四十五杯目:「さぁー! まもなくスタートします! 今年の借り物競争は一味違います! どの様なドラマが生まれるのか!」
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「なるほどねって何がだよ」
グラウンドの異様な状況を前にして、一人で勝手に点と点を繋ぎ合わせ、満足げに深く頷く九条に対し、神崎はたまらずといった様子でその言葉の真意を問いただす。
今回ばかりは、流石の俺でも神崎と全く同じ質問をぶつけていただろう。
一体全体、九条は何に気づき、何に納得したというのだろうか。
話の流れ的に考えて、黒沢がアナウンスした『一レースだけで十八人全員を走らせる』という狂ったルールの理由についてだと思うが、どう好意的に解釈しても、グラウンド上が大パニックの阿鼻叫喚、ごちゃごちゃになるに決まっているのだ。
遠目から見えるトラックの様子を確認しても、コースの中間地点にはぽつんと例の「お題が入った箱」が置かれている。
あの状況を見るに、スタートの号砲と共に十八人が一斉にあの地点へ群がり、全員で我先にとあの箱に手を突っ込む事になるのだろう。
バーゲンセールのワゴンに群がるおばちゃん達じゃあるまいし、あの小さな箱の穴に血気盛んな選手全員の手が同時に平和に入るとは到底思えない。
箱が物理的に破壊されるのがオチだ。
「簡単な事だよ」
怪訝な顔をする神崎の問いに対し、九条はまるで謎解きを終えた名探偵のように、人差し指をチッチッと振った。
「簡単? 何がだよ」
「会長は大人数でやっても問題ないって考えてるんだ」
問題ない?
そんなわけが無いだろう。
九条の口から出たあまりにも楽観的すぎる言葉に、俺は心の中で激しくツッコミを入れた。
全校の代表十八人が一斉にトラックを走り出して、中間地点の小さな箱に一斉に手を入れることの何が問題ないというのだ。
そもそも、このグラウンドのトラックに横並びで走れるコースは十八レーンも存在しない。
つまり、物理的なスペースが足りない以上、スタート直後から選手同士が肩や肘を激しくぶつけ合いながら、インコースを奪い合って走るってことだ。
そんなの、転倒して怪我人まっしぐらに決まっている。
あの悪魔のような生徒会長は一体何を考えているんだ。
もし、競技のエンタメ性を高めるために、生徒が揉みくちゃになって怪我をすることすら前提のショーとして考えているのだとしたら、いくらなんでも……いや、人として見損なうぞ。
「でも危なくない?」
神崎と九条のやり取りを聞いていた宮本が、珍しく真っ当で常識的な危機感を口にした。 まさに宮本の言う通りだ。
お祭り騒ぎとはいえ、大怪我なんてしてしまったら、せっかくの楽しいはずの体育祭の空気が一瞬で冷え込み、つまらなくなる。
「莉愛ならヒョヒョイと避けるよ!」
「ヒョヒョイって……」
宮本の真っ当な心配に対し、一ノ瀬は自分の大親友の類稀なる身体能力を完全に過信し、目を輝かせながら独自の擬音で反論した。
まるで佐伯が忍者か何かのように、空中で回転しながら他人のタックルを躱す映像でも頭に思い浮かべているのだろうか。
一ノ瀬の口から飛び出した、中々日常生活では耳にしないマヌケな「ヒョヒョイ」という響きに、緊張感が削がれた俺の口からついつい呆れたような言葉が漏れ出た。
「確かに佐伯さんなら問題ないかもね」
ハハハと、一ノ瀬の独特な表現に釣られて軽く笑いながら、九条は再び真剣なトーンに戻って自らの推理を続ける。
「焦点は走ってる人がごちゃごちゃになる。つまり危ないってことだよね」
「あぁ」
俺は短く肯定した。
