三十一杯目:「テイクオーバーなんとかってやつかな?」
「どうしたの? その大量の紙」
浅野先生からの恐ろしい「優しさ」の結晶を受け取り、鉛のように重い足取りで喧騒に包まれた教室へと戻ってきた俺。
腕の中に抱えられた、まるで鈍器か辞書のような分厚いプリントの束を見た瞬間、一ノ瀬は目を真ん丸に見開いて素っ頓狂な声を上げた。
「呼び出された理由だよ……」
自分の席に辿り着くや否や、俺はドサリと鈍い音を立てて机の上に紙の束を置き、そのままずるずると椅子に深く腰掛けた。
三日間のブランクに加えてこの尋常ではない課題の量。
一気にのしかかってきた現実の重さに、深い疲労感を含んだため息が自然と漏れる。
「げぇー! 数学じゃん!」
プリントの束の一番上を覗き込んだ一ノ瀬は、あからさまに顔をしかめた。
そこには、見るだけで頭痛がしてきそうな黒々と印字された複雑な数列や図形問題が、余白を埋め尽くすようにびっしりと並んでいる。
彼女は自分の喉を両手で押さえ、喉の奥からウッという嗚咽を漏らすような、いかにも彼女らしい大袈裟でコミカルな演技をして見せた。
「……数学だけじゃない。ほら」
俺はため息まじりに、一番上の数学プリントをペラッとめくり、その下に隠された絶望のフルコースを順番に一ノ瀬へと見せつけた。
びっしりと注釈が書き込まれた古文の長文読解、見慣れない記号が並ぶ化学の構造式、重力や摩擦係数を求める物理の力学問題、そして容赦のない文字数で構成された英語の長文プリント。
そのどれもが、三日間の授業の密度を無慈悲に物語っている。
「花ちゃん……鬼だね」
「あぁ。鬼だ」
普段は親しみを込めて「花ちゃん」などと呼ばれている浅野先生の、教育者としての容赦のなさに、一ノ瀬は心底同情したような顔で呟いた。
先ほど職員室で見た、あの冷徹な態度の裏にある不器用で切実な先生の優しさを一ノ瀬に伝えようかとも一瞬迷ったが、わざわざ言葉にして説明するのは野暮な気がして、俺はその言葉を静かに飲み込んだ。
先生のあの思いは、俺がこの課題をやり切ることで応えればいいだけの話だ。
「何してんだ? うっわ。白河ご愁傷様です」
どんよりとした空気が漂う俺と一ノ瀬の輪の中に、ひょっこりと顔を出したのは神崎だった。
陽キャ特有の軽やかな足取りで近づいてきた彼は、俺の机の上にそびえ立つ絶望の山を一瞥するなり、まるで仏を拝むかのように静かに目を閉じ、胸の前でスッと手を合わせた。
「死んでねぇ! いや……死ぬかも」
「流石に期限は、この量なら締め切りは長いだろ?」
神崎が常識的な推測を口にする。
普通に考えれば、誰だってそう考えるだろう。
一人の生徒がこなすには、目の前にある物量はあまりにも多すぎる。
一週間、いや二週間あっても不思議ではない量だ。
「今週中だって言われたよ」
「……鬼じゃん」
「鬼だよね?」
「あぁ。鬼だ」
見事なまでの三段活用が決まり、俺たち三人の間に妙な連帯感と変な間が流れた。
しかし、神崎はすぐに「いや、そんな事より――」と表情を引き締め、本来の用件を切り出した。
「今日の放課後、白河時間あるか?」
「放課後?」
唐突な問いかけに、俺は少し戸惑った。
普段の学生生活なら、帰宅部である俺には放課後の予定など何もない。
普段なら。
だが、忘れているかも知れないが、俺は一ノ瀬のために喫茶店でアルバイトをしている。
それも他ならぬ、今すぐ目の前に立っている彼女――一ノ瀬が経営している店で。
今日はシフトに入っていなかったか?
