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「クラスのギャル、放課後は喫茶店で不器用マスターやってます。」  作者: 路地裏の猫


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三十九杯目:「白河。あれがデブってやつだよ」

 星城海原体育祭。

 雲一つない抜けるような青空がどこまでも広がり、初夏の眩しい太陽がジリジリと肌を焦がす熱気を帯びている。

 この学校において、それは単なるお祭りの枠を超えた大目玉の行事だ。

 日々、机に向かってペンを走らせる息の詰まるような勉強の連続。

 そして、限界まで肉体と精神を追い込む部活動。

 そんな変わり映えのしない平坦な日常に、熱狂という名の新たな風を猛烈な勢いで吹かせる巨大なイベント。

 グラウンドに足を踏み入れた全校生徒が、己のクラスの誇りと、絶対にトップに立つという勝利への希望を胸に秘めて挑む。

 時には火花を散らすように激しくぶつかり合い、時には腹の底から笑い転げるほど楽しく、そして時には、駆け抜けた後の汗のようにどこまでも爽やかに。

 生徒たちの溜め込んだエネルギーが爆発する、年に一度の最大の祭典がいよいよ幕を開く。



―――――――――――――――――――――――――



「相変わらずデッケーな」


 毎年、プロも使用する本物の巨大スタジアムを丸ごと貸切って行われるという、規格外のスケールを誇るこの体育祭。

 最寄り駅から続く人の波に乗ってそのスタジアムに到着し、ゲートを潜り抜けて開口一番、神崎が天を仰ぐように見上げながら感嘆の声を漏らした。

 すり鉢状に広がる観客席は遥か上空まで連なり、吸い込まれそうなほどの威圧感を放っている。

 このスタジアムでは普段、数万人を動員する色々な公式競技が行われるのだ。

 美しく手入れされた鮮やかな緑色の天然芝のサッカーピッチに、真新しいレンガ色をしたタータン張りの陸上トラック、その他にも様々な設備が完備されている。

 一年生の時、初めての体育祭でこの場所に足を踏み入れた瞬間のことは今でも鮮明に覚えている。

 ただの高校の行事とは思えない、その圧倒的なスケールの大きさと非日常感に、度肝を抜かれ言葉を失ったものだ。


「蓮なら将来ここでサッカーやってそうだけどね」


 巨大な建築物を眩しそうに見上げる神崎の横顔を見て、九条は涼やかな風に髪を揺らしながら、からかうような、けれど確かな信頼を込めた笑みを浮かべて言った。

 神崎は、我が校が誇るサッカー部の絶対的エースだ。

 星城海原の得点王とも呼ばれ、ピッチの上では誰よりも輝きを放つ彼だが、既に一部のプロチームのスカウト陣から熱視線を送られ、声がかかっているという噂もまことしやかに耳にする。

 類まれなる才能と、誰よりもストイックな努力を続けるそんな彼なら、もしかしたら数年後、本当に何万もの大歓声に包まれながら、この神聖なスタジアムの芝生の上でプロとしてプレーしている事になるかもしれない。

 俺にもそんな未来のビジョンが容易に想像できた。


「そんな簡単に行けるわけねぇだろ。仮にプロになれてもスタメンにならないと意味ないしな」


「プロになるのは可能なんだね」


 俺が心の中でツッコミを入れるより早く、俺の代わりに見事なタイミングで気持ちを代弁してくれたのは佐伯だった。

 彼女は目を細め、ニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべている。

 俺も全く同じ、その部分に引っかかった所だ。

 謙遜しているように見せかけて、プロの世界の門を叩くこと自体は既に通過点だと言わんばかりの、彼特有の揺るぎない自信が垣間見えた。


「蓮君ならなれるよ!」


「お、おう。ありがとな」


 一切の疑いを持たない、純度百パーセントのキラキラとした瞳で謎の絶対的自信を見せる一ノ瀬に対し、その真っ直ぐすぎる好意とエネルギーに気圧されたのか、神崎は頬を少しだけ朱に染めてタジタジと縮こまる。

