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「クラスのギャル、放課後は喫茶店で不器用マスターやってます。」  作者: 路地裏の猫


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二十七杯目:「嫌いでもあるし、好きでもあるな」

 リビングの賑やかさから逃れるようにして洗面所にたどり着いた俺は、一度深く息を吐き出し、棚から自分の着替えとふかふかのタオルを取り出して脱衣カゴの横に置いた。  

 そのまま慣れた手つきで身に纏っていた服を脱ぎ捨て、脱いだ瞬間にそのまま洗濯機のフタを開けて中へと放り込む。

 後からまとめて入れるのは二度手間だし、何より面倒くさい。

 効率化を追求した結果、我が家で定着した俺なりのルーティンだった。  

 準備を終え、風呂場の引き戸をそっと開くと、いつもとは明らかに違う密度の空気が肌に触れた。


 一ノ瀬が使ったばかりのシャンプーの、甘く瑞々しい果実のような匂いが、微かな熱気とともにふわりと鼻腔をくすぐる。  

 普段は完全に乾燥していて、無機質な洗剤の匂いしかしない殺風景な空間。

 だが、今日は彼女が先に入ったせいで、グレーの洗い場の床はしっとりと濡れそぼり、壁や鏡のところどころに真ん丸な水滴が真珠のように付着していた。  

 誰かが使った直後の風呂場に入るというのは、俺にとって妙に新鮮な体験だった。

 我が家では家族が全員揃っている時であっても、基本的には俺が一番最初に入るのが暗黙の了解になっているからだ。

 他人の生活の温もりが残る空間に足を踏み入れる気恥ずかしさに、少しだけ胸がざわついた。


 風呂場に一歩踏み込み、背後の扉をぴっちりと閉めてから、プラスチック製の椅子を引いて腰を下ろす。  

 壁からシャワーヘッドを引き抜き、レバーを捻って湯を出した。最初は少し冷たかった水が、すぐに心地よい温水へと変わり、首筋から背中、そして体全体をじんわりと濡らしていく。


 世間ではよく、お風呂の時に「頭から先に洗うか、体から先に洗うか」という、不毛にして熱い議論が起きることがあるが、俺のスタンスは明確で、完全に「頭派」だった。  

 ついでに言えば、「湯船に浸かるのが先か、シャワーで洗うのが先か」という問いに対しては、迷わず後者を選択する。  

 ただし、このルールが適用されるのは、その風呂を使う人間が全員「後から湯船に浸かる派」の場合のみにおいて有効であって、不特定多数の人間が利用する銭湯や温泉などでは、マナー的にも、合理性的にも前者の「先に湯船」という選択肢にシフトすることになる。

 

 話を元に戻して、俺が自宅で頭から先に洗う理由は、きわめて単純明快な物理の法則に基づいている。  

 仮に、最初に体から洗うとする。念入りに泡立てて、体は完全にピカピカに綺麗になるだろう。  

 では、その次に頭を洗うとする。

 するとどうなるか。頭皮や髪の毛から洗い流されたシャンプーの泡や、一日の汚れを含んだ水滴が、重力に従ってせっかく綺麗になったばかりの肩や背中、胸へと容赦なく付着してしまうのだ。これでは二度手間以外の何物でもない。


 上から下へ、汚れを段階的に落としていく。この上から順に洗うプロセスの美しさが崩れるのがどうしても嫌で、俺は頑なに頭から洗う派を貫いている。  

 またまたついでに因むと、自宅の湯船よりも先に体を洗うのは、汚れた状態の体のまま綺麗な一番風呂に浸かるのが生理的に嫌という単純な理由からだ。

 一方で、銭湯などでは自分の前に誰がどんな状態で洗ったか分からないため、誰かが洗う前に浸かった可能性があるというリスクを考慮し、まずは湯船の熱いお湯で全体の汚れを大まかにリセットする意味を込めて、先に湯船に浸かるようにしている。


 以前、友人の菊池と何気ない雑談の中でこういう風呂のこだわりについて話した時、奴から「お前、どんだけ細かいんだよ。潔癖症かよ」と呆れ顔で突っ込まれたことがある。

 だが、俺自身は自分のことを決して潔癖症だとは思っていない。  

 これは決して病的なこだわりではなく、ただただ物事を効率的に、かつ最も合理的に考えた結果として導き出された行動方針であると同時に、物心ついた生まれた時からの身体に染み付いた習慣に過ぎないのだ。


 そんな思考を巡らせながら、十分に濡らした頭髪にシャンプーを揉み込み、念入りに泡立てていく。  

 手のひらの中でモコモコと弾力のある白い泡が立ち上り、頭皮を優しく包み込んでいく感覚は、一日の緊張をほぐしてくれるようで純粋に気持ちが良かった。

 指の腹を使ってマッサージするようにある程度全体を洗い終えたら、シャワーの勢いある水流で一気に泡を洗い流し、次にボディーソープのボトルへと手を伸ばす。  


 いつだったか、テレビかネットのどこかで小耳に挟んだ豆知識なのだが、ナイロンタオルなどでゴシゴシと体を洗うのは、そんなに頻繁にする必要はないらしい。

 必要以上に皮膚の表面を擦りすぎると、大切な角質まで剥ぎ落としてしまい、肌を傷つける可能性があるというのだ。  

 俺はその、今となってはどこで聞いたかも忘れてしまったライフハック的な豆知識を都合よく元にして、ボディーソープをよく泡立てた自分の手を使って、優しく撫でるようにして体を洗うことにしている。


