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「クラスのギャル、放課後は喫茶店で不器用マスターやってます。」  作者: 路地裏の猫


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三十二杯目:「目がスケベ」

「基本左で貰って右で渡す。そうそう! その感覚を体に染み込ませて!」


 グラウンドの端、夕陽のオレンジ色が一段と色濃くなる中で、俺の指示が響く。

 俺以外の五人が少しぎこちない様子で縦一列に並び、手から手へと赤いバトンをパスする練習を繰り返していた。

 その光景は、走ることなくただ足元を固定したまま、腕だけを機械的に動かしているため、客観的に見ると奇妙極まりない。


「あはは。何かウケるねこれ。シュールすぎるでしょ」


 前の走者からバトンを受け取り、素早く反対の手に持ち替えるという一連の動作を繰り返しながら、一ノ瀬がケタケタと楽しそうに笑う。

 彼女の弾んだ声が、夕暮れ時の静まり返り始めたグラウンドに心地よく響き渡った。


「イメージが大事なんだよ! 頭の中で全力疾走してる自分を想像して!」


 俺の言葉に、みんなが苦笑いを浮かべながらも動きを止めない。

 何事も、まずは頭ではなく身体で一度やってみる。

 一見遠回りに見えて、これが意外と一番の近道だったりするのだ。

 今は確かにシュールで変な空気になってはいるが、この段階でバトンパスの基本的な「流れ」を脳と筋肉に通しておくことで、実際に走りながら行う本練習でも、混乱せずにスムーズに移行できるようになる。

 最初が肝心なんだ。

 何事も、基礎の基礎が最も重要になってくる。


「やべっ! 右手だった!」


 案の定というか、期待を裏切らないタイミングで、大柄な山波がガハハと笑いながら受け取る手を間違えた。

 まだ一歩も走ってすらいない静止状態であるにもかかわらず、緊張感のないイージーミスを犯す。


「わかる! これ、ちょっと気が抜けるとすぐどっちの手か分からなくなっちゃうよね」


 頭を掻く山波に対し、水野が優しくフォローするように賛同の声をかける。

 彼女のそんな温かい気遣いが、練習のギスギスしがちな空気を一瞬で和らげていた。


「ふむ、みんな少しずつ慣れてきたところで、ちょっと趣向を変えてみようか」


 それまでじっとメンバーの動きを観察していた九条が、何か妙案を思いついたような顔をして、パチンと小気味よく手を叩いた。

 彼の切れ者らしい瞳が、夕陽の光を受けて怪しくきらめく。


「ここからはテンポを上げていこう。もし間違えたり、流れを止めたりしたら、その瞬間にその人は罰ゲームとしてグラウンド一周ダッシュにしようか!」


 九条が満面の爽やかな笑みを浮かべながら放った無慈悲な提案に、その場にいた全員が一斉に苦い顔をした。

 一ノ瀬の笑顔が引き攣り、山波の肩がビクッと跳ねる。


「おいおい、令和のこの時代に罰ゲームって……。脳筋部活じゃねえんだからさ」


 神崎が額の鉢巻をいじりながら、信じられないといった様子で首を振り、やれやれとため息を吐く。


「だって、ただ繰り返すだけじゃ退屈でしょ? これくらいスリルがあった方が、本番さながらのやる気が出ると思うんだよね」


 邪気の欠片もない、まるで天使のような無邪気な笑顔を見せる九条だが、言っていることはなかなかにエグい。

 そのギャップが最高に怖かった。

 全員が身構える暇もなく、九条のいきなりの「スタート!」という鋭い掛け声が響く。

 その瞬間、メンバーの間にピリッとした緊張感が走り、バトンパスのテンポが一気に跳ね上がった。


「これ……本当に意味あるのか?」


 俺は腕を組みながら、彼らが必死の面持ちで、かつ仲良く揃ってリズミカルにバトンパスを回す姿を見て、ふと冷静な疑問を抱いてしまった。

 何だかゲーム感覚で楽しんでいるようにも見える。

 だが、そんな微笑ましい光景も長くは続かなかった。

 テンポが最速に達した数周目、神崎の手元が一瞬だけ狂い、赤い棒が乾いた音を立てて土の上に落ちた。


「はい、蓮の負け! 行ってこーい!」


 九条が待ってましたと言わんばかりに嬉々として指を差す。


「おい! バトンを落とすのもアウトかよ!」


 神崎は理不尽さに声を荒らげながらも、観念したように不貞腐れた顔でグラウンドへと飛び出していった。

 文句を言いつつも、その走りは流石の一言だった。

 現役のサッカー部エースという肩書きは伊達ではない。

 夕陽を背に浴びながら、大きなストライドでグラウンドを駆け抜けていく彼の足の速さには、誰もが文句の付けようがなかった。

 衣服をなびかせ、あっという間に遠ざかっていく背中は、悔しいが素直に格好いいと思ってしまう。


「よし、神崎が戻ってきたら、いよいよ実際に走りながらやってみよう。まず一番に注意することは、バトンを受け取る側の動き。前走者が全速力で向かってくる中で、自分がどのタイミングで走り出せば、最高速度の状態でバトンを受け取れるか。これを常に頭で考え、身体で感じながらやること」


