四十二杯目:「……最高だな」
W杯、日本戦までの暇つぶしになれば幸いです
黒沢という男の、プロ顔負けの流り暢で熱量の高い名実況のおかげもあってか、単調になりがちな短距離走のプログラムは、観客を飽きさせることなくサクサクと小気味良いテンポで進んでいく。
「このレースも中々の接戦でした! 最後は胸の差! 勝ったのは三年一組! さぁさぁ、熱気冷めやらぬまま、続いては注目の第五レース目に行ってみましょーう!」
「嘘! もう琥珀ちゃんの番?」
スピーカーから響く黒沢の弾んだアナウンスを聞いて、隣に座っていた水野が弾かれたように身を乗り出し、目を丸くして驚いた声を上げる。
わかる。
痛いほどよくわかるぞ、その気持ち。
まるで、初めての運動会に出場する我が子の出番を、今か今かとハラハラドキドキしながら見守る親の心境だよな。
今にも手すりから身を乗り出して、架空のビデオカメラを構え出しそうな勢いすら感じる。
「このレースの注目選手は、なんといっても第三レーン、三年二組の早乙女! 女子バスケ部で日々過酷な練習をこなし、鍛え上げられた持ち前のスピードと脚力を、このトラックの上で存分に発揮していただきたいですね!」
「この人だよ、白河」
黒沢の紹介と共にタータンの上に立つ一人の女子生徒を、佐伯がスッと指差した。
予定表を見た時に佐伯が顔を引き攣らせていた、あのバスケ部の先輩だ。
遠目から見ても無駄のない引き締まった体つきをしており、スタートラインでの鋭い眼差しは、見るからに「生粋のアスリートです」というオーラをビンビンに放っている。
「確かに速そうだな。あの人はやっぱりバスケも上手いのか?」
「上手いよ。スピードスターって呼ばれてるくらいだし。……ま、うちには敵わないけどね」
ふっ、と鼻で笑うように言い放つ佐伯。
すごい自信だな。
さすがは実力者というべきか。
彼女は口では余裕の言葉を紡ぎつつも、隣にいる俺の方には一切視線を向けず、獲物を狙う鷹のような鋭い目で、スタート準備に入る選手達の動きをじっと観察し続けていた。
「そしてもう一人! 第五レーンに一際目立つ有名な生徒がいます! 二年四組、一ノ瀬琥珀! 星城海原でギャルと言えば間違いなくこの人でしょう! 校内での人気も絶大ですが、果たしてこの真剣勝負の場では、我々に一体どんな姿を見せてくれるのでしょうか!」
実況の熱い標的が、強敵である早乙女から一ノ瀬へと移る。
スタジアム中に自分の名前が響き渡ったのを聞いた一ノ瀬は、緊張するどころか「いぇーい!」と声が聞こえてきそうなほど満面の笑みを浮かべ、両手でピースサインを作りながらカメラマン(いないが)に向かって思いっきりはしゃいでいるのが、この遠く離れた観客席からでも丸わかりだった。
「……一ノ瀬さんは、ある意味で凄く肝が据わっているね」
俺とは逆方向、佐伯の隣に静かに座っていた九条が、少し呆れたような、それでいて感心したような柔らかい声で呟いた。
「琥珀だもん」
佐伯がクスッと笑って返した、ただその一言に、一ノ瀬琥珀という人間の全てが詰まっていた。
一ノ瀬は確かにバカで、アホで、底抜けに不器用な奴だ。
だけど、こんな何千人もの視線が集まる大舞台のど真ん中であっても、一切自分を飾らずに等身大で楽しもうとするあの圧倒的な自由さは、素直に良いなと思う。
羨ましいとすら感じる。
——ピィーッ!!