 首筋から足の先まで、全体をすっきりと洗い終えて泡を流しきると、俺の視線は自然と、隣で静かに湯気を揺らがせている湯船へと向けられた。


「……入るか」


 ぽつりと独り言ちて、ゆっくりと浴槽の中に身体を沈めていく。  

 ここ最近はシャワーだけで済ませる手抜きばかりだったこともあり、久しぶりに味わうなみなみと注がれた湯船の温もりは格別だった。

 お湯がじわじわと皮膚に染み込み、凝り固まっていた筋肉の緊張が解け、体全体が芯から温まっていく極上の感覚がする。

 ふぅ、と長い息が自然と漏れた。


 心地よい浮遊感に身を任せていると、ふと、俺の脳裏に余計な雑念が湧き上がってきた。


「……一ノ瀬も、さっきまでここに浸かってたんだよな」


 自分で思っておきながら、あまりの自意識過剰ぶりに顔が熱くなる。だが、俺だって健全な男子高校生だ。

 これくらいの想像は、不可抗力としてどうしても頭をよぎってしまう。  

 同じクラスの、それも学校中から注目を集めるような美少女ギャルが、つい数十分前まで全く同じお湯に身を委ねていたのだ。

 同じ空間、同じ温度。

 それを意識しないわけがない。  

 勿論、お湯を掬って飲んだりといった、そんな倫理的にも生理的にも弁明の余地がない気持ちの悪い行動に走る気は毛頭ないが、意識のベクトルはどうしてもそちらの方向へと引っ張られてしまう。

 湯気の向こうに、さっきリビングで見た、俺の大きすぎるTシャツを着た彼女の姿が幻視されるようで、急に落ち着かなくなってきた。


 これ以上ここにいたら、自分のくだらない煩悩と余計な妄想で頭がおかしくなりそうだと危機感を覚え、俺は逃げるようにして勢いよく湯船から上がった。  

 浴槽の底にあるチェーンを引き、栓を抜く。

 ゴボゴボと音を立てて、温かいお湯が排水口へと勢いよく流れていく。


 お湯が引いていく様子を背中で感じながら、俺はバスタオルを広げて濡れた体を大雑把に拭いた。  

 水気をすっかり拭き終えると、脱衣所に置いておいた服へと腕を通す。  

 いつ、どこで買ったのかさえも覚えていないような、首元が少しヨレた無地のTシャツと、適当なスウェットパンツ。

 お世辞にもおしゃれとは言えないし、急いで適当に引き出しから取ってきたため、上下の色彩の組み合わせもめちゃくちゃだった。

 だが、どうせ自宅の寝巻きだ。

 それくらいどうでもいいし、夜なんてこの程度で十分だった。


 使い終わったタオルを洗濯機の中に放り込み、ガチャリと扉を閉じる。  

 いや、扉を完全にロックする前に、俺は棚からジェルボール――洗剤が透明な特殊フィルムに包まれた、ぷにぷにとした小さいボール状の塊を指先で一粒つまみ出した。

 それを洗濯物の山の上へとポンと放り込み、今度こそプラスチックのフタをカチッと閉じた。


「あ!」


 洗濯機のスタートボタンに指をかけようとしたその瞬間、俺の脳裏にある懸念がよぎった。  

 一ノ瀬のやつ、さっき慌ててお風呂に入ったから、今日着ていた服や靴下なんかを脱衣カゴに残したまま、ここに入れ忘れているかもしれない。  

 一度スイッチを押して水が溜まり始めてからでは、途中で止めるのも色々と面倒だ。

 俺は指を一度離し、脱衣所の引き戸に向かって少し大きめの声を張り上げた。


「一ノ瀬! 洗濯する物はもう無いかー!」


「ないよー! 洗濯してくれるの? ありがとう!」


 湿った空気の残る風呂場の奥から、壁に反響して少しこもった彼女の声が返ってきた。

 語尾が小さく弾んでいて、それだけで彼女の機嫌の良さが伝わってくる。  

 これ以上洗うべき衣類が無いことを確認した俺は、再び洗濯機に向き直ってスタートボタンをしっかりと押し込んだ。  

 ウィーンという低い機械音が鳴り響き、内部のドラムがゆっくりと回転して、注水が始まったのを確認する。

 規則的な作動音を背中に聞きながら、俺は少し冷えた廊下を通り、明かりの灯るリビングへと戻ることにした。

 リビングの扉を開けると、そこにはすっかり我が家のようにソファの上でくつろいでいる一ノ瀬の姿があった。


「おかえり!」


 クッションに背中を預け、長い足を少し崩した体勢のまま、彼女は俺の気配を察して顔だけをこちらに向けて無防備な笑顔を浮かべた。

 俺の大きめのTシャツの襟ぐりがルーズに傾き、お風呂上がりの白い肌が眩しく視界に飛び込んでくる。


「あぁ」


 心臓の鼓動が少し速くなるのを誤魔化すように短く生返事をし、俺は彼女から少し離れた位置に腰を下ろした。

 すると、一ノ瀬はじっと俺の顔を観察するように見つめてから、ふと思いついたように口を開いた。


「ねぇ。白河って化粧水とか使うの?」


 化粧水か。  

 最近はメンズ用のスキンケア用品も巷にあふれているし、男であっても肌の手入れくらいは最低限しておいた方がいいという話は、ネットの記事や菊池との雑談でも耳にしたことはある。  