 グラウンドでは決して見せないその年相応の反応に、場が和やかな空気に包まれた。


「ついに本番か。長かったねー」


 ぐるりとスタジアムの壮大な景色を見渡しながら、水野が感慨深げに言う。

 彼女の言う通り、今日ここへ辿り着くまでの道のりは、とても一言では語り尽くせないほど濃密だった。

 約二週間。

 本当に、色々な事があった。

 平穏な日常を打ち破るように突然選ばれた、重圧のかかる選抜メンバー。

 決して消えることのない過去のトラウマに無惨に囚われ、足が前に出なくなった辛く暗い時期。

 自分一人ではどうしようもなかった底なしの泥沼から、俺の手を強く引き、光の射す方へ導き、支えてくれた皆の存在。

 ——勝つ。

 これまでの人生で、誰かと競い合い、誰かのために熱くなることなど避けて生きてきた。 そんな柄にでもない、ひどく泥臭くて熱苦しい感情を胸の奥に宿してしまっている俺だが、今日だけは別だ。

 いや、今日だからこそ、俺はこの思いを全て出し切りたい。


「リレーだけじゃねぇぞ? 他の競技も勝つんだよ!」


「分かってるよ!」


 空気を震わせるほどの大きな声で、山波が闘志を剥き出しにして拳を突き上げる。

 山波の言う通り、この体育祭は何もクライマックスのリレーだけをやるわけじゃない。  

 俺自身はリレー以外の競技には出ないが、クラスの皆が出場する様々な種目が朝から夕方までびっしりとプログラムに組まれている。

 トラックを全力で駆け抜ける徒競走から、知力と体力が試される障害物競争、クラスの団結力が問われる綱引きまで。

 それぞれの競技で死に物狂いで得たポイントの積み重ねで、最終的な優勝クラスが決まるのだ。

 学年別の優勝、そして、全校の頂点に立つ総合優勝。

 俺達が狙う目標は、当然のように後者だ。

 並み居る強豪クラスや上級生たちを退けてトップに立つなど、決して容易な道のりではない。

 不可能に近いと嗤う者もいるだろう。

 しかし、朝陽に照らされて自信に満ちた表情を浮かべるこいつらの顔を見ていると、不思議な確信が込み上げてくる。

 こいつらと一緒なら、どんな壁でもぶち壊して、本当にやってのけてしまうかも知れないと。

 俺の心臓は、これから始まる祭りの高揚感で、かつてないほどに強く、早く鼓動を打ち始めていた。


「入り口でっかー」


 巨大な建造物を前にして、一切の緊張感を感じさせない呑気な口調で一ノ瀬が間延びした声を上げる。

 普段からプロの公式戦や大型コンサートが開催され、何万人もの観衆が怒涛のように出入りするこのスタジアム。

 当然ながら、全体が桁違いに大きければ、それに比例して観客を飲み込む入り口のゲートも途方もなく広い。

 頑強な太い鉄筋とコンクリートで構築された、要塞のような入り口。

 ひんやりとした薄暗いゲートを潜り抜けると、スタジアム全体をぐるりと囲う、緩やかな円形に繋がる広大なコンコースの通路が目の前に広がっていた。

 通路の隙間から差し込む眩い朝の光が、埃の舞う空気を帯の形に照らし出している。

 その光に導かれるようにして前へ進み、開放的な視界がパッと開けた瞬間、息を呑むような絶景が飛び込んできた。

 すり鉢状に天高くそびえ立つ、何万という色とりどりの座席の波。

 そして手すりに近づいて下を覗き込むと、美しく刈り揃えられた緑の天然芝と、燃えるようなレンガ色をした真新しい陸上トラックが広がる、広大な競技会場の全貌が一望できた。 朝の澄んだ空気に、微かに青草と土の匂いが混じって鼻腔をくすぐる。


