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「クラスのギャル、放課後は喫茶店で不器用マスターやってます。」  作者: 路地裏の猫


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36/43

三十四杯目:「閉める! リンジキュウギョウ!」

 彼女が作ったコーヒーフロート改め、アイスのコーヒーがけを少しずらし、空いたスペースに新しいグラスを置く。

 透き通った氷がカランと涼しげな音を立てる中、俺は丁寧にドリップしたコーヒーを注ぎ入れた。  

 ずらした瞬間、「これ、もらうね!」と彼女は一瞬で手をつけ始めた。


「ちゃんと見とけよ」


「わはってるっへ。んーおいひー」


 頬をリスのように膨らませ、幸せそうに目を細める彼女を見て、ちゃんと手元の作業を分かっているのか激しく不安になるが、俺は小さく息を吐いてそのまま作業を続けた。  

 口の中に広がる強烈な甘さを噛み締めて、うっとりと目を閉じている彼女にはもう目もくれない。

 深煎りコーヒーの香ばしくもほろ苦い香りが鼻腔をくすぐる中、注ぎ終わった俺は銀色のディッシャーを手に取り、業務用のバニラアイスを滑らかに一杯だけすくい上げる。  

 真ん丸に整えられた冷たい白い球体を、静かな水面のようなコーヒーの上へとそっと乗せる。

 最後に、鮮やかな緑色をしたミントの葉を一枚、純白のアイスの頂上に添えると、王道にして完璧なフォルムのコーヒーフロートの完成だ。


「これが普通のコーヒーフロートだ」


「少なくない?」


 グラスの底の氷まで見えそうな勢いで、あれ程山盛りだったアイスをもう食べ終わった彼女は、俺が入れたアイスの適正な量を見て、心底不思議そうにこてんと首を傾げる。


「普通だ! 普通!」


「私はもっと多い方がいいのに」


「一ノ瀬の気持ちは聞いてねぇよ」


 呆れを通り越して嘆息が漏れる。

 何度も口を酸っぱくして言っているが、このメニューを提供する対象はお客さんだ。   

 それも、落ち着いた静かな時間を求めてやってくるご年配の方々がメイン層である。

 グラスから溢れんばかりのアイスの山など、見た目の上品さを損なうだけでなく、そもそもあれだけ大量にアイスを消費していては店の利益が出ない。

 経営という観点から見ても大赤字だ。

 こいつはその辺りのシビアな現実を少しでも分かっているのだろうか。


「でもほら。溶けちゃってるじゃん!」


 不満げに唇を尖らせながら、彼女が指差した俺の作ったコーヒーフロート。  

 確かに、漆黒のコーヒーの熱と氷の冷たさに挟まれ、上にある純白のアイスがふわりと溶け始めている。

 甘いバニラが細い筋となって、苦いコーヒーの海へとゆっくりと混ざり合い、美しいマーブル模様を描き出していた。


「こういうものなの!」


 そのグラデーションを目で見て楽しみ、少しずつまろやかになっていく味の変化を堪能するのが、コーヒーフロートという飲み物の醍醐味だと俺は思っている。  

 大体どこの喫茶店に行っても乗っているアイスはこれくらいの量だし、氷の上で徐々に溶けていくことこそが前提のメニューだろう。


「ふーん。ま、いいや。えーっと次は……」


 その風情が伝わらなかったのか、あるいは既に自分好みの暴力的な甘さのコーヒーフロートを食べ終えて完全に興味を失ったのか。

 彼女はすんと表情を切り替えると、手元のグラスを押しやって次の練習に移ろうとしている。


「次じゃねぇ! もう一度やってみろ!」


「えー。もういいよ分かったもん!」


 不満たらたらといった様子で声を上げる、今日の一ノ瀬はなんだか珍しく変だ。  

 いや、突拍子もない行動を取るという意味ではいつも変なのは変なのだが、そのベクトルの変ではなく、どこか根本的な様子がおかしい。

 どこか上の空というか、心ここにあらずといった風情なのだ。

 やれ『復習が大事だ』と、あれほど熱心にどうのこうの言っていた真面目な彼女はどこに行ってしまったのだろうか。