 だが、俺にとっては「効果を期待する」以前に、毎晩毎朝そんな細かい工程を繰り返す「めんどくさい」という感情がどうしても勝ってしまうのだ。

 別に普段から肌がカサつくような極端な乾燥肌というわけでも無いし、わざわざ時間とお金をかけてまで使う必要性をこれっぽっちも感じたことがなかった。


「……使わないな」


「ダメだよ! えーっと、ほらこれ!」


 俺の即答に一ノ瀬はあからさまに眉をひそめると、テーブルの上に置いてあった大容量の化粧ポーチの中に小さな手を突っ込んでガサゴソと漁り始めた。

 そして、自信満々に差し出してきたのは、旅行用とおぼしき持ち運び用の小さなボトルだった。  

 だが、持ち運び用といってもドラッグストアで売っているような安っぽいプラスチック容器ではない。

 すりガラスのような繊細な加工が施された、見た目にも豪華で、いかにも高級ブランドのロゴが刻まれた、すごく高そうな容器だった。

 一目で女子高生が気軽に買えるような代物ではないことが分かる。


「いや、いいよ! 申し訳ないし」


「ダメだよ! 今は良くても、ちゃんと保湿しとかないと乾燥して後から肌に悪いよ? ほら使って使って!」


 言葉と同時に、ソファに座っていた彼女は勢いよく立ち上がり、俺の目の前まで距離を詰めてきた。

 ふわりと、さっきドライヤーをかけている時にも嗅いだ、あの甘いシャンプーの香りが再び鼻腔をくすぐる。  

 圧倒的なギャル特有の押しに圧され、俺が気圧されている間に、一ノ瀬は俺の手首を掴んで手のひらを半ば強制的に上へと広げさせた。

 彼女の小さくて少し冷たい指先が触れた場所に、ドクドクと体温が引火していくような気がした。

 ボトルの口から、透明でとろみのある液体が数滴、俺の掌の上にトントンと垂らされる。


「顔に塗ればいいのか?」


「そう! 手のひらで広げて、優しくパチパチって馴染ませるの」


 馴染ませる、と言われても、普段からそんな繊細な行為に縁のない俺にはさっぱり具合が分からない。  

 とりあえず言われた通りにするしかなく、俺は化粧水で濡れた両手をこすり合わせ、そのまま自分の顔に思い切り押し当てるようにして塗りたくった。

 手のひらを通じて、ひんやりとした水分が顔全体の皮膚に吸い付いていく。


「うん! いい感じじゃん」


 俺の不器用な手つきを満足そうに眺めながら、一ノ瀬が嬉しそうに拍手を模した。


「何が変わったんだよ」


 自分の両頬を軽く触ってみるが、正直なところ、ただ肌が水で濡れただけというのが率直な感想だった。  

 言われてみれば、いつもより肌の表面が若干しっとりとして、モチモチしている様な気がしなくもないが、これが本当に肌に良い効果をもたらしているのだろうか。

 未知の体験に首を傾げつつ、俺は照れ隠しにテレビへと視線を移した。


「何見てたんだ?」


「テレビ? 分かんない。なんかのお笑い番組?」


 お互いに少し落ち着きを取り戻すように、液晶画面に意識を向ける。  

 テレビの画面の中では、派手な衣装を着た何組かの芸人が、ステージの上で身振り手振りを交えながらテンポよくネタを披露している番組が流れていた。

 音声は聞こえるものの、普段からテレビを見る習慣がすっかりなくなっていた俺にとっては、今画面の中で大爆笑をかっさらっている若手芸人が誰なのか、名前すら全く分からない。


「知ってる人か?」


「ううん? チャンネル変えたらやってたから、適当に見てただけ。だから全然分かんない」


「へー」


 大した会話もないまま、俺たちは並んでテレビの明るい光をただぼんやりと見つめた。  バラエティ番組特有の効果音や観客の笑い声が、静かな室内に低く響いている。

 だけど、こういう何の意味もない、ただ同じ空間で同じ画面を眺めている時間というのも、悪くないなと思ってしまう。  

 最近は家に帰っても一人でスマホの画面ばかりを眺め、SNSのタイムラインを無機質にスクロールするだけの夜が続いていた。

 誰かの気配を感じながら、緩やかに流れる時間を共有することの心地よさを、俺は心のどこかで忘れていたのかもしれない。  


「白河ー!」


 そんな穏やかな静寂を破るように、突然彼女が唐突に、弾んだ声で俺の名前を呼んだ。


「今度は何だ?」


「アイス食べたい」


 あまりにも脈絡のない要求に、俺は思わず耳を疑った。


「はぁ? そんな物、家に常備してねぇって」


 まだ小学生くらいの小さい頃であれば、母親が冷凍庫に買い置きしてくれていた、箱入りのファミリーパックのアイスを風呂上がりに楽しみに食べていた記憶はある。

 だが、この歳になって男独りで暮らすようになると、そんな甘美な習慣はとっくに抜け落ちてしまっている。  

 当然、現在の我が家の冷凍庫の引き出しを開けたところで、カチカチに凍った保冷剤か、せいぜい氷を作るための製氷皿くらいしか入っておらず、アイスなんて気の利いた品物は置いていない。


