番外編
顔見知り程度の頃の話
「おい! 白河見たかよ!」
静寂と微かな眠気が支配する朝の教室。
澄んだ初夏の朝日が窓ガラスを透過し、俺の机の上で四角い光の模様を描いていたその穏やかな時間をぶち壊すように、教室の前扉がガラッ!と鼓膜を劈くような乱暴な音を立てて勢いよく開け放たれた。
登校一番、息を切らしながら飛び込んできたかと思えば、一直線に、自分の席で静かに読書でもしようかと息を抜いていた俺の元へと、大股で駆け寄ってきた悪友の菊池。
「朝から騒がしいな……。ラッキーな事でも起きたか?」
菊池がこれほどまでにテンション高く、鼻息を荒くしている時は大抵相場が決まっている。
通学路で他校の女子のスカートが風で捲れたのを見たといったスケベなハプニングがあったか、あるいはクラスの高嶺の花である一ノ瀬や佐伯から偶然話しかけられたとか、俺からすれば欠伸が出るほどどうでもいい、心底くだらない事があった時だけだ。
だから俺は、彼がどれほど興奮していようとも、完全に思考を切り離した『どうでもいい』という顔を隠しもせず、適当な相槌を打って聞く事にする。
「まじかよお前。そんな感じだと世間から叩かれるぞ」
「叩かれるってお前……なんでだよ。大体どうやってだよ」
「どうやってって……そんなのどうでもいいんだよ! サッカーだよ! サッカー!」
「サッカー?」
サッカー。
勿論、言葉の意味もルールの基礎も知っている。
芝生の敷き詰められた広大なフィールドで、十一人の人間がたった一つの丸いボールを足だけで蹴り合い、相手のゴールネットを揺らして点を取り合うスポーツだ。
だが、それがなんだと言うのだ。
俺に言わせれば、たかがスポーツだ。
画面の向こうの赤の他人が、勝手にボールを追いかけているだけではないか。
そんな風に朝から顔を真っ赤にして、血管を切れそうにしながら興奮する理由が俺には全く理解できない。
どこかの誰かが勝手に、それが好きだから、あるいはそれが莫大なお金を生む仕事だから、単に他人よりボールを扱うのが上手いからやっているだけの話だ。
大体、目の前で唾を飛ばしている菊池は、サッカーの『サ』の字も掠らない人生を送っているはずだ。
コイツはバドミントン部だ。
来る日も来る日も体育館に籠もり、羽をラケットで打ち返すことに青春を費やしている。
普段は手で道具を扱う人間が、どうして急に足を使うスポーツにそこまでの熱狂を抱けるというのだろうか。
それに、今まで俺と一緒に過ごしてきた中で、コイツの口からサッカーの話題などただの一度も出たことなどなかった。
それが何故、突然発狂したように今更騒ぎ立てているんだ。
「そうだよ! サッカー! 見てないのか?」
「見てないって……は? だから何の話だ? ドラマか? アニメか? 映画か?」
「ワールドカップだよ! ワールドカップ!」
「ワールドカップ?」
ワールドカップ。
その単語を聞いて、ようやく俺の脳内にある薄っぺらい知識の引き出しが開いた。
サッカーという競技における一番大きい大会であり、オリンピックと同様に四年に一度だけ開催される世界的な祭典。
ニュースやネットの記事で嫌でも目にする情報によれば、驚くべきはその圧倒的な視聴人数だ。
サッカーという、地球上で世界で最も人気のあるスポーツと言っても過言ではない競技の世界大会。
国を背負った男たちの熱狂は凄まじく、大体の凄さや規模感は、スポーツに疎い俺にだってぼんやりとは分かる。
だが、それほど他人の勝敗に興味のない俺からすれば、自ら進んでテレビをつけることは愚か、そもそも今の時期にその大会が開催していることすら全く知らない。
完全に別の世界線の出来事だった。
「ワールドカップッ! 知ってるだろ?」
「知ってるは知ってるが別にそこまで……」
「ワールドカップの話してる?」
俺と菊池だけが共有していた、少しだけ呆れを含んだ空気の間に、突如として聞き馴染みのない——いや、この教室にいる者なら誰もが知っているが、俺たちのような日陰者には直接向けられるはずのない、爽やかでよく通る声がすっと入り込んできた。
思わず顔を上げると、先程までの勢いはどこへやら、カエルのように口をパクパクさせて少し驚いた顔で固まる菊池と、そのすぐ横には、クラスのヒエラルキーの頂点に君臨する一軍男子、神崎の姿が当たり前のような顔をして立っていた。
「か、神崎!?」
「ごめんごめん。ワールドカップって聞こえたからついつい。で? ワールドカップのどんな話?」
全く想定していなかったいきなりの異常事態に、菊池は勿論のこと、完全に蚊帳の外だった俺でさえも内心激しく困惑していた。
一体どうして、誰もが振り返るような華やかなオーラを纏ったクラスの一軍である神崎が、教室内でも目立たない俺達二人の、こんな隅っこの小さな輪の中に平然と混ざり込んできているのか。
