四十三杯目:「ほらな? 言ったろ? 」
「え? 何? 決めた?」
自分の中で何らかの確固たる覚悟が決まりつつあるのか、一ノ瀬は太陽のように眩しく、そしてどこか晴れやかな顔でにこやかに笑っている。
一体、何を決めたというのだろうか。
わざわざクラスメイトたちが熱狂しているあのスタジアムの喧騒から俺を引き剥がし、完全に人気のない会場の裏手へと連れ出して、世界に二人っきりというこの異常なシチュエーションを作ってまで彼女が伝えたかった事。
生ぬるい風が二人の間を通り抜ける中、俺の胸の奥で、トクリと小さな鼓動が跳ねる。
彼女の真剣な眼差しに当てられ、俺は次第にその『決めた事』の正体が気になり始めていた。
「うん! 決めた!」
迷いの晴れた澄んだ声でそう宣言すると、彼女はキュッと手をグッドポーズの形に握り込み、少し小首を傾げながら、その拳を自身の柔らかそうな頬の辺りにちょこんと当てた。
あざとい。
あまりにもあざとすぎる。
もしこれが計算だとしたら恐ろしいほどの破壊力を持った仕草だが、彼女の場合は天然でやっているからこそタチが悪い。
「だから何をだよ」
「私やっぱり勝ちたい!」
「あ……あぁ。さっきは惜しかったな」
彼女の口から飛び出した負けん気の強い言葉を聞いて、俺の中でカチリとパズルのピースが綺麗にハマった。
なるほど、彼女は先程行われた短距離走の事を言っているのだ。
どうしても一着を勝ち取りたかった様だ。
誰もが息を呑んだ、早乙女先輩とのあの凄まじいデッドヒート。
結果として二位にはなったものの、間違いなく会場は今日一番の盛り上がりを見せていたし、体育祭の一幕としてはこれ以上ないほどの最高の一興だったはずだ。
でも、無邪気に見えて彼女は人一倍の負けず嫌いだ。
それは彼女の親友である佐伯からも事前に聞いていたし、これまでの短い付き合いの中でも、俺自身が肌で感じて既に知っている事でもある。
故に、彼女はどうしてもあのレースで勝ちたかったのだ。
そしてその悔しさを吐き出し、気持ちを切り替えるために俺を呼び出したのだと、俺は一人で勝手に深く納得し、名探偵のように腑に落ちた顔で頷いた。
「白河なんか勘違いしてない?」
「勘違い? さっきの百メートルの話だろ?」
少しの間、二人の間にひどく気まずい沈黙が流れる。
遠くのスタジアムから「ワァァァッ!」という歓声が風に乗って微かに聞こえてくるのが、この隔離された空間の静寂をより一層際立たせていた。
俺の自信満々な返答を聞いた一ノ瀬は、ポカンと口を半開きにし、瞬きをパチパチと繰り返している。
「えーっと……違うよ?」
「え? 違う? てっきり慰めて欲しいのかと」
彼女の否定の言葉に、俺の脳内に冷たい汗がツーっと流れる。
とっさに、先程の佐伯の言葉が脳裏にフラッシュバックして鮮明に蘇る。
『ご機嫌取りよろしく』。
……どうやら俺は、あの言葉に必要以上に囚われすぎていた様だ。
観客席に戻ってきた時の彼女の様子を見て、すでに立ち直っている、大丈夫そうだとは確かに思ったのだ。
でも、この突然の呼び出し。誰もいない場所への連行。
そのあまりにもドラマチックなシチュエーションから、俺の自意識過剰な脳髄が勝手に『これは気丈に振る舞っているだけで、本当は俺に慰めてほしいに違いない』などという、ラブコメの主人公気取りの痛々しい解釈を爆誕させてしまっていたのだ。
「慰める? なんで私が白河に慰めてもらうの? ねぇ、どうして?」
純度百パーセントの、一切の悪気も他意もない無邪気な顔で、不思議そうに首を傾げて尋ねる一ノ瀬。
その曇りのない純粋な疑問の矢が、見当違いの勘違いで勝手に一人で舞い上がっていた愚かな俺の心に、グサリと容赦なく深く突き刺さる。
痛い。
致命傷だ。
恥ずかしい。
穴があったら入りたいどころか、今すぐ自ら穴を掘ってブラジルまで貫通して逃亡したい。
勘違い男の末路があまりにも惨めで恥ずかしい。
「悪い。忘れてくれ」
爆発しそうなほどの羞恥心のあまり、俺は両手で顔を覆い隠し、その場にしゃがみ込みたくなる衝動を必死に堪えた。
