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「クラスのギャル、放課後は喫茶店で不器用マスターやってます。」  作者: 路地裏の猫


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二十六杯目:「ん? かわいいからだよ?」

「一ノ瀬は、何か特に好きなスイーツとかあるか?」


 俺たちは、店で新しく展開するスイーツメニューについて、あれこれと語り合っていた。  

 どうせ店で出すのなら、店長である彼女が心の底から「美味しい」と思える、愛着のある一品にしたほうがいい。

 そう考えた俺は、とりあえず一ノ瀬自身の好みをリサーチしてみることにした。


「モンブラン!」


「……お前、絶対さっきのテレビに影響されただけだろ」


 間髪入れずに、一番高く絞り出された栗の山を挙げた彼女。  

 これほどまでに分かりやすく単純な反応をされると、呆れるのを通り越して逆に面白くなってくる。  


「いいじゃん! さっき見て、すっごく食べたくなっちゃったんだもん! 白河だって美味しそうって言ったじゃん!」


「わかったわかった。モンブランも有力候補に入れておこう。……他にはないのか? もっとこう、日常的に好きなやつとか」


「いーっぱいあるよ! 王道のショートケーキでしょ? それから濃厚なチーズケーキ! あとタルトとか、手作りのクッキーも大好き!」


 流石は女子高生、といったところか。  

 甘いものには目がないらしく、放っておけばこの世に存在するすべてのスイーツの名前を列挙しそうな勢いだ。


「好きなスイーツがたくさんあるのはいいことだけど、急にそんなに並べられても一度には無理だぞ。その中で、あえて『一番』を決めるとしたら何なんだ?」


 俺がそう問いかけると、彼女は「うーん……」と手を顎に当てて、まるで国家の重大事案でも決めるかのように必死に悩み始めた。  

 きっと今、彼女の頭の中では色とりどりのケーキたちが激しい順位争いを繰り広げているのだろう。


「うぅーん、難しいけど……一番って言われたら、やっぱりタルトかな!」


 それは少し、意外な答えだった。  

 てっきりショートケーキのような、いわゆる「女の子らしい」定番を挙げると思っていたが、彼女が数ある候補から選び抜いたのはタルトだった。  


「タルト? 具体的に、どんなタルトだ?」


「いちご! いちごタルト! 私、これだけは本当に大好きなんだ!」


 いちごタルト。  

 俺の貧困な想像力では、クッキー生地の土台の上にカスタードと苺が乗っている姿しか浮かばないが、それであっているのだろうか。


「ショートケーキとかじゃなくて、タルトなのか?」


「ショートケーキも捨てがたいけど、一番はいちごタルトだよ! あのサクッとした土台の食感に、中はしっとりしたアーモンドの香りがして……そこに口全体に広がるいちごの甘酸っぱさが最高なの! あー、思い出しただけでお腹空いてきちゃった!」


 一ノ瀬は苺タルトの味を鮮明に思い出したのか、うっとりと目を閉じて、幸せそうに手を頬に当てる。  

 なるほどな。

 彼女がそこまで熱を上げるなら、挑戦してみる価値はありそうだ。  


「よし、じゃあメインの試作は苺タルトにしてみるか。……ちなみに一ノ瀬、作り方は分かるか?」


「ううん! ぜーんぜん知らない!」


 ……一瞬でも期待した俺の頭を、誰か後ろから思い切りぶん殴ってほしい。  

 彼女が、あの「コーヒーすら一苦労だった店長」が、繊細な製菓の工程を知っているはずがなかった。  

 彼女は誇らしげなほど清々しく、ブンブンと首を横に振った。


「今のは俺が悪い」


「ん? 何で白河が悪いの?」


「いや、こっちの話だ。……忘れてくれ」


 そうは言ったものの、俺だって苺タルトの作り方なんて1ミリも知らない。  

 頭にあるのは「赤い苺が乗った美味しそうな三角形」というぼんやりした完成予想図だけだ。  

 そもそもあの土台は何でできているんだ? 

 クッキーなのか? 