「やっぱワクワクするな」


 眼下に広がるその壮大な景色を眩しそうに見下ろしながら、神崎が子供のように目を輝かせて言った。


「やっぱって?」


「俺はよくサッカーの試合とか見に行くんだが、この会場でしか味わえない特別な熱みたいな物があるんだぜ」


 神崎は手すりに寄りかかりながら、俺の疑問にすぐさま答えた。

 彼の視線の先には、無人のピッチの上で躍動する選手たちの幻影でも見えているのだろうか。

 彼が言う『特別な熱』という言葉の意味は、俺にも痛いほどよくわかる。

 冷暖房の効いた部屋で、テレビやスマートフォンの配信画面越しに綺麗な映像を見るのも決して悪くはない。

 だが、自らの足でこの現地に立ち、肌で空気を触れた時にしか絶対に味わえない強烈なエネルギーというものが、ここには確かに存在するのだ。

 地鳴りのように響き渡る観客の熱狂的な応援、空気がビリビリと震えるような歓声、そして目の前で繰り広げられるドラマをこの目で見届けるという圧倒的な高揚感。

 スタジアムという空間が持つその特有の魔力は、これから始まる祭りの予感と相まって、俺たちの胸の奥底を文字通り熱くワクワクさせるのだ。


「お前ら、浮かれるのはいいが早く進め。通路を塞ぐな」


 手すりから身を乗り出し、まるで初めて遊園地に来た子供のように夢中になって会場を見下ろしていた俺達四組の全員に対し、背後から水を差すような鋭い声が飛んだ。

 引率の浅野先生だ。


「えーいいじゃーん」


「もうちょっとだけ見せてくださいよー」


 クラスの皆が一斉に口を尖らせ、せっかくの感動の余韻をもう少しだけ味わわせてほしいといった不満げな雰囲気を醸し出す。


「準備をしっかり終えてから文句を言え。それに、後ろから他のクラスがどんどんつっかえてきてるんだ。いいからさっさと急いで歩け」


 生徒たちのブーイングまがいの雰囲気などどこ吹く風。

 全く屈することなく、己のルールと進行を冷徹に貫く浅野先生。

 いっそ清々しいほどサバサバしたこの容赦のない性格こそが、いかにも彼女らしい。


「開会式って、何時からだっけ?」


 浅野先生に追い立てられるようにしてコンコースの通路をぞろぞろと歩きながら、一ノ瀬が隣を歩く水野に向かって問いかけた。


「十時に開会式だよ」


 そんな一ノ瀬のざっくりとした質問に対し、水野は歩くペースを崩すことなく即座に答えた。

 前日のホームルームで配られていたプリントの予定表など一切見直す素振りも見せない。 

 彼女のその優秀すぎる頭脳の中には、分刻みで今日の全てのスケジュールが完璧にインプットされているのだろう。


「じゃあまだ一時間以上もあるじゃん。わざわざ学校に集まらないで、最初から現地集合で良くない?」


 呆れたような、淡々とした温度のない口調で佐伯が呟いた。

 彼女がそう愚痴をこぼすのも無理はない。

 何しろ今日の集合時間は、普段の登校よりも早い朝の八時きっかり。

 そこからクラスごとに点呼を取り、大型バスに揺られてここまで集団移動してきたのだ。 

 効率を重んじる佐伯からすれば、ひどく無駄な時間に思えるのだろう。

 まぁ、文句を言いたくなる気持ちもわかるが、俺としては、バスの中で隣の奴とくだらない話で盛り上がったりするこの一連の流れ自体が、いかにも『学校の巨大なイベント』という特別感と非日常感を演出していて、案外嫌いじゃなかったりするのだが。


「四組の皆さんの待機場所はこっちのブロックです。続いてくださーい」


 腕章をつけた運営係の生徒が声を張り上げ、案内する通りにぞろぞろと移動していく。  

 ようやく辿り着いた俺達四組の指定待機場所は、なんと入り口のゲートからぐるりと半周回った、スタジアムのちょうど真反対に位置する座席だった。

 いくらなんでも歩かされすぎて遠くないか? という無言の文句がクラス中から漂っていたが、いざ席についてグラウンドを見渡してみると、決して悪い場所ではないことに気づく。

 スタジアムの長辺のほぼ中央に位置するそのブロックは、トラックもフィールドも全体が綺麗に見渡すことができ、これから目の前で繰り広げられるであろう激しい競技の数々を、特等席のような素晴らしいアングルで観戦できる絶好のポジションだったのだ。