手で覆った顔が、まるで火を噴くように熱い。
鏡など見なくても分かる。
今の俺は、茹でダコも裸足で逃げ出すほど、絶対に顔の隅々まで真っ赤に染まり上がっているに違いない。
「白河? 顔赤いよ? 熱ある? 大丈夫?」
両手で顔を覆い、しゃがみ込みたくなる衝動と必死に戦っている俺の指の隙間から、一ノ瀬の整った顔がふいに覗き込んでくる。
心配そうにハの字に眉を下げ、純粋な気遣い百パーセントで尋ねてくる彼女との距離は、先程よりもさらに近くなっていた。
あと数センチもすればおでこがくっついてしまいそうな、吐息の届く距離。
風に乗って、彼女の髪からふわりとあの甘い香りが漂い、俺の脳髄を直接揺らしてくる。
「勘弁してくれ」
顔を覆った手のひらの中で、俺は情けない声を絞り出すように呻いた。
心に沁みる。
下心も、邪推も、誰かをからかうような悪意も一切存在しない、その無防備で無邪気すぎる優しさが、一人で勝手に勘違いをして自爆した俺の心には塩を塗るように、いや、それ以上に深く、痛切に沁みるのだ。
優しくされればされるほど、己の浅はかさが浮き彫りになって死にたくなる。
「本当に?」
俺の言葉を信じ切れていないのか、彼女はさらにグッと顔を近づけ、上目遣いで疑わしそうに俺の瞳の奥を覗き込んでくる。
吸い込まれそうなほど大きくて澄んだ琥珀色の瞳が、俺の顔色を伺うように揺れていた。
「あーもう! 大丈夫だ! で? じゃあ決めたって何の事だ?」
これ以上、至近距離で彼女の天然の優しさと破壊的な可愛さに晒され続けては、俺の貧弱な精神力が物理的に持たない。
完全に自業自得とはいえ、これ以上一ノ瀬に辱められる意味も理由もないのだ。
俺は顔を覆っていた両手を離すと、わざと乱暴に頭を掻き回し、誤魔化すようにワザとらしい大きな咳払いを一つして、強引にこの気まずい空気を切り替えた。
そして逃げるように話題を逸らし、真っ直ぐに彼女の目を見据える。
本来の目的——彼女がわざわざスタジアムの熱狂から俺をここまで連れ出してまで言いたかった、話の原点である「決めた」と言う言葉の真意。
その意図を急かすように聞き返した。
「よく分かんないけど……分かった! あのね?」
俺の突然の誤魔化しと態度の急変に、一ノ瀬は「?」と頭の上に記号を浮かべるように一瞬ポカンとしていたが、持ち前の切り替えの早さですぐにパッと表情を明るくした。
大きく息を吸い込む彼女の背後で、雲の隙間から差し込んだ太陽の光が、彼女の細い輪郭をふわりと黄金色に縁取る。
真っ直ぐに俺を見つめ返し、いよいよ紡がれようとするその言葉に、俺は無意識のうちにゴクリと固唾を呑んで備えた。
―――――――――――――――――――――――――
「おっ、戻ってきた」
先程までの静寂な空間とは打って変わって、人の熱気と汗の匂い、そして絶え間ない歓声が渦巻くスタジアムの待機場所。
人混みを掻き分けながら指定の場所へと戻ってきた俺達の姿にいち早く気がついた神崎が、眩しい太陽の下で白い歯を見せ、少しばかり揶揄うように笑いながら声をかけてきた。
「どうせ琥珀が腹減ったとか言ってついて行ってたんだろ?」
神崎はいつものように気さくな足取りで近づいてくると、すぐ横に立った俺の背中を「お疲れさん」とばかりにバンバンと遠慮なく叩きながら言った。
その屈託のない笑顔には、俺たちがこっそり抜け出していたことに対する咎めるような色は微塵もない。
「そんなに食いしん坊じゃないもん!」
神崎のからかい半分の言葉を隣で聞いていた一ノ瀬は、リスが木の実を溜め込むように両頬に空気をいっぱい入れて、ぷくっと見事に膨らませながら抗議の声を上げた。
傍から見ればただの食いしん坊キャラのいじりなのだが、いつも購買でパンを買い込んでいる普段の彼女の姿を知っていると、「一ノ瀬ならいかにもあり得そうだな」と妙に納得してしまう。
そんな隙だらけのところが彼女の憎めない魅力なのだろう。
「でもギリギリだよ? もう男子始まってるし、そろそろ山波君の番。危なかったね」