 外は岩みたいにサクサクなのに、中はケーキみたいにしっとりしている。  

 ……工程を想像すればするほど、自分には縁のない高度な錬金術のように思えてくる。


「白河も知らないでしょ? 作り方。そういう時は、レシピを見るといいんだよ! 今の時代、調べれば何でも出てくるんだから!」


 これ以上ないほど自信満々に人差し指を立てて、俺にドヤ顔で説教をかましてくる彼女。  そんなことは百も承知だ。  

 だが、他ならぬ一ノ瀬琥珀にそれを諭されるのは、どうにも癪に障る。  

 理由は極めて単純。

 彼女は「レシピを見る」ことはできても、「その通りに作る」ことができないからだ。  

 例えどれほど精巧なレシピを差し出しても、彼女の手を経由すると、なぜか物理法則を無視した未知の物体が錬成される。

 だからこそ、その口から「レシピを見ればいい」なんてセリフを聞くと、ムズムズしたものが込み上げてくるのだ。


「あのな……。レシピを見たところで、一ノ瀬にはできないだろ? 今まで何度も見てきたけどさ」


「へへん。舐めないでよ、白河! 私も成長してるんだから! 今なら、レシピさえあれば完璧に作れるし!」


 ほう。  

 そこまで豪語するのなら、拝ませてもらおうじゃないか。  

 一ノ瀬琥珀、貴様の「全能力」とやらを。


「……いいだろう。そこまで言うなら、今ここで何か作ってもらおうか。そうだな……」


 さて、何を作らせるべきか。  

 目玉焼きのような簡単すぎる料理では、彼女が調子に乗るだけだ。

 かといって、いきなり苺タルトなんて難題を押し付けるのは、流石にこの夕食が悲惨なことになりそうで怖い。  

 やはり、喫茶店のメニューにもある王道で、かつ実力がはっきり出るものにするべきだ。


「『オムライス』」


 俺と一ノ瀬の声が、完全に重なった。  

 まるで思考の回路が一つに繋がったかのような、完璧なユニゾン。


「嘘! 今のすごくない!? 完璧にハモったよ、白河!」


「あ、あぁ……。たまには、そういう珍事もあるんだな。……とにかく、お題はオムライスだ。レシピを見て、店で出せるレベルのものを作れるんだな?」


 俺は少し意地悪く、彼女を煽るようにニヤリと口角を上げる。  

 さあ、一軍ギャルの「本気」を、そのキッチンで見せてもらおうか。


「……白河、全然信じてないね。いいよーだ。後で絶対に『ギャフン』って言わせてやるんだから!」


 そう宣言すると、彼女は「キッチン借りるねー!」と、まるで自分の家のように慣れた足取りで作業を開始した。

 俺も流石に心配で、後ろから様子を伺おうとしたのだが、「白河はそこで大人しく座ってて!」と強い口調で制止されてしまい、仕方なくソファに戻って待つことにした。


 キッチンからは、断続的に小気味よい音が響いてくる。  

 カチャカチャと卵を解く音、お釜からご飯をよそう音。  

 フライパンを火にかける音や、リズミカルな包丁の音まで。


 ……いつもと、違う。  

 何が違うって、破壊音が聞こえてこない。  

 いつもなら「ガシャン!」とか「うわぁぁぁ!」とか、明らかに何かが物理法則を超えて壊れたり零れたりする音がセットのはずなのに、今日は驚くほど順調に工程が進んでいるようだ。


 もしかして。  

 本当に、本当に「まとも」な物が出てくるのか……?


 そんな、ある種の恐怖にも似た期待を抱きながら、俺はソワソワして落ち着かない気持ちを、無意味にテレビのボリュームを上げることで紛らわせた。

 どれくらいの時間が経っただろうか。  

 キッチンから「ジュワーッ」という、美味しそうな、けれど緊張感のある音が聞こえてきた。  

 卵だ。

 オムライスにおいて、今まさに一ノ瀬が挑んでいる工程が、最大の難所であり見せ場だ。

 プロが作るような、ナイフを入れた瞬間にトロリと広がる「パカン系」なんて高望みはしない。  

 せめて、真っ黒に炭化した物体や、ケチャップの海に沈んだ何かが出てくるのだけは勘弁してほしい。


「白河ー! ケチャップでいい? デミグラスとかないよね?」


 キッチンから、弾んだ声が飛んでくる。


「ああ、ケチャップで大丈夫だ! 普通でいい!」


「オッケー! 任せて!」


 それから間もなく、彼女は誇らしげな笑みを浮かべ、オムライスが乗っているであろう皿を両手に持って現れた。

 その顔は、今までの失敗をすべて帳消しにするかのような、確かな自信に満ち溢れていた。


「……どうか、真っ黒じゃありませんように。食べ物としての形を保っていますように」


 俺は思わず、彼女の前で両手を合わせ、目を瞑って神に祈りを捧げていた。


「ちょっと! さっきから失礼すぎるよ! 流石にひどくない!?」


 必死に祈る俺を見て、一ノ瀬がプンスカと頬を膨らませて怒る。


「仕方ないだろ! 今まで俺が君の『創作料理』でどんな目に遭ってきたか、忘れたとは言わせないぞ!」


 思い返せば、明るい記憶は一つもない。  

 彼女が良かれと思ってアレンジを加えた物は、そのすべてが食卓のダークマターだった。  

 あの毒々しい色のコーヒー。

 実験失敗のようなカフェラテ。

 ……俺の胃袋が今日まで無事だったのは、奇跡に近い。


「いいから、目を開けてみてよ。ほら!」


 彼女の催促に、俺は覚悟を決めて、ゆっくりと目を開けた。


「今回は完璧だってば! ほら、見て!」


 目の前のテーブルにトンと置かれた皿。

 そこには、ふっくらとした半月型の黄金色が鎮座していた。  

 正直、驚いた。

 真っ黒でもなければ、ドロドロの液体でもない。

 目に飛び込んできたのは、焼きムラひとつない、完璧に美しい「黄色」だった。  

 端から少しだけチキンライスが覗いているが、それが逆に手作り感のある愛嬌を感じさせる。


「……一ノ瀬。これ、本当にお前が作ったのか? 上手いな」


「ふふん! 驚くのはまだ早いよ? ここからが本番なんだから。……ジャジャーン!」


 彼女は背中に隠していた包丁を、まるで魔法の杖か何かのように取り出した。


「お、おい! 包丁持って何するつもりだ? 落ち着け、暴力はよくない!」


「ひどいっ! 暴力じゃないよ! いいから、瞬きしないで見ててね」


 一ノ瀬は真剣な表情で、その黄金の半月の頂点に、スーッと優しく刃を入れた。  

 その瞬間だった。  

 プルプルと震えていた卵の層が、自らの重みで左右に「パカッ」と割れ、まるでドレスを広げるようにチキンライスを優しく包み込んだのだ。


 ……。  

 絶句した。  

 そこには、俺が知っている「一ノ瀬琥珀の料理」の面影など微塵もなかった。  


「一ノ瀬……お前、マジか? 天才かよ……」


「でしょでしょ!? 白河が休んでる間……じゃなくて、最近ずっと、家で卵を何パックも使って特訓したんだよ! 手首のスナップが大事なんだから!」


 この「パカふわオムライス」は、熟練のシェフでも失敗することがある神業だ。

 まさか、あの「レシピを無視する女」が、ここまで愚直に練習を積み重ねていたなんて。  

 彼女の並々ならぬ努力の跡が、その震えるほど美味しそうな湯気から伝わってくる。


「あっ! 待って待って、まだ完成じゃないの!」


 興奮冷めやらぬ俺を制し、彼女は冷蔵庫からケチャップを引っ張り出してきた。

 そして、真剣な顔でシュルシュルと細い線を動かし始める。


「……よし、できた! 最高傑作!」


 彼女が満面の笑みで差し出した皿。

 そこには、ケチャップで描かれた……えーっと、なんだ?  