九条の脳内で組み上がっているであろう名推理の全貌を、早く聞きたくてしょうがない。
「でも流石の会長でもそんな事はしないと僕は思うんだ」
「確かに如月会長は生徒の事を一番に考えてる」
九条の意見に、生徒会役員としてあの得体の知れない会長の『本当の姿』や『根底にある理念』を誰よりも近くでよく知っている水野が、力強く頷いて同意した。
やり方は常に破天荒で強引で、周囲を振り回す悪魔のような男だが、その行動の根底には「生徒に最高の経験をさせる」という絶対的な信念がある。
単なる悪趣味で怪我人を出すような杜撰なルールは絶対に作らない。
それが彼らの共通見解らしかった。
「結局僕は全員が同じレースだとしても’スタートは違う’と思うんだ」
『スタートが違う?』
もったいぶって放たれた九条の謎めいたその一言に、俺、神崎、一ノ瀬、宮本の四人は、見事にコンマ一秒のズレもなく完璧に声のトーンまでハモってオウム返しをしてしまった。
「僕が思うに、この競技は二回借り物を探すと思う」
「そういうことか」
九条の決定的な一言で、俺の脳内を覆っていた靄が一瞬にして晴れ渡り、ようやく全てのパズルのピースがカチリと音を立てて繋がった。
完全に理解した。
そうだ、そもそも大前提からして間違っていたのだ。
あの奇を衒う如月会長が、単なる普通の「走って、紙を拾って、借りる」なんていう旧態依然の借り物競争を大人しくさせるわけが無い。
常識的に考えれば、走る途中のコース上に置かれている紙を拾って、そこから目当ての物を探す。
だからこそ、俺たちは「十八人全員が同時スタートしたら、あの小さな箱の前に密集してごちゃごちゃのパニックになる」と考えていた。
根本の前提から違ってたのだ。
確かに九条の言う様に、もしスタートラインに立つ『前』から、すでに出場者たちに一つ目の『お題』が与えられていたとしたらどうなる——?
号砲が鳴った瞬間、十八人の選手たちはトラックの中央に置かれた箱ではなく、それぞれが目当てのターゲットを求めて、観客席のあちこちへ向かって三百六十度バラバラの方向に走り出すことになる。
それなら、密集してぶつかる心配も怪我のリスクも一切ない。
何より、グラウンド全体を縦横無尽に生徒が駆け回るという、今までの体育祭にはなかった圧倒的なパニック映画のような光景が広がり、会長が大好きな『新規性』と『エンタメ性』のインパクトとしてはこれ以上ないほど絶大だ。
「どういうこと?」
案の定、この高度な心理戦の意図を瞬時に理解できたのは、九条の他に俺と水野の二人だけの様だ。
現に、俺の隣にいる一ノ瀬を始め、神崎や宮本といった直感型の人間たちは、完全に頭の上に特大のクエスチョンマークを浮かべてキョトンと首を傾げている。
「見てたら分かるよ」
脳内がショートしそうになって疑問を唱えた一ノ瀬に対し、水野はこれ以上口で説明するのは無駄だと悟ったのか、まるで手のかかる幼児をあやす母親のように優しく微笑んで伝えた。
百聞は一見にしかず。
細々とした論理を耳で聞かせるよりも、実際に目で見た方が圧倒的に早い。
特に、考えるよりも先に感覚で生きている一ノ瀬という生き物には、この諺がこれ以上ないほどぴったりと似合う。
「さぁー! まもなくスタートします! 今年の借り物競争は一味違います! どの様なドラマが生まれるのか!」
俺達の推理を裏付けるかのような黒沢の煽り実況に、スタジアムの観客たちはこれから何が起きるのかとワクワクしながら、改めてワッと大きな歓声を上げて沸き立つ。
グラウンドの中央。
十八人の代表選手たちが、何やら小さな紙切れのようなものを握りしめ、それぞれのスタートポジションについたのが見えた。
