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「クラスのギャル、放課後は喫茶店で不器用マスターやってます。」  作者: 路地裏の猫


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二十九杯目:『彼らが一軍たる所以』

 ——時はほんの少しだけ遡る。



「だ、だがよ! もし怜の言ってることが本当ならよ! 理由は何なんだよ! 嘘をつく理由は!」


 山波は九条の肩を力強く掴み、前後に揺らしながら彼に問いただす。  

 普段はお調子者で声を荒らげることの少ない彼だが、その行動は、不器用ながらも本気で白河を心配しているからこその切実なものだった。


「僕が思うに彼は。白河くんは過去に、部活をやっていた……と思う」


「部活? そんなの、今ここでわかんねぇだろ!」


 九条は山波の手をそっと外し、冷静に顎に手を当てて自身の思考のプロセスを紐解いていく。  


「いいや。それは確定事項だよ。だからこそ、僕は彼をリレーのメンバーに選んだんだ」


 九条が白河を体育祭のリレーメンバーに強引に推薦した理由。  

 それは単なる嫌がらせではなく、彼が過去に所属していた『ある部活』と明確な繋がりがあるからのようだった。


「リレー……。なら、彼がしていた部活って……陸上部?」


 事の顛末を静かに見守っていた佐伯は、点と点を繋ぎ合わせ、しばらく考えた後にある一つの事実に辿り着く。  


「そう。陸上をやっていたと僕は思ってる」


「怜。そう確信した理由は何だ?」


 激昂しかけていた神崎は、ふうと短く息を吐いて怒りを腹の底に抑え込むと、椅子に座り直して足を組み、静かなトーンで先を促した。  


「彼の運動の成績だよ。具体的には、体力測定の結果だ。皆も知ってると思うけど、測定が終わった後、職員室前に上位者の結果が開示されるでしょ?」


 この学校では新学年の春、一回目の体育の授業を利用して全校一斉の体力測定を行う。

 前屈、反復横跳び、シャトルラン、ハンドボール投げ、その他諸々。  

 勿論、その中には百メートル走も含まれている。  

 それらの成績優秀者の名前が職員室前の掲示板に大々的に公開され、生徒たちはその結果を見て一喜一憂するのが恒例行事となっていた。


「その張り出された成績を僕も確認したんだけど、白河くんの総合的な成績は、ごくごく『平均的』だった」


「な、なら陸上をしていたって理由にはならないじゃねぇか?」


「大河、慌てないで。まだ続きがあるんだ。白河くんは総合的には平凡な成績だって言ったでしょ? だけど、たった一つだけ。一つの種目だけ、ずば抜けて学年上位の成績を残していたんだ」


 ここまで九条が順序立てて説明すれば、この場にいる全員がその意図を完全に理解する。  

 何故、九条が『陸上』という突拍子もない結論に至ったのかを。


「百メートル走。この種目だけの成績に限って言えば、彼はトップクラスだった。ま、これ以外にも彼の走り方のフォームとか、色々と推測を裏付ける要因はあったけどね」  


「……だから、九条は白河くんをリレーのメンバーに選んだんだね」


「そ。主な要因はそれかな。でも、僕の好奇心はそこで終わらなかった。彼にはまだ『隠している問題』があったから」


 九条はそれまでの余裕のある笑みを消し、深刻そうな顔で皆の顔を順番に見つめなおす。  


「陸上をそこまで本格的にやっていたのなら、中学時代の大会とかにも確実に出ていたんじゃないか? そう思って、ネットの大会記録なんかを調べてみたんだ」


 九条はブレザーのポケットから自身のスマホを取り出し、画面をポチポチと操作する。  

 やがて目当てのページを見つけたのか、操作していた手を止めると、スマホの画面を前に向けて皆に見えるように差し出した。


「……こ、これって」


 画面を覗き込んだ神崎は、そこに書かれた見出しを目にして思わず絶句し、声を漏らしてしまった。  

 常に冷静な神崎が、動揺を隠せずに声に出してしまうほどの画面。  

 そのローカルニュースのアーカイブ画面には——


「『夏の県大会。リレー種目にて痛恨のフライング。最後の大会を悔いの涙で散らす』。……こんな記事が出てきたんだ」


 九条が淡々と読み上げた記事のタイトル。  

 そこに詳細に書かれていたのは、とある中学校の陸上部が、三年生にとって集大成となる最後のリレー決勝でフライングを犯し、一瞬にして反則負け、失格になってしまったという残酷な事実だった。


 無慈悲にも、記事にはそのリレーに参加していたメンバー全員の名前と、そして痛恨のフライングをしてしまった『第一走者』の生徒の名前が、はっきりと大きく記載されている。


「ひどいね……」


 記事の無神経さに、佐伯は痛みを共有するように悲しげな声で呟いた。  

 それもそのはずだ。  

 こんなセンセーショナルな記事を書いて、一体誰が得をするというのか。

 頑張ってきた中学生の努力を嘲笑うかのようなこの記事は、当事者たちの癒えない傷をさらに深く抉る、鋭いナイフそのものだ。


「これが、彼がひた隠しにしていた過去」


 事実を突き止めた九条自身でさえ、流石にバツが悪そうに視線を下に落とす。  


「あぁ。怜の言う通りだな。辻褄が合う」


 神崎は、ただの九条の意地悪な妄想だと思いたかったものが、逃れようのない現実のトラウマであると理解し、重く瞳を閉じた。


「でも……だ!」


 閉じていた瞳を再びカッと開き、神崎は真っ直ぐに九条を射抜くように見つめた。  

 その瞳に宿っているのは、軽蔑ではなく、友を正そうとする強い意志だ。


「仮にそれが事実だとしても、その傷を無理やり抉り出すようなやり方は、完全に逆効果だろうが」


 親友に対する怒りを募らせながらも、あくまで冷静に。  

 論理的に、真っ当な言葉で九条を問いただす。  

 それは、やり方を間違えた九条自身のため。  

 そして何より、傷つけられた白河のために。


「……」


「いいか? もし次、白河に会ったらちゃんと謝れ。それから、あいつの意志でもう一度リレーに出るかどうか、一から確認しろ。怜、お前のやった事は明確に間違っている。俺は九条の為に、そして白河の為に言ってるんだ」