「じゃあ、近くのコンビニ行こうよー」


 一ノ瀬はソファの上で小さく身をよじり、子供が駄々をこねるような仕草で俺の顔を覗き込んできた。


「わかったよ。ったく、お前は風呂上がりだってのに元気すぎるだろ」


 我が家から最寄りのコンビニまでは、歩いて目と鼻の先の距離だ。  

 ここで下手に拒否して不満の顔をされるよりも、彼女の圧倒的なマイペースには素直に付き合ってしまった方が、結果としてはるかに手っ取り早い。

 それに、少し夜の空気に当たりたいという気持ちも、俺の中に少なからずあった。


「やったー!」


 子供のように声を上げて喜ぶ彼女は、言うが早いかソファから軽やかに飛び降りると、素早い足取りで玄関へと移動し、三和土に降りて靴を履こうとした。


「サンダルとかある? さすがにスニーカー履くのめんどくさくて」


「あるぞ、ほら。これでも使え」


 玄関の隅にいくつか転がっている靴の中から、ベランダ用として使っている、サイズが少し大きめで一ノ瀬の足でも脱げにくそうなクロックス風のサンダルを引っ張り出して差し出す。


「流石白河、気が利くー!」


 小さく鼻歌を歌いながら、一ノ瀬は俺の男物のサンダルに器用に足を滑り込ませた。

 ぶかぶかのサンダルを履いた彼女の足元が、どこかコミカルで微笑ましい。

 それにしても、そこまでして食べたいと思うほど、彼女はアイスが好きなのだろうか。


「早く早くー、白河!」


「待てって。そんなに急がなくても、コンビニは逃げやしないから」


「ダメだよ、早く行かないとアイス溶けちゃうよ!」


「溶ける訳ないだろ」


 今から向かうコンビニのマイナス数十度に保たれた頑丈な冷凍ショーケースの中に静かに眠っている、まだお金も払っていない段階のアイスが、どうしてこの世の物理法則を無視して溶けるというのだ。  

 時折見せる、この独特で突飛な感性を持つ彼女には、本当に最初から最後まで振り回されっぱなしだ。

 けれど、そんな理不尽なやり取りさえ、どこか楽しく感じている自分に気がついて苦笑する。


「じゃあ、行こ?」


 一ノ瀬は振り返って不敵に笑うと、ガチャリと玄関の重い扉を開き、一歩外の世界へと踏み出した。

 俺もその後を追うようにして、鍵をポケットに突っ込んで外に出る。


 昼間のじっとりとした刺すような不快な暑さはどこへやら、夜の帳が下りた外の空気は驚くほどに涼しかった。

 肌を撫でていく夜風の冷たさは、長く続いた厳しい夏の終わりを静かに告げているようだった。

 季節が確実に移り変わっていく、独特の寂しさと心地よさが微かに混ざり合っている。


「この服装じゃ、少し肌寒いな」


 ヨレたTシャツ一枚の腕をさすりながら俺が呟くと、隣を歩く一ノ瀬は不思議そうにこちらを見た。



「そうかな? お風呂上がりだから、私はこれくらいでちょうどよくない? 風が超気持ちいいじゃん」


 夜の帳が下りた静かな住宅街の舗道を、俺たちは肩を並べてゆっくりと歩いていく。   生まれてから何度も、それこそ数え切れないほど歩いてきた見慣れた退屈な街並み。

 街灯が等間隔でぽつぽつと足元を照らすだけの、なんてことのない日常の光景のはずだった。

 だが、すぐ隣に自分の服を着て、少し楽しそうに歩く彼女の存在があるだけで、まるで全く知らない異国の風景を旅しているかのような、新鮮で特別なものに思えてくるから不思議だ。