「……。……。……。一斉にスタートッ!」
スタジアムが一瞬の静寂に包まれた後。
空気を切り裂くようなピストルの乾いた合図と共に、緊張の糸が切れた選手たちは……。
「え? え? みんなバラバラに走り出したよ!?」
ビリヤードのブレイクショットのように、見事に四方八方へと散り散りになって走り出した十八人の姿。
徒競走のように全員が同じゴールに向かって走るものだとばかり思い込んでいた一ノ瀬は、予想を完全に裏切る目の前で起きた謎の現象に、パニック映画の群衆のような戸惑いを隠せず、目を白黒させていた。
「なんだ? なんかあったのか?」
予想外の四方八方への散開という異常事態に、直感で生きる男・神崎も同様に目を白黒させてグラウンドをキョロキョロと見渡している。
「今回の借り物競争はお題が二回出されます! 一回目は既に渡されており、バラバラに走り出した理由は借り物を探しに行ったからです!」
そんな混乱するスタジアムの空気を察してか、スピーカーから黒沢の明快でテンポの良い種目解説が響き渡る。
なるほど、これなら誰が聞いても一発で状況が理解できる完璧なアナウンスだ。
「つまりー……どういうこと?」
だが、せっかく黒沢がご丁寧に、誰にでも分かるレベルまで噛み砕いて説明をしてくれたにもかかわらず、この場にただ一人。
隣にいる一ノ瀬のポンコツな脳内フィルターだけは通過できず、全く理解できなかったようだ。
頭の上に特大のハテナマークを浮かべ、完全に宇宙猫のような顔になっている。
安心してくれ黒沢。
貴方の実況は完璧だ。
貴方は全く悪くない。
悪いのはこいつの致命的な理解力の方だ。
「最初にお題の書かれた紙を貰ってたんだよ」
思考停止に陥った一ノ瀬を見かねて、九条がまるで小さな子どもに言い聞かせるような優しいトーンで、アハハと笑って改めて説明する。
「だからみんなバラバラに何かを借りに行ったって事」
「なるほど! あ! 莉愛だ!」
九条の根気強い補足説明によってようやく腑に落ちたのか、一ノ瀬はポンッと両手を打ち合わせて納得の声を上げた。
そして、その視線の先でいち早く目当てのものを手に入れ、トラックの中央に置かれた『箱』を目指して猛スピードで戻ってくる見慣れた親友の姿を発見した。
彼女は堂々の一着でグラウンドを駆け抜けている。
「莉愛ちゃんバスケットボール持ってるね」
水野の言う通り、風を切って走る佐伯の小脇にしっかりと抱えられているのは、見慣れたオレンジ色のバスケットボールだった。
恐らく、観客席にいたバスケ部の後輩か同級生から即座に強奪——いや、借りてきたのだろう。
普段の部活で使う物とか、比較的大きくて見つけやすい物とか、その程度の極めて簡単なお題だったという事が容易に推測できる。
クラスの代表として一着を目指す俺達にとっては、これ以上ないほど最も簡単で都合の良いお題で大いに結構なのだが、あの会長の用意した『最悪の悪ふざけ』による親友のパニックという、もっと酷くて悪いお題を期待していた一ノ瀬の顔は、露骨につまらなそうにどこか不満げに歪んでいる。
「意外だね」
「あぁ。てっきり無理難題を押し付けてくると思ってた」
隣で呟いた九条の言葉に、俺は深く首を縦に振って賛同した。
九条も俺と同様に、あの悪魔のような会長の隠し持っていた予想外の優しさ(?)に少なからず驚かされた様だ。
だけど、俺たちは知っている。
あの男がこんなただの『親切な小手調べ』で終わるはずがないということを。
本命は——
「箱の中身だね」
「本題はそっちだろうな」
俺と九条の視線が、グラウンドの中央にポツンと置かれたあの禍々しいオーラを放つ『箱』で交差した。
「何の話してるの?」