 冷静に、正しい道を歩ませる。  

 それは神崎が、九条の本当の友達だからだ。  

 友達として間違っている事は、嫌われてでもはっきりと言ってあげるべき。

 それが彼の中にある揺るぎない信念に基づくものだった。


「……分かった。認めるよ。僕はやり方を間違えていた。佐伯さんもごめんね。さっき、僕の暴走を止めるように言ってくれて」


 九条もまた、心のどこかで自分のやり方が間違っていた事に気が付いていたのかも知れない。  

 もう少し上手いやり方があったのではないかと、言葉を発した直後から後悔し続けていた。  

 だからこその、あえて嫌われ役を買って出るような開き直り。  

 彼自身の、不器用なプライドを守る為の虚勢。  

 だが、それが一番愚かな行為だということは、他でもない九条自身が一番よく分かっていた。


「はぁ……。俺も頭に血が上って悪かったよ、怜。思わず殴りかかろうとしてしまってごめん。どんな理由があれ、暴力は駄目だよな。本当にごめん」


 神崎は椅子からゆっくりと立ち上がり、九条に対し深く頭を下げてお辞儀をした。  


「僕もごめん、蓮。一番悪いのは人の心を弄んだ僕の方なんだから、頭をあげて?」    

 

 九条は慌ててお辞儀をしている神崎の両肩を掴み、その行動を制止させる。  

 顔を見合わせた二人は、少しだけ気恥ずかしそうに、ぎこちない笑顔で笑い合った。


「ったくよー! 本気でビビったぞ俺は!? 蓮はガチで殴りかかろうとするし、怜は冷たい顔で煽るしでよぉー。心臓止まるかと思ったぜ」


 山波は安堵から大きく息を吐き出し、バツが悪そうにガシガシと頭を手でかいた。  

 神崎と九条。  

 クラスの男子をまとめる二大巨頭が、あわや一触即発の事態に陥りかけたのだ。

 ただでさえ白河のことでパニックになっていた山波が、本気で焦るのも無理はない。


「ひとまずは落ち着いたな。……ところで、琥珀はどうしたんだ? さっき、白河が教室を出て行った直後に、すごい勢いで走って追いかけて行ったが」


 神崎は場の空気を入れ替えるように先ほどとは打って変わり、次の話題へと意識を切り替えて、一ノ瀬の行方について佐伯に尋ねた。

 佐伯は神崎の問いかけに対し、小さく、しかし確かな親友への信頼を込めてゆっくりと首を横に振った。


「心配しなくていいよ。琥珀は琥珀なりに、ちゃんと白河くんに向き合って頑張ると思うから。それに、あの子は一度決めたら一直線だからね」


「頑張る? あいつが? どういう意味だよ」


 言葉の真意が読み取れないのか、山波は頭の上に疑問符を浮かべて首を傾げた。

 猪突猛進な一ノ瀬が、あの心を閉ざした白河相手に一体何をどう頑張るというのか、彼には想像もつかないのだろう。


「一ノ瀬さんは一ノ瀬さんで、彼女なりのやり方で色々と手を打ってくれてるってことだよ、大河」


 鈍感な山波に代わって、九条が苦笑交じりに補足する。  

 九条は、佐伯の言葉に込められた意味を正確に理解していた。

 一ノ瀬琥珀という少女が持つ、理屈や過去のトラウマをも吹き飛ばすほどの『圧倒的な陽のエネルギー』。

 それが今の白河にとってどれほど必要なものかということを。

 だからこそ、その声には先ほどまでの冷徹な響きとは打って変わった、穏やかな優しさが言葉の節々に滲み出ていた。


「……なるほどな。なら、外野の俺たちは下手な口出しはせずに、ここで待つだけだな」


 全てを納得したように神崎は一つ深く息を吐き出すと、立ち上がっていた姿勢を崩し、パイプ椅子にゆっくりと座り直して背もたれに体重を預けた。  

 放課後の教室を支配していた、息が詰まるような緊迫感。

 一時、クラスの中心格である『一軍』達の間に決定的な亀裂が入りかけるという最大の危機が訪れてはいたが、互いの本音をぶつけ合い、わだかまりが溶けた今、その張り詰めた空気はいつもの見慣れた穏やかなものへと完全に切り替わりかけていた。


 窓の外からは、活気ある声と、土埃の匂いが風に乗って運ばれてくる。  

 この場にいる全員が、それぞれのやり方で白河のことを案じ、そして一ノ瀬の不器用だが真っ直ぐな行動力に一縷の望みを託していた。


(頼んだぞ、一ノ瀬)


 神崎は窓の外に広がるオレンジ色に染まりかけた空を見上げながら、心の中で密かにエールを送った。


 ——その頃、当の本人である一ノ瀬琥珀が、白河の家に強引に泊まり込み、朝っぱらから彼の下着をうっかり畳んで当人に女の子のような悲鳴を上げさせていることなど、シリアスな顔で彼女を信じて待つこの教室の誰一人として、知る由もなかったのである。