突然、空気を切り裂くような甲高い笛の音が鳴り響き、俺達はビクッとして一斉にコースの方へと視線を戻した。
「あはは、琥珀ちゃん、スタート前にはしゃぎ過ぎて審判の先生に怒られてる」
口元に手を当て、肩を揺らしてクスクスと笑いながら水野が言う。
見れば、トラックの中央でスタートのポーズを取るでもなく、未だに観客席に向かって手を振っていた一ノ瀬が、険しい顔をした陸上部の顧問らしき審判に怒られ、ペコペコと頭を下げているところだった。
「……アホだな」
「あぁ。正真正銘のアホだ」
隣で呆れ返って腕を組む神崎の言葉に、俺は心の底から深く同意する。
「おっとぉ! 二年四組一ノ瀬琥珀! アピールに夢中になりすぎて、流石に審判からイエローカードの注意を受けました! いやはや、緊張感ゼロのお茶目で可愛らしい姿ですね!」
すかさず、そのマヌケな様子すらもしっかりと黒沢がエンターテインメントとして面白おかしく実況していく。
俺がもしあんな風に、全校生徒の前で名指しで実況されながら審判に怒られたとしたら、恥ずかしさのあまり顔から火を噴いて、二度と前を向いて歩けなくなるだろう。
穴があったらブラジルまで掘り進んで埋まりたいレベルだ。
しかし、流石は我がクラスが誇る鋼のメンタルギャル、一ノ瀬。
彼女は落ち込むどころか、カメラも回っていないのに「てへへっ」と効果音がつきそうなほど可愛らしく自分の頭を掻き、ペロッと舌を出しておどけてみせたのだ。
全く悪びれる様子のないその姿に、俺たちは呆れを通り越して、もう笑うしかなかった。
「各選手準備が整った様です! まもなくスタートします!」
拡声器を通した黒沢のよく通る実況が響き渡ると同時に、先程までお祭り騒ぎのように熱狂していたスタジアムの喧騒が、まるで潮が引くように一気に静まり返った。
雲一つない抜けるような青空の下、太陽の光を反射して眩しく輝く色鮮やかなトラック。
そこに立つ選手たちへと、観客席からの何千という視線が一斉に注がれる。
この場にいる全ての人間が、息を潜め、固唾を呑んで一つの合図だけを待ち侘びているのだ。
水を打ったような静寂。
耳の奥が痛くなるほどに張り詰めた静寂。
己の心臓の鼓動すらもうるさく感じてしまうほどの、絶対的な静寂。
ひりつくような緊張感と、照りつける太陽の熱気だけが、じりじりと肌を焦がしていく。
……。
バンッ!
「さぁ! スタート致しました!」
空気を劈くピストルの甲高い破裂音を合図に、クラウチングスタートの姿勢から極限まで圧縮されていた選手達が一斉に弾き出される。
力強く蹴り出された靴がトラックを叩き、躍動する筋肉が瞬く間にトップスピードへとギアを上げていく。
全員の瞳の奥には、ただ真っ直ぐにゴールテープだけが映っていた。
「行けー!」
「琥珀ー!」
「頑張れこはー!」
張り詰めた静寂を打ち破るように、俺のすぐ側で仲良し三人の黄色い声援が弾けた。
身を乗り出し、喉を枯らさんばかりの大きな声で、彼女たちは風を切り裂いて走る一ノ瀬へと祈るようなエールを贈る。
「一ノ瀬と早乙女互いに接戦です! 果たして勝つのはどちらか! まもなくゴール! ゴールです! 一ノ瀬! 早乙女! 一体どちらか!」
本当に、瞬きをする暇すらない一瞬の出来事だった。
走る前から速い、速いと周囲がもてはやしてはいたが、いざ蓋を開けてみれば、結果は面白い事に誰も予想し得なかった息を呑むようなデッドヒート。
ゴールラインはこちらの観客席から見ると斜めに位置している為、遠近感が狂い、はっきりとした勝者の姿を捉えることができない。
中央の五十メートル付近を通過した時点では、二人の影は完全に重なり合い、ほぼ横並びだった。
だが、陸上競技——特に極限のスピードを争う短距離走は、後半からの爆発的な伸びがすべてを決するといっても過言ではない。
その決定的な要因は、言うまでもなく『加速』だ。
どれほど優れたスプリンターであっても、スタートの号砲と同時に最高速度へ到達することはできない。
