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「クラスのギャル、放課後は喫茶店で不器用マスターやってます。」  作者: 路地裏の猫


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30/43

二十八杯目:「お前、こんな朝早くから、人の家の洗面所で何してんだ?」

 パチリ、と微かな音を立てて、私の瞼が開いた。  

 視界に飛び込んできたのは、見慣れた自分の部屋の可愛い壁紙ではなく、少し古びて色褪せた、全く見覚えのない知らない天井だった。  

 寝ぼけた頭のまま、数秒ほどぼんやりとその一点を見つめ――そこでようやく、昨夜の記憶が濁流のように一気に脳内に蘇ってきた。  


 そうか。

 そうだ。  


「私、白河の家に泊まったんだ……」


 身体を起こして周囲を見渡すと、自分の家とは何もかもが違っていた。  

 私のものではない、無機質な灰色の壁。  

 ちょっと型落ちした大きめのテレビ。  

 結露で少し曇った、小さな格子付きの窓。  

 そして、その窓の隙間から覗く、どこか新鮮で知らない景色。  

 網膜に映るすべての景色が、私の人生において「初めて見る物」ばかりで構成されている。

 それらの見慣れない記号の数々が、私が今、紛れもなく白河の部屋にいるという決定的な事実を、これでもかと容赦なく突きつけてくる。


「……本当に、男子の家に泊まっちゃったんだ」


 昨日は色々なことがありすぎて、頭が完全にキャパオーバーを起こしていた。

 白河のことが心配で、彼の寂しそうな背中を見ていたら放っておけなくて、半分は勢いとノリのまま「泊まる!」なんて宣言してしまったけれど――夜が明けて、冷静な朝の光を浴びた途端、それがどれほどとんでもないイレギュラーな事態だったのかに気づいて、急激に顔がカッと熱くなっていくのが分かった。

 耳の奥までドクドクと心臓の音がうるさい。  

 恐る恐る視線をスライドさせて、すぐ隣にあるソファへと目を向ける。

 そこでは、大きめのスウェットを着て窮屈そうに身体を丸めた白河が、規則正しい小さな寝息をたてながら、まだぐっすりと眠りの中に落ちていた。

 普段のぶっきらぼうで冷めた表情とは違って、どこか無防備で子供っぽいその寝顔を見つめていると、胸の奥がキュッと締め付けられるような、妙なむず痒さに襲われる。


「……どうしよう」


 朝の静寂の中で、私は膝を抱えたまま、小さく声を漏らした。  

 他人の家、しかも男友達の家に泊まって、相手よりも先に早く起きてしまった場合、一体全体何を基準に行動したらいいのだろう。

 ここは自分の家じゃないから、勝手に冷蔵庫を開けたり、テレビをつけたりして好き放題するわけにはいかない。

 だけど、昨日は夕飯のオムライスを美味しいって食べてくれたし、アイスを奢ってくれたり、夜の海にまで付き合ってくれたり、彼には本当にたくさん甘えさせてもらった。

 何かお返しというか、私にできることはないのかな……。

 そんなもどかしいジレンマがぐるぐると頭を駆け巡り、私は一人で静かに悩み込んでしまう。

 壁の時計に目をやると、長針と短針が示す時間はちょうど午前五時を回ったところだった。  

 遮光性の低いカーテンの奥からは、ほんの少しだけ白み始めた朝の光が薄暗く部屋を照らし始めている。

 いつもなら確実に爆睡している時間帯だ。

 だけど、やっぱり慣れない環境のせいか、あるいは私の防衛本能がどこかで働いているのか、おどろくほどすっきりと早く目が覚めてしまった。

 それどころか、頭の芯はすっかり冴え渡っていて、二度寝できそうな眠気はこれっぽっちも残っていない。

 じっとしていても落ち着かないので、とりあえずスマホを見て時間を潰すことにした。

 私は床に敷いた敷布団の枕元、昨日白河がわざわざコンセントの近くに設置してくれた充電器から、自分のスマホをそっと引き抜いて液晶を点灯させる。


「あ、莉愛だ」


 ポップアップしたロック画面には、私の大親友である佐伯莉愛からのメッセージ通知が表示されていた。  

 通知のプレビューに並んでいる文字列は、『どうだった?』という短い一言と、その直後に送られてきた『白河』という名前の二件だけ。


 ――え、なんで莉愛がこの状況を知ってるの!?  という純粋な驚愕と、いや、あの上級者な莉愛のことだから、昨日の一連の流れや私の意味深な行動からすべてを察していてもおかしくないか……という妙な納得が、脳内で同時に巻き起こる。

