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「クラスのギャル、放課後は喫茶店で不器用マスターやってます。」  作者: 路地裏の猫


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三十三杯目:「……う、ムリ。お腹冷えちゃいそう」

「どうだった白河! うちの走り、完璧じゃなかった!?」


 一通りの通し練習を終え、胸を大きく上下させながら、俺たちはグラウンドの定位置へと再び集まっていた。

 すっかり日が落ちた空は、濃紺から漆黒へとその色を溶かし、夜の帳が静かに学校全体を包み込もうとしている。  

 そんな薄暗い闇の中でも、一ノ瀬の瞳だけは、まるで夜空にまたたく一等星のように一際キラキラとした輝きを放っていた。

 充実感に満ちたその笑顔は、夏の終わりを告げる夜風よりもずっと眩しい。


「いや。正直言って驚いたよ。上手いよ全員。俺が口を出す必要なんて、ほとんど無かったくらいだ」


 俺は本心から出た言葉を、少しの苦笑と共に告げた。  

 実際、素人だけの即席チームとしては致命的な失敗もなければ、バトンの詰まりもなかった。

 それどころか、さっきまで個別に練習していたバトンの持ち替えやスタートのタイミングを、全員が実戦の中で見事に活かしきっている。

 最初の一回目にしては、上出来という言葉すら生温いほどのハイクオリティな仕上がりだった。


「だよな。俺も走ってて、ビシビシと確かな手応えを感じてたし。このメンバーならイケるって確信したわ」


 神崎が、額に巻いた真っ赤な鉢巻を誇らしげに指先でくいっと上げながら、深く同意するように頷く。

 彼の暑苦しいほどの自信も、この出来栄えの前では不思議と説得力を持って響いた。

 俺も全くの同意見だった。


「後はこの練習を、本番まで何度も何度も繰り返して精度を上げていけば、本当に完璧になると思う。クラス優勝……いや、他を寄せ付けない圧倒的な圧勝も、決して夢じゃない」


 少し前までは面倒極まりないと思っていた体育祭のリレーだったが、目の前で弾けるような笑顔を見せる仲間たちを見ていると、俺の胸の奥にも、眠っていたはずの熱い何かがふつふつと湧き上がってくるのを感じていた。

 この六人なら、本当に頂点に届くかもしれない。

 そんな確固たる一体感が、俺たちの間に確かに生まれつつあった。


「……ごめん。ちょっといいかな?」


「どうしたんだよ、九条」


 勝利への確信に満ち、固く団結しようとしていた俺たちの輪の中で、一人だけ静かに、躊躇いがちに右手を挙げる者がいた。  

 その九条の様子にいち早く気づき、怪訝そうな表情で理由を尋ねたのは神崎だ。


「本当に些細なことなんだけどね……」


 九条は一度言葉を濁し、長い睫毛の伏せられた瞳を閉じて、何かを慎重に吟味するように少しだけ考え込んだ。

 その知的な横顔に落とされた夜の影が、一瞬だけ不穏な緊張感を醸し出す。  

 そしてすぐに、彼は静かに瞼を開き、真っ直ぐに俺たちを見つめて言葉を紡いだ。


「最後のバトンパス。一ノ瀬さんと白河君のところなんだけど……あそこ、何か小さなミスでもしてた?」


 九条の口から飛び出した、あまりにも意外すぎる指摘に、俺と一ノ瀬は一瞬だけ息を呑み、「え?」と綺麗に声を揃えてマヌケな声を上げてしまった。  

 それもそのはずだった。アンカーとしてバトンを受け取った俺の感覚としてはもちろんのこと、全力で俺にバトンを託した一ノ瀬自身も、今のパスはこれ以上ないほど上手くいったと確信していたからだ。

 完璧な理想形とは言わないまでも、タイムロスに繋がるような明確なミスがあったなど、少なくとも俺のレーダーには一切引っかかっていなかった。

 だからこそ、九条が口にした『ミス』という不穏な単語に、俺たちは過剰なまでに反応してしまったのだ。


 しかし、九条が時折見せる、物事の本質を鋭く見抜くような『勘』の凄まじさは、先日俺自身も身をもって体感したばかりだった。  

 九条の勘は、恐ろしい確率で芯を捉えて当たる。

 彼がわざわざこの空気の中で口にしたということは、つまり、本人たちすら自覚していないレベルの『何か』が、俺と一ノ瀬の間で確実に起こっていたということを無言で表していた。