―――――――――――――――――――――――――



「白河こんなに大変だったんだね」


 朝の澄んだ、けれどどこか気怠い空気が車内に満ちている。

 まだ早い時間帯ということもあり、通勤・通学客で混み合う前の車内は比較的閑散としていた。

 ガタゴトと規則正しいリズムで揺れる電車の座席に、俺たちは並んで腰掛けていた。

 窓から差し込む朝の斜光が、彼女の横顔を淡く照らしている。

 長い通学路の疲れが早くも出ているのか、彼女は小さく俯き、薄い唇からそっとため息を漏らした。

 ぽつりと言葉を零した彼女の視線は、自身のローファーのつま先へと向けられている。

 毎朝これだけ長い時間、満員手前の電車に揺られる過酷さを、身をもって実感したのだろう。


「大変だけど俺が選んだ事だからな。別に苦じゃない」


 ぶっきらぼうにそう返しながら、俺は車窓の向こうへと視線を移した。

 過去から逃げるようにして決めた、遠く離れたこの学校への進学。

 自分の選択には責任を持つべきだ。

 誰に強制されたわけでもない、自分で手繰り寄せた結果なのだから。

 だからこそ、俺はこの長い通学時間に対して、不満や泣き言を漏らすつもりは毛頭なかった。


「すごいね。私だったら無理だよぉー」


 彼女――一ノ瀬は、ふにゃりと眉を下げて感心したように俺を見た。


「だな。一ノ瀬には無理だ」


 いつも自由気ままで、一箇所にじっとしているのが苦手な彼女の性格を思い浮かべる。

 一つの場所に長く拘束される環境は、間違いなく彼女の性に合っていない。

 それが、短い付き合いの中でも理解できた俺なりの結論だった。  


「もう着くぞ」


 アナウンスが次の駅を告げると同時に、俺は腰を上げた。

 一時間以上、微振動を繰り返す鉄の箱に揺られていた俺たちを乗せた電車が、ゆっくりと減速していく。

 やがて滑り込んだのは、すっかり見慣れたはずの、けれどどこかまだ現実味の薄い学校の最寄駅だった。  

 プシューと音を立てて開いたドアからホームへと踏み出すと、ひんやりとした朝の空気が頬を撫でる。

 目の前に広がるのは、近代的なホームドアと、不自然なほど広く空間が取られたコンクリートのホームだ。

 都会のような目まぐるしい高層ビル群や、近未来的なネオンはゼロに等しい。

 それでも階段を使わずに右へと進めばすぐに改札が見えるその構造は、地方の駅にしては利便性が高く、学校周辺が一つの街としてそれなりに栄えていることを示していた。


「着いたぁー! 長かったぁー!」


 改札を抜けた瞬間、一ノ瀬はまるで重力から解放されたかのように両腕を天高く突き上げ、ぐっと大きな背伸びをした。

 制服のブレザーがわずかに持ち上がり、彼女のしなやかな体のラインが朝の光の中に浮かび上がる。

 狭い座席に長時間縛り付けられていたせいで、身体のあちこちが窮屈な悲鳴を上げていたのだろう。

 その全身を使った無防備な動作が、なんとも彼女らしくて可笑しかった。


「ここまで来るともう分かるね!」


「当たり前だろ。学校の近くなんだから」


 呆れたように応じながらも、俺の歩調は自然と緩む。

 駅前のロータリーを抜け、緩やかな坂道を少し歩けば、目指す学び舎が見えてくる。

 このエリアに入ると、視界のあちこちに俺たちと同じデザインの制服を身にまとった生徒たちの姿が、ぽつりぽつりと、しかし確実に増え始めていた。    

 ――その瞬間、胸の奥から冷たい塊がせり上がってきた。


 ……。

 怖い。

 そんな事は無い、頭では百も承知だった。

 何度も自分に言い聞かせてきたはずだ。

 この学校には、あの忌まわしい中学校の生徒は一人もいない。

 俺の過去を抉り、嘲笑うような人間は、ここには存在しないのだと。  

 分かってはいる。

 理屈では完璧に理解している。

 それなのに、周囲を行き交う生徒たちの何気ない視線が、まるで鋭利な刃物のように俺の肌を突き刺す。


「……」


 喉の奥がカラカラに渇き、自覚の無いままに指先が小刻みに震え出した。

 通り過ぎるだけの街の住人が、すれ違う見知らぬ他人が、そして同じ制服を着た未来のクラスメイトたちが。

 そのすべての目が俺を監視し、品定めし、冷ややかな視線を浴びせかけているような錯覚にとらわれる。

 世界全体が俺を拒絶しているかのような、圧倒的な被害妄想が足元を狂わせた。


「白河?」


 俺の歩みが不自然に止まったからか、あるいは顔色の悪さを察したのか。

 一ノ瀬が不意に足を止め、怪訝そうに俺の顔を覗き込んできた。

 肩にかかる艶やかな長い髪を、細い指先でさらりと耳の裏へ掛けながら、彼女は俺の瞳の奥をじっと見つめる。


「……い、一ノ瀬」


 情けないほどに掠れた、弱々しい声しか出せなかった。  

 大丈夫だ、と胸の中で念じる。

 今、俺の隣にいる彼女は、俺の過去に囚われない、純粋な味方だ。

 だから怯える必要なんてどこにもない。

 大丈夫だ、だから――。


「大丈夫だよ白河」


 その瞬間、鼓膜を震わせたのは、驚くほど優しく、兼ねてから聞き慣れた心地よい声だった。  

 磁石に引かれるようにして、俯けていた顔をゆっくりと上げる。

 そこには、いつの間にか俺の斜め前に回り込み、行く手を遮るようにして立つ一ノ瀬の姿があった。  

 彼女は、包み込むような温かい笑顔を浮かべていた。

 朝のうららかな陽光が彼女のシルエットを淡く縁取り、道端に咲く街路樹の緑さえも、彼女の美しさを際立たせるための背景に変えていく。


「大丈夫。だから行こ?」


 そう言って、彼女は躊躇うことなく手を伸ばし、俺の右手をそっと包み込んだ。  


「なッ! なんだよ!」


 肌を伝う突然の異質な熱に、俺は心臓が跳ね上がるのを感じた。

 反射的に裏返った声をあげ、手を振り払おうとする。

 しかし、あまりにも予想外で大胆な彼女の行動に、俺の脳処理は完全に追いつかず、ただただ激しい動揺を曝け出すことしかできなかった。


「大丈夫だよ。私がいる。だから行こ?」


 重ねられた一ノ瀬の手は、驚くほど柔らかく、実感を伴って暖かかった。

 その温もりが、皮膚を通じて俺の凍りついていた心へとじわじわと染み渡っていく。

 不思議なことに、あれほど俺を支配していた身体の震えも、底知れない恐怖も、霧が晴れるようにすっと消え去っていかった。


「おい! 他の生徒に見られたらどうすんだよ!」


 我に返った俺は、周囲の目を気にして必死に声を潜めながら、彼女の手を引く力を拒もうとした。

 しかし彼女は意に介さず、俺の手を引いたまま、堂々と多くの生徒が行き交う通学路を歩き始める。  

 彼女の奇行によって、俺のパニックが救われたのは紛れもない事実だ。

 けれど、それとこれとは話が違う。

 もし他の奴らにこの光景を見られ、変な勘違いをされて、あることないこと噂を流されたらどうするんだ――そんな焦燥感と、年相応の男子としての猛烈な羞恥心が同時に押し寄せ、俺の顔はまたたく間に熱くなっていく。