 ダッシュを終えて息を切らしながら戻ってきた神崎を合流させ、俺は次のステップの指示を出す。

 全速力で自分に向かって突っ込んでくる前走者に対し、恐怖心に打ち勝っていつスタートを切るのか。

 そして、お互いがトップスピードに乗った最高の形でバトンを受け渡すことができるかどうか。

 これが、口で言うよりも遥かに難しい。

 何度も何度も失敗を重ね、タイミングを肌感覚で合わせてようやく手に入る高度な技術だ。

 だからこればかりは、理屈抜きで数をこなして身体に覚え込んでもらうしかない。

 勿論、アンカーである俺自身も、前走者である一ノ瀬の走りの癖やスピードに完璧に合わせなければならないのだが——。


「佐伯。ちょっといいか?」


「ん? 何?」


 全体練習を始めようとする一同から少し離れ、俺は一人に声をかけた。

 このリレー組には、もう一つクリアしなければならない大きな問題がある。

 それは、第一走者のみに関係のある『スタート』の技術だ。


「佐伯だけは、みんなとは別に少し違う練習をしてもらう」


「うちだけ? なんで?」


 突然の指名に、佐伯は綺麗な眉を少しだけひそめ、何が何だか分かっていない様子で首を傾げた。

 夕陽に照らされた彼女の瞳が、不思議そうに俺を捉える。


「あぁ。その『うち』には、スタートの猛特訓をしてもらおうと思う」


 事前に九条や山波に確認したところ、今回の体育祭のクラス対抗リレーでは、本格的な『クラウチングスタート』を採用しているらしい。

 地面にしっかりと固定された金属板——スターティングブロックに足を乗せ、お尻を高く持ち上げ、静寂の中での合図と共に一気に地面を蹴り出す、あの陸上競技特有のアレだ。


「別にいいけど……いいの? うちはバトンパスの練習をしなくて」


「いや。バトンももちろん大事だが、第一走者のスタートはそれと同じくらい、いや、レース全体の流れを決めるという意味ではそれ以上に大事なんだ」


 一見すると、ただ屈んで合図と同時に飛び出すだけの簡単そうに見えるアレだが、実は専門的な技術の塊であり、非常に難しい。

 両手を地面につき、体重を前方に預け、足を完全に地面から浮かせて不安定な状態でバランスを取る。

 そして、ピストルの音と同時に爆発的な力で前方へと身体を蹴り出すのだ。

 言葉で説明するのは容易いが、人間の日常の動作には絶対に存在しない、不自然で極端な動きが沢山詰まっている。

 これを未経験の佐伯がぶっつけ本番でやるのはリスクが高すぎる。

 俺は彼女の目を見据え、その重要性を真剣に説いた。


「よく分かんないけど……分かった。で? うち、何すればいいの?」


 佐伯は少しだけ眉の端を下げ、困惑を滲ませた溜め息をひとつついた。

 それでも嫌がる風でもなく、素直に俺の言葉に従おうとするその眼差しには、静かな信頼が宿っている。

 夕陽が彼女の切れ上がった双眸を柔らかに照らし、長い睫毛が影を落としていた。


「えーっと。ちょっと待っててくれ。すぐに準備するから」


 俺は早足で、埃の匂いと独特のゴムの臭いが充満する体育倉庫へと向かった。

 薄暗い倉庫の奥から、ずっしりと重い金属製の器具——スターティングブロックを両手に抱え、グラウンドの佐伯の元へと急ぎ引き返す。

 金属同士が擦れ合うカチャカチャという無機質な音を響かせながら、俺は第一走者のスタートラインとなる、赤茶色の硬いタータンの地面にそれを下ろした。


「何してんの?」


 スパイクのピンの代わりにタータンへしっかりと器具を固定しようと、地面に屈み込んで熱心に調整を続ける俺の姿が気になったのだろう。

 佐伯は風でなびく髪をを軽く押さえながら膝に手を置き、上体を屈めて、覗き込むように尋ねてきた。

 間近から、彼女の髪が風に揺れるたびに甘い香りがふわりと鼻腔をくすぐる。


「これ。何か分かるか?」


 面に鎮座する、斜めに傾いた一対の金属板を指差し、俺は下から彼女を見上げるようにして尋ねた。


「足置くやつだよね? え? 本番でそれ使うの?」


「どうやらそうらしい。あの生徒会長ならやりそうな事だよな」


 学校内でその名を知らない者はいない、あの完璧主義で几帳面を絵に描いたような如月先輩の顔が脳裏に浮かぶ。

 「どうせやるなら本格的に、生徒たちの心に残る熱い体育祭にしよう」とでも言って、嬉々としてこのルールを組み込んだに違いない。


「うち、こんなのやった事ないよ?」


「普通だよ。こんなの陸上部以外で使う機会なんてないからな」

 