「いや、俺は走ってて特に違和感とか、ミスだなんて思わなかったけど……」


「そうそう! 私も、今までで一番バチーンって綺麗にバトンがいった気がする!」


 九条の持つ底知れない勘の鋭さにどこか抗うかのように、俺と一ノ瀬はすぐさま言葉を重ねて否定した。

 そう思いたくないという、無意識の防衛本能だったのかもしれない。


「うちも近くで一部始終を見てたけど、二人のパスは普通に綺麗だったと思うよ? 九条の気のせいじゃない?」


 第一走者を終えて、俺たちの近くで一部始終を観察していた佐伯が、腕を組んだまま涼しげな声で助け舟を出してくれた。  

 その言葉に、俺の焦りかけていた判断がぐっと後押しされる。

 そうだ、神崎や山波、そして佐伯といった運動神経の塊のような奴らが見ていても『普通』だったのだ。

 実際問題、俺自身の手のひらに残るバトンの感触に何一つの不快感もなかった。

 綺麗にバトンを受け取れたし、一ノ瀬は陸上未経験の初心者ながらに、俺の加速に合わせて精一杯のパスを繋いでくれたと思う。  

 仮に、万が一九条の言う『勘』が本当だったとしても、そんな微細なズレは今後の練習次第でいくらでも修正し、上達できるはずだ。

 そうに違いないと、俺は自分に言い聞かせるように深く息を吐いた。


「うーん。なんだろうね。僕の思い過ごしならいいんだけど、上手く言葉にはできないんだ……。なんて言うか、うーん、技術的なミスというよりは……『遠慮』? みたいなものを一瞬だけ感じたんだよね」


「遠慮……?」


 九条が眉の間に薄い皺を刻みながら捻り出したその単語は、俺の胸の奥に、冷たい水滴が一滴落ちたような奇妙な波紋を広げた。  

 遠慮、だと。それは一体、何に対して、どちらから向けられたものなのだろうか。  

 俺が一ノ瀬の存在に対して無意識に身体を縮めてしまったのか。

 あるいは、一ノ瀬が俺という人間にバトンを渡す瞬間に、何か躊躇いのようなものを抱いたのか。

 言語化されない九条の指摘が、じわじわと俺の思考を侵食していく。


「ええっ!? 私は白河に対して遠慮なんて、これっぽっちもしてないよ!? なんなら、白河の手の骨をへし折るくらいの強烈なつもりでバトン渡したもん!」


「おいおい……物騒なこと言うなよ」


 静まり返りかけた空気をぶち破るような、一ノ瀬のあまりにも衝撃的で物騒な全力の反論に、俺は思わず肩の力が抜け、言葉を失ってしまった。

 手の骨を折るつもりって、それはもうリレーのパスではなくただの打撃技だろう。


「あはは、一ノ瀬さんがそこまで言うなら、やっぱり僕の完全な勘違いかな。ごめんね、みんなが盛り上がっている時に変なこと言っちゃって」


 一ノ瀬のいつも通りの無邪気な爆弾発言によって緊張の糸がぷつりと切れ、九条は降参とばかりに両手を軽く挙げて苦笑いを浮かべた。  

 ピリついていたその場の空気は、彼のその言葉によって綺麗に収まった。

 神崎や山波たちも「なんだ、九条の取り越し苦労か」と特に気にする様子もなく笑い合っているし、きっと本当にただの思い過ごし、あるいは見え方の問題だったのだろう。     

 誰もがそう納得し、再び笑顔を取り戻した。  


 ——ただ、当事者である俺と一ノ瀬の胸の奥にだけは。  

 完全に消し去ることのできない、ほんの少しの、けれど妙に生暖かいモヤッとした感情の残滓が、夜の冷たい風に吹かれながらも、いつまでも消えずに残り続けていた。



―――――――――――――――――――――――――



 古びた木造の床から立ち上る、心安らぐ木の匂い。

 そこに混ざり合うのは、焙煎された豆が深く、ほのかに甘く自己主張する淹れたてのコーヒーの芳香だった。  

 傾きかけた西の空から差し込む琥珀色の夕陽が、年季の入ったレースのカーテンの隙間を縫うようにして店内に滑り込み、机の端にひっそりと飾られた季節の花の輪郭を優しくセピア色に縁取っている。  

 一歩足を踏み入れた瞬間に全身を包み込むこの静かで温かい雰囲気すら、今の俺にはひどく懐かしく感じられた。

 ほんの三日間この店を離れていただけだというのに。

 頭のどこかで、無意識のうちにこの小さな喫茶店に対してホームシップのような愛おしい感情を浮かべていた自分に、少しだけ苦笑してしまう。


「どう? 白河がいない間に、うち結構練習したんだよ!」


 そんな俺のノスタルジーな感慨を小気味よくぶち破るように、彼女の弾んだ声が響いた。  

 正面の席に腰掛けた一ノ瀬琥珀は、自らの手で作り上げたばかりの『コーヒーフロート』を俺の前に差し出し、喉を鳴らす俺の姿をじっと見つめながら、期待に胸を膨らませるようにそう言った。  