仮に入っていなくても、彼女の家の手伝いに支障は出ないだろうか。
そんな『大丈夫か?』という確認の意を込め、俺は素知らぬ顔で一ノ瀬の方へとチラッと視線を送った。
俺の意図を瞬時に察した彼女は、ニコリと笑って小さく首を縦に振った。
店は問題ない、行こうという無言の合図だった。
「行ける。もしかしてリレーの練習か?」
「あぁ。他の奴らは今居ないけど、さっき聞いておいた。皆んな行けるらしい。白河が最後だったんだよ」
その言葉に、俺の胸の奥でチクリと罪悪感が疼いた。
俺が休んで引きこもっていたせいで、俺たちのチームは他のクラスと比べ、大幅に練習が遅れをとっているはずなのだ。
本来なら、とっくにバトンの受け渡しのタイミングや走順の調整に入っていなければならない時期だ。
今すぐにでも自分から頭を下げて始めるべきだと思っていた所に、神崎からのありがたい提案。
乗らない、いや、やらない訳にはいかない。
「グラウンドが使えるらしいから、放課後集合で」
それだけ言い残すと、神崎はヒラヒラと手を振りながら自分の席の方へと戻って行った。
昼休みの教室は忙しない。
一ノ瀬以外のリレーメンバーである一軍の奴らは、部活のミーティングやら生徒会の仕事やらで何かと用事があり、今は教室には居ない。
九条がどこで何をしているのかは分からないが、彼もまた多忙なのだろう。
「白河って、足速いの?」
神崎の背中を見送った後、突然一ノ瀬が不思議そうに小首を傾げながら口を開いた。
あまりに直球で唐突な質問だったため、俺は答えに窮し、少し考え込んでしまった。
「分からないな」
「でも、陸上やってたんでしょ?」
確かに一ノ瀬の言う通り、俺が過去に陸上でそれなりのタイムを出していたのは紛れもない事実だ。
あの忌まわしい事件が起きるまでは。
だが、それはあくまで二年ほど前の過去の栄光。
成長期の肉体にとって、二年という長すぎる間は余りにも重く、大きい。
当時の筋肉はとうの昔に落ちているだろうし、何よりトラックを駆け抜けるあの独特の感覚が、今の自分にどれだけ残っているのか見当もつかない。
「二年前だぞ? 流石に全盛期ほどじゃないと思うけど」
「ゼンセイキ?」
難しい言葉を聞いた子供のように、一ノ瀬がキョトンとした顔で首を傾げる。
彼女の相変わらずのアホっぷりは一旦脇に置いておくとして、実際問題、これは俺にとって途方もなく大きな懸念材料だった。
九条は俺の過去のタイムを知った上で、俺をチームの「最大の武器」として選んだ……はずだ。
もしそうならば、俺は周囲の期待に応えるだけの、それなりの圧倒的な速さを見せつけなければいけない。
それに、リレーという競技はただ速く走ればいいわけではない。
そこには「バトン」という絶対的な繋がりが存在する。
個人の走力以上に、バトンの受け渡しこそが勝敗を分ける一番大事且つ、最もタイム差が出るシビアな部分なのだ。
「リレーか。グラウンドを本気で走るなんて、久々だな……」
「大丈夫だよ!」
不安で強張る俺の背中を叩くように、一ノ瀬が満面の笑みで言い放った。
彼女のこの絶対的な自信は、一体全体どこから湧いてくるのやら。
俺の心を満たしているどろどろとした不安を吹き飛ばすような、その底抜けのポジティブさを少しだけでも分けて貰いたい気分になる。
「一応聞くけど、その絶対的な『大丈夫』は、一体どこから出てきてる根拠なんだ?」
「だって白河、走る順番アンカーでしょ? だったら、次の人にバトンを『渡す』練習はしなくていいじゃん」
「なるほど。……確かにそうだな」
目から鱗が落ちるとはこの事か。
一ノ瀬の言う通り、次へ「渡す」練習をしなくていいというのは、精神的にも技術的にも途方もなく大きいメリットだ。
通常、リレーという競技では、第一走者と最終走者以外のメンバーは「前傾姿勢でスピードを殺さずに渡す」ことと、「トップスピードで貰う」という、二つの高度な練習が必須になる。
だが、俺は最終走者であるアンカーだ。
ゴールテープを切るだけの役割である俺は、前の走者からバトンを「貰う」という後者の技術にだけ全神経を集中させれば良いのだ。
単純に考えて、他のメンバーの半分の労力とプレッシャーで済む。
一ノ瀬の意外な着眼点の鋭さに、俺は少しだけ感心しながら、放課後のグラウンドの土の匂いを想像し始めていた。
「それに白河に渡すのは私でしょ? だったら絶対に大丈夫だと私は思うんだけどなぁー」
「だから不安なんだよ……」
屈託のない笑顔で胸を張る彼女を見つめながら、俺は深い深い頭痛を覚えた。
正直なところ、一ノ瀬という人間はあらゆる意味で未知数すぎる。
運動神経が特別悪いようには見えないが、彼女がトラックの上でどのような走りを見せ、どのようなテンポで、どんな渡し方をしてくるのか、俺の貧困な想像力では全く予測がつかないのだ。
そして何より、バトンを渡してくる相手が『他ならぬ一ノ瀬琥珀である』という事実そのものが最大のリスクだった。