 体育の通常の授業でさえ、わざわざ倉庫から引っ張り出して使うことなんてまずない。

 高校生の日常において、この冷たい金属板に足を乗せる瞬間など、普通に生きていれば皆無に等しいはずだった。


「なんだ。白河はうちと二人っきりになりたくて、わざわざここに呼んだのかと思ったのに」


 不意に、佐伯がふっと口元を緩め、からかうような悪戯っぽい笑みを浮かべた。

 夕陽に赤く染まった彼女の頬のせいで、その冗談が妙に艶っぽく響く。


「んなわけあるか! 思っても無い事言うな!」


 心臓が一瞬だけ不規則なビートを刻んだのを隠すように、俺は全力の声を張り上げて彼女の言葉を否定した。

 顔に血が上るのが自分でもよく分かる。


「ほらっ! いいから早く足置いてみろ」


「はいはい。厳しいね、白河コーチ」


 気怠そうな返事を返しつつも、佐伯は慣れない手つきで地面に手をつき、スタートの体勢に入ろうとする。

 だが、やはり触ったこともない初心者が、最初から上手くフォームを組めるはずもなかった。

 彼女は細い手足を持て余すように、おそるおそる金属板に足を乗せようと苦戦している。


「コツは、スタートラインの手の位置から二歩分のところに手前の足を置く。それから、さらにもう一歩分の間隔をあけて後ろの足を置くんだ」


「ちょっと! うちにこの体勢を取らせる前に言ってよ!」


 すでに両手を地面につき、今にも走り出さんばかりの前傾姿勢を作っていた佐伯は、バランスを崩して危うく転びそうになりながら、抗議の視線を俺にぶつけてきた。

 屈んだ姿勢のせいで、彼女の綺麗なうなじが夕陽に照らされて白く輝いている。


「いや、思ったよりもやる気満々ではめ込もうとしてたから、遮るに遮れなくて」


「ほんと畜生だね、白河」


 ぶつぶつと文句を言いながらも、佐伯は一度立ち上がり、手をついていたラインの位置から「一、二」と自分の小さな足でトントンと歩幅を測り始めた。

 普段の学校生活で見せるクールで大人びた彼女からは想像もつかないような、そのどこかヨチヨチとした不器用な動きは、まるで初めての玩具に戸惑う子供のようで、見ていてなんだか微笑ましかった。


「こういう事?」


「うん、位置は合ってる。で、その後に後ろ足も——」


 手前の金属板を自分の歩幅に合わせてカチリと動かした佐伯が、合っているかどうかを確認するように俺の顔を覗き込む。

 俺はその問いに深く頷き、後ろの足も同様の手順で間隔を調整するよう伝えた。

 そうしてようやく、彼女専用のスターティングブロックが地面に完成した。


「ねぇ。この体勢……結構キツイんだけど」


 再び地面に両手をつき、お尻をきゅっと高く持ち上げた姿勢をとる佐伯の口から、微かな泣き言が漏れる。

 太ももやふくらはぎのラインが強調されるその格好が辛いのか、あるいは多感な時期としてこの姿勢そのものが恥ずかしいのか、彼女は少し耳の裏まで赤くしながら、「早く続きを教えて」と言わんばかりに上目遣いで俺を促した。


「後ろ足は、全体の体重をベタッと乗せるんじゃなくて、つま先でプレートを強く支える感じにしてみてくれ」


 俺は屈み込み、彼女の足元を示しながら、陸上部時代に自分が叩き込まれた当時の感覚をそのまま伝授する。

 足の裏全体を密着させて押し出すタイプの人もいるが、俺個人の経験としては、つま先の一点にかかる強烈な体重の反動をバネにして、ピストルの音と同時に一気に身体を前方へと弾き出す方が、圧倒的に最初の一歩が速かった。