地を這うような低い姿勢から徐々に身体を起こし、限界まで鍛え上げられた筋肉のバネを使って空気の壁をぶち破りながら、後半の加速を伴ってようやく己の最高速度へと到達する。
その残像を引くような姿はひどく美しく、そしてあまりにも儚い。
「出ました! 結果は! 一着……」
黒沢の溜めを作るような発表の瞬間に、俺は思わず息を止め、胸の前で手を握り込みながら固唾を飲んで待つ。
「一着早乙女! 二着一ノ瀬! 三着——」
結果というものは、いつだって無慈悲で残酷だ。
そこに横たわる変えようのない事実というものは、氷のように冷たく残酷だ。
誰かと競い合う勝負というものは、決して情を挟むことのない残酷なものだ。
光輝く勝者がいれば、その足元には必ず深い影を落とす敗者が存在する。
むしろ、世の中は敗者の方で溢れ返っているのだ。
たった一人の栄光ある勝者を頂点として、その下には夢破れた無数の敗者が死屍累々と重なっている。
だからこそ、勝負の世界はこれほどまでに美しく——そして残酷なんだ。
一ノ瀬が負けた。
その事実が、鉛のように重く俺の心にのしかかってきた。
「おっしー! 琥珀すげぇじゃん」
結果を聞いて、すっかり気持ちが泥の底へと沈んでいた俺の耳に、底抜けに明るい神崎の声が不意に入り込んできた。
「うちの部活の先輩と接戦とかすごっ!」
「こは惜しかったねー!」
「でも琥珀ちゃん二位だよ二位! ポイントゲットだよ!」
どうやら、勝負の残酷さに当てられて勝手に一人で暗く沈んでいたのは俺だけの様だ。
こいつら……なんて前向きなんだ。
敗北という重い現実を一瞬で吹き飛ばしてしまうような彼女たちの屈託のない笑顔と弾む声に、俺はすっかり毒気を抜かれ、ふと当の本人の方へと視線を向ける。
トラックの向こう側で激しく息を切らしている一ノ瀬は、悔しさに顔を歪めるでもなく、こちらを見つけて両手を合わせ、少しだけ照れくさそうに口パクで「ごめん!」と言っていた。
その表情は汗に塗れてもなお清々しく、全力を出し切った者の美しい輝きを放っていた。
それを見た神崎達は——
「気にすんなー!」
「良かったよー琥珀ー!」
「こはー!」
「琥珀ちゃんナイスファイト!」
周囲の空気を震わせるほどの、照れくさくて思わずこちらまで赤面してしまいそうになるくらい熱い声援。
鼓膜を揺らすその真っ直ぐで力強い言葉の数々に、俺はただただ驚きを隠せずにいた。
ふと周囲の観客席へと視線を巡らせてみても、一人の敗れた走者に対して、これほどまでに声を枯らし、身を乗り出して全力の応援を続けているクラスなど他には見当たらない。
彼女たちの放つ無邪気な熱量は、広大なスタジアムの中でも異質なほどに眩しく輝いていた。
「どうかな?」
「え?」
唐突に掛けられた声に、固まっていた俺の横へとスッと影が並ぶ。
風に揺れる髪を鬱陶しがるそぶりも見せず、九条は冷たい金属の手すりに細い腕をコトリと置き、身を乗り出すようにしてトラックの方を覗き込んでいた。
「皆いい人でしょ?」
その柔らかい問いかけに促されるように、俺はもう一度、トラックの向こう側で息を整える一ノ瀬に向けて声援を送り続けている神崎達へと視線を移す。
彼女たちはまだ、力いっぱい手を振りながら、届く限りの大きな声を突き抜けるような青空に向かって放ち続けていた。
「ちょっと熱すぎるな」
「僕も最初は馴染めなかったよ。でも段々と心地良くなってくるんだ。あぁ、皆と友達でよかったってね」
俺の少しばかり皮肉めいた返答を聞いた九条は、不快になるどころか、目を細めて本当に嬉しそうに笑いながらそう言った。
その横顔は、まるでかけがえのない宝物を見つめているかのように優しかった。
「馴染めなかった?」
「うん。僕ってどう見ても熱血じゃないでしょ?」
「それはそうだが……」
確かに、九条という人間は、太陽のように底抜けに明るい神崎や山波とは対極に位置する、いわゆる冷静沈着なタイプだ。
どんな時でも感情の波を一定に保ち、静かな微笑みを湛えている。