これまでの短い付き合いの中で見てきた彼女の奔放で感覚的な性格を思い返せば、緻密な計算とタイミングが命であるバトンパスにおいて、大ポカをやらかして失敗するビジョンの方が圧倒的にリアルに脳裏に浮かんでしまう。
「ま! 細かいことは気にしない! 本番になれば何とかなるよきっと!」
俺のどろどろとした不安など一切気にする様子もなく、一ノ瀬は両手をグーに握り込み、胸の前で元気いっぱいのガッツポーズを取ってみせた。
その底抜けに明るい、無根拠な自信の塊のような姿に、俺は抗議する気力も失せ、ただ小さく乾いたため息を吐き出すことしかできなかった。
今はリレーの心配よりも、目前に迫った致死量の課題だ。
まずは机の上にそびえ立つ大量の紙の山を一枚でも多く消化し、少しでも前進させることが最優先事項だと判断した俺は、筆箱から使い慣れたシャーペンを取り出し、覚悟を決めて問題に向き合い始めた。
最初のターゲットは数学だ。
一問目は、休む直前の記憶の糸をたどり、最後に授業で聞いた公式を当てはめればすんなりと解ける、小手調べのような内容だった。
カリカリと心地よい音を立てて芯が紙の上を滑る。
休んでいたブランクを感じさせない自分のペースに少しだけ安堵し、それが数問ほど続いた後――不意に、俺のペンの動きがピタリと止まった。
「……何だこれ?」
プリントの余白を埋め尽くすように印字された、まるで古代の暗号か何かのように複雑怪奇な数列。
これまで授業で見たこともないような難解な数式の羅列に、俺は思わず呆然と口に出していた。
「一ノ瀬、これ分かるか?」
隣にいる彼女に期待などしていない。
ただの現実逃避に近い反射的な問いかけだった。
「ふっふっふ! 任せてよこの一ノ瀬琥珀に! どれどれ?」
しかし、一ノ瀬は待ってましたとばかりに自信満々な声を上げ、俺の手元にあるプリントへとグッと身を乗り出してきた。
彼女が顔を近づけた瞬間、ふわりと甘く爽やかなシャンプーの香りが鼻腔をくすぐる。
真剣な眼差しで、ウンウンと唸りながら問題用紙を覗き込む一ノ瀬。
しかし、数秒もしないうちに彼女の表情からスッと険しさが消え、あっさりと元の姿勢へと戻ってしまった。
「……で、分かったか?」
「白河。人間、自分で最後まで考える事が何よりも重要なんだよ? すぐに人に頼りすぎるのは、君の成長のためにも良くない!」
一ノ瀬はビシッと人差し指を一本立て、まるで教壇に立つベテラン教師のような堂々たる仕草で、そんなもっともらしい説教を垂れてきた。
「はいはい。俺が聞く相手を間違えたよ」
要するに、一ミリも分からなかったのだ。
一ノ瀬に聞いた俺が紛れもない馬鹿だった。
そもそも、普段から授業をろくに聞いていない一ノ瀬に、こんな応用問題が解けるはずがない。
火を見るより明らかな結末だったというのに、一瞬でも淡い期待を抱いてしまった自分が情けない。
自力での解決を諦めた俺は、助け舟を求めて教室の辺りをキョロキョロと見回した。
昼休みの賑やかな教室の中、少し離れた自分の席で、一人静かにスマートフォンを操作している菊池の姿が目に入った。
クラスの中心からは外れた地味なグループに属する彼だが、その知力は本物だ。
俺は迷わずアイツの頭脳を頼る事にした。
「菊池。ちょっとこっち来てくれ」
不意に名前を呼ばれた菊池は、ビクッと肩を震わせて顔を上げた。
俺からの突然の呼び出しに目を限界まで大きく見開き、自分を指差しながら、まるで「えっ!? 俺!? 本当に俺!?」と全身で語っているかのような大袈裟なジェスチャーをした後、おずおずとした足取りでゆっくりと俺の席までやって来た。
「な、何で急に呼ばれたの、俺……?」
「いや、ちょっとこの問題が分からなくてさ。最初一ノ瀬に聞いたんだけど、全く解けないって言われたから、頭のいいお前を頼ったんだよ」
「違うよ白河! 解けないんじゃなくて、白河に自分の力で頑張って欲しくて、あえて心を鬼にして無理って言ったんだよ!」
「はいはい、そうだな。……で、菊池。この図形の後の数列問題なんだけど……」
隣でわーわーと喚く一ノ瀬の苦しい言い訳を完全にスルーし、俺はプリントの分からない箇所を指差し、菊池に教えを乞うた。
「あぁ、なるほどね。これはここの公式がこう変化するから……ここをこうして、代入すれば」
プリントを覗き込んだ菊池の表情が、一瞬にして理知的なものへと変わる。
彼は俺のシャーペンを借りると、余白にスラスラと流れるような手つきで途中式を書き込みながら、驚くほど的確で分かりやすく解説してくれた。
それもそのはずだ。
普段はオドオドしていて少し抜けたところのある彼だが、こう見えて学力テストの成績は常に学年上位に名を連ねている秀才なのだ。
知識の引き出しが多く、人に教えるのが上手いのも当然の事だった。
「なるほど、そういうことか。めちゃくちゃ分かりやすい。ありがとな、菊池」
「何で一瞬で分かったの!? あっ……違う違う、私、今一瞬計算間違えただけだ! うん、その菊池君の答えで合ってると思う!」
未だに自分のポンコツ具合を認めようとしない一ノ瀬が見栄を張って取り繕うが、もはや誰も彼女の言葉には耳を貸していなかった。