「一ノ瀬なんかあったか?」  


「いろいろ……考える事が多くて……」


 カチャカチャと音を立てて引き出しやら棚やらを開け閉めし、不自然に屈んだり背伸びしたりと、落ち着きなく視線を彷徨わせながら彼女はぽつりと言った。


「考える事?」


「体育祭とか。怜君に言われたじゃん? バトンパスが変だって」


 てっきりカフェの仕事のことかと思いきや、彼女はずっと九条の残した言葉に引っかかってたらしい。  

 脳裏に蘇るのは、あの日、グラウンドに照りつける太陽の下で行われた最初の練習日。  

 土の匂いと熱気の中、通しでやった最後の俺達のバトンパス。

 それを冷静な目で見ていた九条が、ふと漏らした鋭い言葉。  

 確かに、俺も心の底ではずっと気にはなっていたのだ。  

 かつてトラックを本気で駆け抜けていた、元陸上部だったからこその拭いきれないプライド。

 あの時のパスには、決定的な何かが欠けていた。  

 だけど、そんな些細な違和感を気にして、一人で密かに思い悩んでいるのは俺ぐらいだと思っていた。  

 まさか、普段はあっけらかんとしている彼女も、あの一瞬の出来事をここまで深く気にしていたとは。


「一ノ瀬はミスってたと思うか?」    


 そわそわと無意味に道具を用意する彼女の背中を見て、このまま有耶無耶にして何もしないわけにはいかないと思った俺は、言葉を投げかける。

 シンクに水を張り、先ほどのコーヒーフロートで使ったグラス等をスポンジで丁寧に洗い、冷たい水音を響かせながら彼女に質問する。


「分かんない。私は上手く出来てたつもりだけど白河は?」


「俺もそう思ってた」


「思ってた?」


 グラスを濯ぐ俺の言葉の、その微妙な過去形のニュアンス。

 珍しく俺の言葉の裏にある意図を正確に理解した彼女は、ピタリと動きを止めて疑問を口にする。  


 そうだ。  

 俺も最初は一ノ瀬と同じで、タイミングも手順も上手く出来てたと思った。

 バトンは確実に渡ったし、落とすこともなかった。  

 だけど、九条が放ったあの『遠慮』という重い言葉。  

 それを頭の中で何度も反芻し、二人の走りを客観的に思い返して考えた時、少し、ほんの少しだけ確信めいて思った事があったのだ。


「あぁ。九条は遠慮って言ってただろ?」


「うん。言ってた」


 上の棚を覗き込むように背伸びをしていた彼女は、その姿勢のまま勢いよく振り返り、バランスを崩してグラリと後ろに倒れそうになった。


「大丈夫か?」


 反射的に濡れた手を拭うのも忘れ、慌てて手を差し伸べる俺だが、彼女は空中で巧みに体を捻らせると、驚くべき反射神経でぐっと体幹を取り戻す。

 床にしっかりと足をつき、安堵の息をついた。


「セーフ!」


「あー、そうかよ。で、話の続きだが、その遠慮ってのに俺は思う節がある」


「何!?」


 シンクの縁に手をつき、俺は真っ直ぐに彼女の目を見据える。  

 遠慮。  

 それはつまり俺、彼女、もしくはその両方が、無意識のうちに相手を思ってペースを合わせ、優しくしてしまっているということ。  

 ただバトンを繋ぐためだけの、コンマ一秒を争う陸上競技において、それは致命的だ。言い方を悪く言うと、お互いが相手の怪我や失敗を恐れるあまり、全力での勝負から逃げ、手を抜いていたという意味に他ならないのだ。


 手を抜く。  

 この場合、彼女が意図的に手を抜いていたという事は、天地がひっくり返ってもありえないと俺は思う。  

 不器用なほどに真っ直ぐで、何事にも全力でぶつかっていく彼女自身がそういう人間、タイプではないのは重々承知している。

 だが、精神論を抜きにしても、単純な身体能力の差として、それ以外にそんな器用な真似をする余裕は今の彼女には無いのだ。  

 理由は単純明快。  

 バトンを渡す相手が、他ならぬ俺だからだ。  

 過去の大会で取り返しのつかない酷い失敗をし、逃げるようにトラックを去った俺だが、腐っても言っても元陸上部である。  

 