 うねうねとした線が絡まり合い、中心には点のようなものが二つ。


「……悪い、一ノ瀬。一応聞いていいか? これ、何だ?」


 俺の至極真っ当な問いに、彼女は信じられないと言わんばかりに目を丸くした。


「何って……白河だよ! 白河! 似顔絵描いたの!」


 これが、俺……?  

 何度目を凝らしてみても、謎の軟体動物か、あるいは新種の深海魚にしか見えない。


「えーっと。……あぁ、そうか。この……この右側のハネてる線が俺の寝癖ってことか? ありがとう……?」


「もー! 心込めて頑張って描いたのに、その反応はひどいよー!」


 プンスカと頬を膨らませる彼女だったが、その瞳はどこか楽しげに輝いていた。  

 ケチャップの芸術センスは相変わらず壊滅的だったけれど、目の前のオムライスは、どんな高級店の料理よりも温かくて、美味しそうに見えた。


「食べてみてよ!」


 目の前に差し出された白磁の皿の上で、黄金色のオムライスが誇らしげに湯気を立ち上らせている。

 夕暮れ時の淡い光が窓から差し込み、その完璧なフォルムをいっそう美しく際立たせていた。

 彼女の期待と少しの緊張が入り混じった視線が、じっと俺の横顔に突き刺さる。

 手渡されたスプーンを握り直し、綺麗な弧を描く卵の表面にそっと刃を入れた。


「あぁ。いただきます」


 俺は奇跡の産物を一口口に入れる。


「……うまっ」


 感嘆の吐息とともに、言葉が思わず漏れてしまうほどに美味しい。  

 卵は信じられないほどふわふわで、舌の上に載せた瞬間、体温でとろけるようにして消えていく。

 それと同時に、絶妙な火加減でパラパラに炒められたチキンライスの芳醇な旨味と、酸味を飛ばしたケチャップの甘酸っぱい香りが、鼻腔を抜けて口全体に一気に広がった。

 計算され尽くした米の硬さと、卵の滑らかな食感が完璧な調和を生み出している。


「よかった! 結構練習したんだから!」


 胸をなでおろすようにして破顔した彼女の言葉に、俺は心の中で深く頷いた。  

 その通りだ。  

 これは決して、一朝一夕の思いつきで作れるような生半可なものではない。  

 火の通り具合、卵を包み込む絶妙なタイミング、フライパンを返す手首の角度。

 幾度とない失敗と練習を重ね、気の遠くなるような試行錯誤の果てにこそ到達することができる、至高の領域がそこにはあった。

 彼女の努力の結晶が、この一皿にすべて詰まっている。


「すぐに店で出せるぞ! それも専門店! それくらい美味い!」


 惜しみない称賛の言葉と同時に、オムライスを口に運ぶ手がどうしても止まらなかった。

 口の中の余韻が消えかけるか否かのうちに、脳がすぐに次の一口を激しく求めてくる。

 まるで何かに取り憑かれたかのように、無意識のうちに右手がスプーンを動かし続けていた。

 皿の上が減っていくのが惜しいとすら思えるほどだった。


「私も食べよっと! ……うまっ! やっぱりオムライス最高!」


 自分の分の皿を引き寄せ、大きめの一口を小さな口で頬張る。

 そして、満足感に満ちた極上の笑顔をこぼす彼女の姿は、オレンジ色に染まり始めた部屋の光も相まって、胸が跳ねるほどにとても可愛らしかった。

 少しだけ鼻の頭についたケチャップすら、愛おしく思えてしまう。


「ご馳走様でした。にしてもどれくらい練習したんだよ!」


 すっかり綺麗になった皿を見つめ、水を含んで一息ついてから問いかける。

 すると彼女は、スプーンを人差し指で小さく振りながら、いたずらっぽく笑った。


「たーっくさん! 白河が休んでる間ずっとレシピと睨めっこしてた!」    

 

 屈託のないその笑顔が、眩しさと同時に、俺の胸の奥をチクリと刺した。  

 そうか。  

 俺が店を離れ、何もできずに休んでいる間も、彼女は彼女なりに必死に店の行く末を考え、孤独に、けれど前を向いて行動に移していたのか。

 自分の不甲斐なさと、健気な彼女への申し訳ない気持ちが、濁流のように胸の中でいっぱいに広がっていく。


「……ごめん一ノ瀬。一人で任せて」


 絞り出すような声には、重い自責の念が滲んでいた。

 しかし、彼女はそれを遮るようにして、あっけらかんとしたトーンで手を振る。


「いいよ! 元々一人だったんだし、今まで白河に頼りっぱなしだったからね」



 元々一人という言葉に俺は大きなナイフが心に刺さった。  

 そうだ。  

 彼女は一人なのだ。  

 誰に頼ることもできず、背負わなくてもいい重荷を背負わせてしまっている。

 そんな彼女を置いて俺は——自分の弱さから目を背け、逃げるように立ち止まっていた。 

 その事実が、鋭利な刃物となって俺の心を容赦なく切り刻む。


「本当に悪かった」


「もう! いいっていってるじゃん! ほら、お皿貸して!」


 深刻になりかけた空気を取り払うように、笑いながら軽く俺の肩を叩いた彼女は、食べ終わったお皿を重ねてキッチンに持って行こうとした。  

 店長である俺が彼女に甘え、料理を作ってもらった上に片付けまでさせるのは、どう考えても気が苦しい。

 これ以上、彼女の優しさに寄りかかるわけにはいかなかった。


「俺がやるよ」


「え……ありがとう」


 驚いたように瞬きをする彼女の手から、俺は滑り込ませるようにして皿を奪う。


「一ノ瀬はテレビでも何でも好きな事しといてくれ」    

 