「で、これからどうする?」


「ご飯! 私、もうご飯食べたい!」


 プラスチック製の硬い座席に重い荷物をドサリと置いた直後、一息つく間もなく佐伯が発した問いかけに、一目散に食い気味で答えたのはやはり一ノ瀬だった。

 体育祭の緊張感など微塵も感じさせない彼女の瞳は、お弁当のことで頭がいっぱいなのか、まるで星でも浮かんでいるかのようにキラキラと輝いている。


「飯? 腹減ってんなら、勝手に今食えばいいじゃねぇか」


 競技開始までまだ時間はあるのだし、食べたいのなら我慢せずに今すぐ食べればいい。  

 そう単純かつ合理的に思ったのか、神崎が呆れたような笑みを浮かべながら真っ直ぐなツッコミを入れた。


「違うよ! 持ってきたお弁当じゃなくて、お店!」


「店?」


「そう! 今年から屋台があるらしいんだ! だから見に行こ!」


 一ノ瀬の声がパッと明るくなり、スタジアムの喧騒に負けないくらい響き渡る。

 どうやら今年の体育祭は去年までと根本的に違うらしい。

 新しく就任した生徒会長の肝煎りなのか、力が入りすぎた結果、なんとこの巨大なスタジアムのコンコース内に、本物の縁日のような屋台が幾つも出店しているというのだ。

 生徒会長が代わった今年、「体育祭を完全なエンターテイメントにする」という突拍子もない噂は耳にしていたが、まさかここまで本格的なクオリティだとは思わなかった。

 焼きそばやたこ焼きの香ばしい匂いが、微かに風に乗って漂ってきている気がする。

 あの生徒会長、後先や学校の予算のことなど一切考えず、全額この祭りに突っ込んだのではないだろうか。

 恐ろしい手腕である。


「おいまじかよ! それは行くしかねぇ! 行こうぜ!」


 一ノ瀬が一体どこからそんな極秘の食情報を仕入れてきたのかは謎だが、それを聞いた神崎の目も少年のようにキラキラと輝き出した。

 彼は素早い動作でスポーツバッグから使い込まれた財布を取り出すと、チャリンと小銭の音を鳴らしながら嬉しそうに頭の上でフリフリと振ってみせる。

 それにしても、一ノ瀬の食に対する執念と情報網はすさまじい。

 もはや未知の電波を受信する新しい器官とも呼べる特殊な高性能センサーをその身に備えているのではないだろうか。


「神崎、一ノ瀬。行くのはいいが開会式の時間には確実に帰ってこい。それから、これから走るんだから食べすぎるなよ」


「分かってるよ花ちゃん! 時間までにはちゃんと戻ってくるって!」


「……分かってるならいい。油物ばかり食べてると、気をつけろよ、太るぞ」


「うるさーい! 花ちゃんのいじわる!」


 一目散に硬いプラスチックの座席を飛び越えるように後にして、美味しそうな匂いの源泉である広大なコンコースの通路へと駆け出していった二人。

 彼らはそんな抗議の叫びを後に残しながら、嵐のように飛び出して行った。

 遠ざかる二人の背中を見送りながら、俺はふと違和感を覚える。

 普段は生徒に対して厳格で隙を見せない浅野先生が、あんな風に「太るぞ」なんてフランクな冗談を言うのは酷く珍しい。

 彼女自身も、この巨大スタジアムが放つ非日常的なお祭り騒ぎの空気に少しだけ当てられ、心を許しているのかもしれない。


せわしな」


 嵐のように去っていった二人のドタバタ劇を静かに眺めていた佐伯は、プラスチックの椅子に深く腰掛け、スラリとした足を優雅に組みながら呆れたようにポツリと言った。

 スタジアムの屋根の隙間から差し込む朝の柔らかな日差しが、彼女の涼しげな横顔を淡く照らしている。


「佐伯は行かなくていいのか?」


 てっきり、いつもの流れで一ノ瀬の勢いに巻き込まれ、渋々ながらも一緒について行くものだとばかり思っていた俺は、意外に感じて佐伯に尋ねた。


「何? そんなにうち、食いしん坊に見える?」


 ちょうど佐伯の後ろの列の座席に自分の荷物を置いていた俺に対し、彼女は背もたれに寄りかかったまま、首をコロンと真上に向けて振り返った。

 逆さまの視界で俺を捉えるその瞳には、悪戯っぽい微かな笑みが浮かんでいる。


「あぁ、見えるな」