「いい街だね」


 一ノ瀬は小さく弾むような足取りのまま、綺麗に澄んだ夜空を見上げながら、しみじみとしたトーンで言った。


「そうか? 俺にとってはただの見慣れた景色だからな。何にもないだろ」


「ううん、この静かで落ち着いてる雰囲気が好きなんだよね」


 周りを見渡しても、あるのは本当に静まり返った一戸建ての家や、明かりの消えかけたアパートばかりだ。

 これといったお洒落な商業施設もなければ、若者が集まるような場所もない。

 雰囲気が良いと彼女は褒めてくれるが、こんなものはただの地方のありふれた住宅街に過ぎない。

 それでも、彼女がそう言ってくれるだけで、自分の育った街が少しだけ肯定されたような、奇妙な面痒さがあった。


「ね、コンビニ近い?」


「すぐそこだ。この先の角を右に曲がると……ほら、もう見えたぞ」


 家を出てから最初の曲がり角をゆっくりと右に折れる。

 すると、それまでの薄暗かった住宅街の景色から一転して、鮮やかな白い光が視界に飛び込んできた。  

 二十四時間絶やすことなく、周囲の闇を遮るようにして周囲を明るく照らし出しているコンビニの看板。

 それは、静寂に包まれた夜の街の中にぽつんと現れた、まるで現代の旅人を癒やすオアシスのようで、俺たちの行く先を優しく誘うように輝いていた。


「便利じゃん!」


「よく世話になってるぞ」


 家から近いということもあり、俺は普段からこの店を度々使用している。  

 全国的に有名な大手チェーンのコンビニだから品揃えも圧倒的に多いし、深夜にどうしても小腹が空いた時や、ちょっとした買い出しの際には、特に重宝して利用していた。

 一人暮らしの男にとって、この看板の明かりは生命線のようなものだ。


「着いた! 早く行こ!」


 そんなたわいも無い会話を交わしながら夜道を歩いていると、目的地であるコンビニには本当にすぐに出くわした。  

 大きなガラス窓からは、昼間と変わらない純白で明るい店内の光が周囲の闇を排するようにして外へと漏れ出ている。

 その光に吸い寄せられるように、自動ドアへと小走りで向かう彼女の後ろ姿を俺は慌てて見つめた。

 貸してやったぶかぶかのサンダルをパタパタと鳴らしながら走るその姿は、お世辞にも安定しているとは言えず、下手したらこのまま豪快に転けてしまいそうな危なっかしい雰囲気が大いにあった。


「そんなに急がなくても、アイスは逃げないぞ」


 ハラハラさせられる彼女の後を追う様にして、俺もまたコンビニの自動ドアをくぐり、店内に入る。  

 

 「いらっしゃいませー」と、カウンターの奥からアルバイト店員が夜勤特有の気怠そうな声で迎えてくれるが、このどこか投げやりで静かな雰囲気も、夜のコンビニ特有の空気という感じがして妙に心が落ち着く。

 一直線に店舗の最奥にあるアイスの冷凍コーナーへと向かうと、彼女はガラスの蓋の向こうに並ぶ色とりどりのパッケージを、まるで宝箱でも見つけたかのようにキラキラとした純粋な目で眺めていた。


「どれにするんだ?」


「迷うなー。これもいい、あっ、でもあれも捨てがたいし、うわー、あれもいいなー!」


 数ある魅力的なアイスの数々に、彼女の視線は次から次へと目移りし、小さな頭をキョロキョロと忙しなく動かしながら品定めを始める。

 その様子は、まるでおもちゃ屋に連れてこられた幼児そのものだった。


「俺はこれでいいか」


 そんな彼女を横目に、俺が冷凍庫から迷わず手に取ったのは、昔ながらの王道のソフトクリームだ。  

 これに決めた理由は、冷凍庫の扉を開けた瞬間に一番最初に目に入ったから。

 ただそれだけ。

 男の買い物なんて、熟考する必要すらなく、直感とスピードがすべてだ。


「決めるの早いよ白河! 私、まだ全然心の中のオーディションが始まってもいないのに!」


「ゆっくりでいいよ。いくらでも待ってやるから、自分の好きなやつを選べ」


「え、もしかして……奢ってくれるの!?」


「あぁ」


 よくよく考えてみれば、今日一日、彼女にはオムライスを作ってもらったり、店のことを考えてもらったりと、色々な意味で世話になった。

 自分の不甲斐なさを埋めるための、ほんの形ばかりの穴埋め。

 これくらいのご褒美を差し出すのは、当然のことだろう。


「本当に!? やったー! えーっと、じゃあこれと、あ、こっちの新作のやつと、これも入れて、あ、これも食べたいから――」


 俺が財布を出すと分かった瞬間、彼女の遠慮という概念は綺麗さっぱり霧散したようだった。

 現金なまでに声を弾ませると、手にしたプラスチックのカゴの中へ、次から次へと容赦なくアイスの袋を乱雑に放り込んでいく。


「待て待て! いくらなんでも多すぎるって! そんなに一度に食ったら確実に腹壊すぞ?」


「でも、どれも美味しそうだし、今の気分的にどうしても全部食べたいんだもん」


「三つにしなさい、三つ」


 カゴの底に溜まっていく冷たい誘惑を指差し、まるで駄々をこねる子供をいさめる親のようなトーンで、俺は彼女の暴走を諭す。

 なぜ三つなのかと聞かれれば、何となく多すぎず少なすぎず、彼女の物欲を満たせる絶妙な数が三という数字だったからだ。


「……分かった。じゃあ、苦渋の決断でこの三つにする」


 あからさまに肩を落とし、少し悲しげな声を出しながらも、彼女が厳選してカゴに残したのは、パリパリとした食感が魅力のモナカのアイス、みんなでシェアできそうな個包装のキャンディ型のアイス、それから普段なら少し手を伸ばすのに躊躇するような、リッチで値段の張るプレミアムなカップアイスの三点だった。