意味深な視線を交わし合う俺と九条のヒソヒソとした秘密の会話を聞いていた皆が、仲間外れにされた子どものように不思議そうに見つめてくる。
そして案の定、代表して(というか、他人の気になった事に首を突っ込むことに関しては右に出る者はいない)一ノ瀬が、好奇心剥き出しで真っ先に食い気味に聞いてきた。
「佐伯さんは簡単なお題を貰えたみたいだね」
「莉愛にとって簡単すぎるよー! もっと莉愛をこう……何だろ?」
九条が苦笑いしながら答えると、一ノ瀬はぶんぶんと首を横に振った。
彼女の中では、親友が涼しい顔で難なくトップを走っている状況がどうしても許せないらしい。
もっとこう、普段はクールで取り乱さない佐伯が顔を真っ赤にして慌てふためき、羞恥心でジタバタするようなシチュエーションを求めて、うーんと腕を組みながら顔を悩ませている一ノ瀬。
「一ノ瀬ってドSなんだな」
「うん。鬼畜だね」
親友を地の底に突き落とそうと本気で願っているその邪悪すぎる様子を見ていた神崎と九条は、呆れ果てたように口を揃えて真っ当な評価を下す。
鬼畜。
天使のように可愛らしい顔面に似合わないその残酷な響き。
何処かで聞いた覚えがあるなと思ったら、あれだ。
一ノ瀬のこの無自覚な残虐性は、浅野先生にそっくりなのだ。
「そんな一ノ瀬さんに朗報!」
絶望する親友の姿が見られなくて不満げな一ノ瀬に向け、続けて九条はテレビショッピングの司会者のような明るい声で解説を続ける。
「待ってましたー!」
何が朗報なのかも分からないまま、とりあえず親友が酷い目に遭う匂いを嗅ぎ取った一ノ瀬は、満面の笑みで両手でガッツポーズをして大喜びしている。
……親友とは一体何なのだろうか。
今日の体育祭が終わって家に帰ったら、国語辞典を開いて『親友』の定義を根本から調べなおそうと俺は心に固く誓った。
「きっと会長がやるとしたら二つ目、つまりあの箱の中身だよ」
九条がスッと長い指を指したのは、コース中盤に無慈悲に置かれたあの抽選箱。
俺も全く同じ考えだ。
最初のお題は、あくまで選手たちを散開させてグラウンドを広く使わせるための、ただの『練習問題』であり『罠への誘導』に過ぎない。
あの如月会長が、最後まであんな優しいボーナスステージを用意するわけが無い。
本番は間違いなく、あの箱の中に入っている二つ目のお題だ。
疲労が溜まり、後続の選手たちが続々と集まってきてプレッシャーがかかるあの中間地点で、順位をひっくり返すようなエグい難易度の指示を出して、あえて大番狂わせをさせたがるに決まっている。
「莉愛ちゃん手箱に入れたよ!」
九条の解説を聞き入っていると、ふいに水野の鋭い声が上がった。
ハッとしてグラウンドに目を戻すと、説明をしている間にトップのまま箱に到達した佐伯が、すでにその丸い穴の中に腕を深く忍び込ませていた。
だが、すぐに紙を引いて走り出すかと思いきや、佐伯自身もこの箱に仕掛けられた凶悪な意図に気がついているのか、その手つきはやけに慎重で、引くまでにやけに長い時間がかかっている。
きっと箱の中で、見えない紙切れの感触を確かめながら、神頼みをするように中を必死にかき混ぜているのだろう。
——どうか、普通のモノを探すだけの簡単なお題であります様に、と。
「どんなお題を引くんだろー」
そんな佐伯の切実な祈りなど露知らず、純粋無垢な宮本がふわふわとした声でのんきに言う。
「おおっと! 佐伯選手! 箱の中から紙を一枚取り出しました! その表情は曇りに曇ってます! 一体どんなお題なのでしょうか!」
ついに運命の紙を引き当てた佐伯の顔を見た黒沢が、スピーカーから興奮を隠しきれない声で叫ぶ。