 夕暮れのグラウンドに、俺たちの真剣な影が二つ、長く伸びていた。


「こ……こう?」


 細い腕と腕の間から小さく顔を覗かせ、窮屈そうに自身の足元を確認しながら、佐伯は上擦った声で言った。

 赤茶色のタータンに手をついたまま首を捻るその姿勢は、普段の彼女の凛とした佇まいからは想像もつかないほど不格好で、どこか初々しい。

 夕陽に照らされた首筋には、じわりと滲んだ汗が光っていた。


「合ってる、完璧だ。で、次なんだけど……」


「ま……まだあるの!?」


 俺が言葉を続けようとした瞬間、佐伯の口から、クラスの誰も聞いたことがないような情けない弱気な声が漏れ出た。

 眉根をハの字に曲げ、本気で嫌そうな、それでいてどこか縋るような瞳が俺を真っ直ぐに捉える。

 その表情が新鮮で、俺の胸の奥が少しだけくすぐったくなった。


「その状態で、まずは体を左右に小さく揺らして余計な力を抜くんだ。それから、ここだってタイミングで一気に動きを止める」


 これは俺が中学の陸上部時代、レース前に必ず行っていた独自のルーティンだった。

 張り詰めた緊張のなかで意図的に身体を揺らすことにより、肩や背中の強張りが嘘のように抜け、鋭いスタートの瞬間だけに意識を極限まで集中させることができる。


「こんな感じ……? てかこれ、本当に意味あるの?」


 お尻を高く上げたまま、指示通りに不器用に身体をフリフリと揺らす佐伯。

 髪がその動きに合わせて左右に揺れる。


「意味があるかは分からん。俺が勝手にやってただけのルーティンだからな」


「はぁ? そんな個人のこだわりはいいから、本当に必要な事だけ教えてよ!」


 ジト目で睨みつけてくる佐伯の様子があまりにも面白く、俺の心の中に意地の悪い悪戯心がむくむくと湧き上がっていた。

 いつも冷静沈着な彼女を、自分の得意分野で翻弄できているという優越感が、少しだけ心地よかった。


「よし。理屈はいいから、とりあえず一回スタートしてみてくれ」


 俺が手を叩いて合図を送ると、佐伯はそれまでの不満げな表情を一変させ、前方の虚空を鋭く見据えた。

 次の瞬間、彼女の細い後ろ足が、バネが弾けたように金属板を力強く蹴り出した。

 しなやかな体全体の動力を利用して一気にトップスピードへと加速し、数歩進んだところでふっと上体を起こして減速する。

 タタタン、と軽い足音を響かせながら、彼女は俺の目の前にあるスターティングブロックの位置へと戻ってきた。

 夕風に揺れる髪を片手で耳にかけながら、少し弾んだ息のまま俺の顔を覗き込んでくる。


「どう?」


「いや……思ったより全然いい。むしろ、めちゃくちゃ上手い」


 お世辞抜きで、佐伯は初心者とは思えないほど見事にスタブロを使いこなしていた。

 最初の一歩の低さ、地面を捉える足裏の角度。

 バスケットボール部で日々培っている爆発的な瞬発力のおかげなのか、それとも彼女が元々持っている天才的な運動能力の高さゆえなのかは分からないが、とにかく筋が良すぎた。


「よし、じゃあおしまい。よく出来ました」


 満足そうにパンパンと手を払う佐伯に、俺は思わず一歩踏み出していた。


「いや、最後にこれだけ直してくれ。ここが良くなればもっと速くなる」


「まだあるの!?」


 本気で驚いたように目を見開く佐伯。

 しかし、俺の目には、磨けば一瞬で世界が変わるほどの極上の原石が映っていた。

 陸上経験者としての血が騒ぎ、どうしても熱が入ってしまうのを止められなかった。


「口で説明するのはちょっと難しいんだけど……後ろ足を蹴り出す時、ただ前方に倒れ込むんじゃなくて、その……バネ! 金属のバネみたいに、グッと溜めた力を一気に跳ね返して跳ぶように蹴り出してみてくれ」