 フロート。  

 それは文字通り、俺が一ノ瀬に付き合って汗水垂らし、基礎の基礎から何度も失敗を重ねてようやくマスターさせたあの自慢のブラックコーヒーの上に、冷たいバニラアイスクリームをただ乗せるだけという、極めて単純な工程のメニューである。  

 いくら、あの歩くトラブルメーカーであり、不器用を絵に描いたような一ノ瀬琥珀と言えど、流石にこれほど工夫の余地のない簡単な作業でミスを犯すことはないはずだ。  


 そう。

 そう高を括り、彼女の成長を僅かでも信じていた数秒前の俺が、救いようのない大馬鹿野郎だった。


「えーっと。……これ、いくら何でも量が多くないか?」


 俺が思わず引き攣った声で指摘した内容は、決して「飲み物全体のカサが多すぎて溢れそう」とか、そんな喫茶店のサービス精神旺盛な可愛らしいものではなかった。

 問題なのは、上に鎮座している白い塊——アイスクリームの物量だ。  

 夕陽を反射したグラスの表面では、びっしりと結露した透明な水滴がダイヤのように煌めき、グラスの中でカランと涼しげな氷が音を鳴らしている。

 ノスタルジックでエモいこと極まりないシチュエーションなのだが、そんな情緒など今の俺にはどうでもよかった。  


 眼前にそびえ立つそれの、最大の問題は『比率』だ。  

 どう見てもグラスの半分以上、いや七割近くを巨大なアイスクリームの質量が占拠している。

 もはや下の漆黒の液体は、申し訳程度に隙間を埋めているに過ぎない。  

 これはコーヒーフロートではない。

 断じて違う。

 ただの『バニラアイスのコーヒーがけ』だ。

 アフォガートの出来損ないと言った方がまだしっくりくる。


「何回も自分で作って試してみたんだけどさ、これが一番いいかなって思ったんだよね!」


 自らの大発明を誇るかのように、一ノ瀬は両手を腰に当て、ニパッと満面の無邪気な笑顔を俺に咲かせる。

 そんな彼女に対し、俺も負けじと口角を吊り上げ、引き攣った笑顔を静かに返し。  

 それは決して「良い試みだね」と彼女を称賛する意味などではなく、額に青筋を浮かべた、静かな怒りと呆れを存分に込めた暗黒の笑顔だった。


「だよね! 白河もやっぱりそう思うよね! うちのセンス最高でしょ!」


「駄目に決まってるよねー、この大馬鹿野郎」


 俺の威圧感たっぷりの笑みを、あろうことか大いなる同意と好意的な解釈で汲み取ってしまった能天気な彼女に対し、俺はできる限りドスの利いた、しかし優しいトーンを意識して声をかけた。