「……白河……コイツがワールドカップ全く見てないって……話を——」
突然目の前に現れた神崎に対し、菊池はあからさまな動揺を見せ、視線を泳がせている。
普段から関わりのない、クラスという三十人そこそこの狭い閉鎖空間でありながら、俺達からすればもはや雲の上の存在、住む世界が違うと言っても過言ではない神崎という男。
そんな圧倒的強者に対して一生懸命に状況を説明しようとする菊池だが、極度の緊張からか、その喋りはひどく詰まりに詰まっていた。
俺自身、そんな神崎という存在に対して、無意識のうちに感じているヒエラルキーの壁——いわゆる不可侵領域のような感覚が無いと言えば間違いなく嘘にはなる。
だが、菊池のように声まで震わせるほどか? という静かな疑問は拭えない。
確かに彼は、このクラスの中だけでなく、全校生徒が集まる学園内でもトップクラスに有名な男だ。
そう言えば、何故かこのクラスに属する「一軍」と呼ばれる連中は、神崎に限らず、学園内でも広く名を轟かせている規格外の存在ばかりだ。
本来の相場として、クラスの一軍などというものは、あくまでそのクラスの中だけで威張っている井の中の蛙、狭いコミュニティの中だけでの一軍では無いのか?
何故、今年に限って、このクラスだけこれほどまでに学園の有名人が不自然なほど集結し、揃いも揃っているのだろうか。
いても一人か二人なら、偶然で片付くから分かる。
全員だぞ?
漫画や小説じゃあるまいし、現実世界でそんなことあるのか?
そんな下らない考察を脳内で広げつつ、俺は菊池の言葉に内心でツッコミを入れた。
大体、俺は「ワールドカップの存在自体を全く見てない、知らない」なんて一言も言っていない。
まぁ、実際に試合の映像を見ていないのは紛れもない事実だが、俺が明言してもいない確定してない事を、勝手に他人の口から断定的に言うのはどうなんだ?
「白河見てねぇってマジ?」
そんな取り留めのない思考をぼんやりと巡らせている俺に対し、神崎は菊池を飛び越えて、直接気さくに話を振ってくる。
「あぁ。見てない。興味がないな」
「マジかよ。勿体ねぇー」
本当に底抜けに残念そうな顔をして笑う神崎を見て、俺は再び冷めた思考に戻る。
たかがスポーツだ。
ボールを蹴って走るだけの行為に、何故そこまで魂を燃やし、熱くなれるというのか。
……いや、そう言えば神崎は強豪であるサッカー部のエースだったな。
自分が人生を懸けている競技の最高峰となれば、そこに異常なまでの熱が入るのは、同じ人間としてしょうがないとは思う。
理解はできないが、納得はできる。
でも、菊池、お前はなんで——。
バドミントンのシャトルしか追っていないお前が、なんで神崎と同じ熱量で語ろうとしていたんだ。
「ワールドカップ? 何それー」
菊池が何故、専門外のサッカーについてそこまで目を輝かせて熱く語るのか、その根本的な理由を聞こうと口を開きかけた瞬間——。
春の陽だまりのように明るく甲高い、それでいて耳にスッと馴染む甘く心地のいい声が、俺たちのいる空間にふわりと舞い降りた。
振り返るまでもない。
いつのまにか俺たちの背後に音もなく現れたその声の持ち主は、またまたクラスの中心に君臨する一軍であり、この学園で最も華やかで目を惹く一番のギャル——一ノ瀬さんだった。
彼女が首を傾げるたびに、綺麗に巻かれた髪からふわりと甘い香りが漂い、むさ苦しかった男子三人の空間の空気を、一瞬にして鮮やかに塗り替えてしまった。
「いッ……一ノ瀬さん!?」
神崎という学園トップクラスの強キャラの登場にただでさえ限界を迎えていた菊池は、立て続けに現れた圧倒的なヒロインのオーラを前に、完全にキャパシティを超えてしまい、情けない声を漏らしてフリーズした。
むさ苦しい男子三人だけで形成されていたどんよりとした空気の輪の中に、突如として春爛漫の花畑が広がったかのような錯覚を覚える。
彼女が動くたびに、シトラスと甘いバニラが混ざったような香水とシャンプーの匂いが鼻腔をくすぐった。
「一ノ瀬だよー! ねぇねぇ、ワールドカップって何? 美味しいの?」
「はぁ? 美味しい? 何言ってんだ琥珀」
教室の片隅の、日陰者である俺と菊池のささやかな輪の中に、なぜか眩しすぎる一軍トップ層が集結し、俺たちを完全に置いてけぼりにして一軍同士の華やかな会話を繰り広げている。
スクールカーストのバグとしか思えないその意味が分からない光景に、俺と菊池はもはやただの背景オブジェクトと化し、黙って聞き入ることしかできなかった。
しかし、いくらなんでも「美味しい」って——。
「……カップケーキじゃないんだから」
「え? 違うの?」
「えっ!」
やばい。
声に出てたか?