 少しは休んでくれ、という願いを込めて、俺は彼女から二枚の皿とスプーンを受け取り、キッチンに向かった。  

 冷たいステンレスのシンクの前に立ち、蛇口を捻って水を出す。

 心地よい水音が静かな室内に響き渡った。  

 冷やされた皿を置いて水をかける。

 こびりついたケチャップが、透明な水流に流されていく。  

 スポンジに洗剤をかけて、何度も揉み込んで泡立て、皿を拭く。  

 真っ白な泡が皿を包み込んでいく様子を見つめながら、俺はただ黙々と手を動かし、心の中に澱のように溜まった感情を洗い流すように、何度も何度も、丁寧に皿を擦り続けた。


「なぁ。何で見てるんだ?」


 シンクに当たる水音に声を乗せて、俺は背後に向かって問いかけた。  

 さっきから、カウンター越しに一ノ瀬が俺の手元をずっと、それこそ穴が開くほどの熱量で見つめてきているのには気づいていた。

 背中に受ける視線が妙にむず痒く、手元がおろそかになりそうだ。  

 リビングで何をしていても自由だとは言ったが、まさか他人が皿を洗うという、この上なく退屈な行動をじっと観察する選択をするなんて思いもしなかった。


「お店以外で白河が家事してるのは初めて見るから」


 悪びれる風でもなく、一ノ瀬はトーンの上がった声でそう答えた。  

 エプロン姿で厨房に立つ俺は見慣れていても、私服の袖を捲り上げて家庭的なシンクに向かう俺の姿は、彼女の目にどう映っているのだろう。

 じっと真っ直ぐに見つめてくる彼女の澄んだ視線に、俺は気恥ずかしさを覚え、少しだけ気が散ってしまう。


「そんなに気になるか?」


「うん。なんか新鮮」


 彼女はカウンターに両肘をつき、そこに小さな顔をちょこんと乗せて、やはり楽しそうにこちらの様子を覗き込んでいる。

 普段の店でのキリッとした表情とは違う、どこか無防備で柔らかい表情。

 ひたすら使った器具や皿を無言で洗い続ける俺と、それを飽きもせず眺める彼女。  

 お互いの距離感がいつもと少し違うだけで、見慣れた我が家のキッチンが、なんだか妙に落ち着かない、変な空間に思えてくる。


 手際よく泡を流しながら、ふとリビングの大きな窓の外に目をやった。  

 いつの間にか、あれほど鮮やかだった夕焼けのオレンジ色は完全に溶け落ち、藍色の夜帳が街を包み込んでいる。

 窓ガラスには、室内の明かりに照らされた俺たちの姿がぼんやりと映り込んでいた。   

 時計の針を見て、そんなに長い時間話し込んでいたのかと驚くと同時に、ふと頭をよぎる現実的な疑問が一つあった。


「一ノ瀬、風呂溜めるか?」


「きゅ、急に何!?」


 上擦った声を上げて、一ノ瀬がカウンター越しに勢いよくのけ反った。  

 彼女の過剰な反応に、俺の方が一瞬面食らってしまう。  


 誤解のないように言っておくが、我が家では基本的に風呂にお湯は溜めない。  

 夜遅くなることも多く、家族全員がシャワーだけで手早く済ますのが長年のライフスタイルとして定着しているからだ。

 だが、それはあくまで我が家のルール。

 もし彼女が普段からちゃんとお湯に浸かる習慣があるのなら、客人である彼女のために、今からお湯を溜めなければならない。


「普段はお湯に浸かるのかって聞いてるんだよ」


「だ、だから、な、何でそんな事聞くの?」


 一ノ瀬はみるみるうちに両頬を林檎のように真っ赤に染め上げ、気まずそうに視線を下に俯かせた。

 もじもじと指先を動かす彼女の姿を見て、そこでようやく俺は、一ノ瀬がまた何か途方もない変な勘違いをしていることに気がついた。

 風呂という単語だけで、一体何を想像したんだ。


「ち、ちがっ! 俺の家は基本シャワーだから一ノ瀬が浸かるっていうのならお湯を溜めないといけないから聞いてるだけだ!」


 心臓がドクリと跳ねるのを感じながら、俺は一気に言葉をまくし立てて早口で説明する。 ここで変な誤解を長引かせるわけにはいかない。  

 必死な俺の弁明を聞いて、彼女は口をポカンと小さく開き、それから自分の早合点に気づいたように「何だそういう事か」と小さく息を吐いて納得した。

 顔の赤みはまだ完全には引いていないが、どこかホッとしたような表情になる。


「普段は溜めるけど、別に気使わなくていいよ? 全然シャワーだけでもオッケーだし」


 そう言って、一ノ瀬は小さく笑みを浮かべた。

 だが、その言葉の裏にある、我が家に居候させてもらっているという引け目のようなものを、俺は見逃さなかった。


「一ノ瀬、遠慮はしなくていいんだぞ? お前は客人だ。客人にはそれ相応の物を用意しないといけない」


 少しだけ真面目なトーンで告げると、一ノ瀬は観念したように視線を泳がせた。


「な、ならそうする。実はお風呂に浸からないとグッスリ寝れないんだよね」


 照れ隠しのように頭を小さくかきながら白状する彼女を見て、やっぱり遠慮していたんだな、と確信する。  

 けれど、その気持ちも痛いほどよく分かる。

 自分が客人の立場だとしたら、相手の日常のペースを崩させてまで、自分のために特別な何かを用意してもらうというのは、どうしても気が引けてしまうものだ。

 彼女の優しさであり、健気さでもある。


「わかった。ちょうど洗い物も終わったし、風呂を沸かしてくるよ」


 最後の皿を水切りラックに並べ、手についた泡を綺麗に洗い流してタオルで拭く。

 よし、と腰を上げようとした時だった。


「えっ! お皿洗ってる所見たかったのに」


 一ノ瀬が本気で残念そうな声を上げた。  

 どんな願いだよ、と思わず心の中で盛大にツッコミを入れる。  

 大の男がただ黙々と泡を立てて皿をこすり、水で流すだけの退屈極まりない光景だ。