「ごめん。一つも分からない」


 冷ややかな声がグラウンドに響く。

 当然だろう。

 自分で言っておいて何だが、俺の語彙力は完全に崩壊していた。

 感覚を言葉にするのがこれほど難しいとは。認めたくはなかったが、今の擬音だらけの説明は、まるで——。


「今の、ちょっと琥珀みたいだったね」


「やめろ! それだけは本当に勘弁してくれ!」


 あの直感だけで生きているような逆天才の一ノ瀬と一緒のカテゴリーにされるのだけは、プライドが許さなかった。


「とにかく! こう、ギュッと縮んで、ポンッと弾けるバネみたいに蹴り出すんだよ!」


 俺は必死になって、身振り手振り、実際に自分がジャンプするようなジェスチャーを交えながら伝えようと躍起になった。

 しかし、佐伯は呆れたように片眉を上げ、全く理解していなさそうな顔で俺の奇妙な動きを眺めている。


「……思ったんだけどさ」


「何だよ」


「多分、うち白河の動きを直接見た方が早いと思う」


 佐伯は、俺が必死にバネの真似をしていたジェスチャーを少し小馬鹿にするように、ふっと唇を尖らせて言った。

 分かりづらい悪あがきのような説明だったことは認めるが、その涼しげな態度になんだか少しムカついてくる。


「……見て、本当に分かるのか?」


「言ったでしょ。うち、意外と感覚派だから」


 全く意外ではない。

 むしろ、そうじゃなければ初見であれほど綺麗なスタートが切れるはずがない。

 佐伯莉愛という少女は、誰がどう見ても、一を見ただけで十を理解してしまうタイプの天才肌なのだ。


「分かったよ。じゃあ最初からやるぞ? よく見てろよ」


 俺は少し悔しさを覚えながらも、今度は口での説明を最小限に抑え、スタブロの前で構えに入った。

 ラインの前に立ち、自分の足元を見つめる。

 二歩、そして一歩。

 二年のブランクがある身体の感覚を呼び覚ましながら、冷たい金属板の位置を微調整する。


「……これくらい、だったか」


「随分と曖昧じゃん」


「仕方ねぇだろ! 走るのなんて二年前の部活以来なんだよ」


 佐伯からの容赦ない嫌味を背中に受けつつ、セッティングを終えた俺は、ゆっくりとスタブロに足を乗せた。

 その瞬間、グラウンドの喧騒が遠のき、頭の中がすっと静かになる。

 両手をラインの手前につき、指先で大地の硬さを感じる。

 お尻を高く持ち上げ、体重を前方に預ける。

 身体を左右に小さく揺らし、そして、ピタリと止める。

 肺いっぱいに夕暮れの乾いた空気を吸い込み、細く長く吐き出した。


 ——ドンッ。

 脳内で鳴り響いたスタートの合図と共に、俺の後ろ足は無意識のうちに地面を爆発的な力で蹴り出していた。

 身体が低く鋭く前方へと弾け飛び、タータンを力強く噛む感覚が足裏から脳へと突き抜ける。


「佐伯、こんな感じだ」


 数歩のダッシュを終え、息を整えながら戻ってきた俺は、少しドヤ顔で告げた。

 とは言ったものの、現役を退いて久しい俺のフォームだ。

 口頭の拙い説明を補えるほど、分かりやすい手本になっていた自信は正直なかった。


「あぁー……なるほどね。わかった。そんな感じでやるんだ」


 しかし、佐伯の瞳は俺の動きの全てを捉えていた。

 何かに深く納得した彼女は、すぐにスタブロの前へと進み出て、迷いのない動作でスタートの体勢に入った。

 俺の動きを頭の中で完全にトレースしているかのように、身体を左右に揺らし、静止する。

 そして、一気の解放。 バチィン、とタータンが鳴った。

 彼女の身体は、先ほどとは比べ物にならないほど鋭い角度で前方へと弾け飛び、まさに『バネ』そのものの躍動感を持ってグラウンドを駆け抜けていった。


「どう? うち、今のはかなりいい感じだったと思うんだけど」


 軽やかに戻ってきた佐伯が、勝ち誇ったような笑みを浮かべて俺の顔を覗き込む。


「……そんな簡単にできるわけ……」


 言葉が途中で詰まった。

 胸の奥に、言葉にできないほどの強烈なショックが広がっていく。

 もう少しは泥臭く苦戦して、俺が先輩風を吹かせながら教える展開になると思っていたのに。

 佐伯は、俺が何年もかけて身体に染み込ませた技術の核心を、ものの見事ってたった一回の手本で自分の物にしてしまったのだ。

 圧倒的な運動能力の高さと、恐怖すら覚えるほどの抜群のセンス。

 沈みゆく夕陽の光のなかで自信に満ちた笑みを浮かべる彼女の姿を前に、俺は、彼女が紛れもない『本物の天才』であることを、これ以上ないほど痛烈に思い知らされていた。


「何落ち込んでんの?」


 グラウンドに長く伸びた俺の影を不思議そうに見つめながら、佐伯が小首を傾げた。

 夕暮れの風が彼女の黒髪をふわりと揺らし、茜色に染まった横顔がどこか幻想的な美しさを帯びて見える。

 あまりにもあっさりと己の限界を超えていった天才少女を前に、俺の肩はこれ以上ないほど重く沈み込んでいた。


「いや。現実は残酷だなと思って」


 何ヶ月、いや何年とかけて泥臭く身体に染み込ませた技術が、たった一回の見本で完全にコピーされ、あまつさえ本家を超えられてしまう。

 才能という絶対的な壁の前に打ちひしがれ、俺は暮れゆく初夏の空を見上げながら、遠い目をして深く、深い溜め息を吐き出した。


「何それ」


 そんな俺の胸中など知る由もない、あるいは興味がないのか。

 佐伯は俺の紡いだ感傷的で意味不明な発言を深く掘り下げることは一切なく、呆れたように小さく鼻を鳴らした。

 そして、短い体操着のズボンを少しだけ気にしながら、カチャリと冷たい金属音を鳴らして、軽やかな動作でもう一度スタートの姿勢へと入った。


「足以外に直した方がいい所無いの?」


 前方にある架空のゴールラインを鋭く見据えたまま、彼女は地面に向けた顔の角度を変えずに尋ねてくる。

 その声には、先ほどまでの素人特有の戸惑いは完全に消え去り、少しでもタイムを縮めようとするアスリートとしての静かな熱が宿っていた。


 俺は今一度、スターティングブロックに身を委ねる佐伯の姿を、上から下まで隈なく視線で追った。

 赤茶色のタータンにピタリと添えられた白く細い指先から始まり、獲物を狙う雌豹のように鋭く前を見据える視線。

 陸上競技特有のお尻を高く持ち上げた前傾姿勢によって強調される、体操着越しのしなやかな背中の美しい曲線。

 そこから繋がる、キュッと引き締まった細い腰つき、そして健康的な太ももからふくらはぎへと至る脚のライン。

 最後に、先ほど俺が口うるさく教えたばかりのつま先の角度。

 それは最早、何年も陸上トラックで戦ってきたトップ選手のそれと言っても過言ではないほど、非の打ち所がない完璧な角度で金属板を捉え、力を極限まで溜め込んでいた。

 それ以外の部分も、全てが理にかなっている。

 これ以上、俺のような凡人が口出しできる余地など一ミリも残されていなかった。

 悔しいが、佐伯のスタートフォームは完全無欠だった。


「いや、無いな」


 完全なる敗北宣言。

 俺は諦めと、ほんの少しの称賛を込めて短く答えた。


「白河」


 ふと、彼女は目線を前方から微塵も動かすことなく、ただ静かに俺の名前を呼んだ。


「え? 何?」


 真剣なアドバイスか、それともスタートの合図でも要求されるのか。

 俺は油断しきった顔で生返事をし、彼女の次の言葉を待った。

 夕風がグラウンドの砂埃を微かに巻き上げ、二人の間に一瞬の静寂が落ちる。


「目がスケベ」


 ただ一言。

 まるで風の音に紛れ込ませるような、ひどく冷たく、それでいてどこか面白がっているような淡々としたトーンだった。

 俺の脳がそのたった四文字の意味を理解するよりも早く、ダンッ! とタータンを蹴りつける鋭い音が響いた。

 その爆弾のような言葉だけをその場に置き去りにしたまま、彼女は既に、美しいバネを弾けさせたかのような完璧なスタートを切り、夕闇の迫るグラウンドを軽やかに駆け抜けていった。