「次の問題も、これと全く同じ公式の応用で解けるぞ?」
「本当か? めちゃくちゃ助かる」
菊池の的確なアドバイスと補助線のおかげで、詰まっていた思考の回路が繋がり、俺は次々に難問をなぎ倒していくことができた。
「ていうか……お前、いつの間にどうやってあの一ノ瀬さんとあんなに仲良くなったんだよ!」
問題を解く俺の耳元に身を寄せ、菊池が周囲に聞こえないほどの小さな囁き声で、切実な疑問をぼやいてきた。
その声には、純粋な驚きと、ほんの少しの嫉妬が混じっている。
「あー。まぁ、リレーが理由だよ」
嘘は言っていない。
一ノ瀬はともかく、実際にあの体育祭のリレーの揉め事とメンバー入りがあったからこそ、俺はこうして一軍と不自然なく会話を交わせる関係になれたのだから。
「でも、お前みたいなやつがわざわざリレーのメンバーに選ばれるって、何で何だよ! てか、こんな美少女と普通に話せて羨ましいぞ!」
「羨ましがられるような理由なんて、俺には一つも分からないな。……で? この下の問題はどうやって展開するんだ?」
これ以上、菊池の冴えない青春の嘆きや阿保らしい詮索に付き合う必要はなしと判断した俺は、強制的に話題を打ち切り、次の問題の解き方を菊池に尋ねた。
自分の土俵である勉強の話に戻された菊池は、不満げに唇を尖らせながらも、淀みない口調でスラスラと解法を教えてくれる。
「菊池君って、本当に頭いいんだね!」
その時だった。
俺と菊池のやり取りを横で黙って見ていた一ノ瀬が、急に目をキラキラと輝かせ、菊池に向かってストレートな称賛の言葉を投げかけた。
正確に言えば、一ノ瀬には解説の意味が全く理解できていないため、会話に口を挟むタイミングが分からず、ただ黙って見ているしかなかったというのが正解なのだが。
「えっ! お、俺!?」
突然、クラスの頂点に君臨する一軍ギャルである一ノ瀬から、真っ直ぐに顔を見つめられて話しかけられた菊池。
彼の顔は一瞬にして沸騰したように真っ赤に染まり、誰がどう見てもパニックに陥り、激しく動揺しているのが分かった。
それもそうだろう。
地味で目立たない菊池と、華やかでカースト上位の一ノ瀬では、クラス内での立ち位置が月とスッポンほどに真逆なのだ。
日頃まともに言葉を交わす機会すらない雲の上の存在から、不意打ちで称賛の言葉と共に話しかけられたとなれば、耐性のない彼がここまで動揺するのも無理はない。
俺はペンの動きを緩め、この突発的な状況を少しばかり楽しむ事にした。
菊池と一ノ瀬。
水と油のようなこの二人が交わった時、一体どういう化学反応が起きるのか、純粋な好奇心から見てみたくなったからだ。
それに、以前菊池は「どうやったらあんな一軍の女子たちと関わりを持てるのだろうか」と、遠い目をしながらこぼしていた事がある。
俺は菊池と一ノ瀬のぎこちないやり取りを横目で観察しながら、ゆっくりと問題を解き進めた。
またとない大チャンスだぞ、菊池。 お前の望んでいた接点だ。
気の利いた返しをするなら、今しかない。
「そ、そうかな……? あ、あはは……」
顔を林檎のように赤く染め上がらせた菊池は、視線を泳がせながら、引き攣った笑みで後頭部をガシガシと掻いた。
「うん。だって、私さっぱり分かんないもん。あんなのパパッと解けちゃうなんて、すごく頭いいよ」
「いや、で、でも……これ、先週の授業でやった基礎の応用内容だし……。少し復習すれば、誰でも普通に解けると思うけど……。な、なぁ、白河!」
逃げるのが早すぎた。
せっかく美少女から好意的な関心を向けられた絶好のチャンスを目前にして、このヘタレはプレッシャーに耐えきれず、みすみすその好機をドブに捨てたのだ。
よりにもよって、ここで俺に助けを求めて話題を逸らしてしまったら、お前の淡い青春のフラグは完全におしまいだ。
「……一ノ瀬は、いつも授業中一体何を考えて過ごしてんだよ」
菊池からの悲痛な救難信号を受け取った俺は、心の中で深くため息をつきながらも、これ以上彼をいじめるのは酷だと判断し、会話のパスを受け取ってサポートに入った。
「授業中? 普通に、真面目に授業の事を聞いてるよ? でも……たまーに、放課後に食べる甘いクレープの事とか、今日の夜ご飯のおかずはハンバーグかなぁとか、そういう有意義なことを考えたりはするかな!」
悪びれる様子もなく、えっへんと胸を張って答える一ノ瀬。
きっと彼女の場合、その「たまに」の比率が授業時間の大半を占めているのだろう。
だから肝心な授業の内容が、ただのBGMとして右から左へと流れていき、少しも頭に入ってこないのだ。
「の、ノートとかは、ちゃんと取ってないの……?」
菊池が上擦った声で、少し噛みながらもなんとか言葉を絞り出す。
どうやら俺のパスを無事に受け取り、会話を繋ぐサポートは上手くいったみたいだ。
「取ってるよ? 見る?」
意外なことに、授業中は上の空だと言い切った一ノ瀬の口から肯定の言葉が返ってきた。 彼女は自分の席へと小走りで向かい、カバンの中から一冊のキャンパスノートを誇らしげに取り出してきた。