 だから、一刻も早くこの状況を終わらせたかった。


「いいからいいから」


 顔を真っ赤にして焦る俺とは対照的に、一ノ瀬はステップでも踏みそうなほどルンルンとした足並みで進んでいく。

 その背中からは、微塵の迷いも恥じらいも感じられない。

 何故そんな平然とした様子でいられるんだ、という純粋な疑問が、羞恥心の隙間から湧き上がってくる。  

 抵抗も虚しく、結局俺たちは校門のすぐ手前に至るまで、がっちりと手を繋いだまま歩き続ける羽目になった。

 周囲から見れば、仲睦まじい恋人同士というよりは、少女に半ば無理やり引きずられている情けない男の構図に映っていたかもしれない。

 それでも、俺にとっては心臓が破裂しそうなほど恥ずかしい時間だった。


「到着ー!」


 敷地に足を踏み入れる直前、ようやく拘束から解放された俺の手を離し、一ノ瀬は破顔して元気よく声を張り上げた。


「到着じゃねぇよ! 馬鹿!」


 解放された右手に残る、じんわりとした熱を隠すようにポケットに突っ込みながら、俺は精一杯の虚勢を張って怒鳴りつける。


「琥珀じゃん。それと白河も」


 ――その時、張り詰めた空気を弛めるように、背後から聞き覚えのあるクールな声が響いた。  

 予期せぬ第三者の登場に、俺の身体はビクッと硬直する。

 心臓の鼓動が再び跳ね上がるのを感じながら、ロボットのようなぎこちない動作でゆっくりと振り返った。

 そこに立っていたのは、見慣れた制服を着こなした佐伯だった。


「莉愛! おはよー!」


 佐伯の姿を捉えた瞬間、一ノ瀬はそれまでの俺への態度から一転、親友を迎える満面の笑みで振り返り、ぶんぶんと大きく手を振った。


「おはよ。それと白河も、おはよ」


 一ノ瀬の活気ある挨拶を淡々と受け流した佐伯は、すっと視線をスライドさせ、俺の顔を正面から見据えて同じように言葉を紡いだ。


「……おはよう……ございます」


 繋がれていた現場を見られたのではないか、という最悪の想定が頭をよぎり、俺の口からは不自然なほど余所余所しい、歪な敬語が飛び出していた。


「なにそれ? なんでうちに敬語?」


 佐伯は呆れたように小さく吹き出すと、俺のあまりの動揺ぶりが可笑しかったのか、形の良い眉をひそめて不思議そうに首を傾げた。


「大丈夫大丈夫莉愛。これは平常運転だから」


 俺の不自然極まりない態度を気にする風でもなく、一ノ瀬はひらひらと片手を振って見せた。

 まるで、緊張でガチガチになっている俺の取り扱い説明書を熟知しているかのような、どこか誇らしげな口調。

 隣に立つ佐伯の不審そうな視線を、そんな軽い言葉であっさりと受け流してしまう。


「ふーん。ならいいか」


 そして何より不可解なのは、その一ノ瀬のあまりにも雑な言い訳に対して、佐伯が何一つ疑問を挟むことなく、あっさりと納得してしまったことだった。

 切れ味の鋭い瞳をわずかに細め、ふっと息を吐きながら肩の力を抜く。


「よくねぇーよ! それに平常運転なわけねぇだろうが!」


 理不尽なシンクロを見せる二人の空気に耐えかねて、俺は思わず声を荒らげてツッコミを入れていた。

 いつも通りの冷徹なツッコミというよりは、完全にペースを握られた男の、悪あがきに近い叫びだった。


「ほらね?」


 そんな俺の過剰な反応さえも予測の範疇だったと言わんばかりに、一ノ瀬はいたずらっぽく小悪魔的な笑みを浮かべ、佐伯に向かってドヤ顔を披露する。


「みたいだね」


 佐伯もまた、一ノ瀬のその表情を見てフッと口元を綻ばせた。

 言葉を交わさずとも通じ合っている、気心の知れた女子二人の、どこか閉じた世界。

 朝の校門前で、美少女二人が楽しげに笑い合う姿はそれだけで一枚の絵画のようだったが、その中心に置いてけぼりにされている俺としては、ただただ居心地の悪さに身を縒るしかなかった。


「大丈夫だね。もしかして本当に風邪だった?」


 一歩、足を踏み出してきた佐伯が、からかうような光を宿した瞳で俺の顔をぐっと覗き込んできた。

 長い睫毛の奥にある瞳にまっすぐ見つめられ、彼女のまとう、どこかシャンプーのような清潔感のある香りが鼻腔をくすぐる。

 俺が体調不良を理由に学校を休んだこと――いや、本当は精神的に追い詰められて引きこもっていただけなのだが、それを指しているのは明白だった。


「知ってるのかよ」


 心配してくれているという気恥ずかしさと、自分の情けなさを突きつけられたようなバツの悪さが同時に押し寄せ、俺は急激に顔が熱くなるのを感じた。

 佐伯から視線を逸らすようにぷいと横を向き、小さな声でぶつぶつと呟く。


「白河が大丈夫ならそれでいい。そんなことよりも早く行くよ。時間やばいし」


 俺の様子を見て安心したのか、佐伯はいつものクールなトーンに戻り、手首の時計に目を落としながら歩調を速めた。

 その横顔には、からかいの色の代わりに、現実的な焦燥感が浮かんでいる。


「嘘ッ! ヤバっ! ホントじゃん!」


 佐伯の指摘に弾かれたように、一ノ瀬が慌ててスクールバッグからスマートフォンを引っ張り出した。

 液晶画面に表示されたデジタル数字を目にした瞬間、彼女の整った顔がみるみるうちに焦りで強張っていく。予鈴までの残り時間は、想像以上に逼迫していた。


「ほら! 白河も早く!」


 スカートの裾を翻し、一足先に綺麗なフォームで駆け出した佐伯の背中を追うようにして、一ノ瀬が俺の背中を強く叩く。

 それに促されるようにして、俺たち三人はいよいよ本格的に朝の陽光が降り注ぐ通学路を、学校の敷地に向かって走り出した。



――――――――――――――――――――――――



 肺を鋭く焼くような朝の空気を吸い込みながら、なんとか予鈴直前の時間ギリギリに校門を滑り込んだ俺たちは、呼吸を乱しながら昇降口でローファーを上履きへと履き替え、教室へと続く階段へ向かって歩いていた。