「……は、はぁぁぁぁぁ?」


 数秒遅れて思考が追いついた瞬間、俺の顔は瞬時に沸騰したように朱に染まった。

 決してよこしまな目線で見ていたわけではない。

 断じてない。

 あくまで指導者として、フォームのチェックとして、腰や脚のラインを凝視していただけだ。

 それがまさか、あんな酷い誤解を生んでいたなんて。

 弁解と羞恥とパニックが入り混じった俺の情けない叫び声が、夕暮れのグラウンドに空しくこだまする。

 その声の大きさに驚き、少し離れた場所で和気藹々とバトン練習をしていたメンバー全員が、何事かと一斉にこちらを振り返り、奇異の目を向けていたことなど、その時の俺は知る由もなかった。



―――――――――――――――――――――――――



「よし! いよいよ通しで練習しよう!」


 グラウンドに落ちる影が限界まで間延びし、空の色が茜色から深い藍色へと移り変わろうとする時間帯。

 反復練習によって確かな疲労と僅かな手応えを感じ始めていた俺達は、九条のパンッと手を打つ乾いた音と提案の元、ついに本番を想定した本格的な通し練習をやってみる事になった。


「てかさ! さっきの白河の声何?」


 空気の切り替えを図ろうとした矢先、一ノ瀬が思い出したように目を輝かせ、俺の羞恥心という名の古傷を無慈悲に抉る様な質問を投げかけてきた。

 夕風に揺れる彼女のポニーテールが、獲物を見つけた小動物のようにピンと跳ねている。


「いや白河がさぁー——」


「何でもない! 何でもない!」


 俺の失態を、さも当然の権利のように薄く笑いながら暴露しようとする佐伯。

 その涼しげな唇から「目がスケベ」という社会的な死を意味するパワーワードが放たれる前に、俺は両手を激しく振り回し、顔を真っ赤にして急いで彼女の言葉を物理的な大声で掻き消した。

 佐伯は「ふふっ」と悪魔のように艶やかに微笑み、それ以上は語らなかった。

 心臓が早鐘のように打ち鳴らされ、変な汗が背中を伝う。


 ——いや、今はそんなくだらない羞恥心に構っている余裕はない。

 この通し練習は、先ほどまでの「軽く走ってタイミングを合わせる」だけの生温いバトンパスとは、根本的に次元が違う内容になる。

 距離を短縮するわけでもなく、この練習は最初から最後まで一回丸々通してやるのだ。  

 一人あたりきっちり百メートル。

 それを六人で繋ぐ。

 助走のスピードも、バトンを受け取る瞬間の風を切る感覚も、そして何より——後半にかけて容赦なく脚に蓄積される鉛のような疲労も、これまでとは全てが変わる。

 トップスピードで迫り来る味方から、己もトップスピードに乗りながらバトンを奪い取るという行為の難易度は、実際に全力を出してみて初めて露わになる。

 それは、この『リレー』という競技がいかに残酷で、そして難しいものかを意味しているのだ。


「やるぞ! 皆配置について!」


 九条の号令と共に、メンバーたちがそれぞれのスタート位置へと散っていく。

 本番の体育祭では、本格的な四百メートルトラックを全面使って行われることになっている。

 幸いにも、我が校のグラウンドはその規格を満たす広大な四百メートルトラックが常設されていた。

 広大なトラックを均等に四分割し、それぞれ百メートルごとのテイクオーバーゾーンに一人ずつ配置される。

 必然的に、同じ地点からスタートする第一走者の佐伯と第五走者の山波、そして第二走者の九条とアンカーである第六走者の俺は、それぞれ同じバトンゾーンで前走者を待つ形となる。

 ……はずだったのだが、練習を効率化するため、今回は第一走から第三走までのゾーンでやり繰りすることになった結果、俺はなぜか山波と同じゾーンで待機することになった。


「まじで勝とうぜ!」


 広いグラウンドに取り残され、西日の沈みかけた薄暗いタータンの上で前走者を待っていると、隣に立つ巨漢——山波が、突然腹の底から響くような声で俺に話しかけてきた。


「あ、あぁ」


 静かな緊張感を破る山波の唐突な熱量と勢いに押され、俺の口から情けない動揺の声が漏れ出た。

 ふと、冷静になって考えてみる。

 俺はクラスメイトであるはずの山波との接点が、日常においてほとんど存在しない。

 彼が普段の休み時間に誰と何を話し、どんな些細なことで笑い、何を信じて学校生活を送っているのか。

 そのバックボーンが一切分からない。

 体育祭という非日常のイベントで、こうして同じリレーのメンバーとして選出されなければ、卒業まで言葉を交わすことすら数えるほどしかなかったかもしれない。

 それほどまでに、俺たちの住む教室内のヒエラルキーやテリトリーには明確な隔たりがあったのだ。


「山波はなんでそんなに勝ちにこだわるんだ?」


 沈みゆく太陽が彼の筋骨隆々としたシルエットを黒く縁取る中、俺は気付けばそんな根源的な疑問を口にしていた。

 ただのクラス対抗の行事に、なぜそこまで純粋な闘志を燃やせるのか。

 捻くれた俺には、それが少しだけ不思議だった。


「ん? そんなの決まってるじゃねぇか」


 俺の意図を測りかねるような、あるいは俺の質問が不思議でたまらないといった様子で、山波は一瞬の迷いすら見せずに即答した。

 ニカッと白い歯を見せるその笑顔には、裏表など微塵も存在しない。


「嬉しいからよ!」


「……それだけ?」


 そのあまりにも真っ直ぐな言葉に、俺は呆気を取られた。

 彼が何故、汗を流してまで勝ちにこだわるのか。

 その答えは「勝てば嬉しい」という、子供でも分かるような、単純かつ至極真っ当な感情の吐露だった。

 気持ちは分かる。

 誰だって負けるより勝つ方がいいに決まっている。

 だが、その強烈な熱を生み出す『動力源』は、本当にただそれだけなのか?

