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「クラスのギャル、放課後は喫茶店で不器用マスターやってます。」  作者: 路地裏の猫


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32/43

三十杯目:「連絡事項は以上だ。では出席を取る」

「いつまで喋ってるんだ。早く席につけ」


 朝の陽光が差し込み、活気と喧騒に包まれていた教室の空気が、その冷徹な一言で一瞬にして凍りついた。

 ガラリと開け放たれた引き戸の前に立っていたのは、担任の浅野先生だった。

 入室して開口一番、彼女は手にした硬質なバインダーを教卓にパンッと甲高い音を立てて叩きつける。

 それはまるで、非日常の空気に浮かれた生徒たちの意識を、強制的に現実へと引き戻すための鋭い号砲のようだった。  

 先ほどまで俺の席の周りで談笑に夢中になり、先生の接近に全く気づいていなかった神崎たち一軍の面々も、弾かれたように慌てて解散し、それぞれの定位置へと滑り込む。

 俺もまた、急いで背筋を伸ばし、黒板へと視線を向けた。


「体育祭が近くなり浮かれるのは好きにすれば良いが、それと規律は別物だ。あまり浮かれすぎるな」


 窓から差し込む初夏のうららかな光が、教壇に立つ彼女のシルエットを逆光で浮かび上がらせている。

 チョークの粉が光の帯の中で細かな粒子となってキラキラと舞う中、浅野先生の氷のように冷たい視線が教室全体をねめ回した。

 一切の甘えや妥協を許さない、そのドライで事務的なトーン。

 生徒の顔色を窺うような真似は決してしない、この媚びない空気感こそが何とも浅野先生らしい。


「よし。全員席に着いたな。では朝礼を始める。とは言っても何も言う事はない。浮かれすぎるな。それだけだ」


 必要事項以外は決して口にしない。

 長々と退屈な訓示を垂れるようなことはせず、スパッと切り捨てる。

 この自身の仕事に対する徹底した効率化と合理主義もまた、いっそ清々しいほどに先生らしい部分だった。  

 俺自身、自分の過去や周囲との関係性に悩み、深い泥沼のような感情に溺れて学校を休んでいたのはたった三日間のことだ。

 けれど、こうして一切の感情を排した機械的で完璧な日常のルーティンに触れると、その冷たさが逆に心地よく、ひどく懐かしいものに思えてくる。

 自分がまた、この平穏な教室という歯車の一部に戻ってこられたのだという実感が湧いていた。


「それから白河」


「ッ!」


 それは、静まり返った水面に突然落とされた石のような、唐突な指名だった。  

 完全に油断し、平穏な空気に浸りかけていた俺の耳に、抑揚のない冷ややかな声で自分の名前が飛び込んでくる。

 心臓がビクリと大きく跳ね、背筋に冷たい電流が走った。

 思わず息を呑み、針金でも入れられたかのように背筋がピンと真っ直ぐに伸びる。


「後で職員室に来い」


 その言葉は、見えない重い鉛となって俺の胃の腑にズシンと落ちた。  

 職員室への呼び出し。

 それは、学生という身分において、これ以上ないほどの嫌な予感しか引き連れてこない言葉だ。

 成績優秀で品行方正な生徒でもない限り、あるいは明確な用事でもない限り、何の脈絡もなく担任から個別に呼び出されることなど滅多にあることではない。  

 何か重大な問題を起こしたか、あるいは――休んでいた間の、俺のあの『過去』に関する何かが、ついに教師の耳にも入ってしまったのか。

 神崎たちに受け入れられ、ようやく光が見えたと思った矢先のこの事態に、足元から暗い泥水がせり上がってくるような強烈な不安と焦燥感が俺を包み込む。


「連絡事項は以上だ。では出席を取る」


 淡々と必要事項だけを告げ終えた浅野先生は、出席簿を開き、アイウエオ順に生徒の名前を次々と無機質な声で呼び始めた。  

 窓の外では、抜けるような青空に真っ白な雲がゆっくりと流れ、小鳥の囀りが平和な朝を告げているというのに。

 俺の頭の中では、けたたましい警戒サイレンが鳴り響いていた。

 心臓の鼓動が耳の奥でうるさく脈打ち、全身の血液が冷たくなっていくのを感じる。   

 教卓から響く先生の出席を取る声も、それに「はい」と短く応じるクラスメイトたちの声も、今の俺にはまるで深い水底から聞いているかのようにくぐもって聞こえ、その意味を成す言葉として脳に入ってくることは一切なかった。