騒ぐ神崎と一ノ瀬を一歩引いた場所から見ていた水野に呆れたように言われ、俺はハッとして熱気渦巻く競技場のトラックの方へと視線を向ける。
水野の言う通り、すでに男子のプログラムは淀みなく進行しており、スタート地点の少し手前では、山波が真剣な面持ちで屈伸やアキレス腱の伸びをして、入念に筋肉を解す準備運動を行っていた。
並んでいる選手の顔ぶれや位置関係から推測するに、どうやら彼の出番はあと二レース後くらいのようだ。
一ノ瀬とのあの劇的なやり取りに気を取られすぎて、危うくクラスメイトの晴れ舞台を完全に見逃す所だった。
「本当じゃん! セーフ!」
「間に合って良かったねこは」
間一髪、ギリギリのタイミングで間に合った俺達は、先程までの冗談めいた空気を引き締め、トラックへと鋭い集中を向ける。
「で? 本当は何してたの?」
皆の意識がグラウンドへと向いたその一瞬の隙を突いて、俺のすぐ右側の耳元で、甘く、そしてどこか冷たい佐伯の低い声が囁かれた。
不意打ちで吹きかけられた彼女の吐息と、特徴的なウルフカットの毛先が耳たぶを掠める感覚。
背筋をゾクッと駆け上がるようなこそばゆい感覚が容赦なく俺の耳を襲う。
「何でもない。何でも」
俺は心臓が跳ね上がるのを必死に隠し、平静を装って短く返した。
正直、彼女に本当の事を伝えるか少しだけ迷った。
鋭い佐伯の事だ、適当な嘘をついてもすぐに見破られるかもしれない。
でも、これは俺と一ノ瀬の間で交わされた、二人だけの特別な話だ。
わざわざ勘の鋭い佐伯や、他のクラスメイトの皆に洗いざらい伝える必要はどこにもない。
それに、もし先程の出来事をありのままに伝えたとして、これからの競技を控えている皆のメンタルや調子が悪くなってしまったら、俺には到底責任を取れないのだ。
だから、これは俺と一ノ瀬だけの秘密にしておく。
あの人気のない静かな場所で、彼女の強い眼差しを受け止めながら、確かにそう約束したのだから。
「何でもな訳ないでしょ? あっ! 慰めてたの?」
「その耳元で囁くのやめてくれ。それから一ノ瀬全然しょぼくれてなかったぞ?」
「あ、そう? ふーん。訳ありな訳だ」
俺の苦しい言い訳を聞いた佐伯は、探るような視線を俺に向けた後、スッと顔を離してそう呟いた。
なんだ、その妙に含みのある言い方は。
いつものサバサバとした彼女とは少し違う、何処か突き放すような冷たい、素っ気ない言い方。
俺の隠し事に呆れたのか、それとも別の感情があるのか。俺はその時の彼女の横顔から真意を読み取ることができず、少しだけ——ほんの少しだけ、胸の奥がざわつくように気になった。
「そろそろ山波のレースだろ?」
「うん。今六レース目が終わったから、次かな?」
気まずい空気を払拭するように俺が話題を切り替えると、佐伯は何事もなかったかのようにトラックの先へと視線を戻した。
目の前で、砂埃を上げてゴールテープを切る顔も知らない生徒の姿を横目に、俺と佐伯は淡々と事務的な会話をする。
「で? 本当は?」
「話逸らしたんだから!」
もう一度、今度は悪戯っぽく笑いながら再び耳元で囁いてきた佐伯に対し、俺は堪らず嘆くように囁き声でツッコミを入れた。
俺の必死な反応に、佐伯は満足そうに「ふふっ」と肩を揺らして笑った。
「さぁ! 続いては第七レース目! 先程のレースも、いや! 今までのレースも目まぐるしかったですが! 続いても目が離せません!」
二人の密やかな攻防を掻き消すように、ノイズ混じりのスピーカーから場内全体を震わせる黒沢のアナウンスが響き渡る。
朝から今までもずっと凄まじい熱量だったが、次が注目選手の多い山波のレースだからか、彼女の声のボルテージは一段と上がり、いつもよりさらに大きく、そしてドラマチックに耳に届いてくる。
「あの人疲れないのかなー」
スピーカーを見上げながら、宮本がぽわぽわとした声で何気ない疑問を口にした。
俺も心の中で深く頷き、「確かに」と思ってしまう。
開会式から今の所、常にこの圧倒的な声量を保ち続けながら、毎回毎回プロの実況アナウンサーのようなクオリティでスタジアムの空気を支配しているのだ。
