三十七杯目:「そうだ! ねぇ、お願い聞いてもらってもいい?」
「詳しいんだな」
先ほどのオランダ語の種明かしも含め、彼女の意外な博識ぶりを体感した俺は、素直に感心してその気持ちを言葉に表す。
「好きなんだー」
「お茶が?」
「違う、違うよ」
俺の的外れな質問に、彼女は肩を揺らして、まるで春の陽だまりのような女神のように柔らかい笑顔を見せた。
あはは、と声を上げて無邪気に笑う彼女の様子を見る限り、どうやら紅茶の茶葉やカフェ巡りそのものに異常なまでの執着や知識がある、というわけでは無さそうだ。
「ヨーロッパが好きなんだよね。いつか行きたいなー」
ストローの袋をいじりながら、少しだけ遠くの海を見つめる水野。
彼女が初見殺しの『アールデ・ベレ』という単語に詳しかったのは、お茶好きだからではなく、単純に彼女自身がヨーロッパの文化や言語に強い興味を抱いていたかららしい。
「何で好きなんだ?」
俺の口から出たのは、至極単純な疑問だった。
学校では成績優秀で、いかにも日本の規律正しい優等生といった枠に収まっている彼女が、一体何がキッカケで遠く離れたヨーロッパの地に強い憧れを抱くようになったのか。
純粋に気になったのだ。
「まさかペレ?」
「何それ? 美味しいの?」
きょとんとして首を傾げる水野。
どうやら『アールデ・ベレ』と『ペレ』の繋がりは全く無いみたいだ。
ほんの少しの沈黙の気まずさをごまかすために、ふざけて親父ギャグのような事を言ってみただけなのだが、見事にスルーされてしまった。
「ヨーロッパってワクワクしない? 特にイギリス! 街並みは綺麗だし、自然もあるしいつか行ってみたいんだよね」
「意外だな」
両手を胸の前で組み、瞳をキラキラと輝かせながら熱弁する彼女の姿に、俺は少しだけあっけにとられていた。
学校では常に冷静沈着で、こんなふうに子供のように無邪気な素振りを見せたことの無い彼女だったが故に、そのギャップに対する驚きを隠せなかったのだ。
「白河君は興味ない?」
「俺か?」
不意に話を振られ、俺は腕を組んで真面目に考えてみる。
ヨーロッパ。
今回は彼女が例に挙げたイギリスのロンドン辺りの情景で想像してみよう。
日本とは打って変わった、歴史を感じさせる重厚な西洋の文化。
石畳の上を行き交う人々、レンガ造りのレトロな街並み、そして全く異なる食文化。
それら全てが、今の俺の日常とは別世界だ。
目を閉じると、一番最初に思いついたのはロンドンの象徴たるビッグベンだ。
どんよりとした曇り空にそびえ立つ、巨大な塔と大きな時計盤。
鐘の音を聞き、数々の人々が時計を見るために広場へ集まる。
目の前には雄大に流れるテムズ川。
肌を撫でる乾いた風と、少しだけ肌寒い異国の気温。
……あぁ、悪くないかもな。
煩わしい人間関係も、過去のしがらみも何もない見知らぬ異国の地。
そんな場所を一人で(あるいは誰かと)歩く自分を想像すると、不思議と心が少しだけ軽くなるような気がした。
「行ってはみたいかな」
「だよね! いいよね!」
俺の肯定的な回答を聞いた彼女はパッと目を丸くし、身を乗り出すようにして大きく共感してくれた。
「お待たせ致しました。こちらアールデ・ベレと、シュヴァルツァーになります」
「しゅ?」
俺が水野の笑顔に見惚れそうになっていた絶妙なタイミングで、黒いエプロンを着けた店員が静かに横へやってきて、トレイに乗ったグラスを二つ提示した。
レジで背後に迫った別の客のプレッシャーに焦り、思考を放棄してとりあえずで頼んだ左上の定番メニュー。
結果として、そのプレッシャーを放っていた客の正体は水野だったわけだが、果たして俺のあの見切り発車で『普通のコーヒー』を無事に頼めていたのだろうか。
だが、店員の口から出たのは、またしても俺の理解を超えた未知の単語だった。
シュヴァルツァー?
なんだそれは。
ドイツの秘密結社か何かか?
俺はただ、普通のブラックコーヒーが飲みたかっただけなのに!