 本当にあの親友は、私の行動パターンを見透かしすぎていて恐ろしい。

 私はリビングの静寂を壊さないように、フリック入力の音を消しながら、『大丈夫そうだった。とりあえず生きてる!』とだけ短く打ち込んで返信を送信した。


「うーん……」


 スマホを床に置くと、再び目の前の現実に戻り、この後の立ち回りを考え始める。  

 男の料理って感じで殺風景なキッチンを借りて、サプライズで朝ご飯でも作って驚かせるべきか。

 それとも、昨日彼が「押し入れの奥から見つけてきた」と言って、わざわざ回してくれた洗濯物を綺麗にたたんでおくべきか……。  

 考えれば考えるほど思考が迷子になっていくので、ひとまず最優先のミッションとして、口の中をすっきりさせるために歯を磨くことに決めた。

 私は抜き足差し足で静かにリビングを抜け出し、廊下の先にある洗面所へと向かった。  ひんやりとした空気の漂う洗面台に到着し、蛇口をひねって冷たい水を出す。

 軽くブラシの毛先を濡らし、鏡に映る自分の寝癖だらけの顔に少し苦笑した。


「……一瞬、借りますね」


 誰もいない空間に向かって、蚊の鳴くような声で小さく独り言を唱え、鏡の横のラックに置いてあった白河のものとおぼしき歯磨き粉を少しだけ拝借する。

 ほんのりと爽快なミントの味が口いっぱいに広がり、意識が完全に覚醒していく。

 丁寧に磨き終えた私は、水を手で掬ってしっかりと十回うがいをし、その勢いのまま冷たい水で一気に顔を洗った。  

 うがいの後はどうしても口の周りが濡れてしまうから、毎回ついでに顔全体を濡らして洗顔を済ませるのが、私のいつものルーティンなのだ。

 昨日、白河が「ここから使え」と教えてくれたタンスの引き出しを開け、中からふかふかの清潔なタオルを一つ取り出して、濡れた顔の水分を優しく吸い取るようにして拭いた。

 タオルの奥から、微かに白河の家の匂い――柔軟剤のシトラスっぽい香りがして、また少しだけ心臓が跳ねる。


「あ。やっぱり、洗濯やってくれてるじゃん」


 タオルを片付けようとした時、洗面台のすぐ隣に鎮座しているドラム式洗濯機の液晶画面がふと視界に入った。  

 そこには、昨夜白河がセットしてくれたコースがすべて完了したことを示す、『終了』の二文字が静かに点滅している。

 ほのかに本体が温かいのは、乾燥機能までバッチリ働いてくれた証拠だ。


「これ……勝手に畳んじゃってもいいのかな」


 一瞬、手が止まる。

 男子って、自分の洗濯物を女子に勝手に見られたり触られたりするの、やっぱり嫌がるだろうか。  

 うん、多分普通なら嫌がる。

 白河みたいなプライドの塊みたいなタイプなら、なおさら「余計なことすんな」って眉をひそめるような気がする。  

 確実につまんない顔をされる。

 そんな確信に近い予感があった。  

 でも――。


「これくらい……昨日のお礼として、やってあげた方がいいよね」


 嫌がられたらその時は素直に謝ればいいし、何もしないで居候みたいに居座っているよりは、少しでも役に立った方が私の気が済む。  

 幸い、最新のドラム式洗濯機だから、ガラス張りの丸い扉の向こうに中身が綺麗に見えている。

 内容量は、昨夜の彼の言葉通りかなり少なそうだ。

 ぱっと見た感じ、昨日私が着ていた制服のシャツや彼のカッターシャツ、要するに学校の制服が大半を占めている。 

 後は、昨日使ったバスタオルとハンドタオルが数枚程度。

 これくらいの量なら、手際よくやれば数分で畳み終わるはず。


「よし、やっちゃえ!」


 自分の優柔不断を振り切るように、私は思い切って洗濯機のドアのレバーを引き、パカッと扉を開いた。  

 中からは、乾燥機特有の、お日様の匂いに似た温かい熱気がふわりと広がってくる。

 外から見えていた通り、やはり中身は驚くほど少ない。