――――――――――――――――――――――――



 四限目の終わりを告げるチャイムが鳴り響く校舎の中、俺は重い足取りで職員室へと向かっていた。   

 朝礼が終わった直後、一ノ瀬や神崎から「おい白河、お前一体何したんだよ?」と、まるで大罪人でも見るかのような目で心配されたが、当の俺にすら呼び出された理由は一ミリも見当がつかない。

 これから何が起こるのだろう、どんな理不尽な言葉を突きつけられるのだろうという漠然とした恐怖が、ローファーの底を廊下に張り付かせ、歩みを鈍くさせる。

 窓から差し込む陽光が廊下の床を白く照らしているが、今の俺の心境はそれとは対照的に、どんよりとした暗雲に覆われていた。  

 一体、浅野先生は何の用で俺を呼び出したのだろうか。

 精神的に限界を迎えて引きこもっていただけなのに、学校側には「タチの悪い風邪」だと嘘をついて丸三日も休んでいた。

 それがバレて、看破されたのだろうか。

 今の俺が思いつく限りの、それなりの理由といえば、せいぜいそのくらいだった。

 胸の奥が不快なリズムで脈打ち、逃げ出したい衝動を必死に抑え込む。


「おや、珍しいな。久しぶりにその顔を見た気がする」


「え?」


 長い廊下の向こうから歩いて来たある男が、すれ違いざまに俺の横顔に向かって静かに声をかけてきた。

 そのよく通る涼やかな声の主を視線で捉えた瞬間、俺の思考がわずかに凍りつく。

 この学校において最も知名度が高く、良くも悪くも誰もがその一挙手一投足を注視している超有名人。


「如月……先輩」


「あぁ」


 整った容姿の鼻梁に、知的なフレームの眼鏡を乗せたその男は、如月先輩だった。

 この学校を束ねる生徒会長。

 そして何より、今年の文化祭におけるテーマを、誰もが頭を抱えるような超絶的な無理難題に設定した張本人でもある。


「数日間、体調を崩して休んでいたらしいな。もう大丈夫なのか?」


「……はい。おかげさまで、今は何とか動けるようになりました」


 俺は正直、この人がどこか苦手だった。

 いや、苦手というよりは、本能的な恐怖に近いかもしれない。

 切れ味の鋭い硝子細工のような、すべてを見透かすような怜悧な瞳。

 そこに映ると、自分の内面の醜い部分まで一瞬で暴かれてしまうような気がするのだ。

 明確な理由はない。

 けれど、俺の防衛本能が何故か彼を「天敵」だと感知してしまっているようだった。


「水野から君の状況は聞いてはいたが、こうして元気そうな姿を見られたのならよかった」


 生徒会長という立場である以上、同じ生徒会役員として働く水野から、クラスの出欠状況や俺の欠席理由が伝わっているのは至極当然のことだろう。

 ただ、俺の「風邪」という建前の嘘に、この鋭敏な男が気づいているのか否かまでは、その微笑の裏から読み取ることはできなかった。


「……聞いてたんですね」


「あぁ、生徒会の集まりでな。少し話題に上がったんだ」


 やはり、この人がまとう独特の、底の知れない洗練された雰囲気がどうにも馴染めない。 言葉のキャッチボールをしているはずなのに、どこか一方的にこちらの領域を侵食されているような感覚に陥り、会話が長続きしなかった。