グラスの中身が黒い液体で、少なくとも泥水では無い事は確定しているのでその辺は安心だが、俺は完全にフリーズしてしまった。
「シュヴァルツァーは彼で、アールデ・ベレは私です」
「かしこまりました。ごゆっくりどうぞ」
俺が口をパクパクさせている間に、水野が流れるような所作でスマートに店員に指示を出してくれた。
優しい笑顔を見せる店員は、グラスをそれぞれの前に丁寧に置くと、静かに一礼して店の中へと戻っていった。
「あ……ありがとう水野」
「ん? 全然いいよ」
情けなくて、恥ずかしい。
自分が意地を張って頼んだ物の名前すら分からず、結局またしても彼女に場を仕切って任せてしまった。
これではまるで、手のかかる弟としっかり者の姉ではないか。
情けなさで顔から火が出そうで、まともに彼女の顔を見る事が出来ない。
しかし、水野本人は俺のそんなちっぽけなプライドの崩壊など気にも止めず、目の前に置かれた真っ赤なベリーが飾られた色鮮やかなアールデ・ベレにすっかり夢中になっているのだった。
「んーいい匂い」
目を閉じて、グラスから立ち上るほのかな酸味を帯びた苺の甘い香りを、うっとりとした表情で味わう彼女。
太陽の光を浴びてキラキラと輝く赤い飲み物と、彼女の柔らかな雰囲気が、まるで一枚の絵画のようにテラス席に馴染んでいる。
一方、俺は——。
「コーヒー……だよな?」
自分の頼んだシバルター?
いや、シュなんとか? なる怪しげな飲み物を恐る恐る覗き込み、それが本当に自分の知る『コーヒー』なのかどうかを、まるで未確認生物でも観察するかのように慎重に確認していた。
鼻を近づけてみると、見慣れた香ばしい苦味が微かに漂ってくる。
幸い、グラスの中身は氷がカランと音を立てる真っ黒の液体で、少なくとも見た目と匂い的には一般的なアイスコーヒーで間違いなさそうだ。
得体の知れない炭酸飲料や、変なスパイス入りの茶色い水じゃなくて心底安心した。
「何してるの?」
グラスの中身と真剣に睨めっこしている俺の不審な行動の一連を、ストローを咥えながらじっと見ていた彼女は、コテンと首を傾げて当然の如く疑問を俺にぶつけてくる。
「いや、コーヒーかなって……」
「どういう事? 分かってて頼んだんじゃ無いの?」
俺の全く要領を得ない、意味のわからないであろう回答に、彼女は少しだけ口角を上げ、面白がるように笑みを含めた声で更なる疑問を重ねてきた。
「水野が来た時、焦って適当に頼んだからどれがコーヒーか分かんなかったんだよ」
「そんなことある?」
俺が白状すると、彼女が含んでいた小さな笑みは、堪えきれないといった様子で「あははっ」という本気の笑いへと変わった。
肩を揺らし、目尻に涙を浮かべるほどツボに入っているらしい。
「仕方ないだろ? 何がどれか分からなかったんだから」
初見殺しの異世界言語、もとい呪文がビッシリと描かれたあのメニュー表を見て、初めて来た人間がどうして瞬時に中身を理解できるというのだろうか。
俺の焦りと苦悩を少しは分かってほしい。
「じゃあ偶然頼んだのがコーヒーだったの? 奇跡じゃん」
そうだ。
笑いが止まらない彼女のいう通り、今俺の目の前では奇跡が起こっているのだ。
頼みたかったはずのただの『普通のコーヒー』が、数ある謎のメニュー群をすり抜けて、見事に目の前にある。
まぁ、俺の論理的な推測によって、ある程度予想はしていた事だが。
「大体左上がコーヒーだろ? だから左上を頼んだらシルビダだったか? それがコーヒーだったって事だ」
「シュヴァルツァーね。ドイツ語で黒いものって意味」
「本当に詳しいな」
胸を張って『メニュー左上の法則』を語った俺の言葉を、彼女はサラリと訂正した。
シュヴァルツァーという単語も、それがドイツ語だという言語の出処も、そしてその意味すらも全く知らなかった俺は、またしても再び彼女の知識量に驚かされる。
カフェのメニュー一つで、オランダ語からドイツ語まで飛び出してくるとは思わなかった。
「やっぱり白河君って面白くて今分かったんだけど」
「何?」
「ごめんね。変だと思う」
ひとしきり笑い終え、グラスの水滴を指でなぞりながら、彼女は屈託のない笑顔で唐突にそう言い放った。