 私はカゴも使わず、温風でふっくらと仕上がった洗濯物を、ドラムの奥から一つずつ両手で丁寧に取り出しては、洗面台の平らなスペースを使って畳んでいく。  

 まずは大きなバスタオルを三つ折りにし、次に白河の制服のシャツのシワを伸ばしながら綺麗に形を整える。

 そして、自分の制服のスカートに手を伸ばし――そのすぐ下に埋もれていた、「それ」を掴んだ。


「……え? なに、これ?」


 中身の一つを掴み上げた瞬間、私の手のひらに伝わってきた感覚は、これまでの人生で一度も経験したことのない、全く初めての感触だった。  

 白河が普段穿いているようなデニムやスウェットのズボンにしては、圧倒的に丈が短く、そして信じられないくらいに軽い。

 指先を滑らせてみると、その触り心地はシルクのようにサラサラとしていて滑らかで、今まで触った事のない不思議な質感の物だった。  

 私は首を傾げながら、その温まった謎の布地を洗濯機の暗がりの奥からゆっくりと引っ張り出し、それが一体何なのかを確認しようと、朝の光が差し込む洗面所の中で目の前へと掲げた。


「きゃっ!」


 思わず、裏返ったような変な悲鳴が口から飛び出して、私は反射的に両手で自分の口を強く押さえた。  

 静まり返った朝の家の中に、想像していた以上の大きな声が響き渡ってしまった。その音の衝撃に、心臓がバックバクと早鐘を打ち始める。

 ヤバい、今の声でリビングのソファで寝ていた白河を起こしちゃったかもしれない……!  そんな焦りから冷や汗がにじむけれど、そもそも私がこんな女子高生にあるまじき大声をあげてしまったのには、あまりにも真っ当で、そして不可抗力すぎる理由があった。


「こ……これ、パ、パンツじゃん!?」


 朝の光に透かすようにして掲げたその布地は、どう見ても、どこからどう転んでも、男の子の下着――いわゆるボクサーパンツというやつだった。  

 人生で初めて、間近で生で見る男の子の下着。

 その破壊力は想像を絶していて、私は恥ずかしさで爆発しそうになりながらも、本能的な好奇心をどうしても抑えきれなかった。  

 サイズはどれくらいなんだろう? 

 見た目はどんなデザイン? 

 それに、このサラサラした生地の触り心地や着心地ってどんな感じなんだろう……?   次から次へと頭の中に湧き上がってくる禁断の疑問に翻弄されながら、私は手の中にある、おそらく人生初遭遇であろう「男子の下着」を、穴が開くほどじっと凝視してしまった。


「……これって、絶対に白河の……だよね?」


 同じクラスの、あのちょっと不愛想でクールな男の子の下着が、今、私の手の中にある。 その事実だけで、なんだか見てはいけないいけないものを見ているような背徳感に襲われて、顔がさらに熱くなっていく。


「ごめんなさい、ごめんなさい!」


 誰に対してかもわからない謝罪を心の中で連呼しながら、私は自分の拙い勘だけを頼りにして、大急ぎでそれを細かく折り畳み、洗面台の横へと素早く置いた。  

 だって、仕方ないじゃん! 

 私、これまでの人生で男の人の下着なんて触ったこともなければ、綺麗に畳んだ経験だって一度もないんだから。

 正確にいえば、ショッピングモールの中の紳士服売り場とかで、遠くからなんとなく視界に入ったことくらいはあるけれど、そんなの記憶の隅っこにあるだけで、ほとんど見たことがないのと同じ同義だ。

 

 ――その時、私の焦りを嘲笑うかのように、背後の洗面所の扉がガラガラと音を立てて開いた。


「……ここにいたのか、一ノ瀬。おはよう」


 頭の髪の毛をあっちこっちにピョンピョンと跳ねさせ、目は半分も開いていない、完全な寝起きモードの白河が、大きなあくびを噛み殺しながら姿を現した。  

 いつも学校で見せる隙のない冷徹な雰囲気はどこへやら、絵に描いたような寝起きの姿。 間違いない、さっきの私のマヌケな悲鳴のせいで、気持ちよく寝ていたところを強制終了させてしまったんだ。