常人であれば、とっくの昔に喉が完全に潰れて使い物にならなくなっていても絶対におかしくはない。
あの底知れないバイタリティは、もはや恐怖すら感じるレベルだった。
「確かに! 喉壊れちゃわないのかな?」
「うちも日葵と同意見」
水野の純粋な疑問に、佐伯もこくこくと深く頷いて同意する。
スピーカーから絶え間なく降り注ぐ実況の熱量と圧に圧倒されながら、勿論俺も彼女たちと全く同じ考えだった。
常識的に考えて、あのテンションを数時間ぶっ通しで維持するのは人間の喉の構造上不可能に思える。
「好きな事なら何でも出来るだろ?」
そんな俺たちの現実的すぎる疑問を、爽やかな笑顔とともにサラッと精神論で解決してみせたのは神崎だった。
「いや……いくら好きだからって」
流石にそれは根性論が過ぎるだろう。
喉の粘膜は気合いでは守れないぞ、という呆れと「そういうものなのか?」という純粋な疑問の思いを込めて、俺は神崎にジト目で聞き返す。
「甘い物なら無限に食べられる的な話?」
会話の隙間にふわりと入り込んできた一ノ瀬が、首を傾げながらとんでもない解釈を披露した。
なんて馬鹿で可愛らしい例えなのだろうか。
別腹という概念と気合いの概念を完全に混同している。
てか、さっきからお前はまた食べる話かよ。
どんだけ頭の中が食べ物で占められているんだ。
「あえて琥珀にツッコミは入れないが、まぁそういう事。俺だったらサッカーは無限に出来るしな」
「それは怖いよ?」
神崎のサッカーに対する常軌を逸した情熱の宣言に、佐伯が少しだけ顔を引き攣らせて本気で恐怖する。
広大なコートを九十分間、常に全力で走り回るという、体力がいくらあっても足りない過酷な競技を「無限に出来る」と豪語する神崎の底知れなさ。
それは、普段佐伯自身もバスケットボールという、コートを常に往復し続けるほぼシャトルランの様な競技のレギュラーとして活躍しているからこそ分かる、具体的な疲労を知っている者ならではのリアルな恐怖であり、あれだけの才能と活躍を見せておきながら、実は根本的な性格として「疲れる運動は好みではない」という佐伯の隠れた本性から来る、単純かつ率直な意見だった。
「とにかく好きな実況だから出来るんだと思うぞ?」
「さぁ! まもなく七レース目! このレースの注目選手を紹介しましょう! 圧倒的一位候補、二年四組山波! 彼にお世話になった生徒も多いでしょう! 持ち前の運動能力から様々な部活の助っ人として活躍しています!」
神崎の言葉を裏付けるかのように、スタジアムの空気をビリビリと震わせる黒沢のボルテージマックスな実況が響き渡る。
実際、彼が興奮するのも無理はない。
山波という男は、この学園において本当に凄い存在なのだ。
全校生徒が所属しているあらゆる部活の中で、山波の名前を知らない人間はいないと断言できる。
大会前で怪我人が出た、人数が足りない、そんな危機的状況の部活から助っ人を頼まれれば、彼は快く引き受け、そしてどの競技であっても必ず圧倒的な成果を残してチームを救う。
その人間離れした活躍の噂を聞きつけた別の部活がまた彼に助っ人を頼み、そして彼は再び涼しい顔をして期待以上の成果を残す。
その次も、またその次も。
そうして彼は「困ったときの山波」として、あらゆる運動部から絶大な信頼を寄せられ、頼られる様になったのだ。
初めて触れるようなルールすら違うどのスポーツをさせても、常に平均点以上——いや、トップレベルの実力をいとも簡単に発揮してしまう高校生など、全国を探しても指で数えるほどしかいないだろう。
彼はまさに、規格外のバケモノだった。
「その類い稀ない運動センスをこの競技でも発揮するのでしょうか! てかするに決まってる!」
あまりにも山波の実力が凄すぎて、ついに黒沢の実況すら公平性を欠いて何処かおかしなテンションになってしまっている。
そんな実況の暴走はおいておいて、問題は山波に立ち向かう対戦相手だ。
正直なところ、純粋な身体能力の勝負で山波に勝てる奴などこの学園にはいないと俺は確信しているが、勝負の世界に絶対はない。
