四十一杯目:「それでは行きましょう! 第一種目! 百メートル走ー!」
圧倒的な熱量とカリスマ性を孕んだ生徒会長による名演説の余韻が、広大なスタジアムの空気にまだビリビリと残っている。
その熱を帯びた声に急き立てられるようにして、青々とした芝生の上に整列していたそれぞれのクラスが次々と解散し、点の集まりから人の波となって、自分たちの待機場所である観客席の座席へとぞろぞろと戻っていく。
ただし、プログラムのトップバッターを飾る最初の競技、短距離走に出場する各クラスの代表メンバーたちだけは、ウォーミングアップのためにその場に残ることになる。
うちのクラスから選出された有名所でこの短距離に出場するのは、一ノ瀬と山波の二人だ。
「っしゃ! 一発一位取ってくるぜ!」
真っ白な歯を見せてニカッと笑い、太陽に向けて力強くガッツポーズをしながら意気込む山波。
元々底抜けに明るく、クラスのムードメーカーである彼だが、こういう大舞台の熱気にあてられると、その熱量はさらに倍増するようだ。
程よく日焼けした肌と、スポーツで鍛え上げられた無駄のない筋肉。
内側から湧き出るような自信に満ちたその姿は、不思議と「こいつなら本当に余裕でトップで駆け抜けてくれるだろう」という謎の説得力と安心感を周囲に彷彿とさせる。
対するもう一人の代表である一ノ瀬はと言うと、先ほどの開会式での眠気などどこへやら、いつの間にか煙のようにスッと現れていた宮本と手を繋ぎ、その場でピョンピョンと跳ねながら「キャッキャ」と楽しそうにはしゃいでいる。
まるでこれから過酷なスプリント勝負に挑むのではなく、放課後にクレープ屋へでも向かうかのようなリラックスぶりだ。
その仕草や高い笑い声は、いかにも年相応の女子らしい華やかさに満ちている。
それにしても、どうしてどの女子も、ああやって集まると謎の言語で通じ合い、やたらと密着して独特のはしゃぎ方をするのだろうか。
男の俺からすると、永遠に解読できない謎の生態を見ているような気分になる。
「出場する選手達は、速やかにステージ前に集合して下さい」
スピーカーを通した運営委員の無機質なアナウンスと、短距離担当の係生徒が拡声器を使って出場者に呼びかける声が、夏の気配を含んだ風に乗ってグラウンドに響き渡った。
「じゃっ! 行ってくるぜ」
その合図を聞くや否や、高いテンションを維持したままの山波は、足裏で芝生を弾くようにして、勢いよくステージ前にある集合場所へと走って行った。
その頼もしい背中を見送りながら、俺達は「頑張れよ」「転ぶなよ」と、口々に声をかけて温かく送り出す。
「琥珀ちゃん! 呼ばれてるよ?」
一方、宮本とのはしゃぐ事に夢中になりすぎて完全に自分の世界に入っていた一ノ瀬は、グラウンド中に響き渡っていたはずのアナウンスに全く気づいておらず、隣で苦笑いを浮かべた水野の冷静な声掛けで、ようやく自分が呼ばれているという事実に気づいた様だ。
「嘘! 本当じゃん! 皆集まってる! 皆行ってくるね!」
遠くの集合場所で他の選手たちが整列し始めているのを見て、一ノ瀬は目を丸くして大げさに驚く。
そして、俺達のグループだけでなく、その場にまだ残っているクラスメイト全員の耳に届くような特大の声を出し、アイドル顔負けの満面の笑みで両手をブンブンと大きく振りながら、小走りで向かって行った。
「いいから早く行け!」
集合に遅れそうになっているというのに、後ろ歩きになりながら未だにこちらへ向かってのん気に手を振り続ける一ノ瀬の姿を見て、俺は呆れ半分に声を張り上げてツッコミを入れた。
二人の健闘を祈りつつ、出場者ではない俺達は、先に待機場所へと進む他クラスの生徒たちの長い列の後に続いて、ゆっくりと歩き始める。