今の神崎達のように、顔を真っ赤にして喉が千切れるほどの大きな声を叫ぶ姿など、どれだけ想像力を働かせても脳裏に浮かばないくらい、彼は『静』の人間だった。
「だから僕は浮いていたと思ってたんだ」
「浮いていた?」
「このグループの中でね」
九条の口からこぼれた意外な本音に、俺は少しだけ目を見張った。
知らなかった。
俺から見れば、このクラスになってからというもの、九条はずっと当たり前のように神崎や一ノ瀬達のグループの中心に自然と溶け込んでいるように見えていた。
てっきり、誰もが羨むような、生まれついての結束力を持った仲良し一軍軍団なのだとばかり勝手に思い込んでいたのだ。
彼がそんな疎外感を密かに抱えていたなんて、想像すらしていなかった。
「でも見てみて。ほら」
言葉を切ると、九条は改めてフェンス越しに身を乗り出している神崎の方へと、白く細い指をスッと差し向ける。
それを見た俺は促されるままに、視線を再びその指の示す方向へと滑らせた。
「あんなの面白いくらい変でしょ?」
「……言っちゃ悪いがな」
「でもそれと同時に最高でもある」
トラックの喧騒を遠くに聞きながら、九条は真っ直ぐに前を見つめ直し、どこか遠い過去の記憶を愛おしく懐かしむような、ひどく大人びた顔をする。
心地よい初夏の風が吹き抜け、彼の整った前髪をサラリと揺らした。
「こんなにいい人達と出会えるなんて一生に一度あるかないかだ。奇跡だよ」
「……」
「いつからかそう思う様になったんだ。白河君、君はどう思う?」
脳裏に様々な思考が巡る。
所詮は、ただの学校行事である体育祭だ。
たった十数秒で終わってしまう、ただの百メートル走だ。
いつかは色褪せてしまうかもしれない、ただのありふれた行事だ。
偶然同じ教室に集められただけの、ただのクラスメイトだ。
記録に残ればすぐに忘れ去られる、ただの二位という結果だ。
俺の世界を満たしているのは、そんな『ただの』出来事ばかりのはずだった。
ただの——。
でも、その『ただの』、ほんのちょっとした日常の出来事に、あんなにも自分をさらけ出してワイワイと騒げる。
他人の結果に対して、自分のことのように本気になって一喜一憂できる。
その姿は、無関心を装っていた俺の心に小さな、しかし確かな波紋を広げ——。
ちょっと——。
ほんのちょっとだけ——。
「……最高だな」
「でしょ?」
いつもの涼しげな表情を崩し、まるで悪戯を成功させた子供のように『ニシシ』と無邪気に笑う九条。
心の底からの感情が溢れ出したようなその満面の笑顔を、俺は初めて見た。
一歩引いた場所にいると思っていた彼もまた、あの中で誰よりも熱い心を秘めた最高の一軍であり、最高のクラスメイトであり——俺の大切な、最高の友達の一人なのだと、夏の太陽よりも眩しいその笑顔が教えてくれた。
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グラウンドを焦がすような熱狂に包まれた短距離女子の部が終了し、トラックの砂埃が風に舞って静かに落ちていく。
次に控える男子の部が始まるまでの少しの空き時間、観客席にはどこか安堵したような、それでいて次の戦いを待ちわびるような、心地よい弛緩と緊張が入り混じった独特の空気が漂っていた。
照りつける太陽の光は相変わらず眩しいが、吹き抜ける初夏の風が火照った肌を優しく撫でていく。
「まもなく百メートル男子の部が始まりまーす! 準備の為暫しおまちくださぁーい!」
突如として、ノイズ混じりの拡声器を通して、黒沢のよく通る声が広大な場内にビンビンと響き渡った。
彼女の底抜けに明るい声は、スタジアムの隅々にまで染み渡り、再び人々の闘争心に火をつけて回るかのようだ。
「ここのアナウンスもお前かよ」
神出鬼没すぎる彼女のバイタリティに呆れ半分、感心半分の溜め息をこぼし、俺が小さくそんなツッコミを入れた、まさにその時だった——。
「ごめーんッ! 負けちゃったぁー!」