「おっ、おはよ、白河……!」


 私は心臓が口から飛び出しそうなほどの動揺を必死に隠しながら、彼の下着をカモフラージュするために、手近にあった自分の制服のシャツの下へと急いで滑り込ませた。


「お前、こんな朝早くから、人の家の洗面所で何してんだ?」


 まだ頭が回っていないのか、眠たそうな目を細い指先で擦りながら、白河が不思議そうに声をかけてくる。

 その掠れた低音の声が、なんだかいつもより近くに感じられて、余計にドキドキしてしまう。


「あ、いや、ちょっと早く目が覚めちゃったからさ! 洗濯物が終わってるの見つけて、畳んじゃおうかなー? なんて思って!」


 自分の声が上擦っているのが自分でもよく分かった。

 しどろもどろな動きで、無駄にシャツの袖を何度も伸ばしたり畳んだりして、必死に平静を装う。


「そんなの、そのまま置いておいてくれたら俺が後でやるのに。一ノ瀬は、こういう変なところだけ妙に真面目だよな」


 少し呆れたように、だけどどこか優しさの混じったトーンで白河が呟く。  

 でも、泊めてもらった上に、朝の面倒な家事まで全部彼に丸投げするなんて、私のプライドが許さない。

 昨日のお礼も含めて、何か少しでも手伝いたいっていう純粋な善意からの行動なんだから、彼がそんな風に気に病む必要なんてどこにもないのに。

 まあ、一言だけ「変なところだけ」なんて余計なフレーズが入っているのが、いかにも白河らしいというか、ちょっと憎たらしいんだけど。


「いいじゃん、別に! 私が暇だったから、勝手にやりたくてやったの!」


「……そうか。悪いな、助かる」


 白河は短くそう言うと、洗面台の鏡の横にあるラックから自分の歯ブラシを手に取った。 そして、手慣れた手つきでチューブから歯磨き粉を少しだけ絞り出すと、そのままシャカシャカとリズミカルに歯を磨き始めた。


 狭い洗面所の中で、一生懸命に洗濯物を畳む私と、そのすぐ隣で鏡を見つめながら歯を磨く彼。  

 静かな空間に、ブラシが歯を擦るシャカシャカという微かな音だけが優しく反響している。  


 ――なんか、この距離感、まるで新婚夫婦の朝みたいじゃん。  

 そんな、朝の妄想にしては刺激が強すぎる冗談が頭をよぎり、私は慌ててそれを喉の奥へと力任せに飲み込んだ。バカバカ、私、朝から何を考えてるの!


「ねぇ、白河。これ、大体畳み終わったんだけど……アイロンってどこにある?」


 私がその質問をした理由は、ただ一つ。

 目の前にある、自分と彼の制服のシャツのためだった。  

 ドラム式洗濯機で乾燥まで一気に仕上げてくれたのはありがたいんだけど、どうしても制服のシャツって、そのまま乾かすとシワシワのヨレヨレになってしまう。それを綺麗に伸ばすためのアイロンだ。


