三十六杯目:「あー、アールデ・ベレ?」
「あー! やっと終わったー!」
手の中で限界まで酷使していたシャープペンシルを机の上に放り出し、俺は椅子の背もたれに大きく身体を預けながら、天井を仰いで盛大な声を上げた。
両腕を頭上に伸ばして思い切り背伸びをすると、数日間ずっと同じ姿勢を続けていたせいでガチガチに凝り固まっていた背骨や肩の節々が、パキパキと小気味よい音を立てて悲鳴を上げる。
視線を机の上に戻せば、そこには文字通りうずたかく積まれたプリントの山と、インクが切れる寸前まで数式や英文で埋め尽くされた何冊ものノート。
これらはすべて、我が校が誇る『鬼』こと浅野先生から、ピンポイントで俺を狙い撃ちにするかのように出された、あまりにも容赦のない大量の補習課題だった。
授業の合間の短い休み時間はもちろん、通学中の電車の中、果てはバイトの休憩中の僅かな隙間時間までをもすべて犠牲にして必死に解き進め、暇さえあればとにかくペンを動かして課題を潰し続けた。
その血の滲むような執念の結果、本来なら一週間はかかるはずの地獄の分量を、わずか三日という驚異的なスピードで全て終わらせてみせたのだ。
こればかりは、誰も褒めてくれないのなら俺自身で俺の努力を盛大に褒め称え、労ってやりたい気分だった。
「お疲れさんです」
脳みそが完全に沸騰して燃え尽き、机の上に突っ伏しかけている俺のすぐ横から、ひどく間の抜けた声が降ってくる。
こちらの地獄のような苦労や寝不足の眠気など、これっぽっちも分かっていない(あるいは分かった上で面白がっている)であろう菊池が、椅子の背もたれを前にして逆向きに座りながら、ニヤニヤと締まりのない笑みを浮かべて軽口をたたく。
まぁ、文句を言いつつも、俺が数式に頭を抱えている時に公式を調べてくれたり、プリントをまとめるのを手伝ってくれたりした恩人でもある。
これ以上の余計な文句を言うつもりは、さすがに俺にもなかった。
「課題ばっかやってたけど、リレーの方は大丈夫なのか?」
「あぁ、何とかな。何とかだが」
菊池の何気ない問いかけに、俺は少しだけ意識を現実のリレーへと引き戻し、曖昧に言葉を濁した。
正直に言って、俺達のクラスのリレーチームとしての体裁は、一応の形にはなっている。
本当に、「形には」、だが。
あの日、全体練習の最後に九条が残した『遠慮』という鋭い言葉。
それが棘のようにずっと胸の奥に引っかかっていた俺だが、それだって昨日の夕暮れ、あの走りにくい砂浜で一ノ瀬と二人きりで行った泥臭い特訓によって、理屈の上ではもう解決したはずだ。
俺が過去のトラウマを言い訳にして、無意識にかけていたブレーキを完全に外して全力で突っ込む。
後は、一ノ瀬に必死に頑張ってもらい、俺の本気のトップスピードに少しでも追いつけるようにしてもらうだけ……理屈の上では、間違いなくそのはずだった。
「あいつらに混ざって走る白河が想像できねぇよ」
「そんなの俺だってそうだ」
菊池が呆れたように息を吐きながら口にした言葉は、そのまま俺自身の本音でもあった。
未だに、自分が置かれているこの現状が信じられない。
もし、新学期が始まったばかりの四月の俺の前にタイムマシンのようなもので現れて、「お前、もうすぐカースト最上位の一軍のキラキラした連中に混ざって、体育祭の目玉種目のリレーに出て走ることになるぞ」と言い残したとしても、当時の俺は鼻で笑って決して信じないだろう。
周囲と明確に壁を作り、ただ静かに平穏な日常だけを求めていたはずなのに、運命の歯車はどこでどう狂ってしまったのか。
「で? 楽しいか?」
「は?」
「いや、シンプルに気になっただけだ。思った通りに言ってみろよ」
一転して、菊池の口から投げかけられたあまりにも真っ直ぐで不意打ちのような質問に、俺の思考が一瞬フリーズした。