「心外。あの子と一緒にするのはやめてよね。うちはただ単に、後で走れなくなるのが嫌なだけ」


 給食や昼ご飯の直後の体育の授業で持久走をした時、胃が揺れて耐え難いほど脇腹が痛くなるあの不快な現象。

 これから全力で走らなければならないプレッシャーの中、佐伯は冷静にコンディションの維持を最優先にして、それを避けたかった様だ。


「なんだ。てっきり、また過酷なダイエット中なのかと思ったぜ」


「うーわ。奏君、今のは流石に酷いよ! 絵に描いたようなノンデリ」


 俺の不用意な軽口を聞きつけたのか、少し離れた席でパンフレットを開いていた水野が、ジト目でこちらを睨みながら心底蔑んだような冷たい声で割り込んできた。

 その整った顔立ちで容赦なく浴びせられるダメ出しには、妙な迫力がある。


「何々? 白河君がどうしたの?」


 水野の少し大きな声を聞きつけて、近くのブロックで他の男子と談笑していた九条が、興味深そうに微笑みながらゆっくりとこちらへ近づいてくる。

 彼の周囲だけ、なぜかスタジアムの喧騒から切り離されたような落ち着いた空気が流れていた。


「怜君聞いてよ。この人、乙女心も分からずに女の子に向かって酷い事言いました」


 水野はビシッと大げさな身振りで俺の顔を指差しながら、九条に告げ口をする。

 その唇の端には、隠しきれないからかいの笑みが浮かんでいた。

 あの日——心の内を晒し合い、お互いの見えない壁を取り払ってからというもの、水野の俺に対する言動は明らかに劇的な変化を遂げていた。

 以前のような完璧な優等生としての外面を脱ぎ捨て、こうしてフランクに、時には意地悪に弄ってくるようになったのだ。

 ただ単に下の名前で呼び合うようになっただけだというのに、人間関係の距離感というものはここまで一気に縮まり、変わるものなのか。

 俺は照れくささを誤魔化すように頭を掻きながら、その心地よい騒がしさに静かに息を吐いた。


「それは酷いね。見損なったよ白河君」


「冗談を知らないのかお前らは!」


 涼しい顔をして肩をすくめる九条と、隣で冷ややかな視線を送ってくる水野。

 学年ツートップの圧倒的な成績を誇る優秀な二人に、逃げ場のない正論で責め立てられる俺。

 スタジアムの屋根の隙間から差し込む朝の光が、彼らの整った顔立ちをより一層理知的に照らし出しており、その完璧すぎる二人の構図に俺は思わずたじろいでしまった。


「白河のノンデリは分かってたけど、それよりも山波と珊瑚は?」


「確かにいないな」


 俺が二人の追及から逃れるように視線を泳がせていると、椅子に深く腰掛けた佐伯が、呆れ顔のままふと周囲を見渡して話題を変えた。

 言われてみれば、先ほどまで賑やかだったこのブロックの人口密度が少し減っている。

 いつから居なかったのだろうか。

 入り口の巨大なゲートを潜り抜け、コンコースの通路をぞろぞろと歩いている時は、あの二人の姿も確かにあったはずだ。

 硬いプラスチックの座席に重い荷物をどさりと置いた時も、視界の端にいたような気がする。

 いや、あの混雑した熱気の中で、俺の記憶が曖昧になっているだけで、実は最初から居なかったか?

 スタジアムの下から湧き上がってくるような他のクラスの喧騒と、開会式に向けたBGMのテスト放送が響く中、俺は記憶の糸を必死に手繰り寄せた。


「大河は体育委員の仕事があるからそっちに行ったよ? 宮本さんは分からないね」


「珊瑚ちゃん、時々居なくなるから多分大丈夫!」


「そうなのか?」


 記憶を辿る俺を他所に、九条が落ち着いた声で、事もなげに山波の不在の理由を説明した。

 それに被せるように、水野も朗らかな笑顔で宮本の不在を肯定する。

 山波は山波で、どうやら開会式前から運営側の裏方として重要な役割があるらしい。

 これが、体育委員という役職がクラス内で圧倒的に人気がない最大の理由の一つだ。

 普段の体育の授業で号令をかけたり準備体操を仕切ったりするだけでなく、こういった大規模な学校行事の度に、重い機材の運搬や会場の設営など、名もなき力仕事や役割が容赦なく与えられる。