悪意など微塵もない、心からの楽しそうな声で笑いながら言う彼女。
一ノ瀬や佐伯をはじめ、俺と新しく関わりを持った連中に、毎回のように呆れた顔で、あるいは面白がるように言われる『変』という言葉。
今まで自分では、どこにでもいるただの目立たない日陰者だと思っていたけれど。
これだけ行く先々で、しかも学校のアイドル的な存在の女子たちから揃いも揃って言われるのだから、もしかしたら俺は自分が思っている以上に、本当に『変』な奴なのではと思わざるを得ない。
俺は冷たいシュヴァルツァーとやらを一口飲み込みながら、小さく、そして自嘲気味にため息を吐いた。
「それもう色んな人から聞いたよ」
ストローを指先で弄びながら、俺は半ば諦め混じりのため息と共に言葉を返した。
一ノ瀬に始まり、莉愛や佐伯からも似たようなニュアンスのことを言われ続けてきた身としては、今さら驚きも新鮮味もない。
「嘘! やっぱり同じ様に見えるんだね」
水野は嬉しそうに目を輝かせ、パッと顔を明るくした。
そんなに周囲の意見が一致しているのが面白いのだろうか。
言われる度にいつも思うことだが、俺自身は自分のことを至って普通の、どこにでもいる男子高校生だと思っている。
むしろ、俺の周りに急に現れた一ノ瀬たちの方が、よっぽど個性的というか、うんと変だと思うのだ。
「もっと他に変な奴いるだろ。神崎達とか、何より一ノ瀬とか!」
自分のことは完全に棚に上げ、俺はクラスを代表する圧倒的なエネルギーの塊たちの名前を挙げた。
特に一ノ瀬に関しては、変人という言葉すら生ぬるいほどの自由奔放さだ。
「琥珀ちゃん? そんなの周知の事実でしょ?」
「あ……思ってたのね」
水野の口からあまりにも容赦のない、そして一切の迷いのないストレートな肯定が飛び出したので、俺は思わず引き気味に声を漏らした。
学校の聖女ともあろう人間が、まさかあの天真爛漫な一ノ瀬をそんな風にバッサリと、しかも「周知の事実」として処理していたとは意外だった。
「違うよ。琥珀とは違うベクトル。足したらゼロになる様な感じ」
くすくすと笑いながら、水野は人差し指を立ててみせた。
足したらゼロ、か。
それは、凸と凹が綺麗に噛み合っているという意味なのか、それともお互いの個性が強すぎて完全に相殺し合っているという意味なのか。
どちらにせよ、それが褒められている言葉なのかどうか、俺には判断がつかなかった。
たぶん、違う気しかしないが。
彼女は再び視線をグラスへと戻し、目の前のアールデ・ベレを上品な仕草で一口飲む。
時折吹く潮風に混じって、彼女の口元からほのかな苺の甘酸っぱい香りがふわりと俺の元まで漂ってきた。
「琥珀ちゃんとのバトンパスは何か分かった?」
「あぁ。俺が悪かったと思う」
ストローから唇を離した彼女は、それまでの楽しげな表情から一変して、今度は真剣な眼差しをこちらに向けながらリレーの話題へと移った。
彼女もクラスの副委員長として、あるいはメンバーの友人として、この停滞していたリレーチームの状況をそれなりに心配してくれていたのだろう。
「白河君が?」
「元経験者ということもあって遠慮してた部分が少なからずある。九条はそれに気がついたんだと思う」
「九条君、そういうのにすぐ気がつくからね」
俺の告白に対し、水野は特に驚く様子もなく、納得したように深く深く頷いた。
彼女のいう通り、九条は他人の些細な変化や違和感にすぐ気がつく男だ。
普段から周囲をよく観察している秀才肌。
関わりが薄く、クラスの隅にひっそりと生息しているだけの俺の事ですら、少しの走りの違いからその本質を真っ先に気がつくのだから大したものだ。
現に、俺がひた隠しにしてきた過去の陸上競技におけるトラウマについて、何かしらあったのだと確信を持って気づいた実績が奴にはある。
その観察眼の鋭さという点から見ても、水野の言葉には同意しかなかったし、九条の有能さは断言していいだろう。
「水野って九条と長いか?」
「長い? 友達として?」
「あぁ」
九条が昔からあんな風に、他人の心の機微に敏感な奴だったのかが少し気になった。