「ほら、これ! 今日の数学のノート!」
自慢げな笑みを浮かべ、バサッとノートの見開きを俺たちの目の前にデカデカと広げてみせた。
その中身を目にした瞬間、俺と菊池は揃って息を呑み、雷に打たれたような衝撃を受けた。
「分かりやすっ!」
菊池が思わず素っ頓狂な声を上げる。
俺も全く同意見だった。
一ノ瀬の普段のズボラで大雑把な性格からして、余白に謎の落書きが散乱しているか、ミミズが這ったような解読不能な文字が並んでいるものだとばかり思っていた。
しかし、目の前に広げられたノートは違った。
重要項目は赤や青のペンで綺麗に色分けされ、補足事項にはパステルカラーの付箋が丁寧に貼られている。
文字のサイズも均等で、定規を使って引かれた図形も寸分の狂いがない。
言うなれば、お手本のような『優等生女子の完璧なノート』そのものだった。
「……おい一ノ瀬。お前、これ誰のノートをパクってきたんだ?」
俺は真っ先に他人の所有物であることを疑った。
いや、疑うのが自然だ。
あんなにもズボラで、致命的に頭が悪く、能天気で、マイペースで、さらには不器用な一ノ瀬が、これほど美しく整理されたノートを自力で作れるはずがない。
恐らくだが、同じグループの佐伯か水野あたりのノートを借りパクして——。
「失礼な! ちゃんと私のだよ! ほら、ここ! 名前!」
俺の失礼極まりない推測に、一ノ瀬はぷくっと両頬を膨らませて露骨に怒りを露わにした。
そして、ノートの表紙に可愛らしい丸文字で書かれた『一ノ瀬琥珀』という記名を、これでもかと俺の鼻先に突きつけてきた。
「んな馬鹿な……」
「もう! 白河も菊池君も、人のこと馬鹿にして! 私だってやればできるんだから、ちゃんと取ってるんだからね!」
フンスッ、と鼻息を荒くして抗議する一ノ瀬を前に、俺も菊池も完全に言葉を失い、目を点にして放心状態に陥った。
「……こんなに綺麗にまとまってて、なんで一ミリも内容を理解してないんだ?」
「うんうん。これだけ書いてて分からないってのが、逆に分からないよ……」
気を取り直した俺と菊池の脳内に、共通の巨大な疑問が浮かび上がった。
これほど完璧に情報を整理し、視覚的にも分かりやすくノートをまとめられているのなら、嫌でも授業の内容が脳に定着するはずだ。
百歩譲って全てとは言わずとも、断片的な公式や用語の記憶くらいは確実に入っているのが普通だろう。
「ふふん! このノートの書き方、莉愛と珊瑚に教えてもらったんだ! 綺麗にデコると可愛く見えるし、モチベ爆上がりでしょ!」
「あー……なるほどな」
その無邪気な一言で、俺の頭の中で全ての点と点が線で繋がった。
完全に理解した。
しかし、隣の菊池は未だに狐につままれたような顔で首を傾げている。
恐らく彼女は、ノートの『中身』ではなく『見た目』しか気にしていないのだ。
綺麗に書くこと。
見やすくすること。
そして何より彼女にとって最大のウェイトを占める『可愛く仕上げること』。
それらのビジュアル面を重要視しすぎるあまり、彼女の脳のリソースは『ノートを綺麗にデザインする作業』に全振りされてしまっているのだ。
だから肝心の教師の言葉や授業のロジックが一切頭に入らず、ただひたすらに見栄えだけを求めてペンを動かしている。
世間一般の言葉で表現するなら、いわゆる『ノート映え』というやつだ。
「なんだよ! 何が分かったんだよ白河! 教えてくれよ!」
未だに状況を咀嚼しきれていない菊池が、俺の袖を引っ張って質問攻めにしてくる。
「……いや、何でもない」
俺は意地悪く、その真理を菊池に教えることはしなかった。
さっき絶好のチャンスを与えてやったのに、ヘタレて逃げ出したことへのささやかな罰だ。これくらいのモヤモヤは味わってもらおう。
しかし、この一ノ瀬という生き物に対して、俺はどうしても『惜しい』という感情を抱いてしまう。
ゴールまであと一歩のところまで来ているのに、最後の最後でその一歩を真逆の方向へ元気よく踏み出してしまうのだ。
そのエネルギーの向かうベクトルを少し修正してやるだけで、劇的にポンコツ具合を改善できそうな気がするのだが。
俺のバイト先である喫茶店における彼女の働きぶりを思い返しても、それは同じだった。 一ノ瀬は、教えられたことに対する復習や反復練習は文句も言わずにちゃんとやる。
それは非常に立派な長所であり、仕事において何より大事な才能だ。
だが、致命的に『やり方』や『努力の方向性』を間違える。
彼女が自発的な復習から正しい成功を導き出せたのは、これまでのところ奇跡的な一回のみだ。
その生真面目な復習で得た経験値を、ほんの少しだけ実戦に応用できるようになれば、彼女は大きく化けるはずなのに。
「何なんだよ! お前ら二人だけで分かりあうなよー!」
真理に気づかされた俺と、満足げにノートを眺める一ノ瀬。
そんな俺たちの間で完全に蚊帳の外に置かれた菊池の悲痛な叫びは、誰の耳にも届くことなく、昼休みの教室の喧騒と虚空の中へと虚しく吸い込まれていった。