 それを見て一体何が面白いというのだろうか。

 彼女の着眼点は時々、本当に予測がつかない。


「変な考えだな。ソファに座っててくれ」


 やれやれと苦笑交じりに一ノ瀬にソファを促し、俺はリビングを後にして少しひんやりとした風呂場へと向かった。  

 風呂を沸かすと言っても、ただスイッチを押せばいいというわけではない。

 まずは掃除をしなければならなかった。  

 最近はシャワーばかりでしばらく浴槽を使っていなかったし、いくら見た目が綺麗でも、風呂桶の掃除は必須だ。


「えーっと、あった」


 洗面台の下の収納を開け、お目当ての風呂用洗剤を取り出す。  

 今の時代は本当に便利なもので、わざわざスポンジでゴシゴシと力任せに擦らなくてもいい、優秀なスプレータイプというものが存在している。

 浴槽の一面に青い霧状の洗剤をシューッとふりかけて、そのまましばらく放置しておくだけで、汚れを浮かせて掃除を完了させてくれるという優れ物だ。


「便利だ」


 時代の進歩に小さく感心しながら、ボトルの裏面に書かれていた規定の時間、静かに放置する。

 時間が経ったのを見計らい、シャワーのノズルを伸ばして勢いよく洗剤を洗い流していく。

 青い泡がサーッと排水口へと吸い込まれ、キュッとした清潔な感触が浴槽に戻ってきた。   

 洗剤が全部きれいに流れたのを確認してから、壁の給湯器のスイッチを押し、お湯を溜める設定にする。  

 ピピッ、と無機質な機械音が鳴り、蛇口から勢いよく温かいお湯が流れ出したのを確認した。

 浴槽の栓をしっかりと閉め、湯気が逃げないように重い蓋をパタパタと閉じた。


 これでよし、と一仕事終えた充実感とともに一ノ瀬の元に戻ろうと、静かな廊下を歩いていると——  

 リビングの扉の向こうから、鈴を転がしたような、彼女の楽しげな笑い声が優しく響いてきた。


「あはは。お腹痛い!」


 リビングの扉の向こうから、弾けたような楽しげな笑い声が漏れ聞こえてくる。  

 一体、何のテレビ番組を見てそこまで盛り上がっているのだろうか。

 彼女のあまりの破顔ぶりに少しだけ好奇心をそそられ、俺は気になってリビングの扉を

そっと開いた。


 明るい室内へ足を踏み入れると、一ノ瀬はソファの上で身体を折り曲げるようにして、お腹を抱えて笑い転げていた。    

 彼女が視線を注いでいた液晶画面に映っていたのは、バラエティ番組の動物ハプニング映像――小さなハムスターが回し車で勢いよく回りすぎて、おむすびのようにコロンと転ける瞬間の映像だった。  

 俺が入った時、ちょうどそのシーンが強調されるようにスローモーションでリピート再生されていたが、正直なところ、俺には何がそれほど面白いのかさっぱり分からなかった。

 ただ動物がズッコケているだけではないか。


「見て見て白河! ちょーかわいい!」


 俺の気配に気づいた彼女は、涙目のままテレビのハムスターを人差し指でピシッと指さし、俺にもその画面を見るように激しく促してくる。  

 可愛いと微笑むくらいなら理解できるが、可愛いと笑ってお腹が痛くなるほど狂おしく身悶えするものなのだろうか。

 女子高生の笑いのツボというものは、益々もって分からない。


「あ、あぁ。可愛いのは分かるが、何でそこまで笑ってるんだ?」


「ん? かわいいからだよ?」


 当然の疑問をぶつけてみたものの、返ってきたのは至極当たり前といった風な答えだった。

 まるで、可愛いから笑うのは宇宙の真理だとでも言いたげな、迷いのない瞳だ。  

 やはり女子高生の、というかギャルの瑞々しい感性には到底ついていけない。

 流行の移り変わりよりも激しい彼女たちの情緒についていけない俺の感性が老け込んでいるのか、それとも女子高生という生き物全体のネジが少し飛んでいるのか、はたまた一ノ瀬という少女が特別おかしいのか。  

 その答えは、神のみぞ知ることだ。

 思考を放棄してため息をひとつ吐き出した時、廊下のスピーカーから電子音が響いた。

 お湯が設定温度まで沸いたことを知らせる、軽快なメロディの機械音がリビングまで届く。  


「一ノ瀬、お湯沸いたぞ? 冷めないうちに先入れ」


「本当! ありがとう!」


 待ってましたとばかりにソファから飛び起きた彼女は、テーブルの上に置いてあった少し大きめの化粧ポーチを引っ掴み、弾むような足取りで洗面所に向かった。  

 賑やかだったリビングから彼女の姿が消え、扉が閉まる。

 室内にはテレビの物静かな音だけが残り、ようやく俺に落ち着いた一人の時間が訪れた。  

 やれやれ、これで少し息がつける――そう思った、まさにその時だった。


「白河! 服どうしよう!」


 廊下をバタバタと騒がしい足音を立てて走り、今しがた通ったばかりの道を猛スピードで引き返してきた彼女は、リビングの扉を勢いよく開け放ちながら叫んだ。

 その格好のままお風呂に入るつもりだったのか、髪をヘアクリップでラフにアップにした姿で、少し焦ったような顔をしている。


「はぁ? 服? そんなのどこにも――」  


「なんでもいい! 白河の服でもいいから貸して!」


 完全に想定外の要求だった。


「そう言われても、男物の部屋着だぞ? あるのは色気の欠片もないティーシャツと半パンくらいだぞ?」


「それでいいから貸して! 背に腹は代えられないの!」


「ったく……計画性がないやつだな。ちょっと待ってろ、取ってきてやるから」


 彼女の嵐のような自由さに完全に振り回されながら、俺はリビングを出て階段を上った。 自分の部屋のタンスの引き出しを開け、なるべく洗濯したてで、かつサイズが大きすぎない無地のTシャツと、紐で調節できるスウェット生地の短パンを適当に取り出した。