 しかも専門は短距離プラス、リレー担当。

 身体の奥底に染み付いたスプリントのフォームや、爆発的な初速の踏み込みは、そう簡単に消え去るものではない。

 自分で言うのはひどく恥ずかしいし傲慢に聞こえるかもしれないが、ごく普通の運動神経しか持ち合わせていない彼女が、全力でトップスピードに乗る俺の足に合わせる事など、物理的にできないはずなのだ。


 普通は……だ。


 だが、あの日の練習では出来てしまった。  

 あまりにも完璧に。  

 歩幅を合わせる苦労も、スピードの殺し合いによる摩擦もなく、まるで最初から計算されていたかのようにスッと吸い込まれるように、彼女のバトンは俺の手の中に収まった。    

 それはつまり、そういうことだ。  


 傍から見たフォームは綺麗。  

 息も合っていて、確かなチームワークも感じられる。  

 素人の目から見れば、それはとてもいいことだ。  

 だが、一分一秒、コンマの世界で勝負する陸上競技において、それは反対にまだまだ根本的な改善点があるということ。

 俺が俺のトップスピードを殺して走っているという、リレーにおける致命的な欠陥だ。


「多分だが、俺が悪かった」  


「白河が? なんで? どうして? どこが?」


 少しの沈黙の後、彼女は前のめりになり、大きな瞳をパチクリと瞬かせながら矢継ぎ早に言葉を投げかけてきた。

 その必死な様子に、俺は苦笑を浮かべながら、暴れる子供を宥めるように両手を軽く前に出して彼女をあやす。  


「落ち着け。話すから」


「う……うん。分かった」


「一ノ瀬は本気だったんだよな?」


 幸か不幸か、広々とした店内には今、他にお客さんがいない。

 立ち話もなんだと思い、俺達はカウンターから離れて近くのテーブル席へと移動した。  

 木目の美しい小さなテーブルを挟んで向かい同士に座りあった俺達は、互いの目を真っ直ぐに見据えて会話を続ける。

 窓から差し込む柔らかな光が、彼女の輪郭を淡く照らしていた。


「うん。多分?」


 小首を傾げ、少し自信なさげに多分とは言っているが、彼女の性格上、あの時持てる力の全てを出して本気であったことに違いはないだろう。

 この肝心なところでのポンコツな曖昧さも、実に彼女らしいといえば彼女らしい。


「てことは、俺が遠慮してたって事になるだろ?」


「うん。なるね」


 俺の論理的な推論に対し、彼女はうんうんと首が取れそうなほどの激しい頷きを見せる。 

 自分の走りが遅いから相手が合わせざるを得なかった、という事実に対して微塵もショックを受けていない様子のその素直すぎる反応に、俺は内心ハテナを浮かべるが、話の腰を折るのも面倒なので今はいい。


「つまり、俺が原因でチームが遅くなってるって事だ」


「そんな事ないよ!」


 バンッ、と小さな両手が力強く机を叩いた。  

 揺れたグラスの水面と同じように、彼女の瞳が揺れている。俺の名誉の為、俺を責めさせない為に必死に言葉を紡ぎ、真っ向から否定してくれる彼女だが、突きつけられた事実は変わらない。  

 俺が無意識のうちに、素人である彼女に対して手を抜いて、バトンを落とすリスクを避けて安全な道を選び、ただ楽をしていただけなのだ。  


 過去の失敗がなんだ。  

 フライングのトラウマがなんだ。  

 そんなつまらない自己保身で本気を出さないなんて、俺は、逃げ出した俺を再び信じて、リレーのメンバーとして認めてくれた皆に合わせる顔が到底出来ない。

 胸の奥が、ギリギリと嫌な音を立てて軋むのを感じた。


「もう一回やろう! もう一回! 今すぐ!」


「それは勿論やるけど、今すぐには無理だろ」


「出来る! 私と二人なら!」


 熱を帯びた声で、彼女はビシッと自分と俺を交互に力強く指差す。

 その突拍子もない熱量に、俺は思わず目を丸くした。


「二人?」


「そう! 問題あるのは私達じゃん? なら二人で練習したらいいんだよ!」


「いや、極論はそうだけど……」


 興奮気味に身を乗り出す彼女の言う通り、理屈で考えれば、息を合わせるために二人だけで特訓をやるに越した事はない。  

 貴重な皆の練習時間をこれ以上奪う事なく、最大のボトルネックであり問題点であった俺達のバトンパスが上手くなる。

 チームにとってもメリットしかない提案だ。  

 だが、現実はそう甘くない。

 今から走るとして、場所はどこでする?  