菊池の言葉の真意というか、その意図を俺はすぐに理解出来なかった。
クラス全員の期待を背負う体育祭の目玉種目に出る事、一ノ瀬や九条、莉愛たちのような、普段なら交わるはずのなかった主役側のあいつらと一緒に泥にまみれる事、そして息を切らして何度もバトンを繋いだあの練習の事。
かつてトラックを走る恐怖に怯え、全てを拒絶していた俺は今、あの空間をどう感じているのか。
俺は。
俺は一体、どうなんだ——。
「……悪くない」
真正面から俺を見つめてくる菊池の視線が急に気恥ずかしくなり、俺はふいと目を逸らし、夕日の光が斜めに差し込む床の木目を俯きがちに見つめながら、ボソッと消え入りそうな声で言った。
その本音を漏らした瞬間、それを聞いた菊池が一体どんな表情をしたのか、恥ずかしすぎて彼の顔を見ることはできなかった。
「よかったな」
静かに、けれど心の底から安堵したような、温かい声が鼓膜を揺らす。
菊池は、いや、きっと菊池だけでなくこのクラスの連中全体は、俺の過去の陸上競技において何か大きな傷やトラウマがあった事くらい、何と無くは察して知っているのだ。
その事件の細かな経緯や、正確な内容までは誰にも伝わっていないけれど、俺が走るということに対して見せる異様なまでの拒絶反応や雰囲気から、過去に何か重大な事があった事くらいは、どんな馬鹿でも簡単に分かる。
そう、普段はチャランポランで中身のないことばかり言っている、菊池ほどのバカでもだ。
菊池は、彼なりに不器用なやり方で、ずっと俺のことを友達として心配してくれていたのだ。
毎日くだらないことで笑い合い、普段一緒にいる者として。
同じ教室で過ごすクラスメイトとして。
そして、何よりも大切な『友達』として。
恐る恐る視線を上げると、短い言葉を発した菊池は、どこまでも穏やかで、親友としての優しい笑顔をその顔に浮かべていた。
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グラウンドを包む空気が徐々に熱を帯び、どこか浮き足立ったような喧騒が校舎を包む中、体育祭の本番までとうとうあと一週間と迫っていた。
にもかかわらず、俺達四組のメンバーは、夕暮れの砂浜で行ったあの日以降、一度もリレーのバトン練習は出来ていない。
理由は単純明快で、放課後になれば誰かしらが必ず用事を入れてしまっているからだ。
俺と一ノ瀬を含めた走者メンバー六人、そしてサポートに回ってくれている九条を合わせた七人。
高校生にもなればそれぞれに付き合いや事情があり、全員の予定がピッタリと合う事などそうそう奇跡に近い。
結果として、毎日誰かしら一人は外せない予定があり、もどかしくも練習出来ない状況がダラダラと続いていた。
そして、いつもなら放課後から夕方にかけて、一ノ瀬の祖父のあのレトロな喫茶店で汗水垂らして働いているはずの時間も、今日は何もないポッカリと空いた空白になっていた。
珍しく、店自体を臨時休業にするらしいのだ。
詳しい事情や理由は深く聞いていないが、一ノ瀬曰く、今日はどうしても外せない「大事な日」らしい。
今日全員での練習が出来なかった最大のボトルネックは、他でもないこの店の休みが原因だ。
かと言って、俺は彼女を責めている訳では決してない。
誰にだって外せない用事があるのは仕方がないことだし、それが彼女にとっての大事な日であるならば、部活でもないただのクラスの出し物よりも、そちらを最優先するべきだと心から思っている。
そんなわけで、完全に予定が空いてしまった昼下がり。
一人、静まり返った自室のベッドで大の字に寝転ぶ俺は、天井の木目をぼんやりと数えながら、この贅沢で暇な時間を一体何をして過ごそうかと真剣に悩んでいた。