 階段を下り、リビングの前で待っていた彼女に差し出す。


「ほら。これでいいか?」


「助かる! ありがとう!」


 差し出された男物のTシャツとズボンを胸に抱きしめるようにして受け取った彼女は、今度こそ満足したように、またバタバタと急ぎ足で洗面所へと向かっていった。


「そんなに一刻も早く風呂に入りたかったのか?」


 遠ざかる背中を見送りながら、俺の口からはそんな呆れた感想がぽつりと浮かんだ。   そして、今度こそ本当に、再び訪れた一人の時間。  

 さっきまでの暴風雨のような騒がしさが嘘のように、リビングはしんと静まり返っている。


「……」


 静寂が部屋を支配すると、どうしても思考の隙間に、苦い過去の記憶が首をもたげそうになる。

 学校と店を休む原因となった、あの重苦しい過去――。  

 ――と、身構えて目を閉じたが、意外にも、胸の奥を蝕むような暗い感情は湧き上がってこなかった。  

 それほどまでに、一ノ瀬という存在の放つエネルギーが、俺の心の中で大きく、そして圧倒的な割合を占めているのだということに、今更ながら気がついた。  

 どこまでも自由。  

 極端なまでにマイペース。  

 彼女が通った後には何かが起きる、まさに波瀾万丈。  

 そして、絵に描いたようなイマドキのギャル。  

 そんな一ノ瀬が、どうして今、俺の家に泊まることになっているのだろう。  

 静まり返ったリビングで一人、彼女に貸した男物の服のサイズ感を思い浮かべながら、考えれば考えるほど奇妙で、変な感じがしてならなかった。

 夜の静寂が深まるにつれて、彼女がすぐそこにいるという事実が、現実味を帯びてじわじわと俺の肌に染み渡っていく。


 だけど、それで良かったのかも知れない。  

 もし、あのまま彼女がいつものようにあっさりと帰っていたら、静まり返った暗い部屋で、俺はまた独りきりで不甲斐ない過去を思い出しては、底のない泥沼に沈み込むように懊悩していたはずだ。

 嵐のように騒がしく、けれど太陽のように圧倒的な光を放つ彼女がこの空間にいてくれるからこそ、俺は余計なことを考えずに、心の平穏を保っていられる。


 でも、その事実を素直に認めるのは、男としてのプライドというか、なんだか猛烈に悔しい。  

 あまりにも悔しいから、俺は口が裂けてもそんなことは認めない。

 けれど、彼女の存在そのものに、今この瞬間も救われているのは紛れもない事実だった。 胸の奥に灯った小さな温もりを、俺は必死に否定するように頭を振った。


「白河! タオルどこ?」


 しばらくソファの背もたれに頭を預けてそんな感傷に浸っていると、静まり返った廊下の奥から、湿った空気を孕んだ彼女の突き抜けるような声が響いた。  

 そういえば、慌てて風呂の準備をしたせいで、肝心のタオルの場所を教えていなかったことに今更ながら気づく。

 完全にホストとしての落ち度だ。


「右の引き出しにあるぞ!」


 リビングの扉に向けて少し声を張り上げて返す。

 しかし、すぐに返ってきたのは、困り果てたような情けない声だった。


「分かんないよ! 取って!」


 取って、という一ノ瀬の無防備な言葉が、不意に俺の脳内で何度も反芻され、おかしなエコーを刻み始める。  

 取る。

 つまり、それは今から俺が脱衣所、ひいては洗面所という極めてプライベートな空間に足を踏み入れ、彼女のためにタオルを準備し、手渡すという一連のアクションを意味している。

 いくら扉の向こうにいるとはいえ、年頃の女子がこれから風呂に入ろうとしている空間だぞ。


「馬鹿! 洗面所に入れるわけないだろ!」


 そんな理性が崩壊するような真似は当然できる訳がない。

 沸騰しそうになる頭を必死に抑え込みながら、俺は断固拒否の意思をきっぱりと彼女に伝える。


「いいから! 地面に置いとくだけでいいから!」


 しかし、扉の向こうの一ノ瀬は、こちらの苦悩など知る由もなく、一歩も引く気配がない。

 むしろ持ってきてくれないと困る、といった頑ななトーンだ。

 押し問答を続けて湯冷めさせるわけにもいかず、俺は仕方なく、重い足取りで洗面所に向かうことにした。


「いいか、入るぞ」


 もしもの最悪な事態を回避するため、念には念を入れて緊張で強張った声をかけ、恐る恐る洗面所のドアをスライドさせる。  

 脱衣所に一ノ瀬の姿はなく、浴室の曇りガラスの向こうからシャワーの音が聞こえるだけだった。

 誰もいないことに心の底から安堵しながら、俺は指定された右側の引き出しを開け、ふかふかの清潔なバスタオルを引っ張り出して、約束通り脱衣所のフローリングの上へと丁寧に置いた。