―――――――――――――――――――――――――
時刻は放課後。
西の空が燃えるような茜色に染まり始め、長く伸びた校舎の影がグラウンドを覆い尽くそうとしている時間帯。
一日のカリキュラムから解放された生徒たちの、どこか浮き足立ったような笑い声が遠くから風に乗って響いてくる。
夕陽が優しく射し込む空の下、家路を急ぐ波を逆行するように、俺たちリレー組のメンバーは少し土埃の匂いがするグラウンドの片隅に集まっていた。
「後は日葵だけか」
ふと、満足げな声が響く。
視線を向ければ、腕を堂々と組み、なぜか真っ赤な鉢巻を額にきつく巻いた神崎が、さも大将軍のような風格を漂わせてポツリと呟いていた。
夕陽の光を受けて無駄に輝くその額の布切れが、ひたすらに浮いている。
「で? いつツッコんだらいいの? その頭」
そんな神崎の奇行を見た佐伯は、すっと温度を消した瞳で目を細めた。
汚物でも見るかのような、見事なまでの蔑みの視線が彼に突き刺さる。
冷ややかな声色は、初夏の夕暮れ時だというのにそこだけ冬が訪れたかのようだった。
「いいなぁ! 私もやりたい!」
「琥珀? 一旦黙ってね。ややこしくなるから」
しかし、佐伯の冷気などどこ吹く風とばかりに、神崎の額の鉢巻を見てパァッと目を輝かせたのは一ノ瀬だった。
新しいおもちゃを見つけた子犬のように尻尾を振らんばかりの勢いで身を乗り出す一ノ瀬を、これ以上この場を混沌に染められたくない佐伯が、ピシャリと容赦なく制圧する。
「鉢巻は必要だろ?」
神崎は至極真面目な顔だった。
むしろ、スポーツに挑むのに着けない理由がどこにあるんだと言わんばかりの、どこから湧いてくるのか分からない謎の気合いと自信に満ちた表情で佐伯に言い返す。
「はぁ。ほんと馬鹿だね」
「何なら莉愛も着けるか?」
「遠慮しとく。白河も誘ったら?」
佐伯が呆れ果てて深い深いため息を吐き捨てた直後、彼女の口から思いがけない流れ弾が飛んできた。
安全圏から呆れた目で傍観していたはずの俺は、突然自分に向けられた理不尽な矛先に激しく動揺して——
「着けるわけあるか!」
「何でだよ。カッコいいだろ」
俺の全力の拒絶に対しても、神崎は全く悪びれる様子がない。
むしろ本気で不思議そうに首を傾げている。
彼の中で、鉢巻への信頼と男のロマンは計り知れないほど絶大らしい。
額の布切れ一つでここまで広がる不毛でくだらないやり取り。
そんな気の抜ける会話をしていると、茜色に染まった校舎の入り口から、こちらへ向かって慌ただしく走ってくる水野の姿が見えた。
「ごめん! 生徒会が長引いて!」
水野は顔の前で申し訳なさそうに両手を合わせる。
長い髪を夕風に揺らしながら全力で走ってきたため、その肩は大きく上下に揺れ、白い頬はほんのりと熱を帯びて朱色に染まっていた。
息を切らしながら、彼女は申し訳なさそうに謝罪の言葉を口にする。
「しょうがないだろ? 謝る必要はねぇよ」
そんな水野に対し、神崎は頭に妙な布を巻いているくせに、態度はやけに爽やかなイケメン風の労いの言葉を投げかけた。
「ありがとう! てかその鉢巻って——」
「日葵。その話はもう済んだからツッコまなくていいよ」
水野が額の異物に気づき、誰もが抱くであろう至極真っ当な疑問を口にしようとした瞬間、佐伯が静かに、だが有無を言わせぬ圧で首を横に振った。
ここで掘り下げれば再び面倒なことになるという、彼女なりの防衛策だ。
「お? 日葵も着けるか?」
「もういいって! 九条、全員揃ったよ!」
まだ布教を諦めていなかった神崎の誘いを、佐伯は半ば強引に断ち切る。
この不毛な件を完全に終わらせるため、彼女は横へ視線を向けた。
そこでは、周囲の喧騒など全く耳に入っていない様子で、山波と共にしゃがみ込み、木の枝を使って地面に何やら複雑な図形や矢印を書き込みながら真剣に作戦を立てていた九条の姿があった。
「よし! 揃ったね。改めてこの六人がリレーのメンバーだ!」
佐伯の声に反応した九条が、手にしていた小枝をポイと捨てて立ち上がる。
パンパンと手についた砂を払いながら、彼は満足げに微笑んだ。
俺もつられて顔をあげ、夕陽に照らされた全員の顔を一通り確認する。
馬鹿をやっている奴も、呆れている奴も、息を切らしている奴も、そして熱を帯びた瞳をしている奴も。
全くバラバラの個性の集まりだが、不思議と居心地は悪くなかった。
「僕達は勝つ。そうだろ? 大河」
九条は隣に立つ大柄な山波に対し、まるで自らにも言い聞かせるように、静かだが確かな熱を込めて改めて目標を確認する。
「おう! クラス優勝! それが目標だ!」
山波の野太く真っ直ぐな声が、グラウンドの夕空に力強く響き渡った。
その迷いのない宣言に、その場の空気が少しだけピリッと引き締まる。
「となると、リレーは一位が必須になる。そこでだ」
九条の瞳が、ふと悪戯っぽく光った。
そして、その鋭い視線が真っ直ぐに、俺の顔を射抜いた。
背筋にゾクッとした悪寒が走る。
極めて嫌な予感がした俺は、咄嗟に明後日の方向——茜色の空にぽつんと浮かぶちぎれ雲——を向き、全力で目を背けた。