「てか莉愛、部活は?」


 少しだけ息を切らせながら、一ノ瀬が隣を歩く佐伯に素朴な疑問を投げかけた。  

 一ノ瀬の言う通り、普段の佐伯であれば、この時間にはとっくに女子バスケットボール部の過酷な朝練に参加しているはずなのだ。

 うちの学校のバスケ部といえば、県内でも屈指の強豪であり、すでに全国大会への切符をその手に掴み取っているほどの猛者揃い。

 その中でも特に、二年生にしてエースを張る佐伯莉愛が、朝練をサボってこんな時間に登校してくるなど、通常では考えられない事態だった。


「あれ? 二人とも知らない?」


 意外そうな、あるいは何を今更といった様子で、佐伯は歩みを止めずに俺たちへと視線を向けた。端正な眉がわずかに中央に寄っている。


「まさか辞めたとかか?」


 最悪のシナリオが頭をよぎり、俺の口から思わずそんな不吉な言葉が飛び出していた。

 全国大会という大舞台を目前に控えたこの時期に、彼女ほどの中心選手が部活を去るなど、普通に考えればあり得ない話だ。

 しかし、朝練に来ていないという厳然たる事実が、俺の疑念を加速させる。

 どうしても気になり、俺は佐伯の横顔を真っ直ぐに見据えて確認を取った。


「うちがバスケ部を辞める? 無い無い。無いよ」


 あまりに突拍子もない、飛躍しすぎた俺の推測がツボに入ったのか、佐伯はクスリと声を立てて笑った。

 その笑顔には微塵の陰りもなく、引退や退部といったシリアスな空気は一切感じられない。


「体育祭前、それから文化祭前は部活動中止。知らなかった?」


「あれ? そだっけ?」


 首を傾げ、人差し指を顎に当てて記憶を遡ろうとしている一ノ瀬。

 どうやら彼女もそのルールを完全に忘れていたらしい。  

 一方の俺はといえば、そもそもそんな規則自体、完全に初耳だった。

 理由を自問自答してみれば、答えは実に単純で、そして少しだけ悲しいものだった。

 この学校に、部活動に青春を捧げているような知り合いや友人が、これまでの俺には一人もいなかったからだ。

 学校行事の裏でそんな全体ルールが動いているなど、知る由もなかった。


「だから早く起きなくていい。最高だよ」


 どこか遠い目をしながら、心底幸せそうにそんな不謹慎な感想を漏らすあたりが、何とも佐伯らしかった。

 全国大会のエースという華々しい肩書きを持ちながらも、本質的な部分は面倒くさがりで、朝寝坊をこよなく愛する普通の女子高生。

 彼女もまた、一ノ瀬の奔放さとはベクトルが違うものの、少しだけ変わったマイペースさを持っているのだと改めて実感する。


「ははっ。いいね!」


 一ノ瀬が楽しげに同調する。

 しかし、佐伯の次の気まぐれな一言が、俺の心臓を再び凍りつかせた。


「てか、琥珀と白河が一緒に登校なんて珍しいね。偶然?」


 何気なく投げかけられたその鋭い問いに、俺の背中に冷や汗が流れた。  

 まさか「昨日一ノ瀬が俺の家に泊まって、一晩を一緒に過ごしたからだよ」なんて、口が裂けても言えるはずがなかった。

 いや、今の脳内補完はあまりにも言い方が悪すぎる。

 不純異性交遊を疑われても文句は言えない。

 じゃあ、「諸事情あって俺の部屋に寝泊まりしたから」か? 

 いや、それも弁解としては苦しすぎるし、余計に変な勘ぐりを生むだけだ。

 えーっと、どう説明すれば――。


「偶然だよ偶然! 電車で会って、そこから一緒に来たんだよ!」


 俺が脳内で必死に言い訳のパターンを乱数調整しているよりも早く、隣から弾んだ声が一閃した。

 一ノ瀬が、淀みのない完璧な笑顔と声音で、あらかじめ用意していたかのような自然な「嘘」を滑り込ませる。

 意外と言っては失礼だが、一ノ瀬はこういう、その場の空気を誤魔化すための咄嗟の嘘が恐ろしく上手かった。

 もちろん、これは最上級の褒め言葉だ。


「てか、珍しいって何? 初めてだよ初めて! 私もビックリしたんだから!」


 大袈裟に身振りを交えながら、さも「今朝の奇跡的な確率」に興奮している風を装う一ノ瀬。


「そっか。そう言えばそうだったね」


 佐伯は一ノ瀬の完璧な演技に特に疑う様子も見せず、納得したように頷いた。  

 心臓が口から飛び出そうなほどの危機を何とか乗り越えた俺たちは、安堵の息を漏らしながらコンクリートの階段を上り、静まり返り始めた教室前の廊下を進んでいく。

 心なしか足取りが軽くなった一ノ瀬の背中を追い、少し歩くと、すぐ目の前のドアの上に掲げられた「二年四組」の薄汚れたプラスチックの看板が、俺たちの視界に飛び込んできた。


 看板が視界に飛び込んできた瞬間、俺の全身に鋭い緊張が走り、心臓が肋骨の裏側を激しく叩き始めた。

 血の気がすっと引いていく感覚。  

 教室の中にいるクラスメイトたちは、あの件をどこまで知っているのだろうか。

 それとも、まだ何も知らないのだろうか。  

 神崎たちは? 