 もし今日が完全な休日なら、シワだらけのままバッグに詰め込んで持って帰っても良かった。

 でも、生憎なことに今日は普通に平日で、学校がしっかりとある。

 私だって、さすがにシワだらけの不格好なシャツを着て登校するなんて、ギャルとしてのプライドが絶対に許さない。

 何より、そんなの全然可愛くないし、莉愛に見つかったら一発でイジられるに決まっている。


「はいほん? ほんなの、ほれがやっへおふぞ?」


「ごめん。何言ってるか全っ然わかんないや」


 歯ブラシを口に咥えたまま、モゴモゴとした声で何かを訴えかけてくる彼を見て、私は思わず眉をひそめた。

 口の中に物がある状態で喋るななんて私に注意しておきながら、自分だって思い切りやってるじゃん。

 ちゃんと磨き終えて、口をゆすいでから喋ればいいのに。


「わふい。ひょっとまっへふれ」



 またしても謎の呪文を唱えた白河は、慌てて口の中の泡を水で何度も濯ぎ、近くのタオルで顔ごと豪快に拭った。


「――アイロンなら、俺がやるぞって言ったんだよ」


 綺麗に言い直した白河は、まだ少し照れくさそうにタオルの端を口元に当てている。寝起きのせいで、少しだけ白肌の頬が赤みを帯びているように見えた。


「え、でも、せっかく泊めてもらったんだし、それくらいは私にやらせてよ。アイロンくらいできるし!」


「だから、昨日も言っただろ。お前をここに泊めると決めたのは俺だ。そう決めたからには、一ノ瀬はうちの客人なんだから、余計な遠慮はしないで大人しくしてろって」


 私が最後まで言い切る前に、白河は少し強い口調で言葉を重ねて、私の提案を遮った。  確かに、昨日の夜もそんな風に頑固に言われた記憶はあるけれど……。

 でも、やっぱり流石の私も、何から何まで至れり尽くせりで看病みたいなことまでしてもらうのは、申し訳なさすぎて心が痛む。


「でもさ、白河。流石にそれは――」


「いいから。ほら、アイロンをかけるのは、これとこれだろ?」


 私の反論を完全にシャットアウトするようにして、白河は私の真横へと一歩踏み込んできた。

 そして、洗面台の上に綺麗に(下着を隠して)畳んで置いてあった、私の制服のシャツと、自分のカッターシャツの二枚を、親切心からひょいっとまとめて持ち上げた。


「あ――」


 その瞬間、私の脳内に、恐ろしい閃光が走った。  

 完全に忘れていた。  

 彼のシャツと私のシャツを白河が持ち上げたということは、そのシャツの「真下」に隠されていた、さっき私が必死に畳んだ彼のボクサーパンツが、遮るもののないオープンな状態で丸見えになってしまうということで。  

 よりによって、私がパニックになって彼の下着を隠した場所は、自分の制服のシャツのすぐ下だった。  

 白河の手によってシャツが持ち上げられた洗面台の上には、ぽつんと、不格好に折り畳まれた彼の下着が、朝の光を浴びて堂々と鎮座している。  

 白河の視線が、持ち上げたシャツから、その真下にある「物体」へと、吸い込まれるようにして綺麗にスライドしていった。  

 一秒。 二秒。  

 静寂が洗面所を支配し、状況を完全に理解した白河の顔が、見たこともないような鮮やかなトマト色へと、一瞬にして染まり上がっていく。


「キャーーーー!!!!」



 あのいつも冷静沈着で、何が起きてもまゆ一つ動かさないはずの白河の口から、まるで少女漫画のピンチに陥ったヒロインのような、高音で、驚くほど綺麗な悲鳴が洗面所の壁に激しく木霊した。



―――――――――――――――――――――――――



「白河って、まさかあんな女の子みたいな可愛い悲鳴が出るタイプだとは思わなかったなー!」


「もういいだろ……? いいからツッコんでないで、さっさとそれ食べろって」


 リビングのローテーブルを挟んで、俺は未だに赤みが引ききらない顔を両手で覆いながら、目の前のギャルに向けて恨めしそうな声を絞り出した。  

 さっきから一ノ瀬が信じられないほどのハイテンションで俺をいじり倒してくる理由は、言うまでもない。

 洗面所で彼女が俺のボクサーパンツを丁寧に(しかも本人のシャツの下に)畳んでいたことに気がついた際、俺の口から不可抗力で飛び出してしまった、あの忌まわしき悲鳴のせいだ。  