 廊下を吹き抜ける風さえも、この人の前ではどこか張り詰めて感じられる。


「それで、君はこれからどこかへ行くのか?」


「職員室に。浅野先生に、朝礼の後に呼び出されてしまったので」


「なるほど、朝一番での呼び出しとは。それはそれは……大変だ」


 眼鏡の奥の瞳をわずかに細め、如月先輩は小さく笑った。

 その声音には、同情のニュアンスが含まれているようでいて、その実、全くそうは思っていないような、どこか芝居がかった響きがある。

 この人はいつだって本音を語らない。常に何重もの仮面を被っているような、そんな不気味さがあった。


「では、僕はこれで失礼します」


 これ以上、彼の鋭い視線に晒され続ける気まずさに耐えかねて、俺は逃げ出すように如月先輩に向かって一礼し、その場を足早に離れようとした。


「期待しているぞ、白河」


「え……? あの、何を、ですか?」


 如月先輩の身体を追い越し、数歩進んだところで背後から投げかけられたその言葉に、俺は奇妙な胸騒ぎを覚えて思わず振り返った。  

 振り返った先、如月先輩はゆっくりとこちらに向き直り、白い指先で身につけた眼鏡のブリッジをくいと静かに押し上げた。

 その仕草一つをとっても、絵になるほど無駄がない。


「体育祭だよ。君、リレーのメンバーに出るんだろう? ……もちろん、その後の文化祭もね」


「出るには出ますけど……別に、先輩が期待されるほどのものじゃありませんから。それに、文化祭だって……」


 よりにもよって、この世で一番過度な期待を持って欲しくない人物から、そんな言葉を掛けられるとは思わなかった。

 そもそも、この完璧超人のような先輩を相手に、俺ごときが何かで勝てる気が最初から微塵もしない。


「リレーは全学年合同の対抗戦だからね。君の走りがクラスをどう導くのか、良い結果を期待しているよ。それから文化祭だが……生憎、君の『相方』に、生徒会室で盛大に喧嘩を売られたようなものだからね。発案者として、私も簡単に負けてあげるわけにはいかないんだ」


 その言葉を聞いた瞬間、俺の脳裏にあの日、あの地獄のような空気だった会議の光景が鮮明に蘇った。  

 佐伯の、あの周囲を一切恐れない挑発的な態度。

 生徒会長を前にしても全く物怖じせず、むしろ好戦的な笑みを浮かべていた彼女の姿を思い出し、俺は猛烈な頭痛に襲われて思わず片手で頭を抱えた。


「えーっと、ですね……あれは、その、佐伯のちょっと悪い所というか、いつもの突発的なノリが出たというか、何というか……」


「それに、君には何か……他の有象無象とは違う、特別なものを感じるんだ。だからこそ、私も今回は本気を出させてもらうよ。では、また近いうちに会おう」


 俺の必死な弁明にはこれっぽっちも耳を貸すことなく、如月先輩は満足げな薄い笑みを残したまま、颯爽とした足取りで廊下の向こうへと去っていった。

 その背中を見送りながら、俺の背中に冷たい汗が伝う。


「あれ? もしかして俺、結構まずい状況に置かれてる……?」


 三日ぶりに学校に復帰して早々、あまりにもキャパシティを超えるトラブルが連鎖的に起きすぎではないだろうか。

 浅野先生からの謎の職員室呼び出しに始まり、今度は生徒会長からの直々の宣戦布告。


 後者に関しては、完全に佐伯の身勝手な暴走に巻き込まれた延長線上の災難でしかないのだが、同じ文化委員という泥舟に乗っている以上、あの先輩が俺をも標的の枠に入れるのは、筋としては間違っていなかった。

 とんでもない貧乏くじを引いてしまったという焦燥感を抱えながら、俺はとにかく目の前の問題を片付けるべく、再び職員室へと歩を進めた。


「し、失礼します……」


 鉄製の重い職員室の扉をゆっくりと引き、俺は室内へ向かって小さく一礼をした。  

 何十人もの教師がひしめき合い、プリントのインクや微かなコーヒーの匂いが充満するこの『大人の空間』は、高校生になって数ヶ月が経った今でも、未だに緊張で息が詰まりそうになる。

 慣れることなど到底ないし、きっとこれから卒業するまでの間、ずっと変わらず苦手な場所のままなのだろう。


「ん? どうした?」


 入り口のすぐ手前のデスクに座っていた、名前も知らない年配の教師が、作業の手を止めて俺の用事を確認するように怪訝な視線を向けてきた。


「その――、一年の浅野先生に、朝礼の後に呼び出されまして。用事があって伺いました」


「あぁ、浅野先生ね。わかった、ちょっと待ってろ」


 事務作業の手を完全に止めたその教師は、職員室の奥に向かって、よく通る声で浅野先生の名前を呼び、俺の到来を告げた。

 その瞬間、俺の胃の腑はさらにきつく雑巾のように絞られるのだった。


「入ってこい」


 職員室の奥、窓際に配置されたデスクから、浅野先生の低く通る声が響いた。

 こちらに向けて、手にしたペンを持ったまま、おいでおいでをするように小さく手招きをしている。  

 周囲では何十人もの教師たちが電話対応に追われ、せわしなく資料をめくる音や雑談のノイズが絶え間なく飛び交っているというのに、彼女の声だけは不思議なほど明瞭に、遮るものなく俺の鼓膜へと届いた。