「本当にこれでいいんだな? 後から文句言うなよ」


 彼女の手から受け取ったカゴの中身を上から覗き込んで点検し、念のために再度彼女に確認を取る。  

 俺の言葉を聞いた彼女は、未練がましそうに冷凍庫のガラス越しにもう一度だけ悩み直し――


「うん、大丈夫! これが私のベストメンバー!」


 ひとしきり視線で葛藤した後、彼女は結局、最初に厳選したお気に入りの三つに決定したようだった。  

 二人でレジに向かい、店員にカゴを渡して会計を済ませる。

 財布から小銭を出して支払いを終え、茶色のビニール袋をぶら下げて店を後にした。

 自動ドアが閉じる瞬間まで、「ありがとうございましたー」という店員の眠たげな声が、夜の空気の中に引きずられるようにして聞こえていた。


「それじゃ、帰ろうか」


「うん。あ、それと、さっそくで悪いんだけど、その袋の中からモナカのやつちょうだい?」


 俺が持つレジ袋を細い指先でちょんちょんと指差しながら、お目当てのアイスを催促してくる彼女。

 どうやら家に帰り着くまで我慢できず、この静かな夜道を歩きながら食べるつもりなのだろう。


「早速かよ。ったく、食いしん坊め。ほら」


 袋の中をガサゴソと掻き分け、まだ冷気を含んで固いモナカのパッケージを見つけ出した俺は、それを引っ張り出して彼女の手へと手渡す。  

 受け取った彼女は、それだけで世界を手に入れたかのような子供の様な純粋な笑顔を見せて、「ありがとう!」と嬉しそうに言い、手際よく袋をピッと破いた。  

 手が汚れないように、器用に持ち手の部分だけ袋を半分ほど残した状態にして、大きな口を開けてパクッと一口、思い切り頬張る。


「んーー! ふめたくておいひい!」


「おい、口の中のものが無くなってから喋れよ。何言ってるか全然分かんないから」


 一ノ瀬は昔から、口の中に食べ物がある状態で、感情が高ぶるとそのまま喋ってしまう癖がある。

 上品とは言えないかもしれないが、その無防備で飾らない姿は、彼女の隠れたチャームポイントでもあった。

 モナカの破片が小さな唇の端に少しだけついているのが、なんだか妙に可笑しい。


「白河は食べないの? せっかく買ったのに」


「俺は、ちゃんと家に帰って落ち着いてから食べるよ」


 冷たいアイスの味に満足している彼女を見守りながら、行きで通ったばかりの住宅街の道を、今度は反対方向に向かってゆっくりと歩く。  

 一ノ瀬にとって、この街灯が薄暗く照らす静かな舗道は初めて歩く未知の領域であり、俺が見慣れた退屈な景色とはまた違った、新鮮な夜の情緒を感じ取っているのだろう。


「白河」


「なんだ?」


 モナカを半分ほど平らげたところで、何かを急に思い立った様な、悪戯っぽい様子で彼女が俺の顔を覗き込んできた。

 その瞳が、街灯の光を反射して怪しくきらりと輝く。


「海行こうよ! 海!」


「は? 今から、海?」


 あまりにも突飛な提案に、俺は思わず足を止めて声を裏返した。  

 確かに、このエリアから少し足を延ばせば、地理的に近くに海はある。

 だが、それはテレビドラマに出てくるような、白い砂浜が綺麗に完備されているお洒落な海岸では決して無いし、お世辞にも夜の観光に向いているような場所ではない。

 ただのコンクリートの護岸が続く、荒涼とした地元の海だ。

 そんな、夜になれば真っ暗で何も見えなくなるであろう海を、どうして彼女がこのタイミングで見つめ直したがるのか、俺にはさっぱり理解が追いつかなかった。


「だって、なんか急にそういう気分になっちゃったんだもん!」


「こんな時間にか? 常識的に考えておかしいだろ」


 腕時計の針に目を落とすと、時間はなんだかんだで既に夜の九時を少し過ぎたところだった。  

 住宅街の頭上に広がる空は完全に深い漆黒に染まり、雲の切れ間からは、都会の明かりに負けじときらめく小さな星空が静かに広がっている。

 わざわざお風呂上がりで、こんな男物の寝巻きを着た奇妙な格好のまま、冷たい夜風が吹く海へ向かう必要なんてどこにもないはずだ。


「いいじゃん、少しぐらいいいじゃん! 減るもんじゃないし、行こうよ!」


 俺の常識的な正論を笑顔で踏みつぶしながら、一ノ瀬は俺の手首を半ば無理やり力強く引っ張ってきた。

 その細い身体のどこにそんな力が眠っているのかと思うほど、彼女の引力は強烈で、エネルギーに満ちあふれている。  

 繋がれた手のひらから伝わってくる彼女の体温と、頑ななまでの強い意志。

 彼女に連れられるがまま、俺はついに抵抗することを諦め、ただ夜の緩やかな空気の流れに身を任せるようにして、暗闇の奥に佇む波音のする海へと足を向けることになってしまった。


 潮騒の音が徐々に大きくなり、住宅街の狭い路地をいくつか通り抜けると、視界が一気に開けて広大な路上へと出た。  

 アスファルトの道路のすぐ向こう側には、緩やかな段差を隔てて一面の砂浜が広がっている。

 街灯の届かない圧倒的な闇の先から、白く砕けた波が夜の砂浜を静かに噛んでは退いていき、ザー、ザーという規則正しい重低音が、夜の静寂を支配するように深く響き渡っていた。  


「綺麗! 行こ、白河!」


 遮るもののない夜の海を目にした途端、一ノ瀬の瞳が一層輝きを増した。

 彼女は俺の手を振り払うと、ぶかぶかのサンダルで砂を跳ね上げながら、一目散に波打ち際へと走り出していく。


「お、おい! 待てって。暗いから危ないだろ!」


 急なダッシュに肝を冷やしながら、俺も彼女の後を追うように小走りで砂浜へと足を踏み入れた。

 一歩進むごとに、湿った砂が足元を重く沈め、確かな抵抗感を伝えてくる。

 一ノ瀬が通った後に残された小さな足跡が、月明かりに照らされて微かに窪みを作っていた。

 俺は知らず知らずのうちに、その愛らしい足跡をなぞるようにして、暗闇の砂浜を駆け抜けていた。


「ほら! 白河、早く!」


 波打ち際の直前で足を止め、髪を夜風にたなびかせながら振り返る彼女。

 俺のダボダボのTシャツを揺らし、スウェットの裾から細い足首を覗かせているその姿は、お世辞にも洗練された格好とは言えないはずなのに、不思議とどこかの恋愛小説の挿絵に出てくるヒロインのような、神秘的な美しさを帯びていた。  