 何より、静かなBGMが流れるこの空間——絶賛シフトに入っているこの店の営業はどうするつもりなのだろうか。


「する場所が無くないか?」


「そんなのどこでもいいよ! 砂浜でも、公園でも!」


 勢いよく立ち上がった彼女は、窓の外に広がる景色を大きく指差しながら言い放つ。

 確かに海や広い公園なら走るスペースはあるかもしれないが、彼女曰く、走る為のグラウンドなどの正式な場所にこだわるつもりは全くないらしい。

 その無鉄砲な提案に頭を抱えそうになりながら、俺は最大の懸念事項を口にする。  

 場所はどこでもいいというのなら——


「この店はどうすんだよ! まだまだ営業時間だろ?」


「閉める! リンジキュウギョウ!」


 あっけらかんと言い放たれたその言葉は、もし文字に書き起こしたとしたら明らかに『リンジキュウギョウ』とカタカナ表記になるであろう、現実味のない軽い響きを持っていた。 いくら個人経営の店とはいえ、営業時間をそんなその場のノリと気分だけで自由に決めてしまっていいのだろうか。


「一ノ瀬は気づいてないと思うが、今日思いっきり赤字だぞ?」


 俺は呆れ顔で深々と溜め息をつく。

 ズボラで不器用、おまけにどんぶり勘定すぎる彼女の危なっかしい経営ぶりを見かねて、実は少し前から俺が帳簿を管理し、経理を担当しているのだ。  

 だからこそ、嫌でも現実が見えてしまう。

 今日のまばらな客数に対して、練習と称して無駄に使ってしまった材料費が明らかに多すぎるのだ。

 淹れる度に抽出を失敗しては廃棄したコーヒー豆は勿論のこと、先ほど彼女が採算を度外視して大量に消費した業務用の高級バニラアイスクリーム。

 その他諸々の光熱費や維持費を冷静に計算すると、今日の利益などとうに吹き飛び、お先真っ暗な大赤字である。


「いいよ! お金はあるもん!」


「あのな? あるって言っても無限じゃないだろ?」


 胸を張って悪びれる様子もなく言い切る彼女。

 彼女はたまにこういう現実的なお金や経営のシビアな話になると、自身の後ろ盾である『お金』という最強のカードを盾にして、真剣な議論からするりと逃れようとする悪い癖がある。  

 確かに資金的な余裕はあるのかもしれないが、あると言っても湯水のように際限なく湧いてくるわけではなく、いつか必ず底は見えるし、限界があるのだ。

 それに、どんなに立派な箱があろうとも、どんぶり勘定のまま赤字を垂れ流し続ければ、いずれ破産という最悪の結末を迎えるのは火を見るより明らかだ。  

 この行き当たりばったりな経営方針と、何より利益に対する意識が絶望的に欠如している店長がこれでは——。


「ほらー行くよ! 着替えて!」


 真剣に今後の店の存続について頭を悩ませている俺の切実な説得など、彼女の耳には全く入っていないらしい。

 ぱたぱたと軽快な足音を立てて、彼女はあっという間にスタッフルームのあるバックヤードへと移動してしまった。  

 残された俺は、静まり返った店内で一人、額を押さえる。  

 なんとかしないと。  

 彼女は、経営者としての現状の危うさを全く理解していないのだ。  

 店を営業して維持していくということにおいて、それは例えば華やかなアパレルの服屋であっても、客足の絶えない飲食店であっても、或いは大規模なレジャー施設であっても、根本的なルールは同じだ。

 日々の収支を計算し、僅かでも黒字を出し続けなければ、どんなに思い入れのある店でもすぐに潰れてしまう。

 世の中の接客業、サービス業というものは、外から見る華やかさとは裏腹に、それほどまでにシビアで厳しい狭き門なのだ。  

 共にこの店に立つ身として、なんとか彼女に、この残酷なまでの現実を理解してもらう。  

 