 その声の冷徹な響きだけで、胃の腑がまたきゅっと収縮する。


「えーっと。……失礼します」


 すれ違う先生たちの視線をなんとなく避けるように俯きながら、数々のデスクと椅子の隙間を縫うようにして、俺は浅野先生の机の前へと進み出た。  

 デスクの上に積み上がった膨大なプリントの山に向き合い、浅野先生は俺が近づいたことにも目もくれず、何やら熱心に赤ペンを走らせて事務作業を続けていた。

 カリカリと、硬質なプラスチックのペン先が紙を引っ掻く音だけが、俺の耳に異様に大きく響く。


「先生? あの、何故俺は呼ばれたんでしょうか……?」


「……」


 無言。

 それが何よりも怖かった。  

 浅野先生はペンを止めることもなく、ただ黙々と手元を動かし続けている。

 彼女の長い睫毛の奥にある瞳が何を捉え、その無表情な顔の裏で一体何を考えているのか、俺には全く読み取ることができない。

 張り詰めた静寂が、俺の心臓をじわじわと締め付けていく。


「……先生?」


「お前を呼んだ理由は二つだ」


 耐えかねて声を重ねると、先生はペンを走らせたまま、抑揚のない声でそう告げた。   

 二つ。

 そのワードを聞いた瞬間、頭の中で何かが冷たく弾けた。

 呼び出しを食らうだけでも心臓に悪いというのに、まさかの複数案件。

 俺は一体、この数日間の間にどんな大層なしでかしをしてしまったというのだろうか。

 神様、もしいるなら今すぐ答えを教えてほしい。


「何だか、自分でも薄々分かっているな?」


「……いえ、分かりません」


 精一杯の虚勢を交えながら、事実をそのまま口にした。  

 実際、記憶をどれだけ大急ぎで巻き戻してみても、明確に呼び出しを喰らうような決定的な違反をした覚えは本当にないのだ。


「本当にか?」


 ようやく動きを止めた先生の、冷徹極まりない視線がまっすぐに俺を射抜いた。

 その声音の冷たさに、背筋が凍りつく。  

 俺は必死に、引き千切れんばかりに頭の回転を速めた。

 これまでの短すぎる高校生活の中で、俺がしでかした不始末。

 今日このタイミングで呼び出されたということは、過去の遺物ではなく、ごく最近の出来事に起因しているはずだ。  

 最近、俺が冒した最大の「不義理」といえば――学校を、三日間も穴をあけたこと。    

 一つの、そして最も恐ろしい可能性に思い至り、俺はごくりと唾を飲み込んだ。


「……三日間、学校を休んでた事でしょうか」


 その言葉を口にした瞬間、浅野先生の鋭い眉が微かにピクリと動き、顔付きが変わった。


「そうだ」


 やはり、俺の最悪の予想は的中していた。  

 呼び出された直接の原因は、あの引きこもり期間のことだったのだ。

 しかし、欠席の連絡を入れる際には、大人しく「タチの悪い風邪で寝込んでいる」と伝えてあったはずだ。

 嘘をついてしまったこと自体は確かに罪悪感があるが、単なる体調不良による欠席ならば、わざわざ朝一番に職員室へ個別に呼び出すほどの重大案件にはならないはず。


「通常の風邪ならば、仕方のないことだ。体調管理の不徹底を責めるつもりはない。……風邪ならば、な。だがお前の場合は違う。自分が一番よく分かっているはずだ」


 浅野先生は完全にペンをデスクに置くと、椅子の背にもたれかかり、俺の顔をじっと見つめてきた。  

 その瞳はどこまでも暗く、底知れない迫力を孕んでいて、見つめられているだけで自分の内面をすべて剥ぎ取られるような恐怖を覚える。  


 気づかれていたのだ。

 俺が風邪などではなく、精神的に追い詰められて、ただベッドの中で蹲っていただけだということを、この鋭い教師は見抜いていた。

 この瞳の奥にある静かな光を見れば分かる。

 この人は、俺のその不誠実な逃避に対して、酷く怒っているのだと確信した。


「……はい。すみませんでした」


 これ以上の見苦しい言い訳は通用しない。

 俺はただ、絞り出すような声で謝罪の言葉を口にするしかなかった。


「あぁ。自分の過ちを自覚しているのなら、私からこれ以上お説教をするつもりはない。次からは十分に気をつけることだ。だが……これだけは、お前に言っておかなければならない」


 先生の言葉のトーンが、それまでの冷徹なものから、どこか湿り気を帯びたものへと変化した。


「お前達の歳頃なら、誰にも言えない悩みを抱え、殻に閉じこもりたくなる時期もあるだろう。心が限界を迎えた時、一度立ち止まって休むこと自体は、悪いことだと私は思わない。むしろ必要なことだ。……しかしだ」