 誰もが自分の競技やクラスの応援に集中したいからこそ、皆がやりたがらない損な役回りだ。

 それなのに、何故か山波は委員決めの際、誰よりも早く、そして力強く一番に名乗りを挙げていた。

 あの暑苦しいまでの責任感と底抜けの体力は、素直に尊敬に値する。


 一方で、宮本に関してはまだ分からないことが多い。

 いつもフワフワとした雰囲気を纏い、誰に対してもニコニコと微笑んでいる、小動物のように可愛らしい愛されキャラクター。

 それが彼女に対するクラス全員の共通認識という印象だ。

 だが、逆に言えば、誰も『それしか知らない』ということでもある。

 ふとした瞬間に煙のようにスッと気配を消してどこかへ行ってしまう、宮本のミステリアスなキャラクター。

 そんな掴みどころのなさは、このグループにいる全員が不思議と受け入れ、理解している部分でもあった。


「皆ー! 見て見て! たこ焼き!」


 不意に、スタジアムの喧騒を切り裂くような、底抜けに明るい声が響き渡った。

 声のした通路の方へ振り向くと、両手一杯にパンパンに膨れ上がったビニール袋をいくつもぶら下げた一ノ瀬が、小走りでこちらへ向かって戻ってくるのが見えた。

 揺れる明るい髪、そしてその顔に浮かんでいるのは、この世の全ての幸福を手に入れたかのような、太陽よりも眩しい最高の笑顔だ。


「白河。あれがデブってやつだよ」


 先ほどの俺の「ダイエット中か」というデリカシーのない発言をまだ根に持っているのか、佐伯が一切の表情を変えずに、冷ややかな視線と顎の先で一ノ瀬の姿を指差した。


「あぁ。違いないな」


 これから走るというのに、どう見ても一人分とは思えない大量の食料を抱えて帰還した一ノ瀬の姿に、俺は額に冷や汗を浮かべながら深く同意せざるを得なかった。


「はいこれ! たこ焼きでしょ? ポテトに、唐揚げ! それから」


「おいおい。まだあるのかよ」


 座席に戻るなり、一ノ瀬は嬉々とした手つきで袋の結び目を解いていく。

 まるで底なしの四次元ポケットのように、その袋の中から次々とプラスチックパックに入った食べ物が出てくるのだ。

 たっぷりとソースがかかり鰹節が踊る大粒のたこ焼き、黄金色にカリッと揚がった山盛りのフライドポテト、肉汁が弾けそうな大きな唐揚げ。

 そのどれもがまだ熱々の湯気を立ち昇らせており、スタジアムの朝の空気を一瞬にして縁日のそれに塗り替え、胃袋を強烈にくすぐる暴力的なまでに暴力的な匂いを周囲に漂わせる。


「琥珀ちゃん……。まさか一人で食べないよね?」


 次から次へと座席に並べられていくジャンクフードの山。

 その圧倒的な光景に、普段は優雅で余裕のある水野でさえ、流石にドン引きしたように頬を引き攣らせて後ずさっている。


「そのつもりだったんだけど、皆で食べようって思って!」


「そのつもり……」


 彼女は今、何と言った?

 皆に分け与えようとするその心意気は優しいのか、それとも自分の食欲の恐ろしさに無自覚なだけなのか。

 元々この常軌を逸したカロリーの山を、開会式前のわずかな時間でたった一人で平らげるつもりだったという一ノ瀬の衝撃的な告白に、その場にいた俺、佐伯、九条、水野の全員が、雷に打たれたようにピタリと驚き固まる。

 数万人が集う巨大スタジアムの喧騒の中で、俺たちのブロックだけが時を止められたかのような静寂に包まれた。

 そんな俺達の硬直など全く気にも留めず、「熱いうちに早く食べよ?」と小首を傾げて無邪気に再び笑う一ノ瀬と、圧倒的な質量を誇る茶色い食べ物の山を前にして、言葉を失ってただただ固まり続ける俺達であった。