あくまで心の中だけで、誰にも聞こえないようにひっそりとツッコミを入れたつもりだった。
いや、絶対にそのはずだったのだが、もしかして無意識のうちに声に出してしまっていたのか?
いや、目の前で目を丸くして不思議そうに首を傾げている一ノ瀬さんが明確に反応しているということは、間違いなく俺の口から言葉として漏れ出ていたということだ。
やばい。
やらかした。
カースト上位の会話に不用意に口を挟むなど、平穏な高校生活を脅かす地雷行動以外の何物でもない。
背筋に一筋の冷たい汗がツーっと流れ落ちるのを感じた。
「あっそういうこと? 琥珀流石にそれは……」
「だって知らないんだもん! しょうがないでしょ?」
内心で「終わった」と冷や汗を流し、大パニックに陥っている俺の存在を、神崎はあっさりとスルーして無かった事にしてくれた。
いや、俺の渾身のツッコミが完全に空気扱いされたのは、それはそれで男としてのプライドが少しだけ傷つくような気もするが、今の俺にとっては命拾いしたも同然だった。
もしあのまま、俺の放った場違いなツッコミに場がフォーカスされ、変な間が空いて流されていなかったら、教室の隅の空気は凍りつき、俺にとっての居心地は完全な地獄に変わっていただろう。
ありがとうございます神崎さん。
あなたはやはり懐の深い本物の一軍です。
俺は心の中でそっと手を合わせた。
「マジかよ。ワールドカップを知らないなんて事あるのか? ワールドカップってのはサッカーの大会! 世界大会! なぁ、菊池!」
「えっ! あ、うん。そう」
急に話を振られてビクッと肩を揺らし、蚊の鳴くような声で戸惑う菊池のポンコツ具合は一旦置いておいて。
この教室の中に、俺と同じくサッカーやワールドカップというものに全く興味のない人間がいるという事実は、俺にとって大きな救いだった。
それも、他ならぬクラスの中心人物である一軍の一ノ瀬さんが同じ穴の狢なのだ。
彼女の天然発言のおかげで見事に話題が俺から逸れてくれて、本当に助かった。
しかし、いくらなんでもワールドカップという単語から食べ物を連想し、全く知らないというのは、流石に世間知らずが過ぎやしないだろうか?
「この場に二人も見てない奴がいるのかよ! びっくりだな」
「二人? もう一人は?」
「白河も見てないんだとよ」
おい!
神崎、お前さっきまで俺のこと完全に空気扱いしてただろ!
今さっきまで完全に神崎、一ノ瀬さん、そしてフリーズしたまま使い物にならない菊池の三人……いや、菊池はほぼ置物と同義だから実質二人きりで楽しそうに話していただろ!
なんでこのタイミングで、再び息を潜めてやり過ごそうとしていた俺にピンポイントで話題の矛先が移るんだよ!
やめてくれ、俺に光を当てないでくれ!