喧騒を切り裂くように、聞き慣れた声が鼓膜を揺らす。
それは元気な大声でありながら、いや、無理に元気を装っているからこそ、どこか語尾に拭いきれないしょぼくれ感と悔しさを滲ませた声だった。
「琥珀!」
その声のニュアンスを誰よりも早く、そして正確に察知して反応したのは佐伯だった。
弾かれたように立ち上がり、声の持ち主の愛称を優しく呼ぶ。
人の波を掻き分けるようにしてこちらへ向かってきたのは、全力を出し切り、五レース目を走り終えたばかりの一ノ瀬だった。
額には玉のような汗が光り、肩で大きく息をしているその姿からは、つい先程までの死闘の余韻が色濃く漂っている。
「莉愛ぁー」
佐伯の顔を見た瞬間、一ノ瀬はそれまで張っていた気の糸がプツンと切れたように、今度は誤魔化しようのない、はっきりと明らかなしょぼくれた声をあげて、崩れ落ちるように佐伯の元へと駆け寄っていく。
「はいはい」
悔しかったね、よく頑張ったね。
そんな言葉外のメッセージを全て込めるように、分かってましたよとばかりに、佐伯は聖母のような慈愛に満ちた笑みを浮かべて、飛び込んできた一ノ瀬の華奢な身体を正面からしっかりと受け止めた。
女の子同士特有の、柔らかく温かいハグで再会と健闘を分かち合う、あの尊い儀式だ。
佐伯は一ノ瀬の背中に腕を回して力強くハグをしながら、もう片方の手で、太陽の光を透かしてサラサラと輝く一ノ瀬の琥珀色の髪を、まるで壊れ物を扱うかのようにゆっくりと、何度も優しく撫でる。
「こはー惜しかったねー!」
そのひどく温かで美しい二人の空間に、宮本が小走りで駆け寄っていく。
さらに宮本に釣られるようにして、水野も心配そうな、けれど労いの笑みを浮かべて駆け寄り——。
「琥珀ちゃん凄い速かった!」
「珊瑚ー! 日葵ー!」
佐伯の胸に顔を埋め、思う存分その温もりに甘えて悔しさを溶かした後、一ノ瀬は顔を上げ、次に甘える人間へと素早く標的を変える。
二人に向かって両手を広げ、抱きつきにいく一ノ瀬。
佐伯にされたのと同じ様に、今度は宮本と水野に頭をわしゃわしゃと撫でてもらい、口々にその健闘を讃えられ、心の底から慰めてもらった一ノ瀬は、ふっと息を吐き出した。
「よし! 復活ッ!」
先程までのしょぼくれた空気は完全に霧散していた。
両腕を勢いよく上に掲げ、細い腕に全く存在しない架空の力瘤を作ってみせた一ノ瀬は、ひまわりのようにパッと花開くような満面の笑顔で、元気よく高らかに宣言した。
その瞳にはもう涙の欠片もなく、いつもの力強い輝きが戻っている。
「それは何よりだ」
不器用な俺が下手な言葉をかける前に、彼女の最高の友人たちが完璧なケアをしてくれた。
幸いな事に、もう俺が一ノ瀬の事を慰める為に頭を悩ませる必要は完全に無くなったのだと悟り、俺は密かに安堵の息を吐きながら、心の底からそう思った。
「早乙女先輩だっけ? 速いんだろ? すげぇよ琥珀」
「そうそう! 接戦だったよね」
一ノ瀬の完全復活を見届けた神崎と九条が、改めて彼女の素晴らしい走りについて、純粋な驚きと称賛を込めて評価する。
「でしょ? 結構頑張ってたよね?」
途端に得意げな表情になり、えっへんと胸を張って自分自身を指さす一ノ瀬。
先ほどの悔し涙はどこへやら、そのコロコロと変わる表情は見ていて全く飽きない。
「あぁ。ガチガチの運動部相手にあれはすげえよ」
「うん。リレーも期待できるね」
九条の冷静な分析の言う通り、一ノ瀬の走りは単なる善戦に留まらず、クラスにとって間違いなく脅威的な強みであり、十分な戦力になることが明白に分かった。
あの圧倒的なストライドと後半の伸びは、他の競技でも必ず通用する。
それが目に見える形で分かった事が、俺達クラスメイト全員の士気を高め、そして何より、敗北を味わった一ノ瀬自身の胸に確固たる自信の炎を灯すことになったのだ。
「さぁ! お待たせいたしました! 男子の部! 入場です!」
心地よい和やかな余韻を切り裂き、黒沢のテンションが最高潮に達した声が場内に鋭く響く。