 その時、役目を終えてふと横に目を向けた瞬間、脱衣カゴの縁に無造作に掛けられていた鮮やかなピンク色の下着が視界に飛び込んできた。  

 心臓が爆発するかと思うほどの衝撃が走り、俺は音を立てる勢いで急いで視線を真上に逸らす。

 そして、今見た光景を脳細胞から力ずくで抹消するための作業を開始した。


 何も見てない。  

 俺は何も見てない。  

 あの目に焼き付いて離れない、鮮烈なピンク色のレースなんて絶対に見てない。


 防衛本能的な反射で急いで洗面所から這い出るようにして脱出し、背後のドアをピシャリと閉めてから、大きな息を吐き出して一ノ瀬に声をかける。


「置いておいたぞ一ノ瀬」


「ありがと! あっ、下着とか見てないよね」


 浴室のシャワーの音が止まり、悪戯っぽく含み笑いをする彼女の声が響く。

 心臓の鼓動がさらに跳ね上がり、声が裏返りそうになるのを必死に堪えた。


「み、見てる訳ないだろ! 馬鹿にするな!」


「からかっただけー」


 こちらの焦りを見透かしたように、彼女は壁の向こうでカラカラと鈴を転がすように楽しそうに笑った。  

 見てる訳ないだろ。

 あんな、女の子らしさが凝縮されたようなピンク色の下着なんて、天地がひっくり返っても見ているはずがないんだ。


 命からがら洗面所から脱出した俺は、足をもつれさせながら再びリビングへと戻り、ソファに深く沈み込んだ。  

 ほんの一瞬の出来事だったはずなのに、信じられないほどの疲労感が押し寄せている。

 精神のコアな部分をどっと根こそぎ持って行かれたような、凄まじい消耗感だった。


「いいお湯だったー! 先ありがとね白河」


 しばらくして、リビングの扉が開くと同時に、湯気とともにふわりと甘いシャンプーの香りが室内に流れ込んできた。  

 入ってきた一ノ瀬は、濡れた髪をタオルで拭きながら、俺がさっき渡した無地のTシャツとスウェットのズボンを身に纏っていた。

 当然、俺が貸した物なのだからそれを着ていて当然なのだが、いざ彼女が着用している姿を目の当たりにすると、言葉を失うほどの破壊力があった。  

 男物の大きなサイズゆえに、Tシャツの襟元からは華奢な鎖骨が大きく覗き、袖口からは細い腕が伸びている。

 ダボっとしたシルエットが、逆に彼女の女の子らしい線の細さを強調していた。

 俺が着ればただの締まりのない寝巻き用の適当な服なのに、クラスの頂点に君臨する一軍ギャルが着るだけで、まるで計算されたファッションのように劇的に映える。  

 お風呂上がりでほんのり桜色に火照った頬と、湿った髪。

 それから……暴力的なまでに、なんだかめちゃくちゃ可愛いかった。


「次白河どうぞ!」


 濡れた毛先を払いながら、一ノ瀬が満面の笑みで俺に順番を譲る。

 ドギマギしていた俺は、完全に意識をあちこちに飛ばされたまま、うっかり口を開いてしまった。


「あ、あぁ。いただきました」


「どういうこと?」


 一ノ瀬はタオルを動かす手を止め、不思議そうに首を傾げた。


「間違えた。お風呂いただきます」


「白河の家なのに?」


 自分の家なのに「いただきます」はおかしいだろ、と言わんばかりに、彼女は頭の上に巨大なハテナマークを浮かべたような顔で困惑している。

 俺は自分の大失態に耳まで熱くなるのを感じながら、逃げるようにソファから立ち上がった。


「ドライヤーとか使わないのか? いるなら持ってくるけど」


 ふと思い立って、俺は洗面所の方向を指差しながら尋ねた。  

 男の短い髪なんて、最悪タオルでガシガシと乱暴に拭いておけば、あとは放っておいても勝手に乾く。

 だが、繊細な女の子の髪となれば話は別だろう。

 放っておけばすぐに傷んでしまうし、翌朝の寝癖の原因にもなる。  

 ただでさえ一ノ瀬の髪は、背中まで届くほどに長い。

 おまけに、いかにも今時のギャルらしく綺麗な琥珀色に染め上げられているのだ。

 ブリーチやカラーを繰り返しているのなら、人一倍ヘアケアには気を使っているはずだし、髪が痛むのは絶対に嫌なはずだった。


「ありがと! お願いしてもいい?」


「わかった」


 素直に甘えてくる彼女に応え、俺は一度リビングを出て、洗面所の棚にしまってある家族用のドライヤーを取ってきた。

 コードをきれいに解きながら戻り、それを彼女に手渡す。  

 ドライヤーを受け取った一ノ瀬は、壁際にあるコンセントの差込口を探し、器用にプラグを差し込んだ。

 ここまではごく普通の流れだった。

 しかし、彼女はそこから振り返ると、なぜか手元にあるドライヤーのグリップを、当然のような顔をして俺の目の前に突き出してきたのだ。


「はい? 一ノ瀬、どういうこと?」


 差し出された機械を前にして、俺は思わず眉をひそめて間抜けな声を上げた。


「乾かしてくれるんじゃないの?」


 一ノ瀬は小首を傾げ、まるで何一つおかしなことは言っていないとでも言いたげな、純粋無垢な瞳で俺を見上げてくる。  

 一体、このギャルは何を言っているのだろうか。  

 俺が、彼女の髪を乾かす?  

 俺はいつからヘアサロンのスタイリストになったんだ。

 それとも、彼女専属の召使いか何かにでも任命されたのだろうか。


「自分でやれよ! 高校生だろ?」


 呆れを通り越して、もはや驚きなどとうに吹き飛んでいた。   

 やはり彼女に世間の常識を当てはめようとすること自体が間違っているのだ。

 いくら同じクラスの男子とはいえ、年頃の男の自宅に泊まり込み、あまつさえお風呂上がりの無防備な状態で髪を乾かすことを当たり前のように促してくる。

 常人の物差しでは到底測りきれない規格外の行動力、それこそが一ノ瀬琥珀という少女の真骨頂なのだ。


「お願い!」


 一ノ瀬は胸の前で両手を合わせ、上目遣いにキュートな視線を送ってきた。  

 そんな風に全力で祈るように懇願されては、断れるはずもない。

 俺は深く長いため息を吐き出しながら、渋々といった体でドライヤーのグリップを握り、カチリとスライドさせてスイッチを入れた。


 ブォォォ――ッ!


