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「クラスのギャル、放課後は喫茶店で不器用マスターやってます。」  作者: 路地裏の猫


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三十八杯目:「さて、皆いいかな?」

「明日本番かー。緊張するなぁー」


 放課後の広いグラウンド。

 夕日を浴びてオレンジ色に染まる校舎を背に、一ノ瀬は大きく伸びをしながら上を向いた。

 茜色の空を見上げる彼女の横顔には、普段の明るさの奥に、少しだけ不安げな影が落ちている。

 一ノ瀬がこういうプレッシャーを感じるような感情を持つのは容易に想定できたが、実際に表に出している姿を見たのは初めてだった。


「一ノ瀬でも緊張とかするんだな」


「するよ! 全然する!」


 俺の無遠慮な問いに対し、上を向いていた顔を勢いよくこちらに向ける一ノ瀬。

 風に揺れる明るい髪が、夕日の光を反射してキラキラと輝いている。

 俺の勝手な偏見かもしれないが、いつもクラスの中心にいて場の空気を掌握しているギャルという生き物は、こういう学校行事のイベントごとで緊張するなどというナイーブな感情とは無縁の存在だと思っていた。


「私は緊張してるけど、莉愛はするタイプじゃないかな? ね! 莉愛!」


 照れ隠しのように声を張り上げると、一ノ瀬は近くのグラウンドの隅で靴紐を結び直していた佐伯を呼ぶ。


「え? 何が?」


 突然自分の名前を呼ばれた彼女は、全く話の文脈が理解できず、小動物のように目を丸くしてキョトンとした表情をしている。

 ここまでのやり取りでもうおわかりだと思うが、明日に迫った体育祭本番に向けて、俺達は放課後のグラウンドで最後のバトン練習をしていた。

 それぞれ忙しい中、何とかギリギリのところで予定を合わせて集まった貴重な最後の練習日。

 グラウンドの砂埃が舞う中、汗だくになりながら前回と同様のメニューをこなし、タイミングやフォームの確認を終えたところだ。

 掌にはバトンの冷たい感触と、これならいけるという確かな手応えが残っている。

 だが、俺の心の奥底には、まるで小さなトゲが刺さったかのように、少しだけぬぐい切れない疑念が残っていた。


 本当に、俺たちの課題は改善できたのだろうか——と。

 たった数回。

 一ノ瀬と二人でタイミングを合わせる練習をしただけだ。  

 根本的な原因は他でもない、俺自身にある。

 女子相手だからと、頭ではわかっていても無意識のうちに行なってしまう手加減。

 スピードを緩めてしまう俺の悪い癖。

 その手加減は、絶対にしないと心に誓った。

 自分の全力に彼女が合わせてくれると信じることにした。

 何度も何度も、息が切れるまでグラウンドを走り、バトンを受け渡す練習をした。

 その結果、確かに最後の俺達のバトンパスは、見違えるほどスムーズになり上達したと思う。

 流れるようなパスワークができた自負はある。

 けど。

 けれど——どうしても、万が一の失敗が頭をよぎってしまう。


「……九条」


 喧騒から少し離れた場所で、一人で顎に手を当て、何かを深く考え込む九条の姿があった。

 夕暮れの涼しい風が九条の髪を撫でていく。

 俺は、その静寂を纏う九条を呼ぶ。


「何?」


 考えの海から浮上するように顔を上げ、静かな瞳が俺の方を見る。

 吸い込まれそうなその瞳に、俺は一縷の望みを託すように口を開いた。


「今回はその……。勘?ってやつは働いたか?」


 九条の持つ、不思議な勘。

 言わば第六感的な物。

 時には論理すら凌駕する、九条特有の鋭い直感。

 本来なら己の練習量と実力だけを信じるべきなのだろうが、胸の内で渦巻く一抹の不安を消し去るために、俺はその非科学的な確証に対し、すがるように頼らざるを得なかったのだ。


「うーん。確かに良くはなってると思うよ? ……うん。大丈夫だと思う」


「そ……そうか?」


 どうやら今回は、あの決定的な違和感を知らせるような鋭いアラートは無かったようだ。  

 九条の返答には少しだけ間があったような気もしたが、今の俺はそんな細かなニュアンスを気にする余裕はなかった。

 それよりも、九条の口から直接「大丈夫だ」という言葉を聞けたこと、そして俺達のバトンパスが客観的に見ても改善したという事実に、俺は体の底から深く息を吐き出して安堵した。