関わりたくない、何も聞いていないという無言のアピールだ。
しかし、俺のそんなささやかな抵抗を見た九条は、まるで獲物を追い詰めた策士のように、さらにニコッと完璧な笑みを浮かべながら言葉を続ける。
「リレー経験者である白河君にコツを教えてもらおうと思う!」
一切の逃げ道を塞ぐような明るいトーンで、俺の最悪な予感通り、九条は全くもって要らない、そして俺にとって最も面倒な提案を高らかに宣言した。
「コツも何も俺は……」
「いい案じゃん! 白河どうすればいい?」
適当に誤魔化してフェードアウトしようとした俺の弱々しい断りの言葉は、太陽のような無邪気さを持った一ノ瀬の声にあっさりと掻き消された。
彼女はキラキラと期待に満ちた、純度百パーセントのワクワクした顔で俺を覗き込んでくる。
「いや。そんな期待されても」
「白河! 頼む!」
戸惑い一歩後ずさった俺に、今度は神崎が追い打ちをかけてきた。
額の鉢巻を夕風に揺らしながら、暑苦しいほどの真剣な眼差しで俺に頭を下げる。
純粋な期待と、熱血な懇願。
両側から退路を塞がれた俺は、もう逃げ切れないことを悟った。
これ以上抵抗しても無駄に体力を使うだけだ。
肺の中にある空気を全て吐き出すような長くて深い溜め息を一つこぼし、俺は完全に白旗を揚げた。
腹を括り、夕陽に染まるグラウンドの真ん中で、素人ばかりの彼等に必要になりそうなバトンパスの基礎や走るコツを、頭の中で少しずつ組み立て始めた。
「リレーで大事なのはそうだな……相性? って言うか何と言うかそういうのが大事になる」
「相性?」
ふと漏らした俺の抽象的な言葉に、水野が不思議そうに小首を傾げた。
夕陽の柔らかな光が彼女の揺れる髪を黄金色に縁取り、大きな瞳が純粋な好奇心で瞬いている。
その愛らしい仕草に少しだけ視線を奪われつつも、俺は記憶の底に沈めていた陸上競技のセオリーを引っ張り出した。
「リレーで一番は足の速さでも無ければ、スタートの上手さとかじゃない。バトンの受け渡しが如何に上手かどうかが重要なんだ」
グラウンドの土を踏みしめながら、少しだけ声を張って告げる。
俺のその断言に、神崎も、一ノ瀬も、そして九条や佐伯たちも、揃って「なるほど」と真剣な表情で頷いた。
彼らの素直な反応が、俺の中に眠っていた『走る事への熱』に少しだけ油を注いだのかもしれない。
「バトンの流れがスムーズに行けば自ずと走り出しも速くなる。プロとかテレビで見るとわかると思うだけど……あ」
ふと我に返り、言葉をブツンと途切れさせる。
しまった、話し過ぎた。
ただのクラス対抗リレーだ。
ここまで熱を帯びた口調で、専門的な知識をひけらかすように語る必要など全く無かったはずだ。
過去の熱意を不用意に曝け出してしまった自分に気づき、一気に顔へ熱が集まるのを感じた。
恥ずかしさで火が出そうになり、俺は堪らず視線を足元の砂利へと落とす。
「白河って本当に陸上部だったんだね」
「あぁ。こりゃ有益情報だ」
そんな俺の羞恥心など露知らず、一ノ瀬は感心したように目を丸くし、鉢巻を巻いた神崎は獲物を見つけた狩人のようなニヤリとした笑みを浮かべて言う。
彼らの声には微塵も嫌味などなく、ただ純粋な感嘆だけが混じっていた。
「好きなんだね陸上」
「うんうん。白河君カッコいい」
佐伯は普段のクールな印象を微塵も感じさせない、初夏の風のように爽やかで清々しい笑顔を向けてくる。
それに同調するように、水野もまた、聖母のように優しく温かな笑みで俺を肯定してくれた。
美少女二人からのストレートな好意と称賛の言葉の破壊力は凄まじく、俺は居心地の悪さと照れ臭さで、思わず頬を掻きむしりたくなる衝動に駆られた。
「よし。方針は決まったね。白河君はアンカーだから最初はコーチになってもらおう。元々そのつもりだったしね」
少しだけ甘く緩んだ空気を引き締めるように、九条がパンッと一つ、小気味良い音を立てて手を叩いた。
彼のその一挙手一投足が、場にいる全員の意識を再び『勝利』という一点へと向けさせる。
「っしゃあ! やろうぜ!」
九条の言葉を合図に、大柄な山波がグラウンドの隅々まで届くような、腹の底からの元気な声を張り上げた。
彼の熱気にあてられ、他のメンバーの目にも明らかな闘志が宿り始めている。
彼らの、このリレー練習へ向ける真っ直ぐで眩しいほどの想いに当てられ、俺は半ば放心状態になりながらも、頭の片隅で必死に最適な練習方法を模索し始めていた。
いくら彼らが運動神経抜群のクラスの精鋭だったとしても、ことバトンパスを伴うリレーに関しては、完全な素人であり初心者だ。
タイムを縮めるための細かい身体の使い方といったコツも知らなければ、バトンを受け渡すための絶対的なルールである『ゾーン』の存在すら知らないはずだ。
まずはそこから教え込まなければならない。
「リレーのルールは皆んな分かってる?」
「一番速くゴールしたチームの勝ち!」
俺の問いかけに対し、一ノ瀬がビシッと人差し指を天に向かって突き立て、数字の『一』を見立てながら元気いっぱいに答える。