スタートの出遅れや万が一のアクシデントがあるかもしれない。
だからこそ、こうして事前に相手の情報を実況で分かりやすく教えてくれるのは、ただ漫然と見ているよりもずっと状況が把握できて非常に助かる。
まるで、少年アニメの大会編でナレーションが親切に敵キャラの能力を解説してくれているのを聴いているみたいで、少しだけ俺のテンションも上がってきた。
「次点の一位候補はこの男! 野球部の盗塁王! 橘!」
「へぇ」
黒沢の仰々しい説明を聞いた宮本が、ポカンとした顔で気の抜けるような相槌をする。
「ねぇ! とーるいって何?」
すかさず、一ノ瀬が目を丸くして皆に尋ねる。
まぁ、彼女が野球のルールを正確に知るはずもないだろう。
勉強も運動も感覚で生きてきた、あの『一ノ瀬』だから。
とは偉そうに言っている俺自身も、ルールに決して詳しくはない。
スポーツ全般にそもそも興味はないし、テレビで試合の中継がやっていてもすぐにチャンネルを変えてしまう。
WBCなどで日本代表が世界的に強いというニュースの見出しの知識くらいは持っているが、細かい反則や戦術のルールは全く知らない。
ただ、ゲームや漫画の知識として「盗塁」という言葉の意味合いは何となく感覚で分かるが。
「盗塁って言うのは——」
「盗塁を知らない方に説明しましょう! 盗塁というのはピッチャーが投げる瞬間塁に向かって走り、試合を優位に進める行為の事です! わかりやすく言えば足が速くないと出来ない凄技!」
「……っていう事」
得意げな顔で神崎が説明しようと人差し指をピッと立てたその瞬間、スピーカーから響く黒沢の完璧な解説が、神崎のセリフをものの見事に全て奪い去ってしまった。
神崎は立てた指をそのままに、気まずそうに「っていう事」と付け足すしかなかった。
「るいって?」
「だと思った」
黒沢の親切な解説を聞いてもなお、根本的な単語の意味で躓いている一ノ瀬の期待を裏切らない無知っぷりに、佐伯はお腹を押さえて笑いながら言った。
専門用語というものの罠だ。
一つの専門用語を説明するためには、往々にして別の専門用語がよく使われる。
「塁」を知らない一ノ瀬に「盗塁」を説明しようとしても、また別の疑問が生まれるだけ。
彼女にとってこの質問は、終わりのない永久機関の様な物なのだ。
「グーグルに聞いてくれ」
これ以上、一から野球のルールを説明するのは骨が折れると判断した神崎も、完全に諦めた様子で両手を横にパタパタと振る。
これには付き合いきれん、自分で調べてくれといった疲労感漂う表情だった。
「足の速さは誰にも負けない橘! 対するは運動の天才山波! 勝つのはどちらなのか! 勿論その他の選手にも期待しましょう! 選手がスタート位置につきました! まもなくスタートです!」
黒沢のボルテージが最高潮に達した実況がスピーカーから流れ終わった直後、魔法にでもかけられたかのように、何千人という生徒が詰めかけているはずの場内がピタリと静まり返る。
先程までの耳をつんざくような喧騒が嘘のように消え去り、風がグラウンドの砂を撫でる音すら聞こえそうなほどの静寂。
スタートの合図となるピストルの音を、場内の全員が固唾を呑んで見守っているのだ。
トラックの上に立つ選手たちの張り詰めた緊張感が、観客席にまでビリビリと伝播してきているのが分かる。
「大河ってー、速い?」
そんな、針を落とせば音が響きそうなほどの極限の緊張感の中。
のんびりとした、まるで今日の晩ご飯のメニューでも聞くかのように全く興味のない事を聞く様なトーンで、宮本がポツリと尋ねた。
緊迫した空気を読まない、いや、そもそも空気という概念が存在しないかのような彼女のマイペースな声が、俺たちの輪の中にふわりと落ちる。
「一言で言うなら運動バカ」
その気の抜けるような問いに対し、佐伯はトラックに向けた視線を外すことなく、呆れたように目を瞑りながら素早く短く切り捨てた。
辛辣な言葉選びだが、その響きには幼馴染特有の確かな信頼と親愛の情が込められているのが分かる。
「大河は負けないな。誰にも。てか珊瑚は知らないのか?」