照りつける太陽の下から、スタジアムを囲う巨大なコンクリートの内部へと足を踏み入れると、ひんやりとした日陰の空気が体を包み込んだ。
一年生の時、去年の体育祭でも痛感したことだが、このスタジアムは移動のスケールも規格外で、自分の席に辿り着くまでに想像以上に意外と距離がある。
何しろ、広大な芝生のフィールドから一度中央にある競技場入り口のゲートを通り抜け、薄暗く果てしなく続くコンコースの直線通路を延々と歩き、さらにそこから観客席の上段へと続く急な階段をいくつも登らなければならない。
しかも、俺達四組に割り当てられた観覧席である待機場所は、この入り口からちょうどグラウンドを半周した『真反対』のブロックに位置しているのだ。
そこまで重い足を引きずって歩かなければならないと思うと、それだけで一つの競技を終えたかのような疲労を感じる。
「絶対わざとでしょ」
そんな徒労感に苛まれながら、ひたすらに長い道のりについての考え事をして無言で歩いていた俺の横で、突如として佐伯が周囲の温度を数度下げるような、恨み節の籠った低い声でボソッと呟く。
「え? 何がだ?」
俺は思考の海から引き上げられ、薄暗い直線通路を歩きながら隣を歩く佐伯の顔を覗き込んで尋ねる。
彼女の端正な横顔には、普段のクールさとは違う、明確な苛立ちの色が張り付いていた。
「あの畜生会長。絶対うちに嫌がらせで、こんな遠い待機場所にしたに決まってる」
「そんな事は……あるかもな」
彼女の口から飛び出した『畜生会長』という物騒すぎる単語に一瞬ギョッとしたが、俺はすぐにその言葉を否定しようとして、言葉を飲み込んだ。
ふと記憶の糸を思い返してみれば、隣を歩くこの佐伯という少女は、あろうことか全校生徒の頂点に君臨するあの絶対的権力者、如月会長に対して、過去に真正面から喧嘩を売ったという恐ろしい武勇伝を持つ人間なのだ。
先ほどまでの開会式で見た、彼の微塵も隙のない完璧主義で冷徹な性格。
そして、あの感情を排したような合理的すぎる采配。
それらを総合して考えると、過去の遺恨を理由に、権力を乱用してしれっと一番遠くて不便な場所を佐伯のいるクラスに割り当てるくらいの陰湿な嫌がらせは……あの男なら、息を吐くように自然にやってのけるかもしれない。
俺はコンクリートの冷たい壁を見つめながら、妙に納得して深く頷いてしまった。
「なぁ佐伯。一つ聞きたいんだが」
「何?」
スタジアムの奥へと続くコンクリートの薄暗い通路には、俺たちの足音と、外から漏れ聞こえる歓声がくぐもって反響している。
ひんやりとした空気が漂う中、畜生会長こと絶対的権力者である如月会長への理不尽な怒りをまだ生々しく残したまま、あからさまに苛立った低い声で返事をする佐伯。
ピリピリとした負のオーラが彼女の華奢な背中から立ち昇っているようで、完全に巻き込み事故の様相を呈している。
俺はあの因縁には全く関係ないのだから、どうかその鋭い怒りの矛先をこちらに向けないでほしいと、冷や汗をかきながら内心で切実に願った。
「山波はなんとなく足の速さがわかるが一ノ瀬はどうなんだ?」
グラウンドに残してきた二人の代表選手の顔を思い浮かべながら、俺は素朴な疑問を口にする。
山波に関しては、彼が日頃から様々な運動部の助っ人として引っ張りだこになっている、我が校が誇るスーパー助っ人であるという周知の事実がある。
彼の筋肉の付き方や普段の身のこなしを見れば、バネのようにしなやかにトラックを駆け抜ける、その圧倒的な足の速さは容易に予想できる。
実際、放課後のグラウンドで行ったリレーの練習の時も、彼の弾丸のようなスタートダッシュとトップスピードは群を抜いて速かった。
だが一方で、一ノ瀬の運動能力に関しては完全に未知数だった。
この学校の体育の授業は完全に男女別で行われるため、男子である俺が他の女子生徒の運動能力の平均値など知る由もない。