 そして、何より九条には、一体どんな顔をして会えばいいというのか。  

 無数の仮定と最悪のシチュエーションが、濁流となって脳内を駆け巡る。


 しかし、そんな俺の内心のパニックに目もくれず、一ノ瀬と佐伯はいつもと変わらない軽い足取りで、ガラガラと音を立てて引き戸を開け、教室内へと入っていった。    

 一歩が、泥のように重い。  

 たった一枚の扉の向こう側へと足を踏み出すだけなのに、まるで足首に鉄球でも括り付けられているかのように、床から足が離れなかった。  

 だが、ここで縮こまって踵を返したところで、何の意味もないことも分かっている。

 せっかく一ノ瀬が手を引いて、ここまで連れてきてくれたのだ。

 彼女のあの真っ直ぐな善意を、ここで逃げ出すことで無駄にするわけにはいかない。   

 俺は奥歯を噛み締め、胸の奥で燻る勇気の残滓を掻き集めると、意を決して冷たい床を踏みしめ、教室の中へと足を進めた。


「今年の体育祭、まじで勝てるかな?」


「それより文化祭の準備やばいらしいな。うちの出し物どうするよ」


 耳に飛び込んできたのは、意外にも俺が最悪の想像を膨らませていた、あの冷ややかな静寂ではなかった。  

 誰も俺の入場に目を留めない。

 非難の視線も、哀れみの囁きもない。

 至る所で大小の笑い声と雑談が繰り広げられる、いつも通りの、何の変哲もない朝の教室の風景がそこには広がっていた。


「ね? 大丈夫って言ったじゃん?」


 いつの間にか、先に入っていた一ノ瀬がすぐ傍まで戻ってきており、俺の耳元で他人に聞こえないほどの小さな声で優しく囁いた。


「あ、あぁ……」


 安堵と同時に、ここまで誰にも興味を持たれていないということへの、妙な拍子抜け感が襲ってくる。

 言い方は悪いが、腫れ物扱いされる覚悟をしておいただけに、これはこれで少し変な感覚だった。  

 ひとまず自分の席に向かった俺は、椅子の背にスクールバッグをかけ、席に着いてから教科書やノートを机の引き出しへと入れ始めた。 

 最後のノートを取り出そうと、机の横にかけた鞄に向かって、座った姿勢のまま上体を深く屈めて手を伸ばした、その時だった。  

 目の前に、すとん、と遮るような人の気配を感じた。  

 この凛とした、けれどどこか重みのある空気感には見覚えがある。

 いつかの放課後、夕暮れの教室で二人きりで話した、あの独特の静謐な雰囲気。


「……九条」


 ゆっくりと顔を上げると、椅子に座る俺のすぐ目の前に立っていたのは、やはり九条だった。  

 いつも完璧に整えられている彼の表情は、今は信じられないほど沈んでおり、冷静さを保ちながらも、その瞳の奥にはどこか申し訳なさそうな、これまでに一度も見せたことのない深い悔恨の色が滲んでいた。


「白河君」


 喉の奥から絞り出したようなその低い声は、張り詰めてはいるものの、いつもの自信に満ちた九条のものとは明らかに違っていた。


「な、何だ?」


「僕は君に、本当に申し訳ない事をした。悪かった。……この通りだ」


 九条はいきなり、取り繕うこともせずに謝罪の言葉を口にしたかと思えば、その場できれいな姿勢のまま、頭を深々と下げた。

 視線を地面へと落とし、腰から折るようなその一礼は、彼の育ちの良さを物語るほどに美しく、それゆえに異様だった。


「君の繊細な気持ちを何一つ考えず、僕の身勝手で無責任な行動によって、君の心を深く傷つけてしまった。本当に、申し訳ない」


「ば、馬鹿! 顔上げろって! こんな……お前が俺に頭を下げてるなんて、周りから見たら目立つだろ!」


 クラスの頂点に君臨する一軍のリーダーである九条が、地味で目立たない俺に対して、これ以上ないほど恭しく頭を下げている。

 そんな光景、クラス内において異例中の異例だ。

 周囲の好奇の目に晒され、注目されるに決まっている。

 焦った俺は、必死に声を潜めながら彼に告げた。


「目立つとか、そんなことは関係ない。僕は今、何よりも君に謝らなければいけないんだ。それが今の僕に、僕にとって、最低限できる最大の誠意だから」


 それでも九条は頑なに頭を上げようとせず、頭頂部を俺に向けたままでいる。


「分かった! 分かったから、今はとりあえず顔を上げてくれ!」


 半ば悲鳴に近い俺の説得に、ようやく耳を貸した九条は、ゆっくりと、しかしどこか痛々しい動作で頭を上げた。

 その端正な顔には、苦渋の色が張り付いている。


「それに、九条だけが悪いわけじゃない。俺だって……自分の殻に閉じこもって、ちゃんと話さなかったのが悪かったんだ。だから、そんなに自分を責めて謝らないでくれ」


「……君は。君は本当に、どこまでも優しいんだね」


 優しい?  

 この俺が?  