 ようやく彼女に追いついた俺は、冷たい潮風を全身に浴びながら、一ノ瀬のすぐ横に並んで立った。


「なんで急に海なんだよ。風呂上がりだってのに」


「んー、なんとなく海の匂いが恋しくなっちゃって! ねぇ、白河は海好き?」


 一ノ瀬は大きく胸を広げて夜の空気を吸い込みながら、屈託のない笑みを向けてくる。


「海、か?」


 改めて問われると、俺の答えは決まっていた。

 どちらかと言えば、嫌いな部類に入る。  

 砂浜を歩けば靴の中に容赦なく砂が入り込んで不快だし、一度でも海に入れば全身が潮水でベタベタして独特の痛痒さに襲われる。

 その上、海から上がった後は水分のせいで、さらに体中に砂がまとわりついて最悪のコンディションになるからだ。

 手入れの行き届いた清潔な真水で満たされ、シャワーですぐに洗い流せるプールの方が、合理性を愛する俺としては断然支持できる。    

 

 だけど――この場所に漂う匂いだけは、決して嫌いではなかった。  

 ツンと鼻腔を突く磯の香りと、どこか哀愁を帯びた、言葉ではうまく表現できない独特の潮の香り。

 学校の授業中、ふと退屈な時間に窓辺から優しく吹き込んでくるほのかな海の匂いに、心地よく身を任せる瞬間は、俺にとっても嫌いな時間ではなかった。


「嫌いでもあるし、好きでもあるな」


「あはは、何それ。どっちつかずじゃん」


「そのままの意味だよ。面倒なところは嫌いだけど、落ち着くところは悪くない」


「変なの。私はね、文句なしで大好き! 太陽がギラギラしてる昼の海もいいけど、こうやって静まり返った夜の海の方がもっと好きかな。なんか特別な雰囲気があるし、全てを包み込んでくれるみたいで、優しい感じがするから」


 冷たい夜風に吹かれながら、一ノ瀬はどこか遠くを見つめるようにして呟いた。  

 普段の騒がしい彼女からは想像もつかないような、少し大人びた横顔。その言葉のニュアンスは、俺の胸の奥にも静かに染み込んできた。

 実際に、誰もいない夜の海には、日常の煩わしい境界線を曖昧にしてしまう独特の空気が漂っている。

 下手をすると、その底知れぬ暗闇の奥へと吸い込まれてしまいそうな、畏怖を孕んだ静けさ。  


「……まあ、なんとなく分かるな。一ノ瀬の言おうとしてること」


「本当に? 口先だけで合わせてない?」


「あぁ、本当だ。嘘は言わない」


 俺たちの視線の先では、漆黒の帳が下りた水平線の上で、天空に浮かぶ星々が静かに輝いていた。

 その無数の光粒子が波打つ水面に反射し、まるで夜の海にちりばめられた宝石のように、寄せては返す波に合わせてキラキラと儚く煌めいている。

 耳に届くのは、ただ心地よいさざ波の音だけだった。    


 一体、どれほどの時間、二人でその光景を見つめていただろうか。  

 永遠のようにも、ほんの一瞬のようにも感じられる不思議な時間が流れていた。


「……寒くなる前に、そろそろ帰ろう」


「うん。そうだね、そうしよう。ありがとね、白河。こんな我儘に付き合ってくれて」


 一ノ瀬は小さく微笑むと、名残惜しそうに一度だけ海を振り返り、俺たちは煌めく波音を背にして静かな帰路についた。  

 家に戻るまでの道中、学校のことや本当に他愛のない雑談を交わしていた気がする。

 彼女と話していると時間の感覚が狂うのか、あっという間に見慣れた我が家の玄関へと辿り着いてしまった。


 鍵を開けて温かいリビングに入り、壁の時計に目をやると、時刻はすでに十一時前を指していた。  

 ただコンビニに行ってアイスを買うだけのつもりが、ずいぶんと長い時間、彼女と話し込んでいたんだなと、心地よい疲労感とともに実感する。    

 と、そこで俺の脳裏に、現実的かつ重大な問題が突如として浮上した。  


 ――寝る時のことだ。  

 これから夜を迎えるにあたって、彼女を一体どこで寝かせるべきだろうか。

 店長代理として、一人の男として、流石に大切なクラスメイトの女子を、俺のプライベートな部屋に連れ込むわけにはいかない。

 何より、ここ三日ロクに片付けもせず、昨日までのゴミが散乱しているあの汚い空間を見せるわけにはいかないし、俺が毎日使っている男臭いベッドに彼女を寝かせるなんて、倫理的にも到底許されることではなかった。


「じゃあ、なんだか眠たくなってきたし、そろそろ寝ようよ、白河」


 小さなあくびを噛み殺しながら、一ノ瀬が目をこすってソファに腰掛ける。


「あ、あぁ。ちょっと待ってくれ。今ちょうど、お前をどこに寝かせるべきかを考えてたんだ」


 どうやら彼女も、タイミングを同じくして就寝の準備を考えていたようだった。

 問題は、この家の中で一体どこに彼女の寝床を確保するかだ。


「何をそんなに深刻な顔して考えてるの?」


「一ノ瀬が寝る場所のことだよ。さっきも言った通り、俺の部屋は散らかってて汚いし、そ

んな男の使い古した汚いベッドにお前を寝かせるわけにもいかないからな」


「そっかー。……じゃあさ、一緒にリビングで寝よ?」

「は?」    

 

 一ノ瀬の口から飛び出したあまりにも破天荒な提案に、俺の思考は完全にフリーズした。  このギャルは、一体全体何を考えてそんな恐ろしいことを平然と言ってのけるのだろうか。  

 俺と、一緒に、寝る?  