「ほらー! 知らない人はいるよ! ねー白河!」
「えーっと、知らない人は少ない……と思う」
「ん? ……ん?」
一ノ瀬さんは、俺が口にした言葉の意味を全く理解していない様だ。
だってほら。
綺麗に彩られた大きな瞳が、完全にまん丸になって『目が点』という言葉を体現している。
その間の抜けた表情すらも絵になるのは、彼女の圧倒的なルックスの暴力ゆえだろう。
「えーっと。俺は知ってはいる……かな。ただ見てないってだけで……」
「えっ! じゃあ知らないの私だけ? 嘘!」
「そう……かも?」
少しばかり神崎の言い方が「見ていない」と「知らない」を混同させるような曖昧なものだったこともあり、一ノ瀬さんは、俺もワールドカップというものをカップケーキか何か美味しいお菓子と——いや、流石にそこまでのアホな想像はしていないだろうが、とにかく全く存在すら知らない無知な同志だと思い込んでいたらしい。
この場で完全にワールドカップを知らないのが、自分ただ一人だけという残酷な真実に気がついた一ノ瀬さんは、みるみるうちに耳まで顔を真っ赤に染め上げていく。
「てなわけで、琥珀だけだな知らないのは」
恥ずかしさで俯き加減になっているそんな一ノ瀬さんを、神崎はからかう様に意地悪く、しかしどこか親愛の情を込めてイジる。
「そんな事ないもん! 絶対いるよ! 莉愛とか!」
莉愛。
必死に反論する一ノ瀬さんがすがるように呼んだこの名前は、神崎や一ノ瀬さん同様、クラスのヒエラルキーの頂点に立つ一軍女子、佐伯莉愛のことだ。
彼女は普段から口数が少なくクールで、物事をズバッと切って捨てる、いわゆるサバサバ系女子ってやつだ。
襟足を長めに残した特徴的なウルフカットの髪型も相まって、近寄りがたい少し怖いイメージが先行している。
もっとも、話したこともない俺の完全な偏見によるイメージでしかないのだが。
「佐伯か? 佐伯なら今朝一緒にワールドカップの話をしたぞ?」
「じゃ……じゃあ日葵は? 珊瑚は?」
残念ながら、一ノ瀬さんが咄嗟に考え出した「ワールドカップなんて絶対知らなそう人物選」の第一候補である佐伯莉愛は、神崎の証言によれば、ワールドカップを知っているどころか、今朝早くから最新の試合結果について熱く語り合っていたらしい。
自らの予想が外れ、追い詰められた一ノ瀬さんは、「ならこの二人ならどうだ」とばかりに、別の人物である水野日葵と宮本珊瑚の名前を必死に挙げた。
水野さんは生徒会の役員も務める、クラスを代表するような真面目で清楚な優等生だ。
教師からの信頼も厚い模範的優等生でありながら、決して堅苦しくはなく、友達も多い。
学園中に顔が広く、誰からも一目置かれている水野さんもまた、文句なしの一軍である。
一方の宮本さんは、小柄で常にぽわぽわとした空気を纏う、ゆるキャラみたいな愛らしい女子だが、持ち前の愛嬌で誰とでもすぐに仲良くなる事ができる天才的なコミュニケーション能力を持ち、男女問わず幅広く愛されている。
勿論、改めて言及するまでもないと思うが一応補足しておくと。
宮本さんもまた、このクラスにおける確固たる一軍メンバーだ。
「残念琥珀。昨日、今日あった試合の予想を二人としました」
「嘘ー! 私だけ? 知らなかったの!」
俺、神崎、そしてようやく再起動した菊池の三人は、顔を真っ赤にして絶望する一ノ瀬さんの悲痛な問いに対し、無言のまま同情の念を込めて深く首を縦に振り、揃って静かに頷いた。
「でッでも! 白河は見てないんだよね! なら一緒じゃん! ふぅ、良かったー!」
あまりにも凄まじいテンポと謎の理論で、自分に都合のいいように強引に自己解決していく一ノ瀬さんに、俺の常識的な思考は全くついていけていなかった。
確かに「試合を見ていない」という点に関しては俺も同じだが、存在すら「知らない」ことと、知っていてあえて「見ていない」ことの間には、マリアナ海溝よりも深く、雲泥の差があると思うぞ? と、そんな身も蓋もない正論を頭の中で展開し、危うく口に出してツッコミそうになったが、先程のように心の声が口から漏れ出てしまうという致命的な同じ失敗は、流石に二度はしない。
俺は奥歯を噛み締めて黙秘を貫いた。
——だが、まさかあんなにも遠い存在で、思考回路すら全く違うと感じていた一ノ瀬さん——いや、当時の俺にとっては遠い『一ノ瀬さん』だったが、今となっては気安く呼べる『一ノ瀬』が、こんなにも俺の日常に深く根を下ろすことになるとは。
あの当時の教室の隅っこで、彼女の破天荒なテンポについていけていないと呆れていた俺が知ったら、一体どんな顔をするだろうか。
今はもう、彼女の歩幅についていけていないなどと、不安に思うことは少しもないな——。
と、俺はふと、店内に漂う香ばしい焙煎豆の香りに包まれながら、客から注文されたコーヒーをペーパードリップでゆっくりと丁寧に淹れている途中に、過ぎ去った眩しい過去の記憶を温かく思い返した。




