。

 これが、うちの辿り着いた紛れもない一つの答え。

 だから、うちは迷わない。

 佐伯莉愛は、この借り物競争のお題に対する答えとして、迷わずあの名前を選ぶ。


 「『好き』だと感じる人」


 うちにとって、それは他でもない彼。

 世界でたった一人だけの、うちの大切な好きな人。

 いま、私の心がいちばん惹かれている『好きだと感じる人』は――白河奏、あなただ。

 もう、周囲の喧騒や野次なんて一つも聞こえない。

 世界から音が消え去ったかのようにクリアになった空間で、ただ鮮明に響いているのは、自身の早鐘を打つ心臓の鼓動と、胸を焦がす熱い温もりだけだった。

まさかのメインヒロイン!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。