 それが、俺の——。



―――――――――――――――――――――――――



 疲れた。  

 今日はちょっと、自分でも呆れるくらいに頑張りすぎたかもしれない。    


 心地よい疲労感に包まれながら、いつもよりうんと頑張って働いた彼女——は、夕日に染まり始めた海沿いの道を歩いて、家への帰路についていた。  

 クタクタになるまで働いた自分へのささやかなご褒美として、駅前に新しく出来たお店で甘い匂いを漂わせていたシュークリームを買い、行儀が悪いとは思いつつもそれを頬張りながら、黄金色に輝く海辺を歩く。  

 ザザーッと寄せては返す波の音をBGMに、生暖かい潮風にふわりと髪を揺らされた小柄な彼女は、疲れているはずなのに、どこか遠くへ飛んでいってしまいそうなくらいふんわりとした、軽い足取りで歩を進めていた。


「あれ? こは?」


 ふと、オレンジ色に反射する広い海辺へと視線を向けた時だった。

 広大な砂浜のど真ん中に、いつも教室で顔を合わせる大の仲良しのお友達が一人いるのを見つけた。  

 波打ち際を、何故か運動靴のまま全力で砂浜を駆け抜けるその姿。  

 そして、その少し前を走るもう一つの大きな影。


「あれは……しらかわ?」


 西日が眩しくて上手く焦点が合わず、確定ではない為に間抜けで腑抜けた声が口から漏れる。  

 目を細めて手のひらで日差しを遮り、改めてじっと目を凝らして見ると、やはり見間違いではなかった。

 一ノ瀬と一緒に砂浜に居たのは、クラスメイトの白河だ。  

 二人は夕暮れの海辺で、何やら真剣な顔つきで追いかけっこをしている様子だった。


「あれ。何してるの?」


 高校生にもなって、わざわざ足の取られる砂浜で本気の追いかけっこ。  

 常識的に考えれば奇妙な光景だが、逆にそれが珊瑚の好奇心を強く刺激し、むくむくと興味が湧き上がってくる。  

 元々じっとしているのが苦手な彼女は、遠くから見守るだけでは居てもたっても居られなくなり、二人に話しかける事を決めた。  

 ずっしりと甘いカスタードが詰まったシュークリームが入った紙袋を片手にしっかりと握りしめ、ちょこまかとした小動物の様な愛らしい走りで、砂浜の彼らへと近づいていく。  

 途中、道路を横断しようとした際に横からぬっと現れた車に轢かれそうになり、「ひゃっ」と小さく悲鳴を上げた。

 びっくりして心臓が飛び跳ねた彼女は、ふぅーっと大きく息を吐いて平坦な胸を撫で下ろすと、左右をしっかり確認して再び砂浜へと歩を進めた。


「いつ気づくかな」


 気配を消すようにそろそろと近づき、砂浜と海沿いの歩道を繋ぐコンクリートの階段にチョコンと腰を下ろす。

 そして、手に持っていたシュークリームをぱくりと一口かじった。

 サクサクの生地の中から、濃厚な甘さが口いっぱいに広がり、歩き疲れた身体に染み渡っていく。


「ほら。追いつけないだろ?」


「絶対行けるもん! もう一回!」


 波の音に混じって、一ノ瀬の悔しそうな声と白河の余裕そうな声、そんな他愛のない会話が風に乗って聞こえてきた。  

 その言葉を聞いて、そういえばあの二人はもうすぐある体育祭のリレーのメンバーだったなと、珊瑚は記憶の糸をたぐり寄せて思い出す。  

 だから二人は、足腰を鍛えるためなのか、わざわざこんな砂浜にやってきて走る練習をしているのか、と。  

 夕暮れの海辺で高校生男女が追いかけっこという、なにか変な遊びにハマって頭がおかしくなってしまったわけじゃ無くてよかったと、珊瑚は一人で勝手に安堵した。


「え! ねぇ! 白河! あそこ!」


「なんだよ! え?」


 もぐもぐと口を動かしながらボーッと赤く染まる海を眺めていた珊瑚であったが、不意に一ノ瀬が足を止め、バッと自分の方を指さしているのに気がついた。  