 張り詰めていた緊張の糸が、少しだけ緩んでいくのを感じる。


「ちょっと白河!」


 すっかり安心しきって気が抜けた俺を、まるで「そんなところで黄昏ている場合じゃない」とでも言いたげな、切羽詰まったような強い語気で一ノ瀬が呼ぶ。

 今日くらい、最後くらいは少しはゆっくりさせてくれよと、俺は重い足取りを引きずりながら心の中で密かに愚痴をこぼした。


「どうした?」


「どうしたも何も無いよ!」


 グラウンドの乾いた砂を蹴立てて、小走りで向かって来た一ノ瀬の顔には、ほんのりと——しかし隠しきれない怒りの色が浮かんでいた。

 夕暮れの風に揺れる明るい髪を乱しながら、不満げに頬を膨らませて俺の目の前に立ち止まる。


「何で怒ってるんだ?」


「怒っては……ないけど」


 俺が素直に問い返すと、一ノ瀬は戸惑ったように瞬きをした。

 何故私はこんなに息巻いて、白河に対してイライラしていたのだろう。

 そんな風に自分自身の感情の正体を探り当てるかのように、突然スッと落ち着きを見せる。

 夕陽に照らされた彼女の横顔は、先程までの勢いが嘘のように静かで、どこか気まずげに視線をさまよわせていた。


「……なら呼んだ理由は?」


「あっ! それだよそれ!」


 一ノ瀬は、自分がイライラしていた理由を真剣に考えていたせいか、何故わざわざ大声を出して俺の元に駆け寄って来たのか、その一番肝心な目的をすっかり忘れていたようだ。

 ポンッと手を叩いて思い出したように目を輝かせると、再び元の勢いを取り戻してズイッと距離を詰めてくる。

 ほんのりと甘い香水と、汗の匂いが混ざった香りがふわりと鼻をかすめた。

 続けて一ノ瀬は、非難めいた声を上げる。


「日葵と喫茶店行ったんだって? なんで私も誘ってくれなかったの!?」


 一ノ瀬が顔を赤くして怒っていた理由は、拍子抜けするほど大した事では無かった。

 そもそも、俺は水野と待ち合わせて喫茶店に行ったわけじゃないし、あれは完全に想定外の偶然だ。

 あの時カフェに行った理由は、迫り来る体育祭のプレッシャーや日々の喧騒から離れて、コーヒーでも飲みながら一人で静かにリフレッシュしたかっただけであって、決して誰かと会って談笑する為じゃない。

 元々一人で行くつもりだったのだから、誰かを誘う、誘わない以前の問題である。


「誰も誘ってねぇよ。偶然水野と会っただけでそんなつもりは……」


 俺は呆れ半分に一ノ瀬の誤解を解くように伝えながら、少し離れた場所で佐伯と楽しそうに話している水野の方へと視線を向けた。

 水野の艶やかな黒髪が、沈みゆく太陽の光を浴びて淡く赤みを帯びて透けて見える。

 俺の視線に気づいたのか、水野がふとこちらを振り向いた。

 目が合った瞬間、俺は「お前、一ノ瀬に何か余計なこと吹き込んだだろ! だよな!」と無言の念を強く込めて睨みつける。

 すると水野は、俺のその切実な抗議の眼差しを正面から受け止めた上で、ふふっと肩を揺らし、何とも言えない意味深で小悪魔的な笑顔を見せたのだ。


「あいつ。一番厄介かも」


「何?」


 学校生活という日常においては、非の打ち所がない完璧な優等生。

 成績優秀で、運動能力も高く、誰に対しても分け隔てなく接する人間性も持ち合わせている。

 教師からの信頼も厚く、生徒からの人望もある。

 だが、あの蠱惑的な微笑みを見てしまった今、実はこのグループの中で一番底知れず、意地悪で計算高い腹黒い一面を持っているのではないか——そんな疑惑の念が拭えなくなり、水野に対する警戒心の入り混じった独り言が、無意識に小さく口からこぼれ出てしまった。  