 本人はツボに入ってしまったらしく、キョロキョロと楽しそうに目を細めては、ケラケラと鈴を転がすような声で何度も何度も俺の失態を馬鹿にしてくる。


「あはは! だ、だってさ、普段あんなにクールぶってる白河が『キャーー!』だよ? 思い出しただけで、もうお腹痛い、笑っちゃう!」


 俺が気まずさを誤魔化すために急遽フライパンで作った、なんてことのないシンプルな目玉焼き。

 一ノ瀬はそれに箸をつけながら、思い出し笑いで何度も肩を小さく揺らした。  


 そんなに面白いか、俺の悲鳴が。


 男のプライドを粉々に打ち砕かれた身としては、今すぐにでもどこかの穴に潜り込みたい気分だ。

 だいたい、元はといえば人の下着を勝手に凝視してパニックになっていたお前が原因だろうが、と言いたい言葉をどうにか飲み込む。


「いいから、笑ってないで早く食えってば。本当に学校に遅れるぞ?」


「えー? なんでそんなに焦ってんの? 時計見てよ、予鈴が鳴るまであと二時間くらいはあるじゃん。超余裕だよ、余裕」


 お風呂上がりの香りを微かに残したまま、俺の作った目玉焼きの黄身を器用に潰し、トーストに浸しながら味わうようにゆっくりと食べる一ノ瀬。

 だが、その優雅でのんびりとした様子を見るに、彼女はどうやら一つ、とてつもなく重大な事実を綺麗さっぱり忘れているようだった。  


「お前……もしかして、根本的なことを忘れてるのか?」


「ん? 何を?」


 まるで心当たりがないといった様子で、一ノ瀬はトーストを咥えたまま、小首を傾げて大きな目を丸くした。

 その無防備な表情に、俺は一つ大きなため息をつく。


「あのな、一ノ瀬。ここは一ノ瀬の家じゃないんだぞ?」


「それがどうかしたの? そんなの昨日から百も承知だし、今更何言ってるのさ?」


 これ以上ないくらい分かりやすくヒントを出して説明したつもりなのだが、どうやら朝の寝起き頭のせいか、彼女の脳内にはまだピンと来ていない様子だった。  


「あのな……俺、以前お前に、俺の家から学校まで通学するのに片道一時間半かかるって話、言ったこと無かったか?」


「……え?」


 一ノ瀬の動きが、ピタリと彫刻のように静止した。  

 咥えていたトーストが、彼女の綺麗な唇からぽろりと落ちそうになる。

 一秒、二秒と時間が流れるにつれ、彼女の脳内で高速の演算が行われ、そして導き出された結論にその顔が驚愕へと染まっていく。


「ッ!?!? や、やばいじゃんそれ!! 完全に忘れてた! ちょっと白河、そういう大事なことはもっと早く言ってよーー!」


 ようやく事の重大さに気がついた彼女は、それまでの優雅な朝食タイムを一瞬でかなぐり捨てた。

 残っていた目玉焼きとトーストを、まるで高性能の業務用吸引機か何かのような凄まじい勢いで口の中へと平らげていく。  

 そもそも、どうして自分の現在地と通学時間の計算に今まで気づかなかったのかとか、その凄まじい早食いのポテンシャルは何なんだとか、彼女にツッコミたい疑問は山ほどある。山ほどあるのだが、生憎と俺自身も自分の分の支度をしなければならず、時間に追われている身だ。

 この辺りの疑問は、一旦全て棚上げして置いておくことにしよう。


「えーっと! これと、これと、それからこれも入れなきゃ――!」


 文字通り秒速で朝食を完食した一ノ瀬は、嵐のような勢いでリビング中を駆け回り、自分の荷物をまとめ始めた。  

 床に転がっていたスマホに、昨日貸してやった充電器のコード、テーブルの上に広がっていた大きな化粧ポーチに、その他諸々の女の子特有の細々としたアイテム。

 それらを、自身のスクールバッグの中へと恐ろしい手際で押し込んでいく。


「よしっ! これで完璧、いつでも行けるよ、白河!」



 信じられないほどの短時間で準備万端になった彼女は、バッグのチャックを勢いよく閉めると、俺に向かって力強く「行ける」という意思を視線で伝えてきた。


「本当に、忘れ物はないか? 確認しなくていいのか?」


「ないない、ばっちり!」


 あまりにも自信満々に即答する彼女に、俺は「本当にか?」ともう一度だけ問いかける。


「うん、大丈夫だって!」


 ことわざにもある通り、二度あることは三度ある。

 特に一ノ瀬は、普段の見た目の完璧さに反して、こういう私生活の部分ではどこか抜けているところが非常に多いギャルだ。

 だからもう一度だけ、念を推してカバンの中身を確認させようとした。

 だが、流石にこれ以上やると、朝から小言のうるさいしゅうとめみたいでくどいかと考え直した俺は、それ以上の問いかけをそっと胸に収めた。


 俺も自分の通学カバンを肩にかけ、二人で並んで狭い玄関へと向かう。  

 三和土たたきに降り立ち、昨日洗濯機から乾燥まで終わらせてシワ一つない状態に仕上がった(そして俺がアイロンをかけた)お揃いの学校指定の制服に身を包み、同じく指定のローファーに足を滑り込ませて立ち上がる。


「じゃあ……行くか」


「うん! 行ってきます! ……あ、お邪魔しました!」


 一ノ瀬は元気よく返事をすると、最後に振り返って俺の家の中に向かって頭を下げた。  一瞬、俺の頭の中に「行ってきます」と「お邪魔しました」の順番が逆なのでは? という小さな疑念が浮かび上がったが、それはさておき。

 自分の我儘で泊まったとはいえ、こういう一言の挨拶をさらっと、心を込めて口にできるところは、本当に育ちが良いというか、素直で偉いなと俺は心の底から思うのだった。

 パタン、と玄関の重い扉が閉まり、鍵をかける金属音が朝の清々しい空気に響く。  

 こうして、一歩間違えれば大惨事になりかねなかった、俺たちの波瀾万丈に満ちた秘密のお泊まり会は、爽やかな朝の光の中で静かに終幕を迎えたのだった。


この二人、似たようなところが多々ありますね

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