「おい! 先に行くなよ琥珀! お前が頼んだこれ、なんで俺が待たないといけねぇんだ!」


 背後から、ドスドスと床を踏み鳴らすような重い足音と共に、不満を爆発させた神崎の野太い声が響き渡った。

 振り返ると、そこには両手はおろか、腕の関節にまで大きなビニール袋をいくつも提げ、まるで買い出しを押し付けられた下働きのような無惨な姿の神崎が立っていた。

 スポーツマンである彼の太い腕の筋肉が、袋の重みで微かにプルプルと震えている。


「だってもう持てないもん。蓮君しか持てないでしょ?」


「だったらせめて待てよ! 置いてく事ないだろ?」


「冷めちゃうじゃん!」


「待て待て待て。まだあるのか?」


 完全に思考が停止して石像のように固まる俺達を完全に置いてけぼりにし、自分達のペースで漫才のような会話を進める神崎と一ノ瀬。

 だが、そんな二人のやり取りの可笑しさよりも、神崎の腕の中でガサガサと音を立てる『まだ運ばれてくる大量の食べ物』の存在に、俺達は更なる戦慄と衝撃を隠せずにいた。  

 パックからは濃厚なソースの匂いだけでなく、甘いクレープの香りや、香ばしいイカ焼きの匂いまで漂ってきている。

 一体どれだけ買い込んだというのか。


「あれでスタイルいいんだから怖いよね」


 神崎がテーブル代わりの空き座席にドサドサと追加の食料を積み上げていく絶望的な光景を眺めながら、佐伯がポツリと呟いた。

 彼女の言う通りだ。

 これからこの暴力的なカロリーの山を胃袋に収めようとしている人間が、モデルのように手足が長く、無駄な肉が一切ついていないスレンダーな体型を維持しているという事実が、生物学的に見てあまりにも衝撃的すぎる。

 カロリー計算やコンディション維持に気を遣っている佐伯は、不公平な神様の気まぐれを恨むように、どこか納得のいかない、少しだけ恨めしそうな顔をして一ノ瀬の細いウエストを睨みつけている。


「蓮、一ノ瀬さんの暴走を止めなかったの?」


 周囲の空気を一切読まずにキャッキャと喜ぶ一ノ瀬の姿から、静かに神崎へと視線を移した九条。

 彼のその声には、普段の冷静さの中に、隠しきれない呆れと深い疲労感が滲み出ていた。  

 常識人である神崎が一緒にいて、何故一ノ瀬のこの明らかに度を越した奇行を途中で止めなかったのか。

 いや、止められなかったのか。

 九条の瞳から溢れ出るその切実な疑問には、俺も全くの同意見だった。


「止める? 食いもんなんてあればあるだけいいだろ?」


 しかし、当の神崎は本気でキョトンとした顔をして首を傾げた。

 彼の脳内では『消費するカロリーに対して、摂取するカロリーは多ければ多いほど良い』という、現役バリバリのトップアスリート特有の脳筋理論が常識として出来上がっているらしい。

 一ノ瀬の食欲の異常さに、彼自身も全く気づいていなかったのだ。


「あちゃ。駄目だこりゃ」


 その清々しいほどの筋肉質な回答を聞いて、九条はついに完璧なポーカーフェイスを崩し、力なく苦笑して頭を抱えた。

 完全に采配ミスだ。

 食べ物を見ると理性が飛ぶブラックホールのような胃袋を持つ一ノ瀬と、食べ物を与えられれば与えられるだけ喜ぶ燃費の悪いアスリートの神崎。

 このブレーキの存在しない二人を、食欲の誘惑が渦巻く屋台エリアに一緒に行かせたのが全ての根本的な間違いだった。

 せめて、九条か水野、あるいは佐伯か俺の、常識的なストッパー役がもう一人着いていくべきだったのだと、俺達は今更ながらに取り返しのつかない深い後悔に苛まれた。


「ねぇー。早く食べようよ皆」


 俺たちが自らの判断ミスを悔やんで重い空気を漂わせている間に、いつの間にかプラスチックの座席にちょこんと座り、一番大きなサイズのたこ焼きの入った箱をパカッと開けながら一ノ瀬が言う。

 さっきまで通路に立っていたはずなのに、いつの間に座って開封作業まで終えていたのか。

 そんな些細な疑問すら、彼女の食い意地が引き起こした瞬間移動のような身のこなしの前では、儚く霧散してしまう。


「琥珀……まだ朝なんだけど」


 そう。

 頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた佐伯のいう通り、スタジアムの電光掲示板に表示されている現在の時刻は、まだ朝の九時半を回ったところだ。

 これから開会式があり、太陽が照りつけるグラウンドで激しい運動をするのだ。

 朝食と呼ぶにも中途半端なこの時間にしては、目の前に広がる茶色い揚げ物や粉物の山は、あまりにも胃に重く、そして辛すぎる絶望的な量だった。

 だが、そんな周囲のドン引きした空気など一切気にも留めず、一ノ瀬はすでに「あふっ、はふっ」と幸せそうな声を漏らしながら、火傷しそうなほど熱々のたこ焼きをモグモグとリスのように頬張っている。


 抜けるような青空と、これから始まる熱い青春の祭典への期待。

 それに反比例するように目の前で繰り広げられる、朝っぱらからの過酷なフードファイト。

 爽やかな体育祭の開幕からはほど遠い、このあまりにも予想外で怒涛の展開に、俺はこれから一日無事に生き残れるのだろうかと、早くも重たい溜息を吐きながら幸先の不安を抱くのだった。

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