「え?」


「これはどう見ても、ただのアイスメインのデザートだろうが!」


「違うよ! うちが一生懸命作った、特製のコーヒーフロートだよ!」


 駄目だ、こいつ。

 完全に話が通じていない。  

 ここで感情的に怒鳴っても、一ノ瀬の宇宙人並みの思考回路には響かないだろう。

 落ち着くんだ俺。

 まずは深く息を吸って、冷静になれ。


 彼女は確かに、不在の間に「何回か試した」と言っていた。  

 ということは、彼女の歪んだこだわりの中にも、一応は試行錯誤を経た明確な「違い」や「意図」が存在していたということだ。

 頭ごなしに否定するのではなく、まずは彼女のその小さな脳みそが弾き出した、絶望的なこだわりの理由を聞いてみることにしよう。


「……なぁ、何回か試したって言ったよな?」


「うん、そうだよ! 白河がいなくて寂しい間にね。たった一人で! お店のために頑張ったんだから!」


 会話の端々に「寂しい」だの「一人で」だのといった、妙にこちらの罪悪感を煽るような言葉を強調してくる彼女の小細工を、俺はあえて感情を無にしてガンスルーする。

 ここで乗っかったら負けだ。


「じゃあ、この下のコーヒーを完全に圧倒してるアイスの量には、何かお店のための、深い深い理由があるんだよな?」


 俺は目の前で未だに結露を滴らせている『自称コーヒーフロート(実質アイスクリーム山盛り)』を人差し指でビシッと指差し、逃げ道を塞ぐように彼女を問い詰める。


「もちのろんだよ! 一ノ瀬琥珀をナメないでほしいね!」


「なら、その高尚な理由とやらを俺に聞かせてみろ」


 俺が腕を組んで促すと、一ノ瀬は得意げに胸を張り、ドヤ顔をこれでもかと輝かせながら言い放った。


「それはねぇー……。アイスがいっぱい食べられた方が、絶対に嬉しいから!」


「それはただのお前の感想だろ!!」


 知ってた。

 知ってたよ。  

 彼女はどこまでも、自分の極めて個人的な損得勘定と幼稚な欲望だけで行動している。

 そんな、出会った頃から一ミリも変わっていない彼女のブレない本質を改めて認識させられ、俺はドッと押し寄せてきた疲労感と共に、痛む頭を片手で強く抱え込んだ。

 帰ってきて早々、いつもの騒がしい日常が容赦なく俺の現実に帰ってきたことを実感させられる。


「一ノ瀬の個人的なデブ活の気持ちじゃなくて、注文するお客さんの立場で物事を考えろよ!」


「えー? でも、お客さんだってアイスがいっぱい乗ってたら嬉しいんじゃない?」


 この店でアルバイトとして働き始めてから、一ノ瀬は確かに少しずつではあるが変わっていった。  

 最初、彼女がこの厨房に立った時に淹れたあの「ただの泥水」としか形容のしようがなかった最悪の液体が、今では俺の特訓の甲斐あって、ちゃんとお金を払う価値のある香り高いコーヒーとして仕事をしている。  

 その弛まぬ努力の成果もあってか、最近ではこの寂れた隠れ家的な店にも、口コミを聞きつけたお客さんがちらほらと足を運んでくれるようになっていた。  

 だが、その貴重なお客さんたちがわざわざこの店で頼むのは、流行りのスイーツなどではなく、決まってコーヒーをはじめとしたクラシックな飲み物ばかりだ。

 それは彼らが派手なご飯目当てではなく、このお店の静かな空間と、一ノ瀬が必死に淹れる飲み物の素朴な価値に惹かれて来てくれている動かぬ証拠だった。  

 だからこそ、味のバランスを崩してまでアイスの量で釣ろうとする今の彼女の考え方は、大いに間違っているのだ。


「あのな? 普段からこの店に来てくれている常連の人たちの顔を、よく思い出してみろ」


「この店に来る人達……? えっと、いつも来てくれるお客さんのこと?」


「そうだ。どんな人が多い?」


 俺の問いかけに、一ノ瀬は小さな顎に人差し指を当て、上の空を見上げながら「うーん」と記憶を辿るように考え始めた。その、少し口元が緩んだ思慮の浅い姿は妙にアホらしくて笑えてくるのだが、夕陽を浴びてきらめく瞳のせいで、悔しいことにどこか小動物のような可愛らしさも同居していた。


「……近所のお爺さんとか、お婆さん、かな?」


 しばらくして、彼女の口から出たお客さん像は、至極正しいものだった。

 その証拠に、このノスタルジックな純喫茶の雰囲気を愛し、平日の昼下がりに静かに憩いを求めてやってくるのは、圧倒的にその地域に住む年配の方々が多いのだから。


「あぁ。じゃあ聞くけど、そのお爺さんやお婆さんが、グラスから溢れんばかりの冷たいバニラアイスを、お腹を壊しそうなくらい大量にパクパク食べているところを、お前はリアルに想像できるか?」


「……う、ムリ。お腹冷えちゃいそう」


「それが答えだ」


 複雑に絡み合った知恵の輪を、時間をかけて一つずつ優しく解きほぐしていくように、俺は言葉を尽くして彼女を正解へと悟らせていく。  

 自分の致命的なミスにようやく気が付いた一ノ瀬は、目を丸くして「ハッ!」とした表情を浮かべた。

 その驚きに染まった顔が、妙にマヌケで愛らしい。


「じゃあ、これって……」


 一ノ瀬は、自分の想像力の欠如が生み出してしまった、机の上の哀れな『アイスのコーヒーがけ』を、怯えるように人差し指でツンツンと指差した。  

 彼女の想像通り、そして俺の指摘通り、この自信作だったはずの物体は、今この瞬きをする間にただの「失敗作」へと成り下がったのだ。  

 本日も、そして久々に帰ってきた日常の幕開けにふさわしく、彼女の愛すべき不器用さがこれでもかと盛大に発現した瞬間だった。


久しぶりの喫茶店。

ただいま。

そしておかえり。

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