 その声に釣られて同調した白河も、階段に座る私を見つけてひどく驚いた表情をしている。


「あちゃ。バレちゃった」


 いたずらが見つかった子供のように小さく舌を出した私の座る階段に向かって、二人がざくざくと砂を蹴立てて近寄ってくる。  


「なにしてるの――って! 何そのシュークリーム! おいしそう!」


 私がこの階段にひっそりと座って二人の特訓を面白がって見ていたことよりも先に、まずはこの両手にすっぽりと収まる美味しそうなシュークリームの方に全力で興味が向くのが、いかにも食いしん坊な『こは』らしい反応で思わず笑みがこぼれる。


「これ? 駅前に売ってたよ?」


「すぐそこの駅前?」


「うん」


 こくりと頷く。

 実際、ここから歩いてすぐ近くの駅前の小さな店舗で、私はこの甘い戦利品を買ったのだ。


「前はなかったよ? 新しくできたのかなぁー」


 完全に頭の中がシュークリームで一杯になっているのか、うーんと唸りながら何かを真剣に考えているのが、そのコロコロ変わる表情からすぐにわかる。  

 一方、そんな彼女の後ろに立つ白河は、練習をこっそり見られていたのが恥ずかしいのか、それとも別の理由があるのか、どこかひどく気まずそうに視線を泳がせていた。


「二人とも食べる?」


 私はガサリと音を立てて紙袋を開き、中にある残りのシュークリームを指さして二人に聞く。

 たくさん頑張った二人にも、この甘い幸せをおすそ分けしてあげたくなったのだ。


「いいの! ありがとう!」


 パァッと花が咲いたように目を輝かせるこはに対し、白河はやはり遠慮があるのか、気まずそうな顔を崩さない。  


「白河も食べるでしょ?」


 私は袋の中から少し大きめのシュークリームを一個取り出し、ほら、と白河の目の前に見せるように差し出した。  

 突然の申し出に戸惑い、「いいのか?」と恐縮して聞く白河に、私はとびきりの笑顔を作って「うん。いっぱい買ったから!」と、底抜けに明るい声で返した。


「……ありがとう」 


 オレンジ色に染まり始めた夕日を受け、手のひらに乗せられた少し大きめのシュークリームをじっと見つめながら、白河はぽつりと照れくさそうに言った。


「ていうかそんなにシュークリーム買って自分で食べるのか?」


 ふと視線を落とし、私がしっかりと抱えている紙袋の中身――ずらりと並んだ甘い戦利品の群れ――を見た白河が、目を丸くして尋ねる。


「私小さいからこんなに食べないって思った?」


 少しだけいたずら心を起こした私は、彼を下から上目遣いで覗き込みながら、わざと小首を傾げて聞いてみた。


「いや、そういうわけじゃ……あぁ、思って」


 慌てて手を振って一度は否定した白河だったが、私の身長と袋の大きさのギャップを改めて見て、観念したように頭を掻きながら正直に認めなおす。

 その少し不器用で素直な反応がおかしくて、私はふふっと小さく笑みをこぼした。


「違うよ。妹と弟にあげようって思って」


 袋から漂う甘く幸せなバニラの香りに目を細めながら、私はお腹を空かせて家で待っているであろう、可愛い二人の顔を思い浮かべる。  

 今日はお仕事でいっぱい頑張って少しお小遣いが入ったから、家にいる二人にも特別なご褒美のお土産として買ってあげたのだ。  

 だから、この少し重たい紙袋の中には、家族みんなで食べるためのシュークリームがみっちりと沢山入っている。


「優しいんだな宮本」


「そうだよ! 珊瑚は優しいんだから!」


 素直に関心したように零れた白河の呟きに対して、何故か本人の私よりも先に、横にいたこはがフンスッと鼻息を荒くして私の代わりに怒り出した。  

 腰に手を当てて白河をジロリと睨みつける彼女を見て、(でも私、別にちっとも怒ってないんだけどな……)というのんびりとした思いを胸に募らせながら、私は噛み合わない二人のやり取りを微笑ましく見守る。