そのあまりにも無邪気で小学生のような回答に、場に一瞬だけ奇妙な沈黙が落ちた。
「琥珀、流石にそう言う事じゃないって」
直後、佐伯が深い絶望を味わったかのように大げさに頭を抱えながら、親友のトンチンカンな発言にツッコミを入れた。
わかる。
痛いほどわかるぞ、佐伯。
付き合いの長いお前でさえ、その天然っぷりには毎回頭を悩ませているんだな。
俺は心の中で佐伯の肩を強く叩き、深い共感を送った。
「ルール的な事か?」
一ノ瀬のボケで少し脱線した空気を元に戻すように、神崎が手にしていたアルミ製の冷たいバトンを軽く振って見せながら、真面目なトーンで問い返してくる。
「あぁ。ルールの話だ」
「テイクオーバーなんとかってやつかな?」
俺の肯定に被せるように、九条が顎に手を当て、記憶の糸をたぐるような仕草で呟いた。
流石は頭脳派と言うべきか、体育の授業の知識か何かで、九条はその専門用語の片鱗を少しだけ知っている様だった。
「それだ九条。何よりも大事なルール」
俺は深く頷き、全員の顔をもう一度見渡した。
テイクオーバーゾーン。
それがリレーという競技において、勝敗を分けるだけでなく、失格の危険すら孕む特有の絶対的ルールだ。
第一走者からアンカーまで、バトンパスを行い、それぞれの走者を一本の線で繋いでいくのがリレーという競技の基本である。
そのバトンを渡す際、受け取る側の次走者は、その場で立ち止まって待つのではなく、『リード』と呼ばれる前傾姿勢での助走行為をする。
このリードによって少し早めにスタートを切り、走るスピードが全速力に近いトップギアに入った最高のタイミングで、後ろから来る走者のバトンを受け取るのが最も理想的な形だ。
しかし、もし無限にその助走が許されてしまうなら、極端な話、バトンを持たない状態でコースの大半を走り切るというズルが出来てしまう。
それを防ぐ為に存在するのがこのルールだ。
グラウンドのトラックには、黄色や白色の明確なラインが引かれている。
受け取る側の走者が、指定されたその二本のラインの間——つまりテイクオーバーゾーンを越えてしまう前に、完全にバトンの受け渡しを完了させろというのが、この競技における最も厳格で、最もドラマを生むルールなのだ。
俺は身振り手振りを交えながら、時には地面に足で線を引いたりして、陸上未経験の皆んなの頭に情景が浮かぶよう、出来る限り分かりやすく丁寧に説明を重ねた。
「てことは如何に上手くバトンを渡すのが重要って事ね!」
俺の長々とした説明を真剣な顔で聞いていた水野が、ポンと手を打って納得の声を上げた。
彼女の理解力は高く、リレーの真髄を即座に見抜いていた。
「水野の言う通り重要だ。正直、これを上手く出来たチームが勝つと言っても過言じゃない」
「……チームワークが重要。うん。やっぱりこのメンバーを選んで正解だった」
俺の念を押すような言葉を聞き、九条は瞳を鋭く光らせながら、深く、力強く頷いた。
夕陽に照らされた彼の横顔には、個々の身体能力だけでなく、この六人の間に芽生えつつある見えない絆——チームワークへの確信めいたものが浮かび上がっており、何かのパズルのピースがカチリと嵌ったかのように、深く納得した様子だった。
「僕達のメンバーに最後のピースである白河君。これは勝ったも同然だね」
九条は夕風に揺れる前髪を軽く指先で払いながら、確信に満ちた笑みを浮かべた。
その知的な横顔は、まるで完成されたチェス盤を優雅に見下ろすプレイヤーのように、勝利への道筋を脳内で完全に描き切っているかのようだ。
西に傾きかけた太陽のオレンジ色の光が、彼の真っ直ぐな瞳の奥にある強い意志を鋭く照らし出している。
「おうよ! 絶対ぇ勝つぞ!」
九条の静かなる宣言に呼応するように、山波が夕空に向かって太い腕を天高く突き上げ、渾身のガッツポーズを作った。
その地鳴りのような野太い声が、静まり返りつつある放課後のグラウンドにビリビリと力強く響き渡る。
彼の内側から漲る熱気は、まるで周りの空気の温度を数度引き上げるかのような圧倒的なパワーを放っていた。
一ノ瀬がそれに釣られて「おー!」と元気よく両手を挙げ、神崎も額の鉢巻を気合いと共に締め直しながら深く頷いている。
すっかり出来上がってしまった彼らのモチベーションの高まりを肌で感じながら、俺は手の中に収まるプラスチックの冷たさを意識した。
無防備な情熱だけでは、決して縮められないタイムの壁がある。
その目に見えない壁を越えるための技術を、これから彼らに叩き込まなければならない。 俺は微かに高鳴り始めた胸の鼓動を深呼吸で静かに押し殺し、指導者としてのスイッチを深く入れた。
「えーっと。じゃあまずはバトンの渡し方からやる?」
俺は全員の散らばった視線を一点に集めるように、右手に持った赤いプラスチック製のバトンを、左手の平に勢いよく打ち付けた。
パンッ、という乾いた金属音が、熱を帯びた初夏の空気を鋭く切り裂くようにグラウンドに響き、これから始まる本格的な練習の幕開けの合図となった。
青春が今始まる?