いつも明るくキャピキャピと笑い、最新のトレンドや美味しい食べ物の話ばかりしている彼女が、トラックの上で一体どの程度の位置に属するのか。
陸上部顔負けの隠れた俊足の持ち主なのか、それとも女子高生らしいごくごく普通の平均的なタイムなのか、もしくは運動音痴で致命的に遅いのか。
あそこまで自信満々に代表の座に就いた彼女の本当の実力が、俺は単純に気になっていた。
「琥珀? 普通くらいじゃない? 平均よりちょい速いくらいだと思うけど?」
足を止めることなく、佐伯はさも当然のようにあっさりと答えた。
まぁ、彼女の普段の様子からして大体の予想はついていたが、どうやら一ノ瀬の走力は学年全体で見ても平均点より少し毛が生えた程度らしい。
それなのに、ホームルームで体育祭の出場競技を決める時、あそこまで目を輝かせて、誰よりも早く自信満々に「私、短距離走る!」と立候補出来たのは、彼女特有のあの底抜けに明るい性格と、謎のポジティブな自己肯定感の賜物なのだろうか。
「確か対戦相手は予定表に載ってたよな。勝てそうか?」
「うーん、ちょっと待ってね」
佐伯は歩きながら、ジャージのポケットから綺麗に四つ折りにしてあるプリントを取り出した。
事前に全校生徒に配られているその体育祭の予定表には、全学年の出場する選手のフルネーム、どのコースで誰が誰と走るのか、そしてどのクラスと戦うのかという詳細な組み合わせデータが全てびっしりと記載されているのだ。
「えーっと琥珀は……あった。五レース目……ゲッ」
薄暗い通路の照明にプリントをかざし、文字の羅列を目で追っていた佐伯の動きがピタリと止まる。
そして次の瞬間、予定表を見た彼女の端正な顔が、信じられないものを見たかのように明らかな絶望に引き攣った。
「なんだ? どうした?」
「バスケ部の先輩がいる」
佐伯の顔が引き攣った決定的な原因は、隣のレーンに記されたその名前だったらしい。
バスケ部といえば、この学校でも一、二を争うほど厳しい練習メニューをこなし、日夜体育館を走り回っている体力お化けの集団だ。
佐伯もその一人なのだが......。
しかも相手は上級生。
だが、佐伯の顔があそこまで引き攣るということは、ただの部員というだけではないのだろう——。
「速いのか?」
「うん。速い。これは琥珀、厳しい戦いになりそうだね」
佐伯が重々しく頷いたことによると、その先輩は部内でもトップクラスのスピードを誇るらしく、残念ながら一ノ瀬は良くて二番手、一位を取るのは絶望的かもしれないらしい。
日頃から鍛え抜かれたアスリートの脚力に対し、直前までジャンクフードを胃袋に詰め込んでいたギャルが挑むには、あまりにも残酷で難しすぎる相手なのだろう。
「他はどうだ?」
プリントを覗き込みながら、俺は状況の打破を模索する。
一位は無理だとしても、二位、或いは三位に食い込む事ならいけるかもしれない。
何も、絶対に全ての競技でトップの一位を取らなければ総合優勝に手が届かない訳じゃないのだ。
幸いな事に、星城海原の体育祭は完全な順位ポイント制を採用している。
トップが最も高いのは当然だが、上位から順に細かく高いポイントが割り振られていく。
例え華々しい一位になれなくても、諦めずに二位、三位に滑り込む事で、少なくとも俺達のクラスは着実にポイントを手に入れる事が出来る。
その泥臭い小さな積み重ねこそが、最終的な勝敗を分けるのだ。
「先輩だけだね。それ以外は部活してないと思うし」
佐伯が残りの名前を素早く分析した結果、この五レース目で決定的に気をつけるべき強敵は、佐伯の知るその先輩一人の様だ。
とは言っても、ここまで来てしまった以上、観客席に向かっている俺達は、トラックの上で戦う彼女のために物理的に何もしてやる事が出来ない。