怠惰にリビングに行ってテレビのバラエティ番組でも見るか、ベッドに沈んだままスマホの画面をスクロールして無為に暇を潰すか、それとも心地よい風に吹かれながらこのまま泥のように昼寝をするか。
ふと、視界の端に入った本棚を見て、俺は唐突に思い出した。
あのセピア色の喫茶店で、嵐のように騒がしい一ノ瀬に巻き込まれて働くようになるまで、休日の度に俺が一人で嗜んでいた密かな趣味。
カフェ、いや、喫茶店巡りだ。
純喫茶の重厚で落ち着いた空間の片隅で、丁寧にドリップされた至高のコーヒーを一杯片手に、静かに流れるジャズをBGMにして、難解な勉強や積んでいた本を読む。
それこそが、かつての俺の至福のルーティンだったではないか。
「久々に行くか」
すっかりベッドと同化しかけていた重い腰をよっこらせと起こし、立ち上がった俺は、クローゼットから適当だがそれなりに見える清潔感のある服を取り出し、着慣れた制服から手早く着替えた。
ただし、勉強の道具だけは鞄に入れない。
しばらく数式や英単語とは距離を置きたい。
あの『鬼』の浅野先生から出された致死量の課題を、血反吐を吐きながら三日で終わらせたばかりのこの休日に、さらに自ら進んで勉強をするのは流石の俺の精神力でも堪える。
代わりに、俺はいつか読もうと買ってからずっと本棚で埃を被っていた、まだ一度も開いていない新品の小説を引っ張り出し、キャンバス地の鞄に滑り込ませた。
今から向かうのは、ここから電車に乗って少し揺られた先にある、隣町のカフェだ。
これまで一度も足を運んだことがない新規開拓の場所だが、ネットの検索結果で出てきた内装の画像や珈琲へのこだわりは、ひどく俺好みで期待が持てるものだった。
ガタンゴトンという規則正しい電車の揺れに身を任せ、目的の駅で降りた俺は、スマホのマップを頼りに一直線に目的のカフェへと向かった。
立地は最高で、駅から徒歩五分以内。
やがて見えてきたのは、個人経営のカフェにしてはかなり大きな作りの洗練された建物だ。
ガラス張りの外観からチラッと中を覗き見ると、パソコンを広げて仕事をしているスーツを着た男の人や、オシャレな服装で談笑している大学生らしき女の人がちらほらと優雅に座っているのが見えた。
「いいじゃん」
静かで大人びた、俺の求めていた理想の雰囲気の片鱗を感じた俺は、期待感に胸を膨らませて思わず独り言を呟き、エントランスへと足を踏み入れる。
まず驚いたのは、アンティークな木製の扉かと思いきや、取っ手が無く、近づいただけでシームレスに開く最新式の自動ドアだった事だ。
外観がモダンでオシャレなレンガ調だったため全く気づいていなかったが、一歩中に入れば、空調の効いた心地よい空気と共に、今時の最先端カフェ特有の洗練された設備や、無駄を削ぎ落としたスタイリッシュな内装が広がっていた。
「いらっしゃいませ。本日はお一人様ですか?」
カウンターの奥から、黒とグレーで統一された、まるでアパレル店員のような洗練された制服を着た店員が、完璧な営業スマイルで尋ねてくる。
入り口に行列が出来て人が並んでいないのも、俺の中では非常にポイントが高い。
世の中にある所謂『バズっている』オシャレな店は、大抵の場合、店の外まで人が沢山並んで騒がしい。
俺は、コーヒー一杯のために無駄な時間を消費し、喧騒の中で待たされるあの時間が虫唾が走るほど嫌いなのだ。
「はい一人で」
「かしこまりました。ご注文はお決まりでしょうか?」
スムーズな案内を受け、俺は、店員が流れるような動作で指差した手元のメニュー表に視線を落とした。
だが、次の瞬間、俺の思考は完全にフリーズした。