校内で知らない人はいないスーパー助っ人山波。
その超人的な凄さは、先程の黒沢の実況でも散々熱を込めて語られていたばかりだ。
部活に所属しているか否かに関わらず、この学園にいて彼の名を知らない者はモグリだと言えるほど、彼は有名な人物なのだ。
そんな全校生徒注目の的である有名人を、ただの『気のいいクラスの友達』としか認識していない宮本の情報感度の低さに、神崎は目を丸くして心底不思議そうに聞く。
「友達が何してても別にいいからねー。実況の人で知った」
友達なんだから何をしていても、どれだけ有名でも別にいいという宮本の独特の感性。
普通なら、身近な友人が実は凄い奴だったと知れば驚いたり騒いだりするものだが、彼女にとっては「山波大河」という一人の人間性が全てであり、彼に付随する肩書きや才能はどうでもいいおまけのようなものなのだろう。
それはそれで、いかにも宮本らしい、表裏のない純粋でのんびりとした考えだなと俺は感心してしまう。
あと、何千人もが息を潜めているこの異常に静かな状況下で、微塵もプレッシャーを感じることなく平然と世間話のような会話をしようとするのは、ある意味でどんな強靭なメンタルよりも凄いぞ宮本。
「とにかく大河は負けない。見てろー! ぶっちぎりの一位見せてくれるから!」
ニヤッと、口角を深く吊り上げて不敵な笑みを見せる神崎。
これから走るのは自分ではなく山波だというのに、まるで自分の勝利を確信しているかのような絶対的な信頼。
親友の晴れ舞台を誇らしく思う気持ちが前面に出すぎていて、傍から見ると完全に企みを成功させた悪役の顔になっているぞ、神崎。
「選手全員準備が整いました! スタートの合図を待ちましょう!」
黒沢の少しトーンを落としたアナウンスで、先ほどよりもさらに深く、重く静まるスタジアム。
静かすぎて、逆に耳の奥で「キーン」という高い耳鳴りのような音が聞こえる錯覚に陥る。
クラウチングスタートの姿勢で静止する山波の筋肉が、限界まで引き絞られた弓のように力を蓄えているのが遠目にも分かった。
……。
……。
バンッ。
乾いた、しかし空気を切り裂くような鋭いスタートを告げる銃声が、青空の下の場内に大きく響き渡った。
その瞬間、トラックに並んでいた数人の選手が一斉に土を蹴り上げ、爆発するように前へと飛び出す。
「さぁ! スタートの合図とともに選手一同走り出しまし……た? おおっと! これは! これは!」
流れるような滑らかな実況を続けていた黒沢の声が、突然「た?」と疑問形になり、裏返った。
実況がこうなるのも必然だ。
この目の前で起きている、物理法則を無視したかのようなあり得ない光景を見た者なら、誰でも言葉を失い、そうなるに決まっている。
「ほらな? 言ったろ? ぶっちぎるって」
その非現実的な光景をまるで最初から知っていた、いや、未来を完璧に予知して見ていた神崎が、我が事のように胸を張り、自慢げに呟いた。
結果は——まさに「ぶっちぎり」の一言だった。
「圧倒的! 圧倒的です! 盗塁王? そんなの関係ありません! 山波大河! 彼の前ではどの様な称号でも関係ありません! このレース! 圧倒したのは山波大河! 堂々たる一位です!」
スタートダッシュの数歩で、他の有象無象の選手たちを完全に置き去りにした山波は、トップスピードに乗ったまま誰一人としてその背中に近づけることすら許さなかった。
対抗馬と目されていた野球部の盗塁王・橘でさえ、山波の巻き起こす突風の前に為す術なく、まるでスローモーションの映像を見ているかのように後方へと霞んでいく。
七レース目を走る実力者たちを文字通り子ども扱いし、息を乱すことすらなく余裕の表情で真っ先にゴールテープを切った山波は、そのままの勢いでスピードを緩めながら振り返り、観客席にいる俺達の顔を正確に見つけ出すと、太陽に向かって真っ直ぐに拳を突き上げた。
「カッコよすぎだろ」
その一切の淀みもない、完璧な主人公ムーブ。
普段は斜に構えているはずの俺の口から、素直すぎる賞賛の言葉が、思わず心の底から漏れ出していた。
まるでスーパーヒーロー