「別に悪い意味でいってねぇよ」


「分かってるよ、白河」


 こはの理不尽な剣幕にタジタジになりながら、必死に誤解を解こうと否定する白河。

 私は困り顔の彼に向かって優しく微笑みかけ、そんな悪い意図がないことはちゃんと知っているよ、と視線と言葉で伝える。


「ところで二人はなんでこんなところで練習してるの?」


 わちゃわちゃとした空気が少し落ち着いたところで、私は元々『あの二人が海辺で一体何をしているのだろう』という純粋な興味からここまで見に来たことを思い出し、話題を切り替えて二人に理由を聞く。


「いや一ノ瀬が練習するってうるさくて」


「だって九条君に言われたじゃん! じゃあ練習するしかないでしょ?」


「でも場所が......」


 やれやれと肩をすくめる白河と、一歩も引かずに唇を尖らせて反論するこは。

 なんだかこの二人――


「こはと白河、仲良しだね」


『そう?』


 私が感じたままの素直な感想をポツリとこぼすと、二人の声が寸分の狂いもなく、まるで合唱のように綺麗に重なった。  

 互いに顔を見合わせてキョトンとしているその息の合い方を見て、やっぱりこの二人はなんだかんだ言ってとても仲がいいのだなと、私は一人で納得してニコニコしてしまう。


「怜君がどうって言ったけど何かあったの?」


 ザザーッ、と少し強くなった波音が海岸に鳴り響く。  

 ふと、先ほどのこはの言葉の端から出た怜君の名前が気になった。  

 確か、この前体育祭に向けて放課後は全員でグラウンドに残ってリレーの練習をするって言っていたはずだ。  

 そこで何か、わざわざこんな場所で特訓をしなければならないような問題があったのだろうか。


「全員で練習してたんだが、一ノ瀬と俺が五走、六走になって。で、俺達は何とも思っていなかったんだが、九条が何か違和感があるって言って......」


「だから二人で練習してたの!」


 なるほど、と私は小さく頷く。  

 真面目で観察眼の鋭い怜君は、いつもよく周りの人を見ているから、二人が走る姿を見て何かタイムロスに繋がる決定的な欠点に気づいたのだろう。  

 それで、その違和感を解消するために、皆に迷惑をかけないよう二人きりでこっそりと自主練習をしていたってわけか。


「なる。でもここ学校から遠くない?」


 事情は分かったけれど、一つだけ大きな疑問が残る。  

 この綺麗な砂浜は、学校のグラウンドからはかなりの距離がある。  

 走り込みをするなら近くの広い公園でも、河川敷でもなんでもあるのに、よりによって足場が悪くて走りにくい、わざわざこの海辺という場所を練習場所に選んだ理由は一体何なのだろうか。


「......なんとなく! 私がここでしたいって無理言ったんだ!」


「こはらしいね」


 少しだけ視線を泳がせながら、えへへと誤魔化すように笑って胸を張るこは。  

 こういう論理や効率を度外視した意味不明な行動を取るのは、これまで何度も見たし、散々経験したし、その度に付き合ってきた。  

 だからきっと、そこにロジカルで深い意味などは全くないのだろう。  

 ただ、いつもは現実的でクールな白河が、そんな彼女の突拍子もないわがままに呆れながらも結局は付き合ってあげているのは、なんだかとても意外で新鮮だった。


 ふと、ポケットの中で小さく震えたスマホを取り出して画面の時計を見た私は、「あっ」と小さく驚いた。  

 もうこんな時間だ。海に夢中になってすっかり忘れていたけれど、お腹を空かせた妹と弟が家で待っている。

 急いで帰らないと。


「まだやるよね? 私帰らないと。またね」


 パンパンとスカートの裾についた砂を手で払いながら立ち上がり、二人に別れの挨拶をして、赤く染まった砂浜を後にした。  

 振り返ると、私に向けてさよならの挨拶を返してくれた二人が並んで立っている。

 夕日を背に受ける二人のシルエットに向かって、私は大きく手を振り返した。    

 

 疲れた。  

 心地よい筋肉の重みと、カスタードの甘い余韻を感じながら帰路を急ぐ。  

 今日も一日、お仕事も歩くのも、いっぱい頑張ったな私。

シュークリームうまい店はまじでうまいですよね

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