洗練されたフォントでそこに書かれていたのは、俺の知る『ブレンド』や『アメリカン』といった単語ではなく、生まれてから一度も見たことがない、呪文のようなカタカナの羅列ばかりだったのだ。
純喫茶にあるような『コーヒー』等の親切な日本語の文字は一切なく、エスプレッソがどうだの、フラペなんとかがどうだの、マキアートがどうだのといったものではなく、全くもって意味の知らない横文字がスタイリッシュに並んでいる。
「えーっと……」
落ち着け、俺。
深呼吸だ。
顔に出すな。
こういう初見殺しのメニュー表には、絶対的な法則がある。
大抵の場合、一番上の方、それも視線が最初にいく左上か、あるいは右上に配置されているのが、その店の最もオーソドックスでシンプルな定番メニュー(つまり普通のコーヒー)のはずだ。
無駄にオシャレで難しく書いているが、店側だって基本のコーヒーを頼みたい客を逃すはずがない。
いや、素直に『店員に聞けよ』という正論の意見は勿論俺にも痛いほど分かる。
だが、よく想像してみてほしい。
男が一人、それも制服ではないとはいえ、どう見ても場違いな男子高校生が、こんな大人の余裕が漂う超絶オシャレな店に意気揚々と入ってきておきながら、店員に向かって「普通のコーヒーってどれですか?」なんて、泣きそうになりながらダサい質問を聞けるわけがないだろ?
俺のちっぽけなプライドが、それを全力で拒否しているのだ。
「いらっしゃいませ。少々お待ちください」
「え?」
まずい。
次の人が来た。
背後からコツリと足音が近づき、俺のすぐ後ろに新たな客が並んだ気配がした。
洗練された店内に似つかわしい、ほんのりと甘く上品な香りが鼻腔をくすぐる。
早く決めなければ。
後ろの客にも、目の前で完璧な笑顔を崩さない店員にも迷惑がかかる。
俺のちっぽけなプライドが焦りへと変わり、額にじわりと嫌な汗が滲んだ。
えーっと、えーっと——左上だ。
左上のメニューの文字面を必死に解読しようとした、その時。
「あれ? 白河君?」
背中越しに、透き通るような綺麗な声が鼓膜を揺らした。
喧騒をスッと切り裂くような、よく通る澄んだソプラノ。
けれど何処かで聞き覚えのある声だ。
まるで、全校集会でマイクの前に立つ、あの生徒会の優秀女子のような——。
恐る恐る、俺は背後へと振り返る。
「み、水野……?」
信じられないことに、俺の後ろに立っていたのはクラスメイトの水野だった。
手元には何やら有名ブランドの流麗なロゴが書かれた紙袋を提げている。
学校で見るきっちりと結ばれた髪型とは違い、ふわりと風に揺れるような緩やかなウェーブがかけられ、見慣れていた堅苦しい制服姿でもない、淡い色合いの清楚でお洒落な私服に身を包んでいた。
窓から差し込む午後の柔らかな光が彼女の背後から差し込み、まるで女神のような後光が照らす彼女は、普段の学校での真面目な印象とは全く違う、大人びた雰囲気を纏って違って見えた。
「な、何でここに?」
「それは私のセリフだよ。白河君ことなんで?」
コテン、と小首を傾げて目を丸くする水野。
当然の反応だ。
彼女もまた、休日のオシャレなカフェに、俺と同じでこんな場所にいるはずの無い底辺の人間が急に現れたのだ。
なんでここにいるの、という純粋な疑問が出るのも無理はない。
「喫茶店で本でも読もうかと思って。水野は?」
「私は買い物終わりにのんびりしようと思って」
穏やかな微笑みを浮かべて答える彼女を見つめながら、俺の脳内は激しく混乱していた。
こんな漫画みたいなご都合主義な事が、現実の日常生活において頻繁に起こるはずがない。
少し前、衝撃的な出会いをした一ノ瀬。
その一ノ瀬の店の手伝いから帰る途中に、あり得ない確率でぶつかった佐伯。
そしてその次は、誰もが認める学園のメインヒロイン候補である水野? そんな事あるか?