 そんなはずはない。

 悪いのは九条だけじゃないというのは、ただの客観的な事実だ。

 自分の過去に嘘をつき、結果的にクラスの皆の期待にも嘘をつく形になってしまった俺が、一番独善的で悪いに決まっている。


「優しくなんかない。俺からしてみれば、突っぱねた俺をこうして受け入れようとしてくれる、お前ら皆んなのほうが何倍も優しいよ」


「いいや。君は優しいよ。すごく、すごくね」


「おーっす白河!」


 九条と俺との間に漂う重苦しい空気を破るように、背後から威勢のいい声が割って入ってきた。

 やって来たのは山波だった。  

 エネルギーの塊のような山波は、屈託のない笑みを浮かべており、いい意味でいつもと全く変わらないテンションだった。


「風邪、もう治ったんだな! 良かった良かった!」


 山波は未だに、俺がただの風邪で学校を休んでいたと信じ込んでいるのだろう。

 裏の事情などこれっぽっちも察していないその能天気さが、山波らしいといえばあまりにも山波らしくて、張り詰めていた肩の力が抜ける。


「ありがとう、山波」


 俺はそんな彼に、わざわざ本当のドロドロとした理由を説明して空気を壊す必要はないと判断し、山波が向けてくれた純粋な優しさを、そのまま有り難く受け取ることにした。


「元気そうで良かったよ、白河」


 山波の後に続くようにして、今度は神崎が歩み寄ってきた。  

 偶然か、あるいは必然か。

 気付けば俺の古びた机の周りには、このクラスの男子一軍の主要メンバーが全員集結する形になっていた。

 周囲の生徒たちが、何事かとこちらをちらちらと盗み見てくる。


「心配かけたな、神崎。……ごめん」


 それでも、彼らが本気で俺の身を案じ、こうしてまた声をかけてくれたのは紛れもない事実だった。

 その真っ直ぐな優しさに、不器用でもしっかりと応えることこそが、今の俺にできる唯一の恩義だ。


「なんで謝るんだよ。病気なんだから、白河は何も悪くねぇだろ?」


「……ありがとう」


「っしゃ! 白河も無事に戻って来た事だし! 今日の放課後から、ガッツリとリレーの練習始めるか!」


 リレー。  

 山波の口から飛び出したその単語を鼓膜が捉えた瞬間、俺の身体は冷水を浴びせられたように再び竦み上がった。  

 昨日から、ずっと頭の中で反芻していた疑問。

 本当にこのままでいいのか? と。 

 やはり俺は断るべきなのだと、心のどこかでずっと思っていた。

 次に彼らに会ったら、自分の口からハッキリと、別の足の速い奴を選び直して欲しいと伝えようと、そう決意していたはずだった。


「ご、ごめん。その事なんだけどさ。……リレー。俺じゃない人の方が……いいかな……って、思うんだ」


 言えた。  

 喉が引き攣り、少し言葉が詰まってしまったけれど、自分の意思を伝えることができた。 

 これで、彼らに、クラスの皆に、これ以上余計な迷惑を掛けずに済むはずだ。


「はぁ? 何言ってんだよ。白河じゃねぇと、俺たちのチームは勝てねぇよ」


 しかし、神崎の口から返ってきたのは、俺の予想を遥かに裏切る、全く思いもよらない言葉だった。


「いやッ! でも!」


「でも?」


 でも――。  

 その後に続く言葉を紡ぐべきか、俺は激しい葛藤に苛まれた。

 彼らはまだ、俺の本当の姿を知らない。

 その、誰も知らない俺の忌まわしい過去を、今ここでわざわざ伝えることは、本当に必要なのだろうか。  

 

 ――だけど。  

 ここでまた曖昧に濁して逃げ出したら、それこそ中学の頃と同じ二の舞になる。

 信じてくれようとしている彼らには、すべてを打ち明けるべきだ。

 彼らを裏切らないためにも。

 それから、何より自分自身の過去と決別するためにも。


「お、俺は……過去に、リレーで最悪の失敗をしてるんだよ。中学の頃、陸上の大会で盛大にフライングして……。それで一発反則負けになって、チームを失格にさせた。ッ! だから、そんな呪われた俺なんかが出ない方が、絶対にいいに決まって――」


「馬ァ鹿! そんなの、とっくに知ってるよ」


 神崎が呆れたように笑いながら、俺の悲痛な告白をあっさりと遮った。


「おう! そんなの今更関係ねえよ!」


 山波も親指を立てて、豪快に笑い飛ばす。


「皆んな、君の過去のことは知っているんだ。僕も、蓮も、大河も。佐伯さんも水野さんも……それから、一ノ瀬さんもね。すべてを分かった上で、それでも僕達は、君と一緒にバトンを繋いで走りたいんだよ」


 目の前が真っ白になるほどの、強烈な衝撃だった。  

 彼らは、俺がひた隠しにしてきた、あの泥塗れの過去を最初から知っていたのだ。

 一体全体、どこからどうやってそれが伝わったのか。

 そして、それを知っていながら、なぜ。  

 どうして俺なんかを、そこまでして求めてくれるのだろうか。


「なんでそこまで思ってくれて、ていうかなんで知ってんだよ! そういえば佐伯も知ってたな! なんで! どこで知ったんだよ!」


 混乱と動揺が限界に達し、俺の口からは悲鳴に近い剥き出しの言葉が次々と飛び出していた。  

 俺のあの忌まわしい過去を知っているのは、世界中で一ノ瀬だけだと思い込んでいた。

 自分の醜い部分を、泥をすするような情けない姿を晒して、引き裂かれそうな痛みに耐えながら、それでも彼女だけにはすべてを打ち明けたのだ。  

 だが、目の前にいるこいつらには、何一つ話していない。

 隠し通せていたはずだった。

 だから、彼らがその事実にたどり着いているはずがない。

 知っているはずが、絶対にないのだ。

 そうであってくれという、俺の祈りにも似た防衛本能が頭の中で激しく警報を鳴らしていた。


「……それは――」


 神崎が、バツの悪そうな顔をして言葉を濁した。

 いつもは豪快で真っ直ぐな彼が、珍しく視線を泳がせ、言葉の続きを見つけられずにいる。  

 白河にとって、それがどれほど触れられたくない辛い過去であるか。

 彼が味わった底なしの地獄を、もう一度むりやり抉り出して突きつけるような真似だけは、どうしてもできなかったのだろう。

 神崎のその躊躇いそのものが、彼らの不器用な優しさを物語っていた。


「いつ? どこで誰から聞いたんだ!?」


「僕が話すよ」


 答えを急かす俺の前に、下を向いて黙り込んでしまった神崎の肩をそっと叩きながら、九条が一歩前に躍り出た。  

 凛とした佇まいで進み出た九条は、ブレザーのポケットから洗練されたデザインのスマートフォンを取り出すと、慣れた手つきで画面を操作し始めた。

 液晶の淡い光が、彼のどこか影を帯びた端正な横顔を冷たく照らし出す。


「白河君。君の過去の件をみんなに話したのは、僕だ」


 静かに告げられたその言葉に、胸の奥が微かに揺れた。  

 どこかで、なんとなくそんな気はしていたのだ。

 九条は恐ろしく頭が回り、他人の細かな機微に対する察しもいい。

 いつ、どのタイミングでその真実に気づいたのかは知る由もないが、他人に無関心なこの学校の連中の中で、九条という男なら、いつか俺の違和感の正体に気づくかもしれないと、今になって妙に腑に落ちる部分があった。