俺は、向かい合って座る彼女に、二人が一体どのくらいの付き合いなのかを尋ねてみる事にした。
「九条君は一年の時から一緒だよ? 神崎君達とは別のクラスだったけど変わらずかな」
「そうか」
どうやら、あの他人の本質を見抜くような鋭い観察眼は、今に始まったことではなく、以前からずっとあの調子だったらしい。
神崎たちのような一軍グループとは当時別のクラスでありながら、九条自身は変わらずにあのポジションで、周囲を見守るような立ち位置にいたのだろう。
周囲の変化に誰よりも敏感な秀才。
まぁ、九条の性格を考えれば十分に想像はついていたけれど、水野の口からそれを直接聞いたことで、俺の中で九条という男の輪郭が、少しだけハッキリとしたような気がした。
「でも、このクラスになってよく喋る様になったかな」
ストローを指先で回しながら、水野はふっと思い出したように言葉を続けた。
その口調は、どこか懐かしむようでもあり、同時に何か面白い変化を観察しているようでもある。
「どういう事だ?」
「去年はあんまり言わなかったんだよ。仲の良かった私とか他の子にはちょくちょく話題に出す程度で本人には言わないタイプだったんだー」
「あの九条が?」
思わず、俺の声が一段高くなった。
俺のイメージの中にいる九条という男は、良くも悪くも遠慮を知らず、誰に対しても自分の意見をズバズバと言う、鉄の意志を持った男という印象だ。
自分が一度気になった事は絶対にうやむやのままにはして置けない、どこまでも真っ直ぐなタイプ。
そんな奴が、かつては周囲を気にして本人に直接言わないタイプだったなんて、今の彼の姿からはとてもじゃないが想像もつかない。
「うん。ていうよりは白河君が特別って感じかな? 良かったね」
「それって嬉しい事なのか?」
向けられたからかい混じりの視線に、俺は露骨に眉をひそめてみせた。
あの九条から『特別扱い』をされるなんて、俺にとっては少しも嬉しくは無い。
むしろ、これから先、余計なトラブルや面倒ごとに巻き込まれる未来しか見えず、厄介極まりないというのが本音だ。
こんな風にひねくれた言い方をしたくは無いが、平穏を愛する身としては警戒心が勝ってしまう。
「嬉しいんじゃない? 少なくとも認めてるって事! 誇っていいと思うよ?」
そう言って、水野は我がことのように胸を張って見せた。
確かに彼女の言う通りだ。
このクラス、いや学年全体、いやいや全校生徒の中でも常にトップの成績を維持し続ける、文句のつけようのない天才。
唯一のライバルはあの雲の上の存在である生徒会長くらいだという、あの孤高の九条に認められるというのは、普通の男子高校生からすれば、この上なく名誉ある事……なのかもしれない。
「嬉しい事なのか、喜んでいいのかわからねぇな」
結局、何とも言えない複雑な感想しか抱けなかった俺は、そのモヤモヤした感情を誤魔化すように、冷たいシュヴァルツァーをゴクリと喉の奥に流し込んだ。
なんだか、名前の響きが聞き覚えがないせいなのか、それとも俺の心境のせいなのか、いつもより少しだけ苦く感じた。
だが、決して嫌いではない味だ。
テラス席の向こうから流れてくる心地よい潮風が、熱を持った俺の頬を優しくつたるように吹き抜けていく。
「どう? シュヴァルツァー。おいしい?」
彼女はアールデ・ベレのグラスを両手で包み、ストローを咥えながら、上目遣いで小首を傾げて言った。
海風に揺れる髪の隙間から覗くその顔は、まるで世界に平和をもたらす宗教画の聖女のような、どこまでも優しくて眩しい笑顔だった。
「見ての通り普通のコーヒーだ。特に変わったとこなんてない」
俺は視線をグラスへと落とし、そっけなく答える。
実際、どれだけ舌の上で転がしてみても、味自体は普段から自販機や家で飲むコーヒーと大差ない。
程よい苦味があって、喉越しがすっきりしている。
そのくらいだ。
「風情がないね白河君」
俺のあまりにも情緒のない食レポに、さっきまでの聖女スマイルはどこへやら、水野はあからさまにつまらなさそうな顔をして唇を尖らせた。
いつも学校で凛とした態度を崩さない彼女が、こんな風に子供っぽく不満を露わにする人だったとは思わなかったため、少しだけ面食らう。