 それを間近で聞いていた一ノ瀬は、当然のように首を傾げて疑問符を浮かべる。


「いや、こっちの話だし、そもそも水野と会ったのは偶然だ。一人で行くつもりだったんだから誰かを誘うも何もないだろ?」


「……わかった。でも次は誘ってよね! 私も暇な時は暇なんだから!」


 俺の至極真っ当な説明を聞いて、一ノ瀬は何とか納得はしてくれたみたいだ。

 それでも引き下がれないのか、ジッと俺の目を見つめてくる。

 少し潤んだような瞳で、上目遣いにそんな可愛らしい願いを口にする一ノ瀬の姿は、誰が見ても庇護欲をそそられるくらいには反則的に可愛いと思うだろう。

 夕焼けのグラウンドという青春の一ページを切り取ったようなシチュエーションも相まって、俺の胸の奥が少しだけチクッと疼いた。


「暇な時は暇って……わかったよ」


 一体どこの誰が、いつも忙しそうにしている一ノ瀬の「暇な時」のタイミングを正確に把握できるというのだろうか。

 暇なんだから暇なのは当たり前という、まるで哲学のような矛盾を、さも当然の権利のように堂々と言い放つ一ノ瀬。

 その奔放さに、俺は深い溜息をつきながらも、なぜだか嫌な気はしていなかった。


「さて、皆いいかな?」


 夕闇が徐々にグラウンドを覆い始め、それぞれが思い思いの会話を交わしてリラックスしていた中、凛とした透き通るような声が響き渡った。

 九条がパンッと軽く手を打ち鳴らし、再び全員の視線を自分へと集める。

 先程までの和やかな空気がスッと引き締まり、明日の本番に向けた静かな熱量が、グラウンドの中心から確かに作られていった。


「どうした改まって?」


 すっかり日が落ちかけ、紫がかった薄暮の空の下。

 涼しい夜風が火照った体を撫でていく中、真っ先に神崎が不思議そうな顔をして理由を聞く。

 いつもは冗談交じりの軽いトーンで話す彼だが、今は少しだけ真剣な響きが混じっていた。


「改めてお礼を言おうと思ってね」


 グラウンドの中央。

 夕闇に溶け込みそうな静けさを纏いながら、九条がゆっくりと口を開く。

 彼がわざわざパンッと手を叩いてまで俺達の視線を集めた理由は、他でもない、俺達リレーのメンバーに対する感謝の言葉を伝えるためだった。


「お礼って……九条君が? なんで?」


 水野がパチクリと長い睫毛を瞬かせ、九条に問う。

 彼女の艶やかな黒髪が微風に揺れた。

 俺自身も、水野と全く同じように「何故今更?」と疑問に思っていたし、周りにいる皆もきっと同じことを考えているだろう。

 九条という人間は、常に冷静沈着で合理的な判断を下す男だ。

 こうしてわざわざ人を集めて、感情的に感謝を述べるような真似をするとは到底思えなかったのだ。

 あ、一ノ瀬だけは例外のようだ。

 彼女は皆が九条に注目しているというのに、一人だけポカンと上を向いて、夕焼け空に浮かぶちぎれ雲の形をぼんやりと目で追っている。

 その自由奔放な姿に、俺は少しだけ毒気を抜かれた。


「そもそも九条はそういうタイプじゃないでしょ?」


 水野の疑問に心から賛同した様子の佐伯が、腕を組みながら呆れたように続けて話す。

 彼女の言葉には棘がない。

 むしろ、長く付き合ってきたからこそ知っている『九条怜』という人物像とのギャップに対する、純粋な驚きが含まれていた。


「参ったな。僕は皆に誤解させれてるってわけか」


 皆の率直すぎる反応を受けて、九条は大げさに頭を抱え、苦笑いを浮かべながら下を俯く。

 完璧超人である彼が時折見せる、こうした人間臭い隙のある仕草は、どこか不思議な愛嬌があった。


「誤解って......そういうわけじゃないけど」


 俯いてしまった九条の顔を覗き込んだ佐伯は、自分の言葉が彼を傷つけてしまったのではないかと焦ったのか、少しだけ申し訳なさそうに慌てて否定した。

 夕暮れの光のせいか、彼女の頬が少し朱に染まっているように見える。


「とにかく僕は皆にお礼が言いたい」


「礼ってリレーのことか?」


 顔を上げた九条の真剣な眼差しを受け、俺は彼が言っている『お礼の理由』を頭の中で素早く予想した。

 明日は体育祭本番。

 そして今は、汗と砂に塗れながら全力を出し切った最後の練習の直後だ。

 こんなタイミングで、こんな改まった態度で言い出すということは、どう考えても今やっていた事に直結しているはずだ。

 つまり、俺達が走るリレーについてに違いない。


「君の言う通りだよ。僕はすごく感謝してるんだ。半ば強制的にメンバーを選んだこと。もしかしたら皆出たくなかったかもしれない。でも皆は出てくれる。そのことにすごく感謝をしているんだ」