 リビングに突如として凄まじい風切り音が響き渡り、ノズルの先から熱風が吹き出す。


「あのな、一ノ瀬。いくら俺だからって、もうちょっと男って生き物を警戒をした方がいいぞ?」


 自分の服を着て、無防備に背中を向けている彼女の後頭部に向けて、俺はせめてもの忠告として少し大きめの声を投げかけた。

 しかし――


「ごめん! なんて言った?」


 ドライヤーの轟音によって容赦なくかき消された俺の声は、彼女の耳には一切届いていなかった。

 一ノ瀬は騒音の中で、声を張り上げながら不思議そうに振り返ろうとする。


「はぁ……何でもねぇよ」


 これ以上言っても無駄だと悟り、俺は彼女の頭を優しく前へと向け直した。  

 指先を彼女の髪の間に滑り込ませる。

 細くて、驚くほど柔らかい毛並み。

 熱風を効率よく地肌に届かせるように、髪の根元を優しく揺らしながら、慎重に手を動かしていく。

 ドライヤーの熱によって、彼女の髪にまとわりついていたシャンプーの甘い果実のような香りが、ふわりと温かい湯気と共に舞い上がり、俺の鼻腔を容赦なくくすぐった。

 あまりの距離の近さに、心臓が妙なリズムを刻みそうになる。


「私、人に髪乾かしてもらうの好きなんだよね」


 轟音の隙間を縫うようにして、一ノ瀬が心地よさそうに目を細めながらポツリと呟いた。  男にそんなことを頼むなんて変な趣味だ、とツッコむだけの心の余裕は、今の俺には微塵も残っていなかった。

 ただただ、彼女の髪を傷つけないように、火傷をさせないようにと、手元だけに全神経を集中させる。


「はいはい。そうですか」


「白河、おばあちゃんの乾かし方に似てるー……」


 瞳を完全に閉じ、うっとりとした表情で、今度はボソッと掠れるような声で彼女が呟いた。  

 その瞬間、一ノ瀬の美しい髪に触れていた俺の手が、ピきりと一瞬にして凍りついたように止まった。


 おばあちゃん。  

 彼女の口から漏れ出たその単語が、俺の脳裏にある記憶の断片を呼び覚ます。  

 それは、あの静まり返った喫茶店の奥、薄暗い机の引き出しの底に、まるで世界の目から隠されるようにして仕舞い込まれていた、あの古い写真の人物だろうか。  

 セピア色に褪せかけた写真の中で、優しく微笑んでいたあの初老の女性。  

 あの人物は、やはり彼女の――。  

 バラバラだったジグソーパズルのピースが、一ノ瀬の何気ない一言によって急激に繋がりを見せ始め、俺の思考は一気に深い思考の底へと沈み込んでいく。


「……わ。……ら……わ。白河!」


 鼓膜を叩く鋭い声にハッとさせられ、俺は強引に現実の世界へと引き戻された。  

 どうやら過去の光景と目の前の事実を結びつけることに没頭するあまり、完全にボーっと立ち尽くしてしまっていたようだ。

 気付けば、ドライヤーの風は虚しく一ノ瀬の頭頂部の一点だけを温め続けていた。


「もう! 何回呼んだら気がつくの? もうすっかり乾いたからいいよ?」


 少し頬を膨らませてジト目を向けてくる彼女の髪は、俺が手を止める前からすでに完璧な仕上がりを見せていた。

 水分を完全に飛ばされたその髪は、指通りが滑らかなシルクのようにサラサラとしており、室内の蛍光灯の光を浴びて、息を呑むほど綺麗な琥珀色にキラキラと輝いていた。


「わ、悪い。ちょっと考え事してた」


「別にいいけど……大丈夫? なんか疲れてる?」


 覗き込んでくる彼女の瞳には、純粋な心配の色が浮かんでいた。  

 だが、今の俺に、胸の中に生じたこの巨大な疑問を彼女に直接尋ねるわけにはいかなかった。  

 一ノ瀬にとってのおばあちゃんとは、一体どんな人物なのか。  

 あの店に隠されていた写真には、どんな意味があるのか。  

 これ以上、彼女のプライベート、あるいは過去の領域に土足で踏み込むような真似は、今の不甲斐ない俺には到底できるはずがなかった。

 俺は無理に口角を上げて、何でもないように首を振る。


「あぁ。大丈夫だ。もう何も注文は無いな? じゃあ、今度こそ風呂入ってくるぞ」


「うん。お待たせしちゃってごめんね? いってらっしゃい」


 ソファの上で小さくパタパタと手を振る彼女の姿を背中に受けながら、俺は足早にリビングを後にした。  

 廊下に出て扉を閉めると、ようやく張り詰めていた緊張が解け、どっと大きなため息が溢れ出た。  

 全く、とんだ目に遭った。  

 一体どこの世界に、ただのクラスメイト、しかも異性の男に大人しく髪を乾かしてもらう女子高生がいるというのだ。

 そんな理不尽で、けれど心臓に悪い我がままを大真面目に頼んでくるのは、世界中を探しても彼女くらいしかいないだろう。  

 お風呂場へと向かう俺の右手の手のひらには、さっきまで触れていた、一ノ瀬のサラサラとした髪の毛の柔らかく温かい感触が、いつまでも薄らと残り続けて消えなかった。


作者も鬱になったことがあります。

どうせ気持ちだけでしょと私自身も思っていました。

しかし実際になるとそんな簡単なものではありません。 

その時は実家暮らしをしていましたが親にも相談できず、ただバレたくない一心で、一人で精神科に通っていました。

よく遊ぶ友人からは連絡が止まらず、返すべきということもわかります。

しかし、返すことができません。

変な風に思われたらどうしよう。

そんな風な感情だったと思います。

今考えるとそんな風に思う親や、友人ではないとすぐにわかりますが、その時は自分以外の全員が敵でした。

それほどまでに鬱病というものは辛く決して簡単なものではありません。

もし、周りにそのような人がいる方はぜひ寄り添ってあげてください。

嫌なことを言われるかもしれませんが決して見捨てないであげてください。


それから今鬱で戦っている方へ


あなたは一人ではありません。

どれだけ時間がかかっても大丈夫です。

自分のことを愛してあげてください。

時間が解決をしてくれるとは言い切れませんが、私の場合は時間でした。

長く辛い時間ではありましたが、今はとても楽しい人生を送れています。

諦めないでください。

それからもし病院に行くのが恥ずかしいと考えている方がいらっしゃいましたら「決してそんなことはありません」と私は言い切ります。

それは勇気です。

あなたが鬱を治そうとしている勇気です。

その一歩を踏み出してみてください。

必ず良くなります。


最後に自分語りをしてしまい申し訳ございませんでした。

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