「仕方ないだろ? 分からないんだから」
「何となくわかるでしょ? いつもより苦いとか、風味が強いとか」
そんなに言われるなら、と俺はもう一度、シュヴァルツァーを口に含んで味覚に神経を集中させてみる。
——が、やはり変わらない。
苦味の奥にある豆の香りとか言われても、俺にはさっぱりだ。
ただ、いつもバイト先で一ノ瀬がドヤ顔で上手に淹れてくれたあのコーヒーの味と、どこか少しだけよく似ている。
いや、さすがに老舗の喫茶店と最先端のオシャレカフェを同列に語るのは、このお店にとって悪口になってしまうだろうか。
「うーん。変わらないな」
「白河君は自販機でも満足できそうだね」
「おい! シンプルな悪口じゃねぇか」
俺の頑ななバカ舌ぶりに、水野はとうとう「ふふっ」と声を漏らして笑いながら言った。
学校では冗談なんて冗談でも言わなさそうな雰囲気の彼女だったけれど、なるほど、こんな風に人をからかったりもするんだな。
「嘘嘘! それでいいと思う。ただ何となくカフェとか喫茶店に入って、たとえ違いが分からなくても何となくで味わうくらいが丁度いいと思う」
「水野って……意外と適当んだな」
俺は少し呆れつつも、どこか親近感を覚えながら呟いた。
でも、この短い時間の中で、俺は彼女の新しい一面を少しだけ知れた気がする。
全てとは言わないが、ただの完璧な真面目優等生というわけではなく、意外と冗談も言うし、女の子らしく買い物だって楽しむし、何よりこういう大雑把な一面もあるのだ。
「そうかな? 普段と変わらない気がするけど」
自分の性格についてあまりピンときていないのか、水野は不思議そうな顔をして首を傾げると、グラスに残っていた最後の飲み物を、話を押し流す様にして一気に飲み干した。
ズズ、とストローが空気を吸う音が小さく響く。
「いや、何でもない」
自分の中の勝手な固定観念を少し反省しつつ、自然体な様子の彼女を見て、俺はフッと笑いながら言った。
ふと気がつけば、いつの間にか頼んだ飲み物はお互いのグラスからすっかりなくなっており、溶けた氷がカランと音を立てる。
楽しかった放課後の余白のような時間にも、そろそろ解散の空気が静かに流れ始めていた。
「そろそろ出よっか?」
すっかり空になったグラスの底で、溶けかけた氷がカランと小さな音を立てたのを合図にするように、水野がふわりと微笑んで立ち上がる。
「あぁ。そうだな。水野はこの後は帰るのか?」
伝票を手に取りながら、俺は彼女の足元と椅子に置かれた大量の紙袋へと視線を向けた。
有名ブランドのロゴがデカデカと印字された手提げ袋の数々。
彼女の手元に収まったその荷物を見る限り、今日は一人で相当な量の買い物を楽しんできたのだろう。
華奢な彼女が一人で持ち歩くには、少しばかり不便そうに見えた。
「あと一つだけ行くところがあるかな?」
ひょいと軽やかに鞄を肩にかけながら、水野は事もなげに答える。
その量の荷物を持って尚、まだここから別の行くところがあると言うのだろうか。
女の子の買い物における底無しの体力は、本当に未知数だ。
「近いのか?」
「うん。すぐ近く」
人差し指でカフェの向こう側を指差す彼女。
どうやら幸いなことに、彼女の次の目的の場所まではここから歩いてすぐらしい。
「荷物持とうか?」
いくら近くとはいえ、量が量だ。
普段なら他人のことに深く首を突っ込まない俺だが、相手はクラスメイトの女子であり、ついさっきまで同じテーブルで笑い合っていたのだ。
重そうな荷物を抱えようとしているのを黙って見過ごすよりは、少し手伝ってあげた方がいいのでは……と、俺の中の柄にもない真っ当な良心が芽生えてしまうのも当然の事だった。
「え……優しいんだね」
俺の提案に、水野は少しだけ驚いたように目を瞬かせた。
そして、どこか照れくさそうに、ほんの少しだけ俺から目を逸らした気がした。
「当然だろ。重そうだし、無視する事なんてできねぇよ」
急に気恥ずかしくなった俺は、変に意識していると思われないよう、あくまでクラスメイトとしての義務感だというようにぶっきらぼうに言葉を返す。