炎天下のグラウンドで、プレッシャーと戦いながら己の限界まで足を動かして頑張るのは、俺達でも他の誰でもなく、今まさにスタートラインに立とうとしている出場者の一ノ瀬なのだから。
俺達に出来る事といえば、遠く離れた観客席から彼女の姿を見守り、精一杯応援する事くらいだ。
せめて、彼女の耳に届くくらい大きな声だけは出そう。
あの能天気な笑顔が絶望に染まらないようにと、俺はコンクリートの壁を見つめながら密かにそう心に誓った。
「琥珀負けず嫌いだからねー。もし一位以外ならその時は御機嫌取りよろしく白河!」
ふと、隣を歩いていた佐伯が、悪戯を思いついた小悪魔のような笑みを浮かべ、バァン!と容赦のない力強さで俺の背中を叩いた。
コンコースに乾いた音が響く。
その唐突な物理的衝撃と痛みに、俺は一瞬何が起きたのか、そして彼女の口からどんな理不尽な要求が飛び出したのかを脳が処理しきれず理解できなかったが、背中のジンジンとした痛みと共にすぐに意識を取り戻す。
「は? 皆で励ませばいいだろ? 何で俺だけなんだよ!」
「いいからいいから」
全くもって訳がわからない。
何故、敗北して落ち込むであろう一ノ瀬の面倒くさい尻拭いを、この俺が単独で引き受けなければならないのだ。
一人よりも二人。
二人よりも、クラスの皆で束になってワイワイと励ました方が、あの寂しがり屋の彼女の性格上、絶対に立ち直りが早いに決まっている。
それに、負けず嫌いのギャルが思い通りにいかずに拗ねて不機嫌になった姿など、想像しただけで胃の粘膜が削り取られそうなくらい重たくて厄介だ。
それはまるで、開会式前のあの暴力的なカロリーの塊である大量の食べ物を、全て一人で無理やり食べさせられた後の様な、逃げ場のない胃もたれと絶望感に似ていた。
俺はこれから訪れるかもしれない理不尽な未来のタスクに、暗い通路の中で一人、深々と重いため息を吐き出した。
「何何? 何の話?」
ケタケタと意地悪に笑う佐伯の顔と、これから訪れるかもしれない一ノ瀬の不機嫌によるひどい胃もたれを想像し、思わず眉間に皺を寄せて苦い顔をする俺。
そんな二人の間に流れていた少しだけ殺伐とした空気の隙間へ、スポッとパズルのピースがハマるかのような見事な素早さで入り込んできたのは宮本だった。
それは、彼女のその小動物のように小柄な体型と、ふわりとした軽い足取り故にできる神出鬼没な行動だ。
薄暗いコンクリートの通路で、ほんのりと甘いシャンプーの香りを漂わせながら、突然自分のすぐ脇腹の空間からひょっこりと顔を出した宮本に対し、俺は心臓が跳ね上がるほど当然のように驚いた。
「何だよ急に!」
「莉愛が笑ってたから何かなーって思って」
少し離れた背後をマイペースに歩いていたはずの宮本は、前方を歩く佐伯の華奢な肩が微かに揺れているのを目ざとく見つけ、一体何をそんなに楽しそうに話しているのだろうと純粋な好奇心を刺激されて気になった様だ。
大きな瞳をパチパチと瞬かせながら、俺と佐伯の顔を交互に見上げている。
「一ノ瀬が勝てるかどうかの話をしてたんだ」
「なるほどなるほど」
俺が事の顛末を短く説明すると、宮本は納得したように、その小さな頭を小気味良いリズムで縦に何度かコクコクと振る。
さらさらとした髪が揺れ、彼女が持ち込んだそのふんわりとした空気が、俺の抱えていた重苦しい不安を少しだけ中和してくれたような気がした。
「で、一人厄介な人がいるみたいだ」
「琥珀なら大丈夫でしょ」
俺がプリントの情報を元に懸念材料を伝えても、宮本は宮本で、隣にいる佐伯と全く同じように、微塵も疑う様子なくあっさりとそう言い切った。
そこには、一ノ瀬に対する絶対的な信頼と、根拠のない楽観的な安心感があるみたいだ。
なんだ?
俺だけか?