 俺の推測を肯定した九条は、ふっと目元を緩めた。

 いつもは理知的な光を宿しているその瞳は、今はどこかホッとしたような、嬉しそうな、そして何よりも温かく優しそうな色を帯びていた。

 彼がどれほどこのリレーに、そしてこのメンバーに思い入れを持っているのかが、痛いほど伝わってくる表情だった。


「当たり前だろ? 友達の頼みだ。断るわけない」


 誰よりも先に、一切の迷いもなく神崎が九条の言葉を真正面から受け入れる。

 ニッと白い歯を見せて笑うその顔は、最高に爽やかだった。

 彼らは、このクラスの中で一番といってもいいカースト上位に位置する一軍の男子達だ。 

 いつも当たり前のように一緒にいる二人。

 彼らの間には、言葉を多く交わさずとも通じ合う、深い信頼関係があるからこその即答なのだろう。

 俺はこの二人に限らず、今このグラウンドで輪になっている一軍達の、根っこにある『人の良さ』や『純粋さ』を幾度も思い知らされる。

 彼らが慕われる理由は、単なるノリの良さや容姿だけではないのだ。


「そうだよ! 怜君じゃなくてもクラス皆で勝ちたいもん!」


「琥珀ちゃんの言う通りだよ。私も!」


「二人が言ってるんだからうちもそういうことにしとこうかな」


 一ノ瀬が雲から視線を戻して明るく声を張ると、水野も上品に微笑みながら同調し、佐伯も照れ隠しのように少しそっぽを向きながら賛同する。

 女子達の明るい声が、夕闇の迫るグラウンドに華やかに響き渡った。


「俺が頼んだんだ! なのに出ないなんて言うわけねぇだろ!」


 輪の外側から、持ち前の大きな声で山波が胸を張る。

 そういえば、そもそもこのリレーのメンバー決めを半ば強引に頼み込んできた張本人は山波だったなと、俺は少しおかしくなって心の内でクスリと笑った。


「ありがとう皆。でも一番感謝をしたいのは白河君。君だよ」


「え? 俺?」


 和やかな空気に包まれていた中、突然九条の真っ直ぐな視線が俺を射抜いた。

 予想もしていなかった突然の名指しに、俺は声が裏返りそうになるほど、見るからに分かりやすい動揺を見せてしまう。


「......君にはひどいことをした。参加してくれただけじゃなく、君を傷つけてしまった。過去をむやみに掘り起こし、思い出したくないことを思い出させてしまった。本当に申し訳ない」


 静かな声で紡がれた謝罪。

 次の瞬間、九条は俺に向かって深く、本当に深く頭を九十度に下げた。

 長い足と真っ直ぐな背筋が織りなす、誰がどう見ても非の打ち所がないほど綺麗なお辞儀。

 風がピタリと止み、周囲の喧騒が遠のいたかのような錯覚に陥る。

 それは単なる形だけのものではない。

 彼の心の底からの後悔と、俺に対する最大限の誠意がたっぷりと籠ったお辞儀だった。

 彼のようなプライドの高い人間が、皆の前で一切の言い訳をせずに頭を下げる。

 その行為に込められた九条の痛切な思いが、ズシリと俺の胸に響いた。


「……いいよ。顔あげろよ。何とも思ってないって。それにいつかは向き合わないといけないことだったし、俺も九条にお礼を言いたい。ありがとう」


 太陽のような一軍である彼らの眩しさに感化されてしまったのだろうか。

 それとも、この夕暮れの少し感傷的な空気のせいだろうか。

 気づけば俺は、自分でも驚くほど素直に、普段の俺なら絶対に口にしないような柄でもない言葉を紡いでいた。

 逃げ続けていた過去。

 抉られた傷跡。

 それを乗り越えるきっかけをくれたのは、紛れもなく目の前で頭を下げる彼らなのだ。  

 口から出た言葉は少し気恥ずかしかったが、心の中を満たしていたのは、長年の淀みが嘘のように晴れ渡るような、清々しくて心地のいい、温かな感情だった。


次回から「体育祭編」スタートです。

もう一度高校生に戻りたい......

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