「ううん。大丈夫。これ、見た目ほど重くないし、袋が大きいだけなんだよね。ほら!」
そう言うと、彼女は手元にある幾つかの分厚い紙袋をパッと両手で開き、上から中身が見えるように俺に差し出して見せてくる。
覗き込んでみると、確かに立派な袋の大きさとは裏腹に、中身は驚くほどスカスカだった。
小さな箱が一つポツンと入っているだけだ。
なるほど。
高級なブランドの店でよくある、小さなアクセサリーやコスメを一つしか買ってないのに、見栄えのために無駄に立派で大きな紙袋に入れて渡してくる、あの現象か。
「全部中身はこれくらいなのか?」
「うん。ほら! これとか香水だし、全然重くないよ。だから大丈夫。ありがとう」
水野は嬉しそうに微笑みながら、小瓶の入った袋を揺らしてみせる。
その時、彼女から新しく買ったであろう花の香水と、ほのかな苺の香りがフワリと混ざり合って俺の鼻先を掠めた。
そして、ペコリと丁寧にお辞儀をした彼女は、先ほどのテラス席で見せたのと同じ、誰もが目を奪われるような女神の様な完璧な笑顔を見せた。
「そうか」
俺は少しだけ早くなった鼓動を悟られないように、短く相槌を打つ。
「なんか、白河君の事結構分かった気がする」
レジに向かって並んで歩きながら、水野は嬉しそうに弾んだ声でそう言った。
「生憎だな。それは俺もだ」
俺とて同じだ。
学校の誰もが認める優等生である彼女もまた、俺と同じで、これまで全く接点の無かった俺という人間の本当の性格や内面を知らなかったのだろう。
ただ、彼女はただの堅物ではなく、意外とフッ軽で、たまに人をからかうような冗談を言うということが、この放課後の短い時間でよく分かった。
さっきの『変な奴』発言も含めて、これは少しばかり俺のことを馬鹿にした言い方な気がする。
だから俺も、負けじと少し含みを載せた皮肉っぽい喋り方で応戦した。
「そうだ! ねぇ、お願い聞いてもらってもいい?」
会計を済ませようとした矢先、突然、何か面白いことを思い出した様な、そんなキラキラとした顔で彼女は言った。
「奢れとかそういうのは無しだぞ?」
俺は財布の紐を引き締めながら、冗談めかして牽制する。
「もっと簡単な事だよ」
くすくすと笑いながら、ピンと綺麗な人差し指を俺の目の前に立てる彼女。
「簡単?」
「うん! 名前で呼んでもいい?」
「もう呼んでいるだろ?」
俺はきょとんとして首を傾げた。
彼女は最初からずっと、俺の事を『白河君』と呼んでいる。
だから、今更お願いされるまでもなく、すでに名前で呼んでいるはずなのだ。
一体何をお願いされているのか、全く意味がわからない。
「白河君って本当に変だよね。違うよこういう事!」
自動ドアが静かに開き、店を出た俺と彼女。
外はすでに、空全体を燃えるようなオレンジ色に染め上げる見事な夕暮れ時だった。
一歩、二歩と海沿いの道へ踏み出した彼女は、潮風に髪を靡かせながらクルリとこちらへ振り返り、夕日を背に受けて眩しそうに目を細めて言った。
「奏君!」
「……何だよ」
ドクン、と。
心臓が大きく跳ねた。
突然放たれたその『下の名前』の破壊力に、俺の思考は完全に停止した。
久しぶりに言われた。
家族以外からそんな風に親しげに名前で呼ばれたのは、最後に言われたのは、色々とあった中学の時の『あいつ』ぶりだ。
予想外のタイミングで、しかも学年屈指の美少女から投げかけられた懐かしい言葉の響きに、俺の耳の裏から顔全体が一気に熱を帯びていくのが自分でも分かった。
必死に表情筋に力を入れ、動揺を隠して何でもないような顔を取り繕うとする。
「今日は楽しかった! また学校でね」
「……あぁ。気をつけて帰れよ」
俺のぶっきらぼうで不自然な声を聞いた彼女は、満足そうにフフッと笑うと、夕暮れの沈む黄金色の海に向かって、軽やかな足取りで歩き始めた。
オレンジ色に染まる彼女の小さな背中を見送りながら、俺は一人、その場に立ち尽くす。
やれやれといった顔で、常に余裕そうな振り撒いをしていた俺が、たった一言名前を呼ばれただけで、本当は心臓が口から飛び出そうなほど凄く恥ずかしい気持ちを抱いて動揺していた事など、きっと背中を向けた彼女は知る由もない。