奇しくも、その問題の箱が設置されている中間地点は、俺達二年四組の待機場所の目と鼻の先だった。
つまり、俺たちはここから特等席で、引いた紙切れを見た瞬間にサーッと血の気が引き、この世の終わりを見たかのように完全に曇りきった佐伯の絶望の表情を、逃げ場のない超至近距離で間近に見ることができるのだ。
「うわー。あれはやばいぞ。ドンマイだな」
箱から引いた紙を見た瞬間の、あの佐伯の表情。
普段のクールで凛とした姿からは想像もつかないほど、顔面からサーッと血の気が引き、この世の終わりでも見たかのような絶望に染まったその顔を確認した俺達は、全員が全く同じタイミングで心の中で「ドンマイ」と手を合わせたことだろう。
あまりの悲惨さに、隣にいた神崎に至っては堪えきれずに思わず声に出してしまっている。
「莉愛ー! 一位とってねー!」
そんな我々の同情的な空気など一切読まず、最前列の柵から身をグッと乗り出し、無邪気な笑顔でさらにプレッシャーをかける一ノ瀬。
今まさに地獄の釜の底を覗き込んでいる親友に向かって放つ言葉としては、あまりにも残酷すぎるエールだ。
「……ッ! ふざっけんなよあのクソ会長が!」
距離は離れているはずなのに、怒りと羞恥でわなわなと肩を震わせる佐伯の、地を這うような恨み言と小さく呟く様な暴言が、読唇術のように俺にははっきりと聞こえた気がした。
手にした小さな紙切れを、憎き親の仇とばかりにぐしゃぐしゃに丸めて無造作にジャージのポケットにねじ込んだ佐伯は、猛然とした勢いでトラックのコースを外れ、そのままスタジアムの裏手へと続く死角に消えていった。
俺達二年四組の待機場所のすぐ真下には、スタジアムの観客席の裏側へと繋がる薄暗い連絡通路がある。
恐らく、お題の品(あるいは人)を探すためにそこへ飛び込んで行ったのだろう。
「お題何だったのかな?」
「うーん。表情を見るに良くはなかったみたいだね」
「莉愛にできない事は無い!」
水野の冷静な分析、九条の的確な推測、そして相変わらず一人だけ少し的の外れた根拠のない精神論を言う一ノ瀬。
コースを外れてわざわざスタジアムの中(観客席側)に入って行ったという事は、グラウンドに落ちているようなモノではなく、生徒の私物や特定の人間がターゲットになっているという事だろう。
そして何より、あの極限まで曇った顔。
まるで特大の苦虫を十匹まとめて噛み潰したかのような、屈辱と葛藤に満ちた辛そうな表情。
可哀想に。
あのプライドの高い佐伯が、一体何を要求されたというのだろうか。
「続々と選手が到着ッ! 次々に紙を引いていきます! どの選手も辛そうな表情! これは単に疲れからくるものなのか! それともお題からくる絶望の表情なのか!」
スピーカーから響く黒沢の容赦のない煽り実況の通り、佐伯に続いて中間地点に到着した他の選手たちが、次々と運命の箱から紙を引いていく。
そして、紙を開いた瞬間に次々と顔色が土気色に曇り、全員が全員、申し合わせたように頭を抱えてフリーズしていく選手達。
その異様な光景の連続に、俺は、いや俺達のグループの全員は、心の底から安堵とともに確信した。
「良かった。俺達が代表として出てなくて」と。
「ねぇねぇみんな! 莉愛は何引いたと思う?」
そんな地獄絵図が広がるグラウンドを前にして、一人だけ元気いっぱいの一ノ瀬。
目の前で頭を抱えている選手達のリアルな絶望を見た直後だと、彼女のその脳天気な元気がより一層狂気じみて目立つ。
他人の不幸は蜜の味とはよく言ったものだが、こんな風にゲラゲラと笑いながら気楽にお題を予想し合えるのは、完全に安全圏にいる『他人事』だからに他ならない。
「私は大切なもの的なやつに一票!」