いや、何の話だよ。
俺はいつからラブコメの主人公になったんだ。
とにかく、こんな天文学的な確率の偶然が何度も立て続けに起きるなんて絶対におかしい。
年末ジャンボ宝くじに連続で当たるくらいおかしい。
神様がサイコロを振るのをサボっているとしか思えない。
「あのーお客様? ご注文は?」
俺と水野が偶然の出会いにお互い目を白黒させて驚いていたのをみかねたのか、レジの奥に立つ店員が、完璧な営業スマイルを少しだけ強張らせて再度確認を取る。
「あっ。すみません。えーっとこれ一つ」
ハッと我に返った俺は、とにかくこれ以上店員を待たせる訳にはいかないと焦り、メニュー表の左上に書かれていた長ったらしい呪文のような横文字を指差して、半ばヤケクソ気味に注文した。
「えーっと、お連れ様は?」
「はい?」
店員の視線が、俺から後ろに立つ水野へとスムーズに移動する。
どうやら店員は、俺のすぐ後ろで親しげに会話をしていた水野を、俺の連れだと完全に勘違いしているらしい。
確かに、第三者の今の流れを見ると、少なくとも知り合いなのは確定だし、待ち合わせをして一緒に注文しに来た客だと思われてしまうのはしょうがない状況だった。
「私はこのアールデ・ベレでお願いします」
「かしこまりました」
俺が否定する間もなく、水野が流れるような美しい発音でスマートに注文を済ませてしまう。
俺は水野の選んだオシャレな響きの飲み物が、一体何なのか全くわからなかった。
アールなんだ?
ペレ?
ブラジル発祥の伝説のサッカー選手か?
いや、カフェにサッカー選手が出てくるわけがない。
だが、そんな事は今の状況においてどうでもいい。
水野が何を飲もうが、どんなメニューを選ぼうが彼女の自由だ。
俺が一番パニックになっているのは、何故ごく自然な流れで、二人一緒の席に座る前提で会計の話が進んでいるんだ?ということだ。
「水野、このままだと一緒の席になるぞ?」
レジから離れ、商品を受け取るカウンターへと移動しながら、俺はたまらず水野に小声で耳打ちをした。
一緒の席なんて、彼女にとって迷惑以外の何物でもないはずだ。
「え? ダメ?」
俺の焦りなどつゆ知らず、彼女は少しだけ上目遣いになり、悪戯っぽく微笑んだ。
淡い色の私服。
いつもと違う緩やかな髪。
そして、ほんのりと香る甘い匂い。
普段と異なる格好の水野が至近距離で見せるその無防備な表情は、それだけで俺の貧弱な心臓に致命傷を与えてくるほどの、凄まじい破壊力を持っていた。
「駄目とかじゃないけど、水野はいいのか?」
「別に大丈夫だよ?」
「あ……そう」
学校では一切接点のない、しかもクラスの底辺とトップカーストという雲泥の差がある男と同席することに、水野は微塵も抵抗を示すことなく、案外サクッとその状況を飲み込んでみせた。
もっと露骨に嫌な顔をされるか、あるいはやんわりと断られると思っていた俺は、拍子抜けして思わず気の抜けた返事をしてしまう。
俺はここで初めて、隙のない優等生である水野が、実は意外とフッ軽で柔軟なタイプの人間だという新しい一面を知った。
「お席までお持ちします。こちらの番号札を持ってお待ちください」
店員から手渡された、アンティーク調の木製ブロックに『一』の数字が印字されたオシャレな番号札を受け取り、俺達は席を探すことにした。
ぐるりと店内を見渡すと、一階にあるバリスタの作業が見えるシックなカウンター席、外の風を感じられる開放的なテラス席、そして階段を上がった先にあるであろう二階のゆったりとしたテーブル席があるようだ。
正直、コーヒーを飲んで本が読めれば俺はどこでもよかった。
「水野、どこがいいとかあるか?」