それを合図に、女子の部の美しい余韻でひと時の間静まっていた場内が、地鳴りのような歓声と共に再び爆発的な盛り上がりを見せ始めた。
「来た! 大河ー!」
神崎は弾かれたように手すりへと身を乗り出し、前のめりになって、トラックへ姿を現した山波に向けて腹の底から大きな声で声援を送る。
先ほどの女子の部では、黄色い鈴を転がすような高音の歓声が空気を支配していたが、今度は男子の部ということもあり、スタジアムのいたるところから「行けぇ!」「ぶっちぎれ!」といった、野太く地響きを立てるような雄叫びめいた声援が飛び交っている。
明らかに声の圧と、男子の割合が多い熱気がグラウンド全体を飲み込もうとしていた。
「ねぇ......白河」
地鳴りのような歓声がスタジアム全体を揺らしている最中、ふと、耳元をくすぐるような微かな囁き声が聞こえた。
同時に、俺の肩を指先でチョンっと突く、ひどく控えめで柔らかな感触。
熱狂に包まれた周囲の空気とは明らかに違う、そこだけ切り取られたような静かな気配に惹かれて振り向くと、いつの間にかすぐ背後に忍び寄っていた一ノ瀬が、上目遣いで俺の顔を覗き込んでいた。
どうやら彼女が俺を呼んだみたいだ。
「一ノ瀬。どうした?」
「ちょっと」
周囲の喧騒に掻き消されてしまいそうな声で短く応えると、一ノ瀬は顔の横で小さく手招きのジェスチャーをする。
その瞳はどこか真剣で、普段の無邪気さとは違う不思議な熱を帯びているように見えた。
しかし、今はまさにクラスメイトである山波が大舞台で走ろうとしている、その直前だ。 クラス全員が息を呑んでトラックに釘付けになっているこのタイミングで、一体何の用があるというのだろうか。
俺の頭の中には疑問符ばかりが浮かんでいた。
「これから山波だろ? 何の用......」
「いいから」
「お......おい!」
手招きをされても状況が呑み込めず、その場に縫い止められたように動かない俺の態度にしびれを切らしたのだろう。
一ノ瀬はズンッと距離を詰め、戸惑う俺の手首をぎゅっと力強く掴むと、有無を言わさぬ強引さで観客席から引き剥がすように連れ出した。
先程までの敗北で落ち込んでいた様子など微塵も感じさせないその強い引きに、俺は抗う間もなく引きずられていく。
熱気に満ちた観客席の階段を駆け下り、ひんやりとした薄暗いコンクリートの通路を抜け、スタジアムの喧騒が遠い波の音のように小さくなった頃——連れて来られたのは、見渡す限り誰の姿もない、完全に人気が途絶えた会場の外だった。
「なんだよ! こんなところまで連れてきて!」
突然の凶行にされるがまま引っ張られてきた俺だったが、まさかスタジアムの外という完全に隔離された空間まで連れ出されるとは微塵も思っていなかった。
掴まれた手首からダイレクトに伝わってくる彼女の高い体温と、世界から取り残されたように二人きりという非日常的な状況に、少しだけ自分の鼓動が早まるのを感じる。
しかし、流石に理由も分からないままこれ以上無言で連れ回されるわけにも行かず、俺は立ち止まって一ノ瀬を問い詰めた。
「......」
「......なんで無言なんだよ!」
「私......決めた!」
俯いたまま、きゅっと悔しげに唇を噛み締めていた一ノ瀬は、自らの中にあった迷いや葛藤という重い扉をこじ開けるような決意を込めて、バッと顔を上げた。
そして、逃げ場のないほど真っ直ぐな、射抜くような強い視線で俺の瞳の奥をじっと捉えてくる。
初夏のじりじりとした息苦しい気温には似つかない、どこか涼しげで心地のいい風が、二人の間をふわりと吹き抜けた。
太陽の光を浴びて透き通る一ノ瀬の琥珀色の髪が、まるでスローモーションの映像のように美しく宙を舞う。
風に乗って鼻先を掠めたのは、全力で走り切った後の微かな汗と、彼女から香るほんのり甘いシャンプーの匂い。
誰もいない静寂の空間で、俺と一ノ瀬、二人だけの時間が完全に止まっていた。
日本を全力応援しましょう!