 そんなシンプルすぎる理由だけで、人はここまで真っ直ぐに前を向けるものなのか?

 夕闇が迫るグラウンドの片隅で、計算や理屈ばかりをこね回してしまう自分との決定的な違いを突きつけられたような気がして、言い知れぬ小さな疑問と敗北感が、初夏の涼しい夜風と共に俺の胸を静かに通り抜けていった。


「それだけってそれ以外あるか?」

 

 山波は、俺の抱いた捻くれた疑問を吹き飛ばすかのように、純度百パーセントの真っ直ぐな瞳で力強く頷いた。

 夕闇が迫るグラウンドの薄明かりの中でも、自らの信念を一切の疑いなく信じ切っている彼の瞳は、内側から発光しているかのようにキラキラと澄んだ輝きを放っている。

 損得勘定ばかりで動いてしまう俺の矮小な心が、その眩しさに少しだけチクリと痛んだ。


「いや、山波は助っ人とかもしてるだろ? それも嬉しいからなのか?」


 校内での山波の噂は、帰宅部の俺の耳にすら届くほど有名だった。

 バスケ部が人数不足になればゴール下で壁となり、野球部がピンチになれば代打で豪快なスイングを披露する。

 様々な部活から引っ張り凧で、文句一つ言わずに助っ人として汗を流しているらしい彼だが、他人の部活の勝敗のために心血を注ぐ理由も、まさか己の勝利と同じ「嬉しい」という感情だけなのだろうか。


「おうよ。まぁ自分も嬉しいが、何より人が喜んでくれるだろ? 俺はそれを見るのが好きなんだ」


 ニカッと白い歯を見せて笑う山波のその答えは、熊のように雄大で強靭な体格からは到底想像もつかないほど、無邪気で可愛らしいものだった。

 自分が褒められたいわけでも、目立ちたいわけでもない。ただ純粋に、仲間の喜ぶ顔が見たいから走る。

 そんな真っ白な利他精神を、この巨漢は胸の奥に当たり前のように飼っているのだ。

 己の打算的な思考が恥ずかしくなるほど、彼の魂は美しく、そして清々しかった。


「へぇ。なんか意外だな」


 俺が小さく感嘆の息を漏らし、山波の意外な一面に少しだけ胸を打たれていると、遠くから空気を切り裂くような九条の鋭い合図の声がグラウンドに響き渡った。

 ドンッ、とタータンを強く叩く音が鳴る。

 振り返ると、第一走者の佐伯がすでにスタートを切っていた。

 俺がほんの数十分前に教えたばかりのバネのような蹴り出しを、彼女は一切の狂いもなく完璧にこなし、夕暮れの空気を真っ二つに裂くような見事なスタートダッシュを決めていた。

 綺麗な髪が一陣の風となって後方へ流れる。

 その一切の無駄を省いた美しいフォームと圧倒的な加速を見た瞬間、横にいた山波の空気が一変した。

 先ほどまでの人の良さそうな笑顔は完全に消え去り、獲物を待ち構える猛獣のような鋭い眼光を放ちながら、彼はテイクオーバーゾーンの指定位置へと深く腰を下ろした。


 山波は、後方から猛スピードで迫り来る佐伯を見据えながら、太く逞しい左手をスッと前方へ差し出した。

 それは単なる受け渡しのポーズではない。

 「俺は準備できている。いつでも、どんなスピードでも絶対に受け取ってやる」という、次走者としての揺るぎない覚悟と意思を、前走者である佐伯へと強烈に見せつけるような頼もしい構えだった。

 その無言のメッセージに呼応したのか、ゾーンに差し掛かった佐伯のストライドがさらに伸び、限界を超えてもう一段階スピードが跳ね上がったような気がした。


 自らのテイクオーバーゾーンへと侵入してくる佐伯との距離と速度を完璧に測り、山波は絶妙なタイミングで前を向き、爆発的な力でスタートを切った。

 巨体が風を切り裂き、助走のスピードがグンバツに上がっていく。

 そして、お互いがトップスピードに達したその一瞬の交錯点。

 振り返ることなく差し出された山波の左手に、佐伯の右手が寸分の狂いもなく赤いバトンを叩き込んだ。

 パシッ、という小気味良い音が鳴り響く。

 見事なタイミングでバトンを手中に収めた山波は、受け取った勢いを殺すどころか、さらに己の筋力を爆発させて再加速する。

 ドスッドスッと大地を揺らすような重戦車のような走りで、気が付くと彼はすでに、遥か前方で待つ第三走者のすぐ近くまで、圧倒的な推進力で到達しようとしていた。


「やっぱ運動バカだね」


 第一走者としての重責という名の役目を終え、トトトッと足取りを緩めながら俺のすぐ隣までやってきた佐伯が、少しだけ乱れた息を整えながら口を開いた。

 夕風に煽られて汗ばんだ前髪を払いながら、遠ざかる山波の規格外の背中を見つめる彼女の横顔には、呆れと、そして確かな称賛の色が浮かんでいる。


「佐伯もだけどな」


 山波の走りも確かに人間離れしていたが、俺からしてみれば、たった一度の口頭説明と見本だけで、陸上選手顔負けの完璧なクラウチングスタートをやってのけた佐伯こそ、正真正銘の才能の塊であり、恐ろしい運動バカだと思う。