 そこで先生は、言葉を濁した。  

 周囲の喧騒が遠のいていくような、奇妙で、それでいて重苦しい沈黙が二人の間に流れる。


「……もう少し。ほんの少しだけでいいから、大人を頼ってくれ」


 小さく吐き捨てるようにそう呟いた先生は、一度落としていた視線をゆっくりと上げ、俺の目を真っ直ぐに見つめ返した。  

 その瞳を見た瞬間、俺の胸が激しく締め付けられた。

 先ほどまで恐怖を感じていた彼女の瞳は、今や微かに潤んでおり、そこには怒りではなく、深い、深い悲しみの色が滲んでいたからだ。


 先生は、頼って欲しかったのだ。  

 頼りない、頼る価値もないと思い込んでいる大人という存在に。  

 そして、他ならぬ自分という担任教師に。  

 まだ未熟な子供を守るためにこそ、大人は社会に存在している。

 傷つき、迷走する生徒を正しい道へと導き、庇うためにこそ、教師という職業は存在する。

 彼女もまた、一人の教育者として。

 何も察することができず、生徒が一人で苦しんでいる間に何も手を差し伸べられなかった自分自身の無力さを、深く悔い、一人で悩んでいたのだ。


「悩みを聞くくらいの時間は、いくらでも作ってやる。……次に困ったことが起きたら、意地を張らずに大人を頼れ」


 浅野先生の、絞り出すような切実な願い。

 その不器用な温かさに触れ、俺の胸は激しい罪悪感と痛みに苛まれた。  

 大人を頼る。

 そんな突拍子もない選択肢は、これまでの俺の人生の引き出しには存在しなかった。

 家ではいつも一人きりで、自分のことは自分ですべて処理するのが当たり前だった。

 何より、中学の頃のあの事件の時、周囲の大人たちや教師は誰一人として俺の味方をせず、ただ事なかれ主義で保身に走るばかりの頼りない存在だった。

 その苦い経験から、大人は誰も信じられない、頼りにならないと、俺は勝手に決めつけて心のシャッターを下ろしていたのだ。


 でも、目の前にいるこの人は、少なくともあの時の大人たちとは決定的に違っていた。  

 斜に構えた俺のような生徒に対しても、真剣に、真っ正面から、いや、クラスの生徒全員の人生と本気で向き合おうとしている。

 浅野先生は、そういう熱く、そして優しい人なのだと、今になってようやく理解できた。


「……本当に、すみませんでした」


「……分かってくれれば、それでいい。お前の顔色を見れば、十分に伝わった」


 俺の深く頭を下げた様子を見て、先生はふっと表情を緩め、ほんの少しだけ、少女のような優しい笑顔を見せた。


「でだ。ここからはガラリと話が変わるが、例の『二つ目』の件だ」


 しかし、先ほどまでのエモーショナルな雰囲気は一瞬にして霧散した。

 浅野先生はいつもの事務的なトーンへとスッと切り替えると、デスクの傍らに置かれていた、ずっしりとした厚みのある紙束をバンと力強く叩いた。


「お前が部屋に引きこもって休んでいた三日間の間に配られた、課題や授業のプリント内容だ。これを、今週中にすべて終わらせて提出しろ」


 先生の白い手のひらの下には、びっしりと細かな数式や応用問題が印刷された、凶器じみた厚みの紙が鎮座している。

 数学だけでなく、英語の長文読解、国語の古典文法など、様々な教科の課題が網羅されているのだろう。

 それが、丸々三日分……。


「えーっと。あの……浅野先生? これ、交渉次第でちょっと量が少なくなったりとかは……しない、ですよね?」


「なると思うか?」


「いえ。天地がひっくり返っても、ならないと思います」


「なら、四の五の言わずにせいぜい死に物狂いで頑張る事だな。これが、お前が私についた可愛い嘘の『罰』だ。……それから、これは教師としての最大の優しさでもある。お前がこれ以上、クラスの授業スピードを前にして置いてけぼりにならないようにな」


 浅野先生はニヤリと、どこかサディスティックで不敵な笑みを浮かべると、再び手元の赤ペンを握り直して作業へと戻っていった。


「……分かりました。やってきます」


 両手で受け取った瞬間、ずしりと物理的な重みが腕に伝わってくる。

 これだけの量を今週中に終わらせる絶望感に目眩を覚えながらも、俺はその不器用な優しさの結晶をしっかりと抱え込み、職員室を後にした。

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