 しかも、この遮るもののないオープンなリビングの床で?  

 そんな理性と道徳に反するような真似、できるわけがないだろう。


「だって、白河の部屋が無理なんでしょ? だったらもう、スペース的にリビングしかないじゃん!」


 一ノ瀬は当然の理屈だと言わんばかりに胸を張るが、俺が問題にしているのはそこではない。

 その発言の前提自体がおかしいと言っているのだ。  

 何を考えているんだ、こいつは。

 そもそも、俺の部屋が綺麗だったらそこに泊まるつもりだったのか? 

 というか、どうして当然のように同じ空間で一緒に寝るのが前提のスケジュールになっているんだ。


「一緒にする必要がないだろ! 寝る場所を別々に分ければ――」


「なんでよ! せっかくのお泊まりなんだよ? 修学旅行みたいで楽しいじゃん、一緒に寝ようよー!」


「だから、その感覚が男としては理解できねぇって言ってるんだよ……!」


「いいの! 細かいことは気にしないで、一緒に寝るの!」


 完全に子供のようなモードに入り、ソファの上でジタバタと駄々をこねる彼女を止める術を、悲しいかな俺は持ち合わせていなかった。

 きっとこれまでの人生でも、周囲の人間が誰も彼女の暴走を止められなかったから、こんな恐れ知らずな我儘を言うようになってしまったのだろう。

 クラスの佐伯あたりは、普段どうやってコイツの綱を引いているんだ。


「っ……! わかった、わかったよ! もう好きにしろ。ちょっとそこで待ってろ!」


 これ以上押し問答を続けても夜が更けるだけだと悟り、俺は降伏の意思を示した。

 そういえば、以前母親が来客用としてどこかに予備の敷布団を仕舞い込んでいたはずだ。 家中の押し入れやタンスの配置を必死に脳内で検索する。


「確か……ここの奥に……」


 記憶の糸を手繰り寄せながら、廊下の突き当たりにある開かずのクローゼットを開け、心当たりのある重い引き出しを調べる。

 暗がりの奥を探ると、案の定、ビニールに包まれたままの清潔な敷布団が眠っていた。

 俺はそれを両腕で抱え込み、ずっしりとした重みを感じながらリビングへと運び込んだ。


「あったぞ、一ノ瀬。敷くからちょっとそこをどいてくれ」


 ひとまずこれ以上のパニックを避けるため、布団を完璧に敷くことだけに意識を集中させ、彼女に少し場所を空けるように促した。

 フローリングの上に布団を広げ、シーツを整え終えると、俺は大きなため息とともに一息ついた。


「一応確認するが、一ノ瀬はそっちの敷布団で寝る、でいいな?」


「うん、ふかふかで良さそう! ……だけど、白河はこの敷布団で寝ないの?」


「はぁ? 俺がそこに寝るわけないだろ。俺の寝床はこっちのソファだ」    


 やはり彼女は、同じ布団に並んで寝るような文字通りの「一緒」を想定していたらしい。 呆れを通り越して背筋が凍る。

 どこの健全な男子高校生が、付き合ってもいない異性のクラスメイトと同じ布団で雑魚寝するというのだ。

 ただでさえ同じ屋根の下に泊まるという、一線を越えた禁断の行為に手を染めているというのに、これ以上の不祥事を自分に許せるはずがなかった。

 俺の理性はそこまで安っぽくはない。


「えー……つまんないの。わかったよ」


 あからさまにつまらなそうな顔をして、急激にテンションを低下させる彼女の姿が目に入る。

 男としては少しだけ胸に罪悪感のようなものが過りそうになったが――いや、覚えるわけがない。

 これは健全な秩序を守るための正当防衛だ。

 これくらいの手不便は我慢してもらう。


「ほら、お喋りは終わりだ。さっさと寝るぞ。電気を消すからな」


「はーい。おやすみ、白河」


 一ノ瀬が少し不満げに敷布団の中へと潜り込んだのを見届け、俺はリビングの壁にあるメインの照明スイッチへと手を伸ばし、パチリと電気を消した。  

 一瞬にして世界が深い暗闇に包まれる。

 窓の外から微かに差し込む街灯の薄明かりだけを頼りに、俺は長年見慣れたリビングの家具の配置を感覚だけでなぞるように歩き、定位置であるソファへと身体を横たえた。  

 昼間の疲労と、何より彼女に振り回され続けた精神的な消耗がどっと押し寄せてきたのだろう。

 クッションに頭を預けた瞬間、俺の意識は深い泥の底へと沈むように、あっという間に薄れて消えていった。



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