「そうだとは思ってたけど……九条、お前はいつ気づいたんだよ!」


「メンバー決めの少し前かな。丁度、文化委員決めの後くらいだ」


 彼は視線をスマートフォンに向け、画面を巧みにスクロールさせながら淡々と答える。


「そんなに前から……」


「すまない、勝手に調べてしまって。それで、気づいた理由についてだけど……君の体力測定の結果が、偶然僕の目に入ってね」


 うちの学校の悪趣味な慣習の一つに、体育で行われる体力測定の上位者の結果が、職員室前の廊下に堂々と張り出されるというものがあった。

 その存在自体は俺も知っていた。

 だけど、俺自身の全体の成績は至って平凡で、平均値の枠を出ないもののはずだった――。


「やはり、君自身は気づいていなかったんだね。全体の総合評価として見れば、君の成績は至って普通だったよ。……ただ、百メートル走。あの種目においてだけは、君の叩き出したタイムは学年でもトップクラス、いや、歴代でも指折りの数字だったんだ」


「え?」


 完全に盲点だった。  

 あの時はただ、余計な注目を浴びないように周囲のペースに合わせたつもりだった。

 目立たないように普通に走った、ただそれだけだ。

 まさか、自分の身体に染み付いた陸上の技術が、そんなところで隠しきれない異常な数字として露呈していたなんて、夢にも思わなかった。


「話を戻すけど、そのあまりにも歪な結果に、僕はどうしても違和感を拭えなくてね。そこで、少し君の背景を調べてみたんだ。君の名前、その圧倒的な速さ、そして君が陸上から距離を置いている理由。色々と検索を重ねていくうちに……最終的に、これが出てきた」


 一通り話し終えた九条は、持っていたスマートフォンの画面をぐるりと反転させ、俺の目の前に差し出した。  

 そこに映し出されていたのは、数年前の陸上大会の記録記事。

 そして、SNSや掲示板のログとおぼしき、当時の俺を徹底的に叩きのめした痛烈な誹謗中傷の数々――俺の隠したかった過去のすべてが、冷徹な電子の文字となってそこに並んでいた。


「……」


 目の前が暗転するような感覚に襲われ、俺は言葉を失う。


「ごめん。こんな物、君に一番見せたくない悪意の塊を突きつけるような真似をしてしまって。だけど、これだけは絶対に知っていて欲しいんだ。僕は、僕達は……こんなネットのクソみたいな記事や過去のミスを見て、君を蔑んだり、見下したりなんて絶対にしない」


 九条は俺の表情の硬直を察すると、すぐにスマートフォンの画面を消し、胸ポケットへと静かにしまい直した。


「……尚更だ。そんな過去を知られているなら、尚更俺は、リレーになんか参加できるわけがない」


 彼らがどれほど深い優しさを持って俺に接してくれているか、それはもう痛いほど分かった。

 凍りついていた俺の心を、過不足なく埋めてしまうほど十分に。  

 だから。

 だからこそ、俺はここで身を引くべきなのだ。

 呪われた過去を持つ俺が、彼らのその純粋で綺麗な優しさを泥で汚してしまわないように。

 それが、今の俺にできる唯一の誠実な辞退の形だった。


「ったく! 本当に物分かりが悪ぃーな、白河は!」


「……神崎」


 突如、神崎がじれったそうに頭をガシガシと掻きむしりながら、大きな声を上げた。


「あのな、白河? 少なくとも俺は、お前の過去の栄光だの失敗だの、そんな手垢のついたデータにはこれっぽっちも興味なんか無い。ぶっちゃけ、どうでもいいんだよ」


「ならッ!」


「けど! 俺は今、目の前にいるお前と走りたい。お前と一緒にバトンを繋いで、一番でゴールして、最高の気分で勝ちたい。……それじゃあ、理由として駄目か?」


 言うが早いか、神崎はその場にガサツに膝をつき、椅子に座ったままの俺の目線と同じ高さまで顔を下げた。

 どこまでも真っ直ぐで、一片の濁りもない強い瞳が、俺の不安のすべてを射抜くようにして視線を合わせる。


「……俺、また本番でパニックになって、皆んなに迷惑かけるかもしれない」


「そんなもん、いくらでも俺たちを頼れ。そのために四人もいるんだろ」


「……練習だって、失敗ばっかりになるかもしれない」


「だったら、成功するまで何回でも練習すれば良いだけだ。付き合ってやるよ」


「……」


「やろうぜ、白河。過去がどうとか関係ねぇ。俺達のチームで、今度こそ勝とう! それも、後ろの奴らが絶望するくらい、圧倒的な速さでさ!」


 初夏のひまわりのように爽やかで、けれどどこまでも熱く優しい神崎の笑顔。

 その輝きに気圧されるようにして、俺の胸の奥の頑なな澱みが、今度こそ完全に溶け落ちていくのを感じた。

 彼を、彼らのこの差し伸べられた手を、もう一度だけ信じてみよう。


「……わかった。出るよ。リレー、俺が出る。……勝とう、皆んなで」


「おう! その言葉を待ってたぜ!」


 神崎がガハハと嬉しそうに笑い、山波がその肩を叩いてはしゃぎ出す。  

 クラスの頂点にいる『一軍』と呼ばれる彼らは、単に見かけの華やかさやスクールカーストの順位だけでそこにいるわけじゃない。

 その心の器も、他者を思いやる性格も、人としての在り方そのものが、文字通り一軍なのだと、俺は生まれて初めて知った。

白河の口から過去を話させる為に神崎は「でも?」と言いました。

自らの口で言わせる事で過去を清算させる。

彼なりの優しさなのでしょう。


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