 リレーという競技は、本当に一瞬で終わってしまう。  

 百メートルという距離は、全力を出せば十数秒の世界だ。

 六人が繋いでも、ほんの数分で全てが決着する。

 一人一人が命を削るようにして紡いだその時間は、まるで瞬きをする間に過ぎ去っていくかのようだ。

 その過酷な現実を証明するかのように、トラックの向こう側ではすでに第三走者が走り終え、第四走者である神崎から、第五走者の一ノ瀬へと無事にバトンが受け渡されていた。

 

 一ノ瀬のポニーテールが夕暮れの中で小さく揺れ、トラックのカーブを曲がりきって、アンカーである俺の待つ直線コースへと真っ直ぐに迫ってくる。


 ドクン、ドクン、ドクン。


 ただの放課後の通し練習だ。

 順位がついたり、クラスの命運がかかっているわけではない。

 頭ではそう分かっているはずなのに、バトンという名の想いが自分に向かって近づいてくるその光景は、理屈を超えて心臓を激しく打ち鳴らす。

 手のひらにじわりと冷たい汗が滲み、口の中がカラカラに乾く。

 抗いようのない強烈な緊張感が、まるで冷たい手で心臓を鷲掴みにするように、俺の胸を容赦なく襲っていた。


「ねぇ」


 迫り来る一ノ瀬の規則正しい足音と、自身のバクバクと早鐘を打つ心臓の鼓動が重なり合う。

 空はすでに燃えるような茜色から、夜の訪れを告げる深い群青色へとグラデーションを描き始めていた。

 薄暗くなりつつあるグラウンドのテイクオーバーゾーン。

 俺はアンカーとしての指定位置に立ち、前傾姿勢をとって極限まで神経を研ぎ澄ませていた。

 もう余計な思考は完全に排除し、視線はただ一点、こちらへ向かって全速力で駆け込んでくる一ノ瀬の姿だけを捉えている。

 そんな、まさにスタートのトリガーに指を掛け、全身の筋肉が爆発を待っている極度の緊張状態の中。

 ふわりと、横から甘いシャンプーの香りが初夏の夕風に乗って鼻腔をくすぐり、予想外に静かなトーンの声が俺の耳に届いた。


「今度はなんだよ!」


 心身共にいつでも前方へ弾け飛べる準備が完全に整っていた俺は、一瞬だけ視線を横にずらす。

 そこには、先ほど第一走者として走り終えたばかりで、まだ少し肩を上下させて息を切らしている佐伯が立っていた。

 夕暮れの薄明かりの中、いつもは涼しげで飄々としている彼女の瞳が、今はなぜか少しだけ潤み、揺らいでいるように見えた。

 だが、今の俺にそこまで気を回している余裕はない。

 背後から迫るタイムリミットに急かされるように、俺は「手短に頼む」という焦りの感情をたっぷりと乗せて、少し乱暴な口調で言葉を返す。


「......なんでもない。頑張れ!」


「なんだよそれ! まぁありがとう。頑張るよ!」


 一瞬の沈黙。

 彼女の薄い桜色の唇が微かに開き、普段の佐伯なら絶対に言わないような、何か特別な言葉を紡ごうとしたように見えた。

 しかし、彼女はふっと自嘲するように、あるいは照れ隠しのように小さく微笑むと、出かかったその言葉を喉の奥へと飲み込んでしまった。

 夕風が彼女の美しい髪をサラリと揺らす。


 何か。

 今のほんの数秒の間に、彼女が何を伝えたかったのか。

 極限の集中状態にあった鈍感な俺は、その微細な感情の揺れ動きや、不自然なに隠された意味に気づく暇もなかった。

 ただ、彼女の不器用で真っ直ぐなエールだけをありがたく受け取り、再び前へと意識を戻す。


「白河ーっ!!」


 トラックに響き渡る、一ノ瀬の張り裂けんばかりの必死な声。

 思考を完全に切り離し、俺は本能のままにタータンを蹴り出した。

 背後に、トップスピードで突っ込んでくる一ノ瀬の荒い息遣いと熱気が迫る。

 教えた通りの絶妙なタイミングで右手を後ろへ突き出すと、そこに六人の汗と熱意が染み込んだ赤いバトンが、スパーンッ!と完璧な軌道で収まった。

 手のひらに伝わる、ひんやりとしたバトンの感触と、一ノ瀬から託された確かな体温。

 全員の想いが一つの線として繋がった瞬間だった。

 バトンを強く握り直した俺は、残された百メートルの直線コースを、夜の帳が下り始めた涼しい風を真っ二つに引き裂きながら、ただひたすらにゴールテープだけを目指して全速力で駆け抜けていった。

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