もしかして、先の先まで最悪のシチュエーションを想定して、一人で勝手に胃を痛くして心配しているのは、このグループの中で俺だけなのだろうか。
「大丈夫って言っても……」
「白河」
「何だよ」
俺を温かく迎え入れてくれた、このクラスの為に。
全員で掲げた、総合優勝という目標の為に。
どうすれば少しでも上位に食い込めるのか。
どうすれば確実に勝てるのか。
どうすれば——。
スタジアムの通路に響く他の生徒たちの喧騒を遠くに聞きながら、まるで泥沼のような暗い思考の螺旋を一人でグルグルと巡らせていた俺の鼓膜を、凛とした声が打つ。
足を止めた佐伯は、振り返って俺を真っ直ぐに見た。
「楽しも? 体育祭だよ? 楽しむべきだよ」
スッと体を傾け、少し下から覗き込むようにして俺の顔のすぐ近くまで顔を寄せる佐伯。
薄暗い通路の僅かな光を反射して、彼女の吸い込まれそうなほど透明な瞳が、俺の強張った表情を真っ直ぐに捉えていた。
その言葉の響きに、俺はハッとして息を呑んだ。
過去のトラウマを乗り越えるきっかけをくれ、俺をこの眩しい輪の中へと暖かく迎え入れてくれたクラスの皆の為に。
コイツらへ何としても恩返しをしなければならないという強すぎる思いとプレッシャーのせいで、無意識のうちに、俺の顔からは完全に余裕と笑顔が消え失せていたのだ。
そうか。
よくよく考えてみれば、これは己の人生を賭けた命懸けの大会でも何でもないのだ。
負ければ全国大会への道が絶たれるわけでも、俺の将来の進路が致命的に決まってしまうようなシビアな物でも決してない。
ただこの瞬間、年に一度の『体育祭』という青春の巨大なイベントを、他の誰でもない、今目の前にいるコイツらと一緒に心の底から楽しむべきなんだ。
くだらない冗談を言い合って笑って、全力で走って勝って喜びを爆発させて、もし負けたとしても皆で一緒に本気で悔しがって、二度と戻らないこの瑞々しい時間を全力で共有して過ごす。
そんな、高校生としてあまりにも当たり前で、本来そうあるべきだった一番大切な根幹の事を、俺は勝敗という呪縛に囚われて完全に忘れてしまっていた。
「確かに勝ちたいし、勝って優勝する事が目標だけど、今の白河はなんか自分で自分を追い込んでるみたい。まぁ、白川のことだからリレーで一杯一杯だと思うけど、うちらと楽しも?」
「なんかよく分かんないけど私も同じこと思ってる……事にするね?」
「……宮本よく分かんないなら言わなくてもいいぞ」
俺の心にまとわりついていた真っ黒な靄を優しく振り払ってくれた佐伯と、その横で空気を読んでいるのかいないのか分からない、絶妙に間抜けで可愛らしい相槌を打つ宮本。
その二人のおかげで、両肩にのしかかっていた目に見えない重い鉛のような荷物が、スッと音を立てて降りたのだろう。
俺の口からは、先程までの苛立ちが嘘のように、自然と少しの笑い声と安堵の息がこぼれ出ていた。
急遽リレーのアンカーという大役に選ばれた事。
クラスの期待を背負い、絶対に勝たないといけないという強迫観念。
全員で笑って総合優勝を掴むという高すぎる目標。
そして何より、あの日のように、また過去にしてしまった取り返しのつかない失敗を繰り返さない様にしなければならないという恐怖。
それらの思いが何層にも重なり、募りに募って、俺は知らず知らずのうちに自分で自分自身の首を絞め、暗い場所へと追い込んでいた。
だけど、その息が詰まるような苦しい思いも、二人の——いや、この眩しい皆のおかげで、今は朝靄が晴れるように綺麗に消え去っていた。
楽しもう。
佐伯の言う通り、先の事なんて考えず、ただひたすらにこの瞬間を。
人生でたった一度っきりの、熱くて青い高校生という限られた時間を。
迷うことなく、誰の目も気にすることなく、心の底から楽しむべきだ。
俺に光を教えてくれた、この最高の——少し騒がしくて世話の焼ける、一軍達と一緒に。
「お待たせいたしました! 選手の準備が整った様なので! こーこからは放送部部長! 黒沢がお送り致しまーす!」
指定されたブロックの観客席に到着し、ようやく腰を下ろして息をついた正にその瞬間。
巨大なスタジアムの四方に設置されたスピーカーから、突然場内に響き渡った特大のボリュームの声に俺達は肩をビクッとさせて驚く。
無機質な業務連絡とは対極にある、まるでプロのDJか実況アナウンサーのように滑らかで流暢な喋り方。
そして、これから始まる祭典を全力で煽るような、如何にもテンションマックスの男の声だった。
「びっくりしたっ。急に何?」
突然の爆音の声を聞いた宮本が、小動物のように目を丸くして驚き、座ったままポンッと体を軽く浮かせる。
「それでは行きましょう! 第一種目! 百メートル走ー!」
黒沢と名乗った男の底抜けなテンションに完全に釣られ、場内にひしめき合う学生や保護者の観客席から「うおおおおっ!」と地鳴りのような歓声が上がる。
その物理的な衝撃は、コンクリートで囲まれた巨大なスタジアム全体がグラグラと揺れているかの様な錯覚を覚えるほどの熱量だった。
「何? 有名な人?」
熱気に包まれて一気にスタジアムの空気を掌握した、黒沢という謎の男について佐伯が不思議そうに尋ねる。
「いや、俺は知らない。放送部って言ってたか? そもそも、この学校に放送部なんてあったのか?」
俺は一年以上この星城海原で過ごしてきたが、放送部なんていう部活動の名前は一度も耳にしたことがない。
そんな部活が人知れず存在していたのか?