「強いていうならテラス? 海が見えるんだって」
メニューに書かれた呪文だけでなく、店のロケーションまで事前にリサーチ済みだったらしい。
綺麗な景色を眺めながら、ゆったりと冷たい飲み物を楽しむ。
悪くない。
むしろ、最高の休日の過ごし方だ。
「分かった。テラスにしよう」
俺は水野を先導するように歩き、ガラス張りの外へと続く扉を開け、ウッドデッキが敷かれたテラス席へと出た。
扉を抜けた瞬間、潮の香りを微かに含んだ心地の良い風がふわりと吹き抜け、目の前には太陽の光を反射してキラキラと輝く綺麗な海が一面に広がっていた。
遠くの海岸沿いには海に沿って走る単線の電車も小さく見えるし、なかなかどうして、ロケーションとしては完璧じゃないか。
「わぁ。綺麗だね」
横を見ると、海風に緩やかなウェーブのかかった髪を揺らしながら、心底嬉しそうにパッと花が咲いたようにニコッと笑う水野がいた。
いつも学校で隙のない表情を作っている、真面目で堅物な優等生であり、次期生徒会長候補とまで噂される水野が、こんな年相応の無邪気な顔をするなんて見た事がなかった。
景色よりも、そのあまりのギャップに俺は一瞬だけ目を奪われそうになる。
「よく来るのか?」
海が一番よく見渡せる、パラソル付きの外側の席を選んだ俺達は向かい合って座り、頼んだ品が届くのを待ちながら、ポツリポツリと会話を始めた。
「ううん。初めて」
「ていうか水野が頼んでたのって何だ?」
先ほどレジで彼女の口から流れるように発せられた、異世界の呪文。
これまでの人生で一度も聞いたことの無い未知の言葉。
俺は席に着いてからも、それが一体何の飲み物なのかずっと気になって仕方がなかったのだ。
「あー、アールデ・ベレ?」
「そう! それ!」
二度目に聞いても、やはり全く意味がわからない単語だ。
響き的に英語では無いことだけは分かる。
フランスとかイタリアとか、なんとなくヨーロッパ系の言語のような気はするが、全く見当もつかない。
「ストロベリーティーって意味なんだー!」
「へぇ。初めて知った」
得意げに種明かしをしてくれた水野の博識ぶりを味わい、なるほどと感心した俺だが、同時にどうしても拭いきれない一つの疑問が頭の中に残った。
「普通にストロベリーティーじゃ駄目なのか?」
わざわざ初見の客が読めないような分かりにくい言葉でメニューに書いたり、売ったりするのではなく、誰が見ても一目で分かるようにするべきだ。
百歩譲って、ちょっと気取って英語表記にするくらいならまだ理解の範疇だが。
「オランダ語にするのがいいんだよ。それにオシャレでしょ?」
「分かりやすさよりもオシャレ……」
完全に実用性や合理性を無視したその回答に、俺は思わず頭を抱えそうになった。
俺の思考回路には絶対に存在しない、全くもって理解不能な感覚だ。
「白河君って面白いね」
「はぁ?」
俺の呆れたような反応を見て、水野はコロコロと鈴を転がすように楽しげに笑った。
一体何が面白いのだろうか。
当の本人である俺は、自分のどの発言が彼女のツボに入ったのか一切分からない。
「普通そんなとこ気にしないもん。だから新鮮」
「そうなのか?」
普通気にしないと言われても、気になってしまうものはしょうがない。
意味のわからない言葉を並べられるとモヤモヤする、俺の中の論理的な全てがそう主張しているのだから。
海を背にして、頬杖をつきながら「うん」と優しく微笑む水野を前に、俺はどうにも腑に落ちないまま、ただ首を傾げることしかできなかった。
オシャレな店って一人で入りずらいですよね。
その点白河は勇気あると思います。
だって入れてるんだもん