「じゃ、私もそれー!」
水野の少し意地悪な予想と、それに便乗して賛同する宮本。
「俺はさっぱりわからん!」
深く考えることを早々に放棄し、腕を組んでフン!と謎に威張った態度の山波に、「俺もだ!」と言わんばかりの力強い首振りで同調する神崎。
この体育会系コンビはこういう時本当に役に立たない。
「僕も水野さんと同意見で、十中八九概念だろうね」
「私はねー! 好きな人! とかがいいなー!」
俺も九条、そして『物質ではなく概念』という意地の悪い点では水野の意見に大いに賛同だ。
そして、一人だけ両手を組んでうっとりとしている一ノ瀬。
お前、それはもう論理的な予想じゃなくて、ただの個人的な願望と趣味丸出しの願いになってるぞ。
「……ッ!」
ダン! と、コンクリートを強く蹴りつけるような大きく乱暴な足音が、唐突に俺達のすぐ後ろから響いた。
グラウンドに集中していた俺達は、背後からの予期せぬ大きな音に釣られて、バサッと一斉に振り返る。
「莉愛!?」
一ノ瀬の素っ頓狂な声と共に、俺たちの視線の先——観客席の階段の上段に立っていたのは、肩で大きく息を切らした佐伯だった。
そして何より俺の目を引いたのは、普段の氷のようにクールな彼女が、何故か耳の裏まで真っ赤に染まるほど頬を朱に染めているという、信じられない異常事態だった。
いや、ただ単に走ったからか?
ゼェゼェと激しく肩の揺れる佐伯を下から見上げる俺達。
佐伯はこちらの驚きなど気にも留めず、ガンッ、ガンッと一段ずつ重い足取りで階段を降りて、何故か真っ直ぐに俺達のグループ——いや、俺のいる方向へと一直線に近づいてくる。
「莉愛、どうした?」
「……」
異様な空気を察した神崎の問いかけにも、佐伯は完全に無視を決め込み、無言で階段を降り続ける。
前髪で目元を隠すように深く下を俯き、ただ無言で。
「り、莉愛?」
「……」
大親友である一ノ瀬のおずおずとした問いかけにも、一切の反応を示さず無言を貫く。 まるで自我や意思を失い、何かの呪いにでも操られているかのようなゾンビの様な重い足取りに、俺の背筋に冷たい汗が伝った。
「……ッ!」
次の瞬間、突然佐伯は弾かれたように階段を走って降り出した。
そのあまりに急激な動きと勢いに驚かされ、俺達は「うおっ」と声を上げて動揺する。
「白河ッ!」
ドンッ、と風がぶつかるような勢いで目の前に肉薄してきた佐伯。
俺の苗字を叫ぶ、切羽詰まったその呼び声と共に、俺の右腕は彼女の両手によってガシリと強く掴まれた。
バスケで鍛え抜かれたその握力は尋常ではなく、骨がきしむほど強くて、正直少し痛い。
「何だよ! てか強ぇよ」
「いいから来て!」
俺の抗議など一切聞く耳を持たず、掴まれた腕をそのまま強引に引き剥がすように引っ張られ、体勢を崩した俺は為す術もなく佐伯の強い力にズルズルとついていく羽目になる。
間近で見た彼女の顔は、恥ずかしさと焦りで茹でダコのように真っ赤になっており、その瞳は潤んでどこか必死だった。
「え? 何?」
「どういう状況?」
目の前で突如として起きた親友の謎すぎる誘拐行動に、残された神崎、そして一ノ瀬たちは完全に思考が停止し、ぽかんと口を開けて状況を全く理解できていない様子だった。
彼らの呆然とした視線を背中に浴びながら、そのまま俺は逃げ出す隙も与えられないまま佐伯に連行され、半ば引きずられるようにして観客席を後にした。
階段を駆け下りる最中、グラウンドの様子を見ていた何処かのクラスの席から、「キャー!」という、まるで少女漫画の劇的なワンシーンでも目撃したかのような、女子達の興奮に満ちた黄色い悲鳴が確かに聞こえた気がした。