ていうか、普段は一体何をしている部活なんだ?
記憶を辿ってみても、少なくとも去年俺が経験した一年生の時の体育祭では、そんな派手な演出は一切なかった。
あったのは、運営委員の生徒が台本を棒読みするだけの、単調で無機質なアナウンスのみだったはずだ。
「お前ら、知らないのか? 放送部は今年できたばっかりの新設部活で、主な活動はいろんな運動部の大会に潜り込んで、ネットラジオで勝手に実況配信してる部活だぞ? この前、うちのサッカー部の練習試合にもわざわざ挨拶に来たからな」
いつの間にか俺たちの隣の席を陣取っていた神崎が、得意げな顔で解説に加わった。
「今年できたのか。道理で知らないわけだ」
「へー。でも、うちの女子バスケ部には来てないよ?」
神崎の持っていた情報によると、今見事に場内の空気を沸かせているこの放送部という組織は、今年できたばかりの新しい部活らしい。
ネットラジオ?
そんなマニアックなものを校内で放送していたこと自体にも驚きだが、どうやらそこで地道に実況の経験を積んでいるらしい。
それにしても、この黒沢って奴、素人の高校生にしては異常なほど実況の腕がうまいな。
神崎たちと放送部について会話をしながらも、俺の耳に自然と入ってくる黒沢のアナウンスの言葉が、騒音の中でもすごく聞きやすいのだ。
ただ声を張り上げているだけではなく、発声の基礎ができているのか、まるで本職のスポーツアナウンサーのようだ。
話す一言一言の滑舌が鮮明で聞き取りやすく、情報が耳にすっと心地よく入ってくる。
「放送部は今のところあの黒沢一人の活動らしいからな。男子一人しかいないから、入っていきやすい主に男子の部活だけを回って実況してるらしいぞ」
「ふーん。なんだ、男のノリだけってことね」
女子の部活には顔を出さないという事実に、佐伯はつまらなそうに鼻を鳴らして何か不満げな表情を浮かべた。
「さーて! いよいよ選手入場です!」
黒沢のボルテージの上がった大きな掛け声とともに、入場ゲートに控えていた短距離走に出場する代表生徒たちが、スタジアム中央の入り口から一斉に入場してくる。
「さぁ! この競技の目玉はなんといっても誤魔化しの効かない真剣勝負! 最も短い距離を己の肉体のみで全力で競い合います! 勝負は一瞬! 皆様、瞬きを忘れて目を離さないようお願い致します!」
軽快なBGMに乗って、次々とタータンの敷かれたトラックへと入場してくる色とりどりの各クラスの生徒たち。
俺たちのいる観客席は上段に位置しているため、中央のグラウンドの様子が箱庭のようによく見下ろせた。
「ん?」
各々が緊張した面持ちで自分のレーンへと向かう中、タータンの中央付近。
やけにぴょんぴょんとウサギのように高く飛び跳ねて、両手を大きく振り回しながら、明らかに俺たちのいる四組の観客席の方向に向かって全力でアピールしてくる生徒が一人だけ紛れ込んでいた。
「……何やってんだあいつ」
視線が注がれる晴れ舞台のど真ん中で、あんな周りの空気から完全に浮いたようなことができるメンタルのお化けは、うちのクラスのあのアホしかいない。
「いいじゃん。あれくらいゆるくやりなよ、白河も。見てて面白いし」
「あんな恥ずかしいこと、死んでもできるか!」
いまだにトラックの中央で無邪気に跳ね続けている一ノ瀬を遠目に見下ろしながら、佐伯はクスクスと笑いながら俺にそんな無理難題を促してくる。
誰があんな公開処刑のような真似を、大衆の面前で堂々とできるのだというのだ。
見ているこっちの方が赤面しそうになる。
これが巷で言うところの『共感性羞恥』ってやつか。
……まぁ、いい。
あれだけ強敵がいると分かっていても、過度にプレッシャーを感じて萎縮するわけでもなく、あそこまで普段通りにリラックスして落ち着いている(というか落ち着きがない)のなら、それで十分だ。
楽しんで来い、一ノ瀬琥珀。
俺はため息を吐きながらも、頬を緩ませて、グラウンドの小さな影に向かって心の中